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音は聞こえる。床にも扉にも触れる。ただ、誰もジルの姿が見えないし、声も届かない。
もちろん、魔力も使えない。
ジルの周囲だけだろうが、現実と薄い膜を一枚隔ててしまった感じだ。
城のバルコニーに出るジルをラーヴェは止めなかった。
町の火が徐々にひろがり、赤くそまっていく。血に酔うような叫びが、ここまで届いていた。争いが始まる合図だ。
「――ラーヴェ様! わたしを出してください!」
たまらず振り向いたジルと少し距離をとって、ラーヴェが宙に浮いている。
「だめだ」
「でもこのままだと陛下が……!」
「ハディスの心配なら、必要ない。こんな町、あいつがその気になれば一瞬で焼け野原だ」
「そんなことをしたら陛下が今以上に孤立します、それでもいいんですか!?」
ラーヴェは答えなかった。ジルは唇を噛んで、額に手を当てる。
(落ち着け、ラーヴェ様はこれから陛下がやろうとすることをもう承知してるんだ。そのうえでわたしを閉じこめてる。説得するとしたら、そうじゃない……!)
きっと糸口はある。ラーヴェはジルとハディスの仲を取りなそうとしてくれたのだ。
それはきっと、ハディスがひとりぼっちにならないようにするためだろう。
「――ベイル侯爵を、カミラとジークにさがしに向かわせました」
ぱちり、とラーヴェが小さな目をまばたいた。思わぬことだったらしい。
ジルはそのままたたみかける。
「呪いはわたしがいれば起こらないんでしょう。何より今回はタイミングがよすぎます。あの黒い槍――あれが原因だとしても、操れるのは女性だけなら、ベイル侯爵を操って自死させることはできないはずです。ベイル侯爵の死亡確認に行ったスフィア様にとりついていたことからも、偽装の可能性が高いと判断しました」
「……よくもまあ、たったそれだけの情報で」
「ジェラルド王太子が何かしかけてくるのはわかっていたので。……この混乱にまぎれてベイル侯爵は始末されるか逃げるかするでしょう。だったら、ベイル侯爵が生きているところを見せれば、この騒動は陛下の呪いではなく仕組まれたものだと説明できます」
「聞いてもらえる気がしねーけどな。どっちにしろ、あの槍が持ちこまれた以上は、スフィア嬢ちゃんみたいなのが出続けて、手がつけられない」
ふよふよと浮いたままラーヴェがテラスから部屋へと入る。それをジルは追いかけた。
「なら、もっとわたしに説明をしてください。対処を考えます! あの黒い槍は女神クレイトスの聖槍なんですか?」
「そうだ。正確には女神の一部。俺と同じようなもんだ。嬢ちゃんが嫁になって、ハディスの守護が強まって、手出しできなくなって焦って、威力偵察にきたんだろう」
思いがけない返事に、ジルは立ち止まる。くるりとラーヴェがこちらを向いた。
「ラキア山脈の魔法の盾の話は、クレイトスには伝わってるんだっけか?」
「……カミラ達から聞きました」
「なら話は早い。もとの姿に戻れなくなった女神クレイトスは、自分の生まれ変わり――器の適合者をさがして復活しようとしてる。条件は十四歳以上の女だ。でも、器の適合者じゃなくても十四歳以上の女なら操ることができる。スフィア嬢ちゃんは後者だったってわけだな。そんで嬢ちゃんは、ハディスを女神クレイトスの愛から守る魔法の盾ってわけだ」
ん、と思わず眉根がよった。
「……愛?」
「そう、愛だよ。クレイトスは愛の女神だ。愛しているなら、何をしてもいいとクレイトスは考えている。俺は、理の竜神だ。愛してるからって何をしてもいいとは思わない」
ラーヴェが部屋の中にある椅子に腰かけるよう、うながした。
「女神クレイトスの狙いは竜帝と夫婦になることだ」
眉間のあたりに指をあてて数秒、ジルは考えた。
「……つまりラーヴェ様があの槍と結婚すれば解決するということですか?」
「おお、見事に俺を売り飛ばそうとしたなー。でも残念、あくまで相手は竜帝だ。つまりハディスのことだよ。俺は竜神だけど、竜帝になる人間の守護というか、武器だし」
「ならハディス様があの槍と結婚すればいいのでは!? 槍なら飾っとけばいいだけでは!?」
雑な解決を提案したジルに、ラーヴェが苦笑いを浮かべる。
「それですむわけねぇだろ。クレイトスはものすげー嫉妬深いぞ。ハディスの全部を手に入れようとする。ラーヴェ帝国は滅ぶだろうし、下手すりゃこの大陸から女が全員いなくなるだろうよ」
「なんでそんな極端なんですか!?」
「だから愛さえあれば何やってもいいって考えなんだよ、あっちは。あんな姿になってだいぶ神格も落ちてる。ついでに言うと、ハディスが女神を受け入れたとして、嬢ちゃんは死ぬと思うぞ。前妻とか許すと思うか?」
思わない。得てして神というのは非情である。
「……まともな説得が現状不可能なのはわたしも同意です。ですが、わたしをこんなところに閉じこめてなんになるんですか」
「そうだよなー俺もそう思うわ」
「はい?」
けらけら笑ったラーヴェがふと表情を改めた。思わずジルは身構える。
「……俺は竜神だ。理の神だ。だから同じ間違いはしない。だけど、あっちは違う。ハディスもそれを知ってるはずだ。嬢ちゃん、神話のお勉強だ。黒い槍に化けて侵入してきた女神を退けるにはどうすればいいかわかるか?」
「どうって……その、神話では、竜妃がその体に女神を封じて……えっ」
「女神クレイトスは必ず嬢ちゃんを狙う。そういう女神だ。竜妃の指輪をつけてる嬢ちゃんを見失うこともないだろうよ」
思わず金の指輪を見る。
(目印ってそういう意味か!)
ふっとラーヴェの体の輪郭がほどけていく。なめらかな肢体が、白く輝く銀の刀身に変化していくのを見て、ジルは息を呑んだ。
――竜帝の天剣だ。女神の聖槍とも打ち合える、唯一無二の神器。
『千載一遇のチャンスってやつだよ。わかるだろ』
頭の中でラーヴェの声が響く。
小さな瞳はないけれど、まっすぐ見据えるように白銀の切っ先が、ジルの喉元に突きつけられた。




