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「戻ってきてたのね、スフィアちゃん。お疲れ様」
スフィアを出迎えたカミラが優しく微笑む。
「……はい」
ふらりとカミラの真横を通り過ぎたスフィアに、ジークが眉をひそめた。
「もう休んだらどうだ。疲れただろう」
「……でも、ご挨拶を、しないと」
ふらふらと左右にゆれながらスフィアがまっすぐジルのほうへと歩いてくる。
ジルはスフィアの足取りに眉をひそめ、視線をあげて、瞠目した。
見開かれたままのスフィアの目が真っ黒になっている。そしてスフィアの全身から靄のように立ちのぼっているのは――ひょっとして魔力ではないのか。
「危ない!」
カミラの叫び声よりも早く、スフィアの右手に集約した魔力が黒い槍に変わった。その切っ先をさけて、ジルは距離を取る。
だがものすごい速さでスフィアが追いついてきた。
「カミラ、ジーク、気をつけろ! 何かがスフィア様の中にいる!」
いつも転ぶ鈍い女の子の動きではない。黒い槍を振り下ろす動作も、踏み出す一歩も歴戦の武人のそれだ。
瞳孔が開きっぱなしのスフィアがぎこちない動作で、口を動かした。
「ちょロちょろ、と、小娘が」
「――誰だ」
ジルのつぶやきににたりと口端だけを持ち上げて、スフィアが振り向いた。
その動きでさえおかしい。操り人形のようだ。
「わたシは、私は……私こそが、竜帝の、妻。お前は――偽者だ」
スフィアの服の裾だけを綺麗にカミラが射貫き、家具に縫い止めようとする。だがそれを引きちぎり、腕をつかんだジークも振り払い、スフィアがまっすぐ突進してきた。
宙返りしたジルは、スフィアを背中から羽交い締めにする。だがスフィアの手から落ちた黒い槍がぐるりと反転してその切っ先をジルに定める。
(くそ、この槍だけ自立して動くのか!)
スフィアを突き飛ばし、ジルはまっすぐ飛んできた槍を間一髪でよける。
だが、いつの間にかもうひとつ部屋に増えていた影に、目を瞠った。
「陛下!」
床に転がったスフィアに、ハディスが剣を振り下ろそうとしている。
黒い槍の存在をかすませる光り輝く白銀の剣――六年後の戦場で見た、一閃で大地をわった武器だ。
それがためらいもなくスフィアの心臓を狙う。床を蹴ったジルはスフィアを抱いてハディスの剣をよけ、床に転がった。
「陛下、スフィア様は何かに操られて――」
「それごと殺す」
はっきりわかるハディスの殺意に、ジルは説得の言葉を呑む。
同時に、腕の中のスフィアが笑い出した。
「殺ス? 私を? あなたヲ愛しテあげられルのは私だケなのに!」
「おい隊長、うしろ!」
振り向いたときは先ほどよけた槍がこちらに飛んできていた。だがそれがジルの背中に突き刺さる前に、ハディスがつかむ。皮膚が焼けるような嫌なにおいと煙があがった。
「陛下……!」
「――ふふ、わかっているくセに」
スフィアのつぶやきと一緒に、ハディスの手から腕へとつきまとうように槍が絡みついていく。融解した黒い靄は、やがてジルの目の前で女の形になって、ハディスの頬に手を伸ばした。
まるで恋人にすりよるように。
「あなたには、わたししかいない」
背後からジルはその黒い女の首をつかんだ。
目も何も判別できないそれと、はっきり視線をかわす。告げるのはひとことだけだ。
「うせろ」
魔力をこめる。
ぱんと派手な音と一緒に黒い女が破裂し、床に黒い染みを落とした。だがその染みもすぐに蒸発するようにしてかき消える。
「いなくなった?」
矢をかまえたままカミラに尋ねられ、ジルは頷く。
「気配は消えました。……陛下、手に怪我を」
「どうして助けた? 君がかばわなければ殺せた」
ハディスの冷たい声と目に、ジルは気絶したスフィアを抱く腕に力をこめる。
「……スフィア様は何者かに操られていました。本人に罪はありません」
「そういう問題じゃない。あれは狡猾な女だ。今だって彼女の中に潜んでいるかもしれない」
「スフィア様を傷つけずとも対処する方法をまず考えるべきです!」
「それを判断するのは僕だ、君ではない」
「ならせめて事情を説明してください! さっきのはなんですか。あの黒い槍は? 女神クレイトスの聖槍ですか」
「いいからスフィア嬢を離せ、皇帝命令だ。苦しませはしない」
「では、さっきの者が竜帝の妻だと名乗ったのはどういうことですか? わたしを偽物だとも言いました。あなたの妻は、竜妃は、わたしのはずです」
ハディスは眉ひとつ動かさなかった。それどころか、ジルを見てすらいない。
憎々しげにただ、あの槍が消えた跡を睨めつけている。だからジルは大声を出した。
「わたしは聞く権利があるはずです、陛下!」
「……まさか浮気をとがめるようなことを言われるとは思わなかった。僕を愛してもいない君から」
返答につまったジルに気づいているのかいないのか、ハディスは一歩離れた。
「まあいい。あれの動きを封じるのが先決だ。カミラ、ジーク。君達は引き続き竜妃の警護だ。ミハリ、いるか」
呼びかけに扉の向こうからミハリが姿を現す。
「北方師団に命令だ。ベイルブルグの女性をすべて城に連行しろ、今すぐに」
「は、はい?」
「ふれを出せ。女性にとりつく化け物が入りこんだ。特に十四歳以上の女性に気をつけろ。もし暴れたら即座に殺せ。……女神の器に適合する女性など、そうそういるわけがないが」
小さなハディスのつぶやきに、ジルは息を呑む。
本来の姿に戻れなくなった女神クレイトス。その女神が目覚めたのは十四歳だ。神話が事実をなぞっていたとして、もし竜神と同じように女神も生まれ変わるのだとしたら、ラーヴェにハディスがいるように、必ず女神にも器がいる。
(竜神が実在するんだ。なら、女神だって実在してもおかしくない)
狡猾な女。ハディスはそう言った。それは存在を認めている言葉だ。
(つまり、十四歳未満というあの条件は……)
――女神の器に選ばれない、まだ女神にならない女性。女神をはじくための条件だ。
「女性は全員、城に連行しろ。例外は一切認めない。拒めば反逆罪とみなす。名目は保護だ。僕の結界内で監視する。スフィア嬢もそこへ」
「陛下、そんなことをしたら住民の反発を招きます! ただでさえ今、呪いだなんて言われているこんなときに!」
「だからなんだ。殺さなければ文句はないだろう。これでも君に譲歩したつもりだよ。僕は妻にはひざまずくと決めているからな」
反論を許さない声で言い切って、ハディスは踵を返す。
あの虐殺を命じた戦場と同じだ。
金色の瞳はもう、ジルなど映していない。




