26
「無理してんじゃねーかって? そりゃしょーがねーだろ」
ベイル侯爵の城――皇帝陛下に譲渡する予定の城で夕食も湯浴みもすませたあと、道案内と称して現れたラーヴェは、ジルの頭の上にのっかったまま言った。
他に人はいない。夕食にハディスも現れず、ジルは桃のムースをひとりでたいらげることになった。ベイル侯爵の使用人をそのまま信頼するわけにいかず、城主の住居区画からすべて人払いをしているのだから、しかたない。その住居区画も城のまるまる五階部分を使っているので、ラーヴェに寝室まで案内してもらっているのである。
「いちいち傷つきましたって顔してらんねーだろ。あんな馬鹿でも皇帝なんだから、甘くみられないよう、その辺はわきまえてるよ。でも普段のあいつ見てれば、意外か」
「そうですね。もっと素直な方のように思っていたので」
もっと怒るか動揺くらいすると思ったのだが、一切そんな表情も仕草も見せなかった。
「残忍な顔や脅しができると思っていなかったので、それも意外でした」
「あれは……子どもの残酷さってやつだ、うん。恐怖政治はしない方向で修正中だから」
「でもあんなふうに、人から傷つけられたことをなかったことにするのは、よくないと思うんです。いずれはそれが当たり前だと何も感じなくなり、自分にも他者にも鈍感になって……それは陛下自身のためにもよくないことなんじゃないかと」
そして残酷になっていく。もう何にも傷つかないから、平然と虐殺も命じられるような人間になる。
「なるほどなぁ。確かにあいつ、人と関わってこなかったからなんでも真に受けがちだし、極端なんだよな。呪いさえなんとかなればみんなに好かれるって期待してる節あるし、友達も百人できるって信じてるぞマジで」
「じゅ、純粋なのはいいことですけど……まずいですよね、それ」
「そうなんだよまずいんだよ。でもなぁ、全部呪いのせいで誰も悪くないと思わせとかないとやばかったことも多々あってだな……母親のこととかな。自分のせいだって言うの、聞いてられなかったんだよ俺は」
いつかは破綻する目のそらし方だ。だが、ラーヴェのやり方をジルは非難はできない。
ラーヴェがそうしてくれたから、ハディスはまだ希望を持っているのだ。
「だったら、可愛い皇帝をめざすとかどうでしょう。親しみがもてるように」
「どんな皇帝だよ、頭にリボンでもつけて菓子でも配るのか? ……似合うかもな」
「こう、ちょっと弱みを見せるんです! 体が弱いのはマイナスかもですが……でも陛下は見目は抜群ですし、ギャップで攻めてみてはどうでしょう。わざわざ強い皇帝を演じられなくても十分、優秀ですから」
感情にまかせてベイル侯爵の処分を変えることもしなかったし、暴言も流す器の大きさを見せた。末端の兵士の名前を覚えていることは、兵の士気をあげただろう。
「それにわたし、あからさまに傷ついてるくせにああも綺麗なすまし顔を見せられてしまうと、いっそ泣けと殴りたくなるというか……いえ、大人の男性に泣かれてもうっとうしいので、泣くなと殴りたくなりますが」
「泣けって殴って、でも泣いたら泣くなって殴るのか。ひどいだろ、それは」
まっとうなラーヴェの批判に視線を泳がせたジルは、言い直す。
「その、せめて、わたしの前でお綺麗な顔をしないでいただければ……でないとやっぱり殴りたくなります。逃げられている気分になるので」
「へーへー! なんだ、そういうことか。嬢ちゃん、まさかハディスに惚れたか!?」
ラーヴェが目をきらきらさせて上からのぞきこんでくる。とたんにジルは半眼になった。
「どうしてそうなるんですか……」
「だって、それ、気になる子をこっち向かせたくて、いじめるのと一緒だろ」
「子どもじゃあるまいし。そんな馬鹿な話があるわけがないでしょう」
「いや嬢ちゃん、どう見ても子どもだけど」
そうだった。ごほんと咳払いをしたジルは、せっかくなのでラーヴェに言っておく。
「わたしと皇帝陛下が恋愛関係に発展する予定は今のところないので」
「今のところだろ。年齢的な問題を気にしてるのか? 何年かすりゃ解消することだろ」
「そういう問題ではないです。わたしは陛下と互いの利益だけでつながった理想の夫婦関係になるのです!」
「嬢ちゃんの言ってることわかんねーのは俺が竜神だからか?」
「神と人間だとやはり違いはあるかと思います」
「……。まあいいや、ハディスも大概だしな……ああ、この部屋だ、嬢ちゃんの寝室」
廊下の最奥がやっと見えた。長く感じたのは、やはりこの手足の短さだろう。やたら大きな部屋のようだ。ドアノブの位置まで高い。
手を伸ばしてドアノブに手をかけ、ちょっとだけ魔力を使って、重い扉を開いた。
「あいついるから。頑張れよー初夜ってわかるか?」
「……。えっ!? あの、まさか皇帝陛下がいらっしゃるのですか!?」
「お、わかるんだなよかった。形だけでも夫婦なんだから諦めてくれ。あと警備の問題」
「ちょっ待ってください! わたしはまだ――」
焦ったジルがラーヴェに訴え出ようとしたそのとき、部屋のど真ん中に置かれた大きな天蓋付きの寝台が目に入った。
思わずあとずさりかけたが、あろうことかその寝台からうつ伏せでだらりと落ちている上半身に、頭がひえる。
「……陛下?」
「の……飲みすぎ……た……」
「あっお前、ワイン飲んだな!? 嬢ちゃん、水! 水!」
「は、はいっ!」
かくしてその場は、ワインを一口飲んだだけで中毒症状を起こしかけている皇帝陛下の救助に走る戦場となった。




