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うつむいたスフィアの声が、倉庫に響く。
「私にわかったのはその見えない何かが、とてもハディス様を心配していることくらい。だから正直にそう答えたわ。でも、それがいけなかったのね。戻ってお父様にその話をしたら、怒られてしまった。どうして見えると言わなかったんだって」
「……でも、それでは皇帝陛下に嘘をつくことになるのでは」
「そうね。でも、お父様が言うには、ハディス様が婚約者候補の女性と会う際には必ず尋ねるクイズみたいなものだったんですって。見えるって言わないのは不正解だと怒られて……支度金や今まで育ててやった分の金を返せと言われたわ。高級娼婦にでもなれば稼げるって」
ジルの中でベイル侯爵が八つ裂きにしていい男に分類された。
傷ついた様子もなく苦笑いを浮かべているスフィアが、痛々しい。
「でもそれをたまたま通りがかったハディス様に見られてしまって……私のことをお茶友達にしたいってかばってくださったの」
ハディスは誰も婚約者に選ばなかった。となると、たとえお茶友達扱いでも、スフィアは女性達の中で一歩抜きん出た存在になる。
ベイル侯爵も無下にはできず、スフィアは皇都のベイル侯爵家の屋敷に住むことになった。
「陛下はお忙しい方だったけれど、私の扱いが悪くならないよう一ヶ月に一度、必ずお茶をご一緒してくださったわ。とてもおいしいケーキやクッキーを用意してくださって」
まさか手作りか、と思ったが話に水を差すのは控えた。
「でも、婚約はできないと仰った。婚約者にすれば私が危ないと」
「危ないって……その、他の婚約者候補に嫌がらせをされるとかそういう?」
ふるふるとスフィアは首を横に振った。
「呪いよ。……皇太子が立て続けに亡くなったことを、あなたは知ってる?」
「話には聞いております」
「そう。私はずっと地方にいたせいで、陛下の呪いについて詳しくは知らなくて……初めて聞いたときは恐ろしいとは思ったわ。でも、いつも陛下はとてもさみしそうだった。ご兄弟にもさけられて。それをしかたないって言ってらっしゃったけど……お優しい方なのに……」
「だからお茶友達をやめなかった……スフィア様は勇敢ですね」
こんな女の子がたったひとりで呪われた皇帝と対峙するなんて、どれだけの勇気が必要だっただろうか。
スフィアは目を丸くしたあとで、薄汚れた倉庫の床に目をおとした。
「そんなことはないと思うわ。私は陛下のお茶友達でなくなれば、お払い箱。それが嫌だっただけだから……」
ふわふわしているだけかと思ったら、ちゃんと自分の置かれた状況をよく見ている。
「陛下はそんな私の思惑をすべて承知でお茶会を続けてくださった。私が変死でもしたら、陛下のせいになるのに。そのほうがよほど、勇気がいることじゃないかしら」
「……そうですね」
「だから私、陛下のお力になりたいと思ったの。クレイトス王国に行く前に、思い切って告白したわ。私を陛下の妻にしてくださいって。そうしたら……じゅ、十四歳以上はだめだと言われて」
これまでのいい話を台無しにする発言である。思わずジルもそっと目をそらした。
「き、きっと私を傷つけないための冗談だと思っていたら、クレイトスから本当に小さな女の子をつれてお戻りになられてっ……こ、これはだめだとっ……しかも今回の騒動はその子が原因だったなんて、陛下をこれ以上の悪評からお守りするには、私はどうしたら……!?」
「お、落ち着いてください。それよりも今をどうにかしないと」
「そ、そうね……そうだったわ、ごめんなさい取り乱して……」
ぐすぐす洟をすすりながら、スフィアが唇を引き結ぶ。それを見て、ジルは苦笑した。
いい子だ。できるなら助けてやりたい、と思った。
だが、父親のベイル侯爵は黒だ。
(神父も黒だったしな……娘を捨て駒か)
スフィアとふたりで脱出したとしても、逃げた先でスフィアの誘拐犯か殺害犯にされかねない。もう少し、ジルの無実を晴らす補強材料が欲しい。
こちらの利は、手引きした裏切り者としての役を割り当てられたジルがまだつかまっていないことだ。そこに勝機がある。
せめてもう少し、人手があれば。
「ここに入ってろ! 手間とらせやがって……!」
「ちょっと汚い手でさわんないで、汚れちゃう――きゃっ!」
「フン。たったふたりに手間取るお前らが無能なだけだろうに」
鉄製の扉が開き、一人目が悲鳴と一緒に倉庫の中に蹴り飛ばされ、二人目は殴られて尻餅をついた。さらにもう一人、ぽいっと物のように投げ入れられた青年がジルの足元近くまでごろごろ転がる。
なぜか青年はその手に脱走前に着ていたジルの上着をにぎっているのを見て、ぎょっと目を剥いた。
(部屋の見張りだった兵士! まずい、顔を見られたら……!)
と思ったが、見張りの兵士は目を回している。ほっとした。
「おとなしくしてろよ!」
捨て台詞と一緒に鉄製の扉が閉まる。
最初に倉庫に放りこまれたふたりが、のそりと上半身を起こした。
「完全に主犯扱いだな。お前のせいだぞ、この馬鹿が」
「アタシのせいじゃないわよ、あんたが暴れるから利用されちゃったんでしょ!」
「……ジークに、カミラ?」
それは、六年後死んだと聞かされた部下の名前だった。
呆然とつぶやいたジルに、ふたりが振り向く。
「なんだ、このガキは。知り合いか? カミロ」
「うっせぇ本名で呼ぶな的にすんぞ。あ、やだごめんなさぁい。大丈夫よ、アタシは優しいカミラお姉さん! こっちはジーク。でも……うぅん、知らない子ねぇ。ごめんなさい、どこかで会ったことあったかしら……あらやだ、どうしたの、泣いてるの?」
顔を手で覆ったジルを、カミラが心配そうに覗きこむ。記憶より若々しいが、右の目尻にある泣きぼくろの位置が同じだ。
「やだーあんたのせいよジーク。あんたが怖い顔してるから脅えてるじゃない。うしろのお嬢さんも顔面蒼白になってるし。どうにかなさいよ」
「知ったことか。これは地だ」
言葉ほど冷たくはなく、ジークがそっぽを向く。記憶よりまだ背が低い気がした。でもいつも気難しげに刻んでいる眉間のしわが、変わらない。
ああ、とジルは笑いに似た息を吐き出す。
(そうか。わたしは……まだ何も奪われてないんだな)
これからだ。――六年前に巻きもどって初めて、心の底からそう思った。




