お出掛け
時刻は三時手前くらい。
俺は風呂場の掃除をしていた。最近の調子なら、俺が掃除をしていると林がキレだすのだが、今日ばかりはそんな様子もない。
「まだかー」
むしろ、今は掃除をする俺が林に文句を言う始末。
一体、何があったというのか。
「もうちょっとー」
まあ、何があったか、だとかそんな大それた話ではない。
俺はただ、林が着ていく服を決めるのを待っているだけ。さっきから林は、俺を風呂場に押し込んでずっと着ていく衣服を決めている。これがまたなかなか決まらず、時間ばかりが過ぎていく。
「もういいだろー。適当でー」
「いいわけないじゃん」
「なんでだよ。俺と出掛けるだけだろ?」
俺なんかと一緒に出掛けるだけで、一体どうしてそこまで衣類にこだわる必要があるのか。
「あんたとだからでしょうが」
「はあ? 意味がわからん」
まったく。女心ってのはわからない。
「おまたせ」
「おまたせされましたー」
「……ちょっとくらい我慢しなさいよ」
少し、言い過ぎただろうか?
不貞腐れる林を前に、俺は少しだけ内心で焦っていた。これが怒る方向での不貞腐れだったらいいのだが……最近の林は、元恋人のせいでか落ち込むことが多いから、少しだけ不安だ。
「行こ」
「お、おう」
どうやらそこまで気には留めてないようだ。
俺は安心して、林の後に続いて部屋を出た。
……そうだった。
「おい、林」
「何」
「その服似合ってるぞ。すごく」
さっきは林に酷いことを言ってしまったが、今言ったことは間違いなく事実だった。
「……ふんっ」
「あ、おい」
林は頬を膨らませ、俺の先を歩いていく。
まあ、さすがに俺の発言が酷すぎたか。機嫌をよくしてもらえるよう、頑張るしかあるまい。
俺は駅に着くまでの間、必死に林をおだてた。
色々なことを言った気がするが、内容は半分くらい覚えていない。ただ、嘘は付いた覚えはない。
林は、俺のおだて作戦の結果、駅に着く頃には少しは気分が晴れたようだった。ただ、さっきから頬が赤いような気がするのは気の所為か。
「それで、これからはどういう流れで進むんだ?」
「少し散歩して、夕飯を食べて、舞台に行くって流れ」
「ほう。どこを散歩する?」
「実は全然、決めてないんだよね」
そうなのか。
そう言えば前、林は俺と一緒にデートに行った時、随分と受け身なプランニングをしていた。夕飯。舞台は笠原が決めたとして……散歩だけは、笠原も決めてはくれなかった。だから今、彼女は何も決めていない。そんなところだろうか。
……うーむ。
「山本、行きたい場所ある?」
「……そうだ」
「ある?」
「レインボーブリッジなんてどうだ」
「え、あそこって歩けるの?」
「実は、遊歩道があったりする」
レインボーブリッジには、ゆりかもめと上り下りの道路の他に、東京湾側と東京の町並み側、二方向を拝める遊歩道がある。
実を言うと、いつか一人で歩いてみようと思っていたのだが、この際行ってみるのもありだろう。
「結構見晴らし良いそうだぞ」
「……見晴らし、いいの?」
「おう」
「……それじゃあ、ムードとかも出そうだね」
「ん? おう」
「……へえ」
林は顎に手を当てて、しばらく思案をしていた。
薄々、俺は悟っていた。恐らくこの案は通る、と。
劇団の舞台が開催される場所は、お台場だったはず。だったら、夕飯を食べる場所もその辺だろう。
つまり、レインボーブリッジ散歩は、ロケーション的にはバッチリだ。
「行ってみようか」
「おう」
林の合意を得て、俺達は電車を乗り継いでレインボーブリッジへ向かった。
芝浦ふ頭の方から工場の間を抜けて、少し寂れた場所からレインボーブリッジ遊歩道への道は続いていた。ここから先は、エレベーターを昇って、遊歩道に上がるようだ。
エレベーターのある施設に入る前、林は真上にあるレインボーブリッジを見上げていた。
「……ねえ」
「ん?」
「あそこ、歩くの?」
丁度その時、レインボーブリッジから轟音が響く。
どうやらトラックが走行する時、積荷が揺れた音が橋に反響して……轟音と化したようだ。
「嫌か?」
「……えぇと」
「嫌なら止めよう。別に、お前を辛い目に遭わせたかったわけではないんだ」
少し、申し訳ないことをしたと思った。
俺も、レインボーブリッジを歩けるという話題性ばかりを先行して、スリリングさとかを考慮していなかった。
まあ、俺一人であればあれなら耐えられそうなものだが……女の子にあそこを歩かせるのは、いささか酷か。
「行こう」
林が言う。
「えっ」
「……行こう」
「……お前、怖いの大丈夫なの?」
林は俯き、しばらくして顔を横に振った。
だろうね。さっきから優れない顔を見れば、聞かずともわかることだ。
「ごめん。やっぱ止めよう。俺も正直ビビっててさ、正直、怖い。やっぱ無理だ」
こうなると彼女が頑なになるのは明白だ。
俺の責任にすれば、荷が軽くなるだろうと思って言ってみた。
「あんたってさ」
「なんだよ」
「嘘、下手だよね」
林は、半泣きの状態で俺を強引に引っ張ってエレベーターのある施設に入った。
エレベーターを見つけた林は、震える手で俺を引き、エレベーターに乗り込み、そうしてついにレインボーブリッジの遊歩道に降り立った。
自動ドアを出るやいなや……真横の道路をトラックが過ぎ去っていく。
響く轟音。
微かに揺れるレインボーブリッジ。
「ひぃぃ……!」
林は俺の腕に絡みついてきた。
……恐怖心はないが、不思議と俺の心臓の鼓動が大きくなった。
「ひ、引き返そう……」
「えっ!?」
「引き返そうっ!!!」
車の走行音が反響して、いつもの声では真横にいる林の耳に届かなかった。
大声で言うと、林は不貞腐れた顔で上目遣いに俺を見上げていた。目尻には涙がうっすら見えた。
「泣くくらいなら無理すんなよ」
呆れた顔で、俺は言った。そして、目尻の涙を拭ってやった。
「い、行けるもん……」
「お前、若干幼児退行してるぞ」
「いいから行くっ!」
俺の腕に絡みついたまま、林は一歩二歩と歩き出した。
ただのデート!!!




