78 これからは君を
早朝の空気は澄んでいる。
いつもはじめじめとしている水星宮周辺の竹林も、朝霧が太陽光に照らされていて、爽やかな空気に満ちていた。
苺苺は紫木蓮の大輪が咲き誇る絹扇を両手に持ち、御花園をゆっくりと歩く。
そしてふと、夢の中で交わした約束を思い出した苺苺は、皇太子殿下に招待されなければ足を踏み入れてはいけないとされている禁域――銀花亭へ、自然と足を向けていた。
御花園の散策は日常茶飯事であるが、銀花亭の周辺に来るのは釈放された夜以来だ。
不機嫌な宵世に案内されて、猫魈と白蛇の刑を楽しみ、皇太子の姿になった紫淵と初めて言葉を交わしたあの日が、すでに懐かしい。
「あの時は夜でしたので灯籠の明かりが幻想的でしたが、早朝はまた違った趣がありますね」
すると。
「苺苺」
朝露に濡れる草花が輝く中、銀花亭へ続く階段には、青年の姿をした紫淵が立っていて――。
「えっ、どうしてこちらに紫淵殿下が? もう朝日はとっくに昇っていらっしゃいま……かわゆい木蘭様は今どちらに!?」
「はぁぁ。朝の挨拶より先に木蘭の心配とは。というか、俺が俺の姿でここにいたら都合が悪いのか?」
「いいえ、そそそんなことはっ。燐華国の至宝の御剣にご挨拶いたします」
「俺たちの仲だ。礼はいい」
「殿下のご配慮に感謝いたします」
苺苺は丁寧な仕草でもう一度礼を取る。
あの美しい少年が約九年の間にこんな風に成長を遂げたのかと思うと、感慨深くなる。
しかし、同時に不思議な再会に照れくさくなってしまうものだ。
(な、なんだか、幼い頃の夢を見たせいで普段通りに振る舞えません……っ)
苺苺はどぎまぎしながら、ぎくしゃくと顔を上げる。
紫淵はその赤く染まった苺苺の頬を見て、長い睫毛に縁取られた瞳を丸める。
「今日ここに来たということは、思い出したんだな」
「あわわっ、えっと、その……っ」
「――〝九星がひと巡りした時、またここで会おう。それまでは君を、俺の後宮には閉じ込めない〟」
記憶の中の少年の声と、目の前の紫淵の甘く低い声音が重なる。
「俺も今朝、思い出したんだ。過去の夢を見て。それで、全部納得がいった。まあ……そのせいで君への執着心が強くなったとも言うが」
そわそわとあちらこちらに視線を彷徨わせた苺苺は、紫淵の甘すぎる微笑みに胸がきゅうっと締めつけられる気がして、絹扇でパッと顔を隠す。
「今にして思えば、随分と横暴なお約束でしたね?」
「ああ。そうかもしれないな」
朝日が反射する苺苺の髪に、紫淵は無骨な大きな手のひらを滑らせながら、ひと房手に取り唇を寄せる。
「だが、約束を反故にするつもりもない」
とびきり甘い声で告げられ、紫水晶の双眸にじっと見つめられる。
壮絶な色気を纏った紫淵の姿に思わずドキドキしてしまった苺苺は、そわそわとあちらこちらに視線を彷徨わせる。
「……苺苺。君の返事を聞きたい」
今度は甘すぎる微笑みを浮かべて問われて、胸がきゅうっと締めつけられる気がして堪えられなくなった。
苺苺は熱くなった顔を隠すように、紫木蓮の大輪が咲く絹扇でパッと顔を隠す。
「わわ、わたくしは後宮に骨を埋めに来たのではなく、むむむ木蘭様をお守りするためにここへ来たのですが……っ!」
「だから、木蘭も俺も同じだろう」
紫淵はむっと不服そうに眉を寄せる。
「いえ、全然違いますね? 木蘭様はとにかくかわゆくてですね……!」
「はあぁぁ、わかった。とりあえず、今はその理由でいいから俺のそばにいてくれ」
いつものように深く息を吐き出した紫淵は、ふっと柔らかく目元を細めると、慌てふためく苺苺を愛おしげに見つめた。
◇◇◇
それからのことは、『白家白蛇伝』に書き加えられた新たな物語より知ることができる。
過去の夢を見たことで異能の力がさらに強まった白蛇の娘によって、皇太子は少しずつ、本来の姿に戻る時間が増えていくようになった。
その間も後宮では様々な事件が起きたが、そのたびに白蛇の娘は持ち前の明るさと元気で切り抜け、そして人々は次々に白蛇の娘の真実の姿を知ることとなる。
そうして、二年の月日が経ち――皇太子が成人の儀を迎え、悪鬼の呪詛による怪異が完全に解けた頃。
八華八姫の慣例に従い官名を賜っていた姫たちは、皇太子によってそれぞれ名のある臣下に下賜され、皇太子宮はひとつの宮を残して封じられた。
後の世に紫淵皇帝陛下が溺愛し庇護する〝唯一の寵妃〟となったのは、紅玉宮を与えられた白蛇の娘。
紫淵皇帝陛下を献身的に支えた〝聡明な皇后〟と多くの女官や宦官に推され、慕われた白蛇妃――白苺苺である。
〈完〉




