77 大切な想い出
異能の力をある程度操れるようになっていた苺苺は、白蛇の娘が残した書物の通りに異能を行使して、紫淵と呼ばれた少年の呪詛を取り除くことにした。
昼夜問わず、まずは刺繍で妃嬪たちから向けられている悪意を封じていく。
それから悪鬼の呪詛により生じたらしい、底知れぬ不気味な美しさを持つ青紫の炎を両手で集めた。
逃げるように揺らぐそれらに、「ふうっ……」と息をひとつ吹きかける。
けれども、それを何刻続けようとも紫淵の呪詛は消えない。
幼い苺苺はそんな朝か晩かわからぬ日々を、すでに七日以上過ごしていた。
それでも諦めずに必死に異能を行使していた、ある日――。
沈みがちだった紫淵の意識が安定しだした。
息も絶え絶えだが、会話もできるようになってきた。
そのうちに一緒に食事をとれるようになり、ふたりで庭先の木陰でうたた寝をして。
封じられた皇太子宮から、ふたりでこっそりと銀花亭に忍び込み、頬を染めた紫淵から可愛らしくも一方的に約束を取り付けられて……。
ふたりは、小指を絡める。
たったひと月にも満たない日々の中、幼い紫淵と苺苺の間には、いつしか淡い友情以上のものが芽生え初めていた。
だが、しかし――。
悪鬼の呪詛が再び強まり、彼の鬼化は歯止めが効かぬほど進んでいくことになる。
紫淵の頭部に黒い二本の角が生え揃った時、すでに幼い苺苺の命も限界だった。
「……宵世殿。紫淵殿下はよもやこれまで。僕たちはここで失礼する」
青白い顔で眠る苺苺を、静嘉が大切な宝物を取り戻すかのように、抱き上げる。
『だ、だめっ。だめです、お兄様! ここで帰るだなんて、紫淵殿下が死んでしまいます――っ』
苺苺はハッとして、夢の中の兄に向かって一心不乱に叫んだ。
その瞬間、幼い苺苺の頭の中でなにかがパチンッと弾ける。
それは十六歳の苺苺が、夢に――過去に介入できた瞬間だった。
腕の中で突然目を覚ました苺苺を、静嘉は驚いたように凝視する。
苺苺は夢とは知りながら、「わたくしがなんとかいたしますわ」と兄に強く宣言した。
幼い自分の身体をなんとか操り、てきぱきと清らかな水を汲んできては手ぬぐいを絞ると、紫淵の額に浮かぶ玉の汗を一生懸命に拭う。
「未来の紫淵殿下は凛々しくて、お強くて、とってもかわゆい方なのです。だから、ご安心ください。死んだりなんか絶対にしませんから。わたくしが必ず、お守りいたします」
そして十六歳の自分が後宮に来て身につけた治癒の力を信じ、全身全霊をかけて異能の力を行使した。
燐火を両手に掬っては消しを繰り返し、青紫の炎を鎮火していく。
瘴気で蝕まれた肉体は、霊力が尽きぬ限り治癒の力が働き、命を燃やし尽くすことはない。
「大丈夫ですよ、わたくしがあなたを死なせません。紫淵殿下は絶対に助かります」
「……ありがとう、苺苺」
幼い紫淵殿下は苦しげな表情を押して、甘く砂糖菓子のような微笑みを浮かべた。
鬼と化していく呪詛が、白蛇の娘の異能の檻に囚われ、彼の奥深くに封じられていく。
気がつくと紫淵はもとの姿を取り戻していた。
そして、苺苺は――。
「……昏倒、したのでしたね。どうして今まで忘れていたのでしょうか……?」
朝日が降り注ぐ水星宮で、苺苺はゆっくりと寝台から起き上がる。
「ま、まさかわたくしと紫淵殿下が幼い頃に出会っていただなんて……」
すべてを思い出した苺苺は、居ても立ってもいられないような不思議な気持ちでいっぱいになる。それに、胸の奥が少しだけむずむずする。
「紫淵殿下はあの幼い日々のことを覚えているのでしょうか? ……覚えていたら恥ずかしい気もします」
「……にゃ、お?」
「あっ、猫魈様。おはようございます。ちょっと早く起こしすぎてしまいましたね」
「なーう」
猫魈は三毛猫に似た体躯の前脚をぐぐっと伸ばして伸びをして、三つ尾をぴーんと張ってからふりふりする。
苺苺はそのもふもふの毛並みを優しく撫でた後、身支度に取りかかった。
(今日はお天気もいいですし、お散歩日和ですね)
いつもの衣裳を身に纏い、結い上げた真珠色の髪には待ちに待った木蘭の瞳を思わせる百花瓏玉を挿し、化粧を整える。
「朝餉の時間まで少しお散歩をしようかと思うのですが、猫魈様も一緒に行きませんか? 水星宮に近い北の四阿も、お日様でぽかぽかかもしれません」
「なうん」
行かない、と猫魈は答えてから窓際に仰向けになる。どうやらまだひと眠りするらしい。
「わかりました。では行ってきますね」
苺苺はクスクスと笑って、水星宮の扉を開いた。




