73 尊きお方
「筆頭女官としてあなたに尽くしていたら、あなたがいなくなったあとに紫淵様から寵愛を受けられると思っていたのに……絶対に許さないわ、朱木蘭! 私の紫淵様を返して……ッ」
若麗が素早く頭に刺していた簪を抜き、その鋭い切っ先を木蘭へ向けて立ち上がる。
だがその四肢を、宵世の隠し持っていた暗器――赤い紐のついた双剣の縄鏢が一瞬にして縛り上げた。次の瞬間には、零理の長剣の刃が彼女の薄い腹に当てられる。
「……――ッ!」
「これだから後宮の女は嫌になる」
腹心の臣下への信頼からか命の危機にも動じず、若麗に冷めきった目を向けていた木蘭は、「そろそろ頃合いだな」と言うと、座っていた椅子から立ち上がった。
若麗がこの部屋に入る前に、手伝いも呼ばずに召し替えたのだろう。先ほどまで身に纏っていた茶会向けの衣裳から、いつのまにか濃紫の深衣を身にまとっていた木蘭は、長すぎる裾を引きずりながら歩く。
ほら、ひとりで着替えもできない幼な子のくせに。
そう思っていた矢先、奇怪なことが起きた。
目の前にいた美幼女が、不敵な笑みを浮かべたまま大人になり、そして――。
「勝手に恋心を抱かれて、殺されかけては迷惑だ。恥を知れ」
「あ、ああ……そんな……。そんな、木蘭様が……紫淵様だなんて……!」
若麗は絶望感に苛まれながら、静かに一筋の涙を流した。
◇◇◇
子猫になった猫魈を抱いた苺苺はそわそわと、紅玉宮の本殿の廊下を行ったり来たりしていた。
若麗の沙汰が言い渡されるまでの間に、もし若麗の悪意が呪詛に変わったらどうしようかと思っていたのだ。
「破魔の術を込めて作った紫淵殿下用の深衣は、効果があったでしょうか」
「にゃぁん」
最初は大好きな木蘭のために作りたいと思っていた破魔の衣裳だが、『大は小を兼ねる』と紫淵に言われてしぶしぶ大きい衣を縫った。
木蘭の形代のぬい様もばっちり用意しているので大丈夫だとは思うが、『若麗様の悪意による白蛇ちゃん惨殺事件』には流石に鳥肌がたったものだ。
けれど夜の帳が下りてしばらく経った頃、木蘭の部屋から宵世と零理に脇を固められた若麗が出てきた。
(ど、どういうことでしょうか? 木蘭様はご無事で……!?)
苺苺は三人に駆け寄って、「木蘭様は?」と切羽詰まった表情で尋ねる。
しかし零理は『気やすく喋りかけんな』と般若の顔をしただけで、宵世は「諸事情で籠城するそうです」と淡々と言った。
「お元気でしたら良かったです。それでは、若麗様をお見送りに来られないのですか?」
「ええ。紅玉宮での夕餉はいらないそうですので、白蛇妃様が女官たちに伝えておいてください。今夜の紅玉宮の指揮は全て白蛇妃様にお任せされるそうです」
「わかりましたわ。……あっ。でしたら宵世様、今晩は爆竹の許可をいただきたいのですが」
「あなた阿呆ですか? 許可するわけないでしょうが。よそでやってください。いや、よそでも駄目です」
宵世に怒られた苺苺はしゅんとしながら頷き、ちらりと憔悴しきった若麗を見やる。
筆頭女官の若麗は、すでに彼女の瞳の中にはいなかった。
「あの……若麗様。わたくし、若麗様から木蘭様のこれまでの日常をお聞きするのが、とっても楽しくて至福の時でした。そのお返しと言いますか、ぜひとも木蘭様の良いところをたくさん知っていただきたくて。こちらをご用意させていただきました」
苺苺は頬を染めつつ、大袖からそっと真新しい紐閉じの書物を取り出す。
「……こちらは?」
「はいっ! 木蘭様と若麗様の素敵な日常や、かわゆいやりとりなどを日記形式でまとめさせていただいきました! これを読んだらきっと若麗様も、木蘭様の至高の尊さがわかると思うのですっ」
木蘭様の尊さをいっぱい綴った『木蘭様日記』です! と苺苺はぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む。
「……そうね。今となっては、お慕いしていた方との大切な日々だったわ」
若麗は涙ぐみながら、苺苺から渡された日記をぱらぱらとめくる。
そこにはなんてことのない日常の風景があった。しっかりと覚えているやりとりもあるし、木蘭の笑顔や、風景や、匂いまで鮮明に思い出せる一幕もあった。
あんなに憎しみを抱いていたのに、今はどこか懐かしい。
なによりも心の奥底から湧き上がる熱が、木蘭の周囲を輝かしくきらめかせて……――尊くて、切なくて、愛おしく感じられた。
「……きっとこんなあなただから、木蘭様も心を開かれたのね」
「へ?」
「猫魈も、ごめんなさい。許されないことをしたわ」
「しゃぁぁあ」
「わわっ、猫魈様!」
苺苺は腕の中で暴れ出した三毛猫をわたわたと抱きなおす。
子猫姿の猫魈は小さな牙を剥くと、若麗の指先を噛んだ。
若麗は驚いて、今にも泣きだしそうな笑みをこぼしながら、猫魈を撫でようとしていた手を引っ込める。
「……やっぱり私、あなたが羨ましいわ。苺苺。――選妃姫、絶対に負けないでちょうだいね」
若麗は物腰柔らかく、姉のような親しみやすささえ感じられる、優しい微笑みを浮かべた。
「……はい! 選妃姫でもしっかり木蘭様をお守りできるよう、全身全霊をかけて挑ませていただきますわ!」
こうして無事、苺々よって木蘭沼に沈められた若麗は、紫淵の命により後宮を去ることになったのだった。




