70 急転
「犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいとは言いましたが、ここまで離れた別行動は望んでません。茶会はもう始まっている頃です。まったく、紅玉宮に閉じ込められるなんて。どれだけ鈍臭いんだか」
「すみません……」
「あなたは木蘭様のあやかし避けなんですから、現場にいてもらわないと困るんです。しっかり〝異能の巫女〟してくださいよ」
「すみません……」
「…………まあ、閉じ込められたくらいでよかったですよ。怪我はないですか」
宵世はばつが悪そうにそう言って、ちらりと苺苺を見下ろす。
その目元はうっすらと紅色に染まっている。
けれどビュンビュンと吹き抜ける風圧で目が開けられなかった苺苺は、毒舌宦官の言葉に打ちひしがれたまま、「ないですッ! お助けくださりありがとうございます!」と力の限り叫んだ。
(それにしても、さすが東宮補佐官様です。とっても身軽で運動神経も良いのですね。紫淵殿下も足音がしませんし、皇太子殿下とその右腕は、これほどの妙技を持っていなくては危険なのやも……!)
明らかに人間業とは思えない宵世の移動方法に対し、苺苺はただただ羨望の眼差しを向ける。
「……なんですか、その目は。そろそろ鏡花泉の東に着きますよ。自分の足で走る準備しててください」
「はい」
苺苺がひとつ頷くと、宵世は水星宮の塀の屋根から降り立ち林の中を駆け抜ける。
宵世が大きな木の太い枝を飛び移って移動していくうちに、苺苺の目にも拓けた場所にある四阿が見えた。
四阿では華やかに着飾った七人の妃が、様々な表情でお茶や点心を楽しんでいる。
選妃姫の課題である『香包』について、各々の解釈や進行状況、完成品の程度の予測を言葉巧みに聞き出しているのだろう。
その周囲には正装した女官が総勢四十人ほどいるだろうか。
朗らかに見える七妃たちのおしゃべりの裏で、女官たちは互いを牽制しあっている様子だ。
その時。宵世と苺苺は視界の端に、牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫が四肢を躍動させ、猛突進している姿を捉える。その首に靡くのは音の鳴らない鈴付きの、純白の披帛。
「あれは!」
「猫魈様です!」
あやかしの急襲に気がついた女官たちが、「きゃあああ!」「あやかしよ!」「逃げて!」と甲高い悲鳴をあげ、逃げ惑い、その場は阿鼻叫喚となった。
猫魈は「シャァァァアアア!」と咆哮し一直線に木蘭を目指す。
木蘭の後ろで控えていた怡君と春燕、鈴鹿が可哀想なくらいガタガタと震えて顔面を蒼白にしながら、木蘭を守るようにして腕を広げて、前に出た。
騒然としたその場に降り立った宵世の腕から、苺苺は弾かれるように飛び出す。
そのまま木蘭の前に躍り出て、そして、
「猫魈様!」
と苺苺は腹の底から大きく叫んだ。
ぴくりと耳を動かした猫魈の双眸と、苺苺の瞳がかちあう。
牙を剥いた猫魈の開いていた瞳孔が針のように細くなった。
迷いなく後脚に力を込めた猫魈は、大きく躍動し、苺苺へと飛びかかる。
「シャァァァァッ!」
「苺苺――!」
木蘭の切羽詰まった叫び声が猫魈の咆哮と重なる。
獅子ほどの巨体が苺苺に突進するかと思われた、その時――。
「にゃーんっ」
「あうっ」
猫魈が苺苺の肩に両前脚をかけ、勢いよく押し倒した。
苺苺はごちんと地面で頭を打って、思わず舌を噛む。
大きな姿の猫魈はとたんに子猫ほどの大きさになると、ぺろぺろと苺苺の頬を舐めた。どうやら妖術を使ったらしい。
「にゃぁぁぁん」
「ああ、猫魈様……。そうだったのですね。またお大変なめに……!」
苺苺は地べたにペタリと座り込むと、子猫になった猫魈を手の中でよしよしと撫でる。
猫魈の話から推察するに、猫魈はまた名が刻まれた式符で道術を使われ、後宮内に顕現されてしまったようだ。
しかし苺苺がくれた友情の証のおかげで、道士に意識までは操られずに済んだらしい。
『木蘭を喰い殺せ』と再び命じられたが、寸前まで使役の術にかかったふりをして、木蘭を安全なところへ連れ去ったうえで苺苺が来るのを待つ気でいたとか。
「あやかしに喰い殺せと命じるなんて、非道な女官だ」
「へ? すみません、宵世様。今なんと?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
猫魈を抱き上げる苺苺の隣に、眉根を寄せながら立った宵世が首を横に振る。
その宵世がどこぞへ合図を送ると、隠れていたらしい青衛禁軍に属する東宮侍衛の武官たちが、四方八方を取り囲んだ。
「四半刻ほど前、『あやかしが後宮内に侵入した』との報告を受け――、あやかしを退ける力を持つ〝異能の巫女〟として紅玉宮預かりになっていた白蛇妃を伴い、巡回していた最中でした。あやかしを引き入れた首謀者を炙り出すため、ご報告が遅れましたこと誠に申し訳ございません」
宵世はまったく申し訳なさそうな顔で淡々と口にすると、
「貴姫様、淑姫様、徳姫様、賢姫様、令儀様、芙容様、彩媛様、お怪我はございませんでしたか」
とこれまた淡々と言う。
墨をこぼしたような黒髪美青年を前に、妃たちは頬を赤らめてふるふると小さく首を振る。
あやかしに阿鼻叫喚だった女官たちも、見目麗しいと女官や宦官たちに人気の高い宵世の登場で、悲鳴を黄色い声に変えていた。
今まで張り詰めていた緊張の糸が緩む。
だがしかし、誰もが白蛇妃への感謝など抱かずにいるようだった。
宵世の脇に歩み立った木蘭が、周囲を見渡してから、最上級妃らしく背筋をぴんと伸ばして叫ぶ。
「皇太子宮に侵入したあやかしは、『白蛇の娘』が弱体化した。皆の命を救わんと、命懸けでこの場に駆けつけた白蛇妃に、すべからく叩頭せよ!」




