68 胡蝶の女王
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
手元の絹布に通していた〝白蛇の鱗針〟を引っ張り、図案の裏側で針目に糸を何度もくぐらせて絡めると、きゅっと針を引っ張ってから糸を丁寧に鋏で切った。
それからほどなくして、書斎の扉の向こうから再び入室許可を求める声が響いた。
苺苺が「どうぞ」と促すと、「失礼いたします」と怡君と同じく女官の正装に身を包んだ若麗が入ってくる。
今日の若麗はとびきり綺麗であった。
(朱家の三の姫であることを忘れさせない凛とした立ち振る舞い、そして紅玉宮の筆頭女官として貴姫である木蘭様を引き立てるお衣裳と髪飾り選び……。お見事です)
もし彼女の前に木蘭が立っておらず、後ろに怡君と春燕、鈴鹿が並んでいたら、清楚な朱家の妃に見えるかもしれない。
けれど幼くとも覇気のある木蘭という存在が、彼女たちを最上級妃の上級女官として正しくまとめ上げていた。
(もしもここが皇帝陛下の納められている後宮であったならば、若麗様は今宵、女官から一夜にして寵妃になられるでしょう)
そう思わせるほどの嫋やかさが、今日の若麗からは見え隠れしていた。
「出発の挨拶に参りました。私どもは木蘭様とご一緒いたしますので、なにかご不便がおありでしたら、他の女官たちにお申し付けくださいね」
「わかりましたわ。わたくし〝異能の巫女〟とは名ばかりで、あやかし退治もできていない居候ですのに、細やかなお気遣いをいただきましてありがとうございます」
「いいえ、そんなにご謙遜なさらないでください。苺苺様がいらしてから、木蘭様の笑顔が増えて、紅玉宮が明るくなりました。今までの木蘭様はしかめっ面で、なんでもひとりでおやりになることが多かったですが、今は苺苺様に甘えられたりと……ふふっ、年齢相応で。ご成長が楽しみです」
「かわゆい木蘭様は無敵ですっ。本日のお茶会でも、木蘭様が元気で健やかにお過ごしになれるよう願いながら刺繍をしつつ、こちらでお留守番をしていますね」
「お願いいたします。それでは」
若麗が腰を折って挨拶をし、踵を返して……肩越しに振り向く。
「あの、木蘭様のお部屋に、昨夜は紫淵様がいらしたのですか?」
「はい?」
苺苺は突然の質問にきょとんとした。
若麗は身体を苺苺に向けなおし、頬を染める。
「紅玉宮の閂は閉まっていたはずですが、まさかお忍びで? 美雀の起こした事件の調査でいらしたのでしょうか? 紅玉宮の筆頭女官として、紫淵様をお出迎えできず申し訳なかったです」
熱くなった頬に片手を添えて隠した若麗は、恋慕の情を抱える姫のような表情で黒い瞳を潤ませた。
(し、紫淵殿下ッ!! なぜかわかりませんが若麗様にはほとんどバレてますっ!!)
ギクリと顔を強張らせた苺苺は『とにかく上手に言い訳をしないと!』と、胸の前で両手をぶんぶんを横に振る。
「いっいいえ! 来られては、いませんでしたね?」
「ですが苺苺様から紫淵様の焚かれる香の匂いがかすかに……。御髪でしょうか?」
「ええっ!? そんな匂いが!?」
すんすんと自分自身を匂ってみるが、わからない。
「あっ! 木蘭様の寝台で、一緒に寝させていただいたからでしょうか!? それとも、こちらのお部屋も木蓮の香りでいっぱいですし、その香りでしょうかっ!?」
(紫淵殿下のお部屋の香りと似ていますし、この言い訳で押し通すしかありませんっ)
「あの、若麗様? どうかしまし――」
苺苺があたふたと言い訳をしていると、若麗の真っ黒な双眸がすっと温度をなくす。
そして紅を引いた口元に、不気味な弧を描いた。
その瞬間。
――ザクッ! ザクザクザクザクザクッ!
長椅子の上にあった白蛇ちゃんたちが、刃物で斬りつけられたかのように、次々と腹を裂かれていく。
一瞬にしてすべての白蛇ちゃんが無残な姿に成り果たその刹那、若麗の周囲にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
若麗は今しがた起こった怪奇現象に目もくれず、余裕のある笑みを浮かべる。
「私、ずっと苺苺様が羨ましかったんです。最下級妃でも妃は妃ですから。……けれど、それもきっと今夜まで」
ひらひら、ひらひら。
若麗の周りを不気味に彩るように、燐光を撒き散らすどす黒い呪妖が踊る。
あの時の……呪詛に近い黒い胡蝶が、今にも苺苺に襲いかかろうとせんとさざめいた。
「そろそろお茶会の時間ですね。私はこれで失礼いたします」
「はい。木蘭様をよろしくお願いいたします」
呆気にとられた苺苺は、小刻みに震える手を悟られぬよう気丈に振る舞い、挑戦的な笑顔を浮かべながらそう返答するので精一杯だった。
若麗が退出した部屋で、無意識に詰めていた息をふうっと短く吐く。
(美雀さんの呪妖と比較すると、まさに育ちきったという表現がふさわしい姿でした。美雀さんの呪妖が蛹から孵ったばかりの蝶なら、若麗様のは……豊富な呪毒を含んだ霊気という〝蜜〟を吸い尽くして育った胡蝶の女王)
「――呪詛になる前に、決着をつけなくてはいけませんね」
苺苺は静かに決意を固める。
椅子から立ち上がると、長椅子に横たわるズタボロになった白蛇ちゃん抱き枕をそっと手に取った。
「うううっ、今夜はお別れ会です……っ。のちほど宵世様からありったけの爆竹をお借りましょう。ばばばーんと白蛇ちゃんたちの無念を晴らさなければ……」
苺苺はえぐえぐと涙を流しながら、「悲しいです」と腹綿の出た白蛇ちゃんに頬ずりした。




