55 呪妖
「菊花茶ですね」
「ああ」
「よい香りがします」
菊花は漢方にも使用され、眼精疲労の回復や、解毒と消炎、鎮静作用があるとされる。
紫淵がこれを選んだのは苺苺の体調を心配した結果だ。
連日の長時間の刺繍や見張りで目を酷使しているだろうし、宦官に打たれた怪我やあやかしから守ってくれた時の傷もある。
朝晩の薬湯も飲ませたいところであったが、必要ないと断られたので、せめて。
まあ茶壺を用意し淹れたのは宵世であるが。
紫淵は隣に座る苺苺へ顔を向け、立ち上がろうとした彼女の手首を掴む。
「座っていてくれ。今晩は俺が給仕する」
「いいえ、紫淵殿下にお茶を淹れていただくわけには」
「こう見えて、皇太子妃の作法を学んでいるんだ。まずくはしない」
ふわりと優しく口元を綻ばせた紫淵に、苺苺も思わずくすりと笑ってしまう。
この白皙の美貌の青年が皇太子妃の作法の手習いとは、なんだか似合わなくて面白い。
「ふふっ。ではお言葉に甘えさせていただきます」
「ああ」
紫淵は美しい所作で茶壺を持ち、ゆっくりと茶器に菊花茶を注ぐ。とろとろと静かに注がれた茶から清涼な香りが漂い、夜半の空気に湯気が白く見えた。
それからゆっくりとふたりで菊花茶を楽しむ。
(ほう……っ。あたたかいです)
一息ついた苺苺を満足げに見やった紫淵は、「そういえば怪我の具合はどうなんだ」と問いかけた。
女性に何度も聞くのはどうかと思って直接聞くのを避けていたが、白蛇妃投獄事件からもう一週間以上が経つ。宮廷医に見せるべきだと告げたが、これもまた拒否されていた。
左手に手巾を巻いたままだが、そろそろ少しくらいは治ってきているのだろうか。
「よく効く傷薬もいただき、おかげさまですべての傷が治りました」
「そうなのか? 塞がってきたのなら良かった。そろそろ追加の軟膏が必要だろう? 宮廷医に託けて用意させる」
「いえ、新しいお薬は必要ありません。こちらは……」
苺苺がするすると手巾をほどく。
「綺麗さっぱり跡形もなくなっているので」
「な……っ」
苺苺は水仕事知らずの白磁のような手のひらを紫淵に見せた。予想通り、相手は絶句している。
(それはそうですよね。鋏での切り傷で、あんなに血が滲むほど肉が裂けていましたから)
「これも『白蛇の娘』の異能なのか……?」
「わかりません。ただ、呪毒を宿したお茶菓子や燐火を封じて祓うことで、治癒の力を得たようです。治りが早いのは良いことですよね。元気はもりもりが一番です」
「そう、だな」
頷いたものの、紫淵は畏怖を感じていた。
これが『白蛇の娘』の力。これが――『白家白蛇伝』に描かれた白き蛇神の血を継ぐ、神の愛し子なのか、と。
「でも怪我の具合を知っている方をこうして驚かせてしまいますし、治癒の力があると恐ろしい女官の方にばれても得することはないと思いましたので。もう少し隠しておきます」
「言えてるな。賢明な判断だ」
苺苺は再び左手に手巾を巻き直す。その時、視界の端にちらりと青黒い靄が映った。
その色の濃さ、密度が、瞬きをした瞬間にどす黒くなる。
「この呪靄は」
立ち上がり、欄干に駆け寄った。紫淵もそれを追う。――刹那。
苺苺の頭上にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
「――っ、苺苺!」
紫淵は視界に映ったありえない光景に目を見開き、苺苺をその逞しい腕の中に素早く閉じ込める。
「ひえっっ」
(ひえええっ、紫淵殿下がご乱心ですっ! どどどどうしましょう!?)
「な、んだ、この蝶は」
「紫淵殿下にも視えているとは驚きですっ。これは、その、呪妖と言って〜〜〜っ」
数十匹はいるだろうか。
黒い胡蝶は怪しげな青黒い燐光を振りまきながらひらひらと舞う。その姿は背筋がぞっとするほど美しく、聞こえぬ不協和音の羽ばたきが空気を震わせているようだった。
歪なそれは、目が見えているのか見えていないのかも不明であるが、確かに苺苺を狙っていた。
紫淵は片腕の中に苺苺をぎゅっと抱きしめ、腰に佩いていた長剣を抜きざまに一刃する。
じゅわりと灼け爛れる音がして、途端に腐敗物が焦げた匂いが鼻を突く。
この長剣は燐家の宝刀である〝破邪の剣〟だ。鎮護の懐剣と対とされ、千年以上昔から存在している。実際に悪鬼を封じた際に使われたもので、本来の姿が饕餮である宵世も本能的に嫌っている、古代の名匠によって鍛えられた業物である。
呪妖はこの世のものではない胡蝶だったが、あやかしでもなかった。しかし、どうやら通用したらしい。
灼け爛れた胡蝶は灰となって、やがて風に攫われてさらさらと消えた。
「……苺苺、大丈夫か?」
(あわわわ! ぎゅっとしないでくださいっ! なんだか心臓がどきどきして、目が回りますぅぅ)
紫淵に抱きしめられたままの苺苺は、頬がかぁぁっと熱くなるのを感じた。




