54 紫淵殿下は推しじゃないです
今夜の紫淵は、紺青の長髪を結い上げてはいなかった。もしかしなくても、ここ以外の場所へ行く予定がないのかもしれない。
明け方の黎明、あるいは黄昏の夜空、そして闇夜に流れる銀河のごとき艶やかな黒髪が、さらさらと風に揺れているのを眺めながら、苺苺は少々むっとする。
「時々こうして様子を見にいらっしゃいますが、来なくても大丈夫ですのに。悪鬼面もなさらずに軽率ですよ」
「裏から来たから問題ない」
この楼榭は屋根が広いので、蝋燭が一本立っただけの燭台の光では影になる。宿舎側の欄干に近づきさえしなければ、人影すら見えないだろう。
「というか、君は俺が木蘭の姿ではなくなった途端に態度が変わるな」
「わたくしは木蘭様推しですので!」
えっへんと苺苺は腰に両手を当てて胸を張る。
その『推し』っていったいなんだ、と思いながら紫淵は少し不服そうな様子で苺苺の隣に立つ。
「だが中身は変わっていない」
「それは……そうかもしれませんが……。紫淵殿下と木蘭様では違いすぎます」
成人間近の美青年と六歳の美幼女が隣同士に並ぶ様子を想像した苺苺は、その違いを頭の中で並べ立てて『不合格』の烙印を紫淵に押した。
「紫淵殿下は推しじゃないです。不合格です」
(木蘭様推しの同志ではありますが)
苺苺は可愛いものが好きなのだ。
そんな苺苺の言葉に、紫淵はなんだか……告白もしていないのに勝手に振られたかのような、妙な気分になる。
「たとえ俺が不合格だろうと、君は――」
胸の内側をぎゅっと掴まれるみたいな切なさを感じ、思わず、『すでに俺の妃だ』と言いかけて、彼は閉口した。
厳密には、まだ仮初めの妃にすぎない。
そう思うと、さらに胸の中のもやもやが増した。胸の奥底で、そろりと独占欲の炎が燻る。
「……まあいい。それより、今日の収穫はありそうか?」
「呪妖は相変わらず確認できていません。けれど、わたくし宛の小さな呪靄でしたらいくらかは」
白蛇ちゃんの形代はすべて一張羅の中だ。
本来なら形代に集められるため、視界に入らずにいる呪靄や呪妖といった悪意がこちらへ向かってくる。苺苺は手慰みに持って来ていた絹扇に、異能を使わずに白の大蛇と木蓮を刺繍しつつ、それを観察していた。
紫淵はその絵画のごとく繊細で見事な両面刺繍に視線を落とし、「また見事な作品だな。白蛇と木蓮、それから玄鳥神鹿図とは縁起がいい」と口元を緩める。
「ここ最近は玄鳥神鹿図が多いな。新しい図案か?」
「はい。少々、思うところがありまして」
「ほう? それについては後で話を聞かせてもらうとして。温かい花茶を持って来た。少し休もう」
「ありがとうございます」
紫淵は少し迷った末にそっと苺苺の手を取り、四阿の卓子に誘う。
自分の大きな手に遠慮がちに添えられた小さい手は、強く握ると折れそうなほど儚い。指先は夜の寒さに冷えており、氷のように冷たかった。
紫淵は眉をしかめる。苺苺を体調不良にしては本末転倒だ。
「君にあげた肩掛けはどうした? 身体を冷やさないようにと思って、薄くても上等な品を選んだんだが」
「あっ」
「西方の国使が皇太子への献上品に持って来た織物だ」
純白の織物は燐華国において死を連想させるが、西方や東方では花嫁が身にまとう祝福と幸福に満ちた衣なのだという。
「白家は白蛇の加護を意味する白色をことさらに尊ぶとか。その……、君への贈り物に相応しいと思ったんだが、気に入ってもらえただろう――か」
長椅子に腰掛けた苺苺は、明らかに動揺してサササッと紫淵から目をそらす。
そんな彼女の隣に座った紫淵は、卓子の上に頬杖をついて、胡乱げに彼女を見下ろした。
「その顔、まさか……無くしたのか?」
「無くしたと言いますか、その……」
「なんだ、歯切れが悪いな」
苺苺は両手の人差し指を合わせたり離したりしつつ、「ええっと、その……」と口ごもりながら、紅珊瑚の大きな瞳を紫淵に向ける。
「友情の証として、猫魈様と半分こにしちゃいました」
「……は?」
「え、えへへ」
「はあぁぁぁ。皇太子の下賜した品をあやかしに躊躇なく下げ渡す妃なんて前代未聞だ」
紫淵は深いため息をついて顔を覆った。
「だんだんわかってきたぞ。君はそういう人だ。昔から……」
「昔ですか?」
「いや、いい。こちらの話だ。……ほら、そろそろ頃合いだ」
玻璃の茶壺の中で工芸茶の蕾がふんわりと花弁を開き、大輪の黄花を咲かせた。
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