32 牢獄妃に改名いたしますッ
呪毒を生じさせるほどの呪妖の宿主が発する呪靄なのだから、眼で直接視たらよほど禍々しいものに違いない。木蘭への影響も相当だったはずだ。
苺苺の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。
「その前に。まさか苺苺は一日中、妾を守護するために刺繍を?」
「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」
「は……? 待ってくれ、一日中?」
「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」
推しが毎日幸せであることが、苺苺の幸せだ。
それを叶えるためなら、刺繍の半刻や一刻、いや五刻や十刻だってお茶の子さいさいである。
木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。
ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺苺に、木蘭は無表情で閉口する。
一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服局に配属されている針子女官でもしないだろう。
給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。
その心の向け方は、常人には真似できない。
ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。
「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖の宿主である女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」
「猫魈……そうだったのか」
「猫魈様はその方によって無情にも飢餓状態にさせられ、そのうえで木蘭様を『襲え』と命じられたそうですわ。猫魈様自身にその意志はなく、今回の事態をとても後悔しておいででした」
「となると、女官には妾への明確な殺意があったというわけだな」
「おそらくは。ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が配膳などで触れた対象者の食事に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」
つまりは先ほど苺苺が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。
呪毒は発生源が悪意を向けた相手の肉体を体内から蝕む。
その性質上、特定の人物が口にした時にのみ呪毒が反応が反応し、それ以外の人物が口にすれば霧散する。
苺苺が木蘭に向けられた呪毒を口にして感知できるのは、『白蛇の娘』であるからにほかならない。
(朱家ですでに呪毒に侵されていた可能性も考えられますが、清明節以前から日常的に症状が出ているのですから、紅玉宮での食事が呪毒で蝕まれていると考えるべきです)
今日の茶会は急遽開かれたもの。
朱家から届いて、厨房に保管するまでの間に誰が触れていてもおかしくない。
それでも主人の口に入れるものだから、取り扱いを行うのは上級女官のみに限定されるだろう。
「食事に宿った呪毒は、こちらの銘々皿を使った時にのみ形にでき、祓うことができます」
苺苺はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく『龍血の銘々皿』を手に取る。その名の通り龍の鮮血を塗って作られたものだ。
(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)
食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど自覚のある殺意だ。
苺苺がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから『殺したい』と明確な殺意を抱かれるほど憎まれるような経験はまだ無い。
「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」
「いや。やろう」
「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」
苺苺の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。
それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。
燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。
木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。
(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました〜〜〜!)
「大丈夫ですか!? お怪我は、止血を……っ!」
「なんてことない」
「いいえ重傷です!」
(木蘭様に重傷を負わせたわたくしは完全に有罪ですわ……!)
「わたくし、自主的に牢獄暮らしをいたしますッ」
顔を真っ青にした苺苺の脳内で、会ったこともない皇太子殿下が『そなたの名を牢獄妃に改名する!』と高らかに叫ぶ。
「牢獄妃の異名、謹んで拝命いたしますっ」
罪悪感と絶望感でアワアワと目を回す苺苺の様子に、なんとなくどんな想像をしているのか察した木蘭は、
「投獄は絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」
これくらいで大袈裟だな、と呆れた表情を浮かべる。
「それに。第一、お……じゃなくて皇太子殿下はそこまで鬼じゃない」
木蘭はちょっと不服そうなむくれた様子で、ゆるく首を振った。




