緑のアイツ
エンベル村を出て、俺たちは森の入口へと足を踏み入れた。
木々は高く伸び、太陽を拒むように葉を広げている。薄暗い影が地面にまだら模様を描き、湿った土の匂いと腐葉土の気配が鼻をついた。空気がぬるい。
「……やっぱり、なんかおかしい」
セラが眉を寄せて立ち止まり、肩の剣に手を添えた。
普段はあれだけ跳ねるように歩くのに、今は気配を殺すようにして動いている。
村の老婆が言っていたとおり、何かが違う。
視界に映るものは静かでも、肌に触れる空気にざわつきがある。遠くで風が鳴いているのに、ここだけ止まっているような気がする。雰囲気にあてられているだけだろうか。
「鳥もいませんね」
リゼットが立ち止まり、周囲の木を見上げながらぽつりと漏らした。
確かにそうだ。こんなに木があるのに、鳴き声も羽音もない。
代わりに、どこからか微かに音が聞こえる。
「これは風の音……じゃないよな」
耳を澄ませた俺は、じわじわと不安に飲み込まれていく。
重く、湿った音が葉の向こうから忍び寄ってくる。水を含んだような足音。なにかが蠢いている。
ラグナルがふと、槍の柄に手を添えた。
「前方に気配あり……数は十を超えます」
低い声だった。冗談ではない。騎士としての本能がそう告げているのだろう。
俺は周囲を見回す。木々の間に不自然な影が――葉の隙間から、小さな目がきらりと光る。
「っ、来るぞ!」
声を上げた瞬間、茂みが弾けるように裂け、緑色の肌、ぼろぼろの装備、ねじ曲がった牙の並ぶ口が飛び出した。
「ゴブリン……!」
セラが剣を抜く。
気づけば、視界の四方にわらわらと同じ影が広がっていた。
とはいえ相手はゴブリン。頭の良さを加味してもDランクほどの魔物で、手こずる要素はない。
「こいつらは俺とセラで対処する。ラグナルは背後の、リゼットは周辺の探索を頼む」
俺の言葉に、各々が頷いて散開する。
ラグナルとリゼットに関しては、ゴブリン相手に戦わせるのは悪手だと判断した。
SSランクの強さは前に目にしたことがある。
ラグナルは屈強な魔獣を十メートル殴り飛ばしていたのだ。
その威力がゴブリンに炸裂するのはありがたいが、戦闘音がデカすぎて要らぬ敵を呼び寄せる可能性がある。
リゼットは――なんか、得体が知れなくて怖いから避けた。
「よーしっ! マスターに良いところ見せるために頑張っちゃうよー!」
それに対して、俺は堅実的な戦いしかしない……というよりできないし、セラは剣士だから大きな音も――こけた。見事に地面にダイブしている。
しまった。彼女は俺が見ていると、思うように力を発揮できないのだ。
彼女の手から離れた剣がゴブリンの腹に刺さり、敵が一体減ったのは不幸中の幸い。
「セラは自分の身を守っててくれ! こいつらは俺が倒す!」
「うぅ〜……ごめんねマスター……」
俺はセラの位置を背にするように立ち位置を変え、呼吸を整えた。肩の力を抜き、視界のノイズを振り払う。
手に取るのは背中の直剣ではなく、腰の短剣。
ゴブリン相手には、取り回しの良さと細かな動きが重要だ。
一体、二体、三体。ゴブリンたちが茂みから順番に飛び出し、歯をむき出しにして間合いに入ってくる。
(まずは一体ずつ、確実に)
先頭の一体がギザギザの棍棒を振り上げた瞬間、俺は半身でかわし、膝裏に短剣を滑り込ませる。
筋が切れる手応えと共に悲鳴が上がるが、それに構わず身体を捻り、そのまま地を這うように横へ滑り込むと、二体目の喉元に、突き上げるように短剣を刺した。
血が跳ねる。倒れ込んだ二体の死角ができたことで、三体目が動きを止めた。
俺は間髪入れずその懐に飛び込むと、相手の腕の下に潜り込むように身を滑らせ、脇腹に刃を滑り込ませた。
これで三体。まだ十体以上が残っている。
「マスター、後ろは大丈夫だよ!」
セラの声が後ろから聞こえる。今は背後の警戒に集中しているようだ。これなら安心して前に集中できる。
「よし……ここからが本番だな」
再び間合いを詰めてくる新手のゴブリンたち。
今度は五体まとまってきた。一斉に飛びかかられれば厄介だが――。
「先手を取らせてもらう」
俺は左手で小石を拾い上げ、狙いを定めて投げた。
一体のゴブリンの額に命中。怯んだ隙に一気に距離を詰め、残り四体のうち一体の膝へ低く刃を滑り込ませる。
体勢を崩したところを利用して、回し蹴りで倒す。
連鎖的に動きが乱れた残り三体のうち、右端の一体の喉を正確に突き抜いた。
余計な一撃を加えない。最短距離で、確実に沈める。
冷静に、淡々と。気持ちを波立たせないまま、俺はゴブリンたちを削り続けた。
残るは一体。最後の一体は、仲間の死体を跨ぎながら、明らかに怯えた様子で後ずさっている。
だが、逃がすわけにはいかない。
俺は手に残った返り血を袖でぬぐい、無言のまま最後の一歩を踏み出す。
ゴブリンが逃げ腰になったのを確認すると、落ち着いて距離を詰め、短剣を逆手に構え、一閃。
周囲は静まり返っている。
予想していたよりも短時間で片付いた。
呼吸を整え、短剣の血をぬぐう。
「マスター……すごかった」
セラが近づいてくる。
「……怪我は?」
「ううん、大丈夫。守ってくれてありがとう。私、結局なにもできなかったけど……」
「いや、セラが後ろを見てくれてたから、安心して動けたんだよ」
セラの目が少し潤む。
そのときだった――。
「シン様! 二十メートル先、倒木の陰に人影を確認しました!」
リゼットの声が響く。
「二人とも、行くぞ!」
三人で走り出す。
倒木の先に見えたのは――泥と血にまみれ、力なく横たわる二人の人間だった。
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