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面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第8話 グラデュエーション
42/48

8-4 ハレーション

四か月ぶりの更新ですみません……同時連載ってきついのですよ。

先に警告しておきます。このエピソードのラスト付近には、女性への暴力を想起させる描写があります。なるべく全年齢向けの扱いをしたいので、直接的な描写は控えているつもりですが、読者によっては強い不快感を与える可能性があります。もし年齢制限が必要だと判断される読者がいましたら、遠慮なくご指摘ください。また、不快に感じた場合はすぐにブラウザバックするようお願いします。

心の準備が整った方から、先へ進んで下さい。

あと、これまでになく長文ですので、ご容赦ください。


 自分が身を置いている日常は、当たり前だけど不変じゃない。学生であれば進級や卒業で、大人になっても様々な理由で環境が変わる。そうでなくても、思わぬ事故に巻き込まれたり、重い病気にかかってしまったり、災害で居場所を失ったりして、簡単に日常は壊れてしまう。

 それでもわたし達は無意識のうちに、この日常がいつまでも続くと思い込んでいる。日常が壊れるというごく当たり前のことを、予想しえない悲劇だと考える人が多いのは、きっとそういう錯覚のせいだ。日常は必ず変わる。でもわたし達は変わることを恐れる。たぶん、変わらざるを得ない状況に追い込まれない限り、人は決して変わらない、変わろうとしない。

 人が密集する都会で大災害が起きる。無差別に人を襲うテロが起きる。あるいは、凶暴なウイルスが蔓延してパンデミックが起きる……そのくらいでなければ、人は変われないのかもしれない。

 わたしはどうだろう? 今わたしは、変わらざるを得ない状況にある。

 いじめの被害者、保坂(ほさか)杏奈(あんな)を、わたしは加害者側にいながら助けてきた。中途半端なわたしが、我が身を守りながら彼女を傷つけないようにするには、そうするしかなかった。でも、もうそれでは保坂を救えないというところまで、事態は悪化しようとしている。

 わたしは保坂と直接話をして、今度は主体的に、このくだらないいじめを終わらせると決めた。いじめを主導するグループと縁を切り、外部の人間を利用して保坂を襲おうとした主犯格を、徹底的に追い詰めて断罪する。カーストとか力関係とか、そんなくだらないものはぶち壊してやるんだ。

 ……まあ、わたしだけじゃ、腹をくくることはできなかったけど。

 学校がその日の昼休みを迎えると、主犯格であるクラスメイトの男子、呉田(くれた)は、早々に教室を出ていった。いつもの取り巻きを連れず、ひとりで。

 直後、わたしのスマホにメッセージが届いた。保坂からだった。あの決意のすぐ後に、お互いのラインIDを登録しておいたのだ。

『やっぱり呉田君、動いたね』

 すぐにリプライ。

『うん、保坂の言っていたとおりだ』

 学校ではまだ、わたし達が繋がっていることを知られたくないので、相談はラインでのやり取りで済ませている。これなら顔を合わせる必要もない。

 呉田の行動について、ある程度の予測はできていた。外部の友人たちを使って保坂を襲わせるという計画が失敗したことは、恐らくその日の遅い時間になってから呉田に知らされたはずだ。友人たちは保坂の帰りを待ち伏せて襲うつもりだったが、保坂は来なかった。夜になっても現れなかった時点で、ようやく保坂に感づかれたと気づいただろう。この不測の事態は電話で知らせただろうが、時刻はすでに夜だ。襲撃計画の練り直しをするなら、翌日になって、人目を避けやすい学校でやるはずだと考えたのだ。

 ……と、保坂が言っていた。正直わたしの頭ではついていけない。

 そしてこうも言っていた。襲撃計画を美術準備室で、ひとりになって企てていたということは、この学校にいる呉田の取り巻きたちは計画を知らない可能性がある。もしそうなら、次に計画の修正を話し合うときは、またひとりになるだろう。取り巻きを連れている状態では、呉田に立ち向かおうとしても多勢に無勢となってしまうが、ひとりの時ならやれないこともない。

『じゃあ、行ってくるね』

『わたしから言っておいて今さらだけど、本当について行かなくていいの? 相手がひとりだとしても、久留美(くるみ)も一人になる必要はないんだよ』

 ……複雑な気分だ。いろんな意味で。

 保坂を守るためとはいえ、わたしが呉田と縁を切ることは、わたし自身の覚悟の問題だ。危険だけど、わたしが変わるためには、わたしが自分で変えないと。

 彼女がわたしを心配してくれているのは分かる。彼女からすれば、好きな子が自ら死地に赴こうとしているのだから、止めるなり一緒に行くなりしたいと思うだろう。だけど、ただでさえ呉田を刺激するような行動に出ようとしているのに、いじめの標的である彼女が出てくればどうなるか。ついでに言えば、わたしに何か起きた時、彼女が呉田に対してどんな暴挙に出るか分からないから、そういう事態を防ぐためでもある。

 ……そのくらい、あいつはわたしが好きなのだ。困ったことに。

『大丈夫、うまくやるよ。だから保坂も、サポートyrsk』

『sksk』

『いや泣くなよ』

 ……あいつがすでにわたしを下の名前で呼んでいるのとは逆に、わたしは未だに保坂を苗字呼びだ。わたしに好意を伝えて(もっと言えばキスまでして)、関係を修復して、そして昨日に至ってはひとつ屋根の下で一緒に寝たから、あいつにとってわたしは、下の名前で呼ぶのが自然な存在なのだ。その辺に、どうも認識のずれがある。

 誤解のないよう言っておくが、昨日一緒に寝たのは、保坂をあのまま家に帰すのが危険だったからだ。呉田の友人たちがまだ待ち構えている可能性もあったし、わたしの家から出る所を見られるわけにもいかなかった。元々保坂の家は、母親が滅多に帰って来ないらしいから、このまま外泊しても問題なく、朝になって呉田の友人たちが散開したタイミングで出てきて、直接学校に行った方がいいと判断したのだ。

 ただそれだけの話なのに、保坂は好きな女の家に泊まれたというだけで、もう既成事実を作った気でいる。わたしから言わせれば、同級生の家に泊まるなんて友達でもやっていることだし、さして重要なことだとも思わないのだけど。

 ……まあ、同性とはいえ、好意を向けられて悪い気はしないが。

『ところで話は変わるけど、ゆうべはお楽しみでしたね』

『また机蹴っ飛ばされたいのか』

『それは駄目。机が可哀想だから』

『そういう憐れみを人間にも向けなよ』

 実際に話してみて分かったけど、保坂は気を許した相手には、フランクというか遠慮のない物言いができるらしい。ただ一方的に攻撃しているだけだと、こういう一面には気づきにくい。クラスの他の連中も、保坂がこういう奴だと知っていたら、普通に仲良くできそうなものだけど……ああ、保坂が気を許すかどうかは別の問題だったか。

 というか、妙ちくりんな会話劇で時間を無駄にするわけにはいかない。メッセージのやり取りを打ち切って、わたしは教室を出た。お昼ご飯を食べている暇はなさそうだけど、仕方ない。

 さて、呉田のやつはどこへ行ったかな……保坂が変なメッセージを送ってきたせいで、見失ってしまったじゃないか。まあ、尾行術に自信があるわけじゃないし、下手に後をつけて呉田に気づかれるわけにもいかないのだけど。

 お昼休みでにぎやかな廊下を駆け抜けながら、わたしは呉田を探した。無人の教室を見つけては覗いてみたけど、呉田の姿はない。本当にどこに行ったのだろう……あいつ、学校で隠れられる場所をいくつ確保していやがる。

 お昼休みが終わるまでに見つからないと、計画は実行できない。できなければまた次の機会を狙ってもいいけど、わたしが裏切ったと判明するのも時間の問題だし、そうなるとわたし達の方が後手に回ってしまう。要するに、わたし達が事を起こす前に、呉田たちが攻撃を仕掛ける可能性があるということだ。これでは意味がない。

 まずいな、序盤から計画がつまずきそうな……と思っていると、スマホに保坂からメッセージが送られてきた。

『体育倉庫の裏に向かっていく呉田君を見た』

 マジか。あいつ校舎の外にいたのか……いくら探しても見つからないわけだよ。

 というか、なんで保坂が先に見つけられたの?

『あんた、今どこにいるの?』

『いつものように一人でお昼を食べる場所を探していたら、一階の廊下の窓から見えた』

 保坂め……周りに怪しまれないようにするためとはいえ、マイペースすぎるだろ。こんなんでちゃんとわたしをサポートしてくれるんだろうな。

 しかし、文句を言っている暇はない。わたしは急ぎ足で体育倉庫へ向かう。保坂が引き寄せてくれたチャンスを、無駄にするわけにはいかない。

 わたし、羽沢(はざわ)久留美は、いじめっ子を卒業すると、決めたのだから。


 体育倉庫の近くまで来て、呉田の姿を探した。確かにここは人気がなくて、遠くのグラウンドから声がするくらいだ。よからぬ相談事をするにはうってつけの場所ね。

 耳を澄ませると、裏手の方から話し声が聞こえてきた。呉田の声だ。

 足音を立てないよう慎重に近づき、体育倉庫の陰から裏手の様子を窺った。学校の敷地を囲っている生け垣と、倉庫の周辺に植えられた木々に囲まれた、妙に広い空間がそこにはあった。教室の半分くらいの広さに、学校の備品らしきものは何ひとつ置かれていない。何のための空間だろう?

 呉田は倉庫の壁に寄りかかりながら、電話で誰かと話していた。

「……当たり前だろ、俺がばらすわけねぇだろうが。きっと誰かが盗み聞きしていやがったんだ。そんで、保坂に計画のこと告げ口して、別のルートで帰るようにそそのかしたんだ。ちっ、生意気な真似しやがって……ああ、見つけたらタダじゃおかねぇ。そいつにも保坂と同じように、俺に逆らったらどうなるか思い知らせてやらねぇとな」

 呉田は悔しさと怒りの入り混じった表情で、そんなことを電話の相手に漏らしていた。どうやら計画が失敗した経緯は、すでに知らされた後らしい。

「あ? そんなの、保坂のやつを捕まえて、自白(ゲロ)するまでシメればいいんだよ。女なんてちょっと脅せばすぐ吐いてくれるさ。そんでもって、チクった奴を目の前でボコっちまえば、さすがにあの生意気女も俺に逆らわなくなる。ははっ、いい気味だ。これぞ正義の鉄槌だな」

 わたしに全部聞かれているとも知らずに、呉田は高笑いをしている。

 …………。

 まるで理解できない。あいつは自分が正義の側に立っていると、本気で思っているようだ。

 あいつが保坂へのいじめをくり返すたびに、どんな環境で育ったらこんな人間になるのかと疑問に思ってきた。きっと、呉田が調子に乗って何をしても、周りの大人が止めたり(たしな)めたりしてこなかったのだろう。人間は誰しも、自分が正義の側に立っていると信じたがるものだけど、間違えることを知らずに育ってきた人間に、正義なんて言葉を使う資格はない。

 保坂は呉田のことを、憐れだと言っていた。本当に、そうかもしれない。

 呉田が電話を切ったタイミングで、わたしは意を決し、倉庫の陰から出てきた。突然現れたわたしと目が合って、呉田は目を見開く。

「お前、羽沢……なんでここに」

「今の電話、なに?」

 呉田からの問いかけには答えなかった。真っすぐに呉田の顔を見据え、彼の反応を引き出す。

「何って……お前には、関係ねぇから」

「保坂の名前も聞こえた気がしたけど。あいつに何しようとしたの?」

「いや、別に保坂も関係ねぇって……聞き間違いじゃねぇの」

 呉田はわたしから目をそむけようとする。そして、わたしがはっきり聞いた電話の内容も、お茶を濁しながら否定しようとする。……その反応だけで十分だった。

「ふうん……ごまかすんだ。やっぱり、あんたの取り巻きたちは知らないんだね。あんたが外の友人たちを使って、保坂を襲わせようとしていた計画のこと」

 これだけで、あほの呉田でも察することができるだろう。

 呉田の視線が、ゆっくりとわたしに向けられていく。そして、蔑むものへと変わっていく。普段いじめている保坂にも、そんな顔は見せたことがない。

「……まさか、お前か。保坂に計画をチクったのは」

 返答次第じゃぶち殺すぞ、とでも言いかねないほどの憤りがこもっていた。今さら怖くなどない。あのとき、女を踏みにじる最低な計画を聞いたときの、わたし自身の怒りと比べれば、こんなものはちっぽけだ。

 だから、言葉は選ばなかった。

「そうよ。見つけたらタダじゃおかないって言ってた、その相手がわたしよ」

 わたしが怯えも見せずに答えたことが予想外だったのか、呉田は頬をぴくりとひきつらせただけで、すぐには何も言ってこなかった。

「……まさかお前が裏切るとはな」

「裏切るも何も、わたしは最初から、あんたの味方でいたつもりはなかったわよ。まあ、保坂の味方でもなかったけど」

「ああ、道理でお前の行動が、俺たちと噛み合わなくて、変だと思ったわけだ。いくら羽沢でも、俺の邪魔をするなんて馬鹿なこと、するわけがないって思っていたからな……」

「馬鹿なこと、ねぇ……わたしから言わせれば、あんたのしてきたことの方が、よっぽど馬鹿なことだと思うけどね」

「はあ?」呉田は眉をひそめた。「俺は、俺に従わない馬鹿を従わせるよう努力してんだ。先生たちだって普通にやってる、れっきとした教育だよ。勝手に告げ口して保坂に逃げ道を作ったり、こそこそ妨害したり、お前こそやってることが不良そのものじゃねぇか」

 ああ、駄目だ、こいつは……想像以上に自分を疑っていない。自己批判という言葉が辞書に載っていないのだ。やはりはっきりと否定しないと、目を覚まさない。

 特に、呉田の行為が努力だというのは、断じて許せない。真っ当な努力を目指してきたわたしにとって、それは軽々しく使われたくない言葉だ。

「わたしのしたことをどう言おうが勝手だけどね、あんたが保坂にしてきたことは教育なんかじゃない。れっきとした、いじめだよ」

 呉田への憤りが高じて、ついに言ってしまった。教室内で、呉田の前で半ば禁句扱いされていた言葉を……呉田が揺るぎない善と信じてきた行動の全てを、否定する言葉を。

 呉田の表情の歪みが、じわじわと大きくなっていく。

「いじめ……? は? 俺が、いじめ? 馬鹿言え、俺のした事のどこがいじめなんだよ」

「やっぱり自覚なかったんだ。それとも気づいているけど、自分を誤魔化してるの?」

「ふざけてんのか、てめぇ!」

「わたしもそっくり同じことをあんたに言いたい気分だけど、その前に聞くわ。呉田の中の、いじめの基準って何? どういうのがいじめだと思ってるの?」

「どういうのって、あれだろ……殴ったり蹴ったりするとか、シカトするとか、ねちねち悪口を言うとか、そんな感じだろ」

「そうね、他にもあるけどそんな感じね。呉田、シカト以外はみんなやってるじゃない。暴力は振るうし、保坂を貶めるような悪口をまくし立てるし……あんたの基準でも、やっぱりやってることはいじめじゃないの」

 保坂からのアドバイスだった。呉田の中のいじめの基準を引き出して、それが呉田の行動と合致していると示せば、いじめを自覚せざるを得なくなる。どういう行為がいじめなのか、大抵の人は似たような基準を持っているものだ。呉田もその例に漏れなかったようだ。

「ち、ちげぇよ、全然違う。俺はあいつを叱っているだけだ。机に落書きしたりゴミを入れたり、そういうことをしていたから叱ってやってんだ。だから、その、弾みでちょっと手が出ることもあるけど、そのくらい教師だって普通にやるだろ。教育の一環だ。それをいじめだとか……貶めてんのはお前の方だろうが」

 必死に論破しているつもりだろうが、あまりにしどろもどろで説得力に欠ける。反対にわたしは、どんどん冷静になっていった。

「落書きもゴミも、保坂がやったと決めつけて責めるだけで、きちんと調べようとしなかったよね。教育だっていうなら、ちゃんと調べて、誰をどう叱るべきか考えるのが普通でしょ。それに、弾みだろうが何だろうが、何度も暴力を振るうような教育は、“体罰”って言うんだけど」

「ぐっ……」

「あんたがどんな言い訳を並べようと、あんたがしていることはただのいじめ。間違っているのはあんたの方よ!」

「間違っている? この俺が? 俺が間違えるわけないだろ!」

 呉田はもはや理屈で反論することなく、無理を押し通そうとしているだけだ。

 これでも駄目か……呉田のこの、異常なまでの自己肯定感は、わたし達の想像を超えている。何が何でも自分を否定したくないという思いが強くて、どんな理屈も非難も力づくで跳ねのけようとしている。

 もういいか。呉田への非難は十分にやったし、これ以上は何を言っても無駄だ。だったら、さっさと宣言してしまった方がいいだろう。

「あ、そう。あんたが救いようのない馬鹿で愚か者だってことはよく分かった。もうそんな奴に好き勝手させるのは我慢ならない」

「なんだと?」

「とっくに裏切っていたから今さらだけど、わたしはもうあんたとは縁を切る。あんたのやることに徹底的に逆らって、保坂を守る。保坂サイドに立つ。でもって、必ずあんたには責任を取らせる。どんな言い訳をしようが、絶対に罰を与える」

 精一杯の覚悟を込めた決意表明だった。わたしは呉田を真っすぐに見据え、決して譲らないという強い意志を視線に込めている。

 正直言って、かなり怖い。今にも呉田が拳を振り下ろしてくるのではと、気が気でない。それでも逃げ出さずにいる。きっとこれが、駄目な人間にならないための、真っ当な努力だ。そう信じているし、きっと保坂も信じてくれる。

 とはいえ、これは一方的な宣言だ。今の呉田に通用するとは思ってない。

「……お前、前から馬鹿だと思ってたけど、本当に馬鹿だな。救いようがない」

 蔑むような視線を返してきた。

「残念、馬鹿に馬鹿と言われても効かないのよね。あんただってどうせそうでしょ」

「そうだな。けどお前の場合、こんな人気の無い所にひとりで来て、この俺に逆らうって堂々と言うところが、いかにも馬鹿だって言ってるんだよ」

「あんたも一人だから同じでしょ。言っておくけど、喧嘩して勝ち目がないことは分かってるし、あんたが耐えきれず暴力を振るってきたら、すぐさま逃げるつもり」

「だったら、さっさと逃げるべきだったな」

 ん? なんだか妙だ。呉田の表情に、わずかだが余裕が浮かんだように見える。

 はっ、と気づいたときには遅かった。背後に聞こえた足音に振り向くと、顔に見覚えのない男女が七人ほど、わたしを取り囲んでいることに気づいた。全員、呉田と同様、性悪を絵に描いたような面構えをしているが、制服はきちんと着ている。こいつらもステルスタイプの不良、ということは……。

「噂には聞いていたけど、あんた、他のクラスにも仲間がいたのね。それも、うちのクラスの取り巻き達とは違う……あんたと同じようなタイプや考え方の奴が集まっている。さしずめ、呉田同盟とでも言うべきかしら」

「へえ、こいつはちょっと見くびったな。てっきり怯えて震えあがると思ってたよ」

「呼び出す素振りなんてなかった……最初からこの近くに潜んでいたのね」

「俺の電話を盗み聞きして、勝手にチクるクソ野郎が、この学校にいることは分かっていたからな。外の連中と電話している間に、こそこそ後をつけて、俺の弱みでも握ろうとする奴がいたら、誘い込んで取り囲むって算段だ。頭いいだろ?」

 隙あらば自分の優秀さをひけらかそうとする……理屈抜きで自分が何より正しいと、分からせたくて仕方ないのだ。聞いているこっちは呆れるしかないけど。

「残念なことに頭を使いすぎ。かえって憐れにしか思えないわ」

「おい、キサマ」

 不良のひとりが、わたしの制服の襟首を後ろから掴み上げた。ちょっと首が絞まったけど、この程度なら苦しさは感じない。

「この状況分かってんのか。俺たちの中でひとりでも怒らせたら、拳骨一発じゃすまねぇぞ」

「そーそー、もっと賢くなりなよ、悪いようにはしないからさぁ」

 二人しかいない女子のひとりが、なれなれしくわたしの肩に手を置いて、耳元でささやくように言ってきた。

「今からでもちゃんと謝って、許してもらいなよ。あ、もちろん土下座でね。二度と逆らいませんって、頭下げて謝れば無事に帰れるんだから」

「触んな」

「え?」

 わたしは怒りを滲ませながら、横にいる不良女子を睨みつけた。

「触んなって言ってんのよ」

「…………!」

 わたしの気迫が想像以上に強かったのか、襟首を掴んでいた男子も、肩に手を置いていた女子も、ぎょっとしながらわたしから離れた。なめんなよ。周りが敵だらけって状況は経験済みだ。

「言っておくけど、あんた達が脅しや暴力でわたしを黙らせようとしたって、無駄だから。わたしは呉田がこれまでしてきたことは全部……保坂へのいじめもそうだけど、外の友人を使って保坂を襲って辱めようとしたことも、残らず学校に報告する。制裁を受けるのはあんた達の方よ」

 そう告げると、呉田はまた蔑むようにあざ笑った。

「おいおい、そんな突拍子もない話、教師連中が信じると思うか? 保坂を襲う計画だって、お前がチクったせいで失敗しているから、そんな計画があったって証拠もない。俺みたいに、普段から人畜無害を装っていると、悪評が出ても本気でとり合うことがないんだよ。残念だったな」

 相手がわたし一人で、八人で取り囲んでいる状況だから、呉田は余裕でいるのだろう。わたしが反抗的な態度をとっても、ただのやせ我慢、あるいはこけ脅し程度にしか思っていない。こいつの場合、普段からいじめをしていても、批判を避けるために尻尾を掴ませないようにしていたから、証拠もない状況で糾弾などできない、そう考えているのだ。

 だけど、そうした油断こそ、わたし達が狙っていたものだ。

「いいえ、証拠はちゃんとあるわよ」

 わたしは、制服の上に羽織っている薄いベストのポケットから、スマホを取り出した。ボイスレコーダーアプリの、停止ボタンを押す。

「ここに来てからの会話の一部始終……呉田が保坂に対してやったことの全てを自白した、あんた自身の肉声がね」

「なっ……!」

 両目を剥く呉田。悪知恵の働くこいつでも、会話を録音されるとは思わなかったようだ。

 ここまでの展開は全て予想していた。呉田が昨日の時点で、美術準備室での電話を誰かが聞いて保坂に告げ口していたと分かっていれば、誘い込むための罠を張ることはあり得た。その時は、クラスメイト以外の仲間を使って、その裏切り者を取り囲もうとする。脅すにしても、実力行使に出るにしても、それが一番確実だからだ。

 多勢に無勢……最初はそれを避けたかった。絶縁宣言と糾弾宣言、どちらも、敵が大勢いる前でやるのは無謀といっていい。だけど、宣言が終わってしまえば、むしろ多勢に無勢の状況の方が好都合だった。自分が優位に立っていると思わせれば、呉田は必ず油断して口を滑らせる。それを録音すれば、言い逃れのできない証拠が手に入るわけだ。

 ……とまあ、これらはぜんぶ、保坂が昨日考えた作戦なんだけど。あいつ、頭のいいやつだとは思っていたけど、ここまでとはね。

「これを聞けば、先生たちも重い腰を上げるんじゃない? 言っておくけど、あんた達がどんな交換条件を持ち出そうと、この音声は必ず先生たちの所へ持っていく。渡されたくなかったらどうこうしろ、なんて言うつもりはないわ」

「舐めた真似しやがって……!」

 呉田はもはや、極悪な本性を隠すつもりもないらしい。にじませた表情はなんとも醜いものだった。いずれこういう顔を、先生たちの前でも晒すことになるのだろう。

「あんた何様? 正義の味方でも気取ってんの?」

 周りにいた不良女子のひとりが、苛立たし気に言った。

「あんただって呉田とつるんで同じことやってたんでしょ。なのに、呉田にだけ罰与えて自分だけ助かろうなんて、虫がよすぎるでしょ」

「そうだよ、呉田が加害者だって言うなら、あんただって同罪だろ」

「同じ穴のなんとかってやつだな」

「いくら偉そうなこと並べたって、お前も加害者だってことは変わらないんだからな」

 不良たちがこぞって、わたしを貶めにかかっている。罪悪感に苛まれて、証拠を表に出しにくくさせるのが狙いかな……。

 確かに、こいつらの言うことは間違ってない。わたしが加害者であることは事実で、何をしたってその事実が消えることはない。だけど……。

「だから、何?」

 不良たちを睨みつけながら、わたしは言い返した。またしてもわたしの眼力に気おされ、後ずさる不良たち。口ほどにも無いなぁ、こいつら。

「わたし、自分だけ許されようなんて思ってないよ。いじめともなれば、実際の加害者だけじゃなく、見て見ぬふりをしてきた周りのみんなにも責任が問われる。もちろんわたしも含めてね。だから、その罪をできる限り償うために、このくだらないいじめを終わらせようとしているのよ」

 両の拳に力が入る。片方はまだスマホを握っているけど。

「わたしは決めたの。いじめっ子を卒業するって……保坂を助けるって決めた。そのためなら、どんなに傷ついたって構わない。最後に罰を受けることになってもいい。それでも保坂は、わたしの味方になってくれるから」

 彼女はわたしをひとりにはしないと言ってくれた。わたしはその言葉を信じているから、思いきったことができる。そう、わたしは正義の味方なんかじゃない。保坂の味方だ。罪悪感があっても、それに苦しめられることはない。

「フン、ばかばかしい」呉田は鼻で笑った。「保坂に何を吹き込まれたか知らないが、お前が加害者ならあいつは被害者だ。味方になんてなるかよ。ああいう外面のおとなしい奴ほど、腹の中じゃ何を考えているか分かんないもんだぜ」

「ええ、あんたがまさにそういう人間だものね」

「あぁ?」

「でも、あんた達は保坂のことを何も知らないでしょ。自分の身勝手な理屈を押しつけて攻撃するだけで、相手のことなんか見てないだろうし。わたしは保坂と、面と向かって話した。あいつの強さも弱さも知った。だから信じられるのよ」

 二の句が継げない呉田に、わたしは指先をピッと向けた。

「あいつはもう、わたしの友達だから。直接間接に関わらず、わたしの友達に手を出したら、絶許(ぜつゆる)だからね!」

 これでもう、後には引けなくなった。わたしは保坂を選び、呉田たちと敵対する。それはもう避けられない。

 自分に逆らったり、思いどおりに動いてくれない人を、心から嫌うような呉田のことだ。ここまではっきりと、自分の敵になると言われたら、もう手段を選ばなくなるだろう。次は無理やりにでも、わたしを屈服させるために、大事な証拠を奪おうとするだろう。

「そうかよ、だったらもう容赦はしねぇ。お前ら、こいつのスマホ取り上げるぞ!」

 呉田の号令がかかると、わたしを囲んでいた不良たちが一斉に、わたしを取り押さえようと襲いかかってきた。人数差がありすぎる。逃げ出すのは至難の業だ。

 万事休すか、と思ったのも束の間。

「おい、そこで何をしている!」

 男の先生が、校舎から体育館に通じる出入り口から出て、駆け寄ってきた。呉田たちの口から「げっ」という声が漏れたが、すぐに動きを止めて愛想笑いを浮かべた。

「いえ、別にちょっと遊んでいただけで……」

「遊ぶって、こんな隅っこで?」

「ほら、校庭だとボールで遊んでいる人がいるから、飛んで来たら危ないかなぁ、と……」

 窒息しそうなくらい苦しい言い訳だ。先生も納得している感じではなかったけど、パッと見て問題を起こしている様子でなかったからか、特に穿鑿(せんさく)しようとはしなかった。

「……まあいい。そろそろ昼休みも終わるから、早く教室に戻れよ」

「そ、そうですね……」

 先生たちの前ではごく普通の生徒を演じている呉田は、従順なふりをして答えた。とっさのことで切り替えるのに苦労しているが。

 先生の前でわたしに難癖をつけて、わたしの評判を落とせば、音声データの信憑性が低くなって証拠扱いされなくなる可能性はあった。でも、呉田自身が少しでも疑われる恐れがあるなら、呉田はそれを避けようとする。だから何も言えなかったのだ。

 まあ、それも狙っていた事ではあるのだけど。

 校舎に戻り、流れで呉田たちと距離を取っていく。不良どもといっしょに行動している所は、他人に見せたくない。わたしが彼らと縁を切ったことは、公然の事実にしておきたい。その方が呉田へのダメージになるからだ。

 階段を上りきったところで、保坂と合流した。ごく自然に、隣に並んで歩く。

「……サポートありがと」

「まあ、わたしが言い出した作戦だからね」

 先生があの場に来たのは、保坂が通りがかりの先生を呼び止めて、体育倉庫の近くで喧嘩している生徒がいる、などと吹き込んだからだ。呉田たちが不良たちを集めて、裏切りを囲い込もうとすることは予想していたから、暴力沙汰を避けるための策は当然立てていた。

 ということはもちろん、保坂はわたしと呉田たちのやり取りをずっと見ていたわけで……。

「一緒に歩いていていいの?」

「もういいんじゃない。いずれ学校中に知れ渡るもの。友達になったってこと」

「ふふふ……手をつないでもいいよ」

「それはまだお断り」

「えー、けち。じゃあ、買っておいたパンは食べる?」

「……いただくわ」

 お昼を食べ損ねていたわたしは、保坂からもらったパンを、授業前に急いで頬張った。


 放課後を迎えて、わたしと保坂は揃って学校を出た。昨日はわたしが、帰る途中の保坂を捕まえて、強制的にわたしの家に連れていったから、実質これが初めての、一緒の帰宅だ。

 ここ数日、友人である米谷(よねたに)たちとは、帰り道を一緒にしていない。あいつらは特に気が合うわけじゃないけど、呉田を中心に澱み続けているクラスの雰囲気に、あまり馴染んでいないということもあって、決して居心地は悪くない。それでもまだ、彼女たちを保坂の問題に巻き込みたくはなかった。そんなことをすれば、呉田による被害を受けかねないからだ。

 わたしは……自分がどれだけ傷つこうと、保坂を守ると決めた。だから今日、こうして保坂と一緒に歩いている。

 けれど、肝心の保坂はそれを分かっているのだろうか……。

「こうして一緒に帰るのは初めてだよね。なんだかこういうの、距離が一層近づいたみたいで、この先の展開にも期待がもてそうな感じ……」

 染めた頬を押さえてニヤニヤするな。こっちがいたたまれないわ。

「どんな展開を想定しているのよ……わたしとしては、この証拠を使って、どうやって呉田を追い詰める展開に持ち込むか、それを考えてほしい所だけどね」

 わたしはスマホを手に持って、見せびらかすように振ってみた。保坂のアイデアのおかげとはいえ、呉田の口から決定的な発言を引き出したのは、わたしの手柄と言っていいのでは。

「まあ、最終的には、話の分かりそうな先生に届けるつもりだけど……ちょっと、そのタイミングで迷っているところ」

「タイミング? 明日とかじゃ駄目なの?」

「駄目とは言い切れないけど……この音声データを先生たちが聞いたら、最悪の場合、呉田は停学、あるいは退学の処分が下されるかもしれない」

「いいことじゃない。それで解決でしょ」

「ううん。裏切り者がいると分かれば、外の仲間を使って囲い込み、暴力を振るうことも辞さない、そういう人間が野放しになるんだよ。学校という足かせがなくなった分、学外の仲間も使いやすくなるから、むしろ危険性が増してしまうんだよ。しかも、停学や退学という不名誉は、呉田くんのプライドを傷つけて、さらに暴走を強める可能性だってある」

 うわ……そうなったら今よりもっとたちが悪いし、呉田なら十分にやりかねない。昨日、作戦を立てた時もそうだったけど、保坂の予測は本当に的確だ。

「じゃあどうすれば?」

「当然、呉田くんには相応の処分が下されるべきだけど、それだけじゃいけない。暴力行為に関わりそうな人たちは全員、動きを封じないといけない。一番いいのは、警察に逮捕されること」

「け、警察!?」

 話のスケールが想像以上にでっかくなって、わたしは驚く。

「そ、そこまでしないといけないの……?」

「本来、呉田くんたちがわたしにしてきたことは、どれも立派な犯罪なんだよ。器物損壊、暴行、傷害、脅迫……あと、わたしの品格を貶めるような暴言は、侮辱罪、酷ければ名誉毀損罪」

 保坂は指折りながら呉田たちの罪を並べ立てた。なんかもう、犯罪のフルコースだ。いじめというのは本来そういうものだろう。わたしもそこに片足を突っ込みかけていたと思うと、ぞっとする。

「だから、呉田くんたちは本来、とっくに警察に逮捕されていてもおかしくないの。でも、学校は基本的に警察の介入を嫌う。だからいじめの実態を報告しても、学校のイメージ低下を恐れて、警察に連絡せず、内輪だけで処分を決めると思う」

「そういうことか……」

「でも、音声データだけじゃ、学校にいじめの実態を掴ませることはできても、警察を動かせるかどうかは分からない。特に、学外にいる呉田くんの仲間は、特定するのも難しい。だから、先生たちに上手く話して、警察を介入させるよう誘導しないといけない」

「うーん、難しいなぁ……そもそもこれが、うちの学校だけの問題なら、まだ対処のしようはあったかもしれないよね。呉田が外にも仲間を作っているから、こんなに厄介なんだ。ホント、なんであんな奴に仲間が大勢いるんだろ」

「男って徒党を組みたがる生き物だから。特に性格の悪い男はね」

 女も交じっていた気がするけど、そういう悪さに惹かれるひとだっているからなぁ。

 烏合の衆には違いないけど、ひとたび目的が一致すれば、大きな牙をむく。敵は想像以上に大きく、問題は保坂だけのものではなくなっている。こんな状況を女子高生二人だけで打開しようというのだから、無茶がすぎる。

 でも、不思議だけど……わたしは心のどこかで、なんとかなりそうだと思っている。きょう一日だけで、あの呉田を手玉に取ることに成功したことで、わたしは保坂をすっかり信頼しているのだ。彼女と一緒なら、なんとかなるのではないか……そんな期待をしている。

 なんて話をしていると、いつの間にか保坂の自宅のすぐ近くまで来ていた。自宅っていうか、古い二階建てアパートの一室とのことだけど。

「保坂、今日はわたしのとこに来ないの?」

「来てほしいの?」

「期待のこもった眼差しを向けるな。そうじゃなくて、うちにいた方が安全なんじゃないのって」

「うーん、でも、久留美とわたしが繋がっていることが、呉田くんたちに知られた以上、久留美の家に行っても危険性は変わらないと思うんだ。それに……」

「それに?」

 保坂は一瞬、口を少し開いたまま言いよどんだ。打ち明けるのをためらうように。

「……今日は、お母さんが帰ってくる日、だから」

 沈黙が流れた。

 ……ああ、そうか。保坂には父親がおらず、母親は別の男性に夢中になっていて、保坂は家庭で放置されている状態だと聞いている。だから娘がいじめられていてもろくに対処せず、保坂も親に相談することをあきらめている。

 そんな母親が帰ってくる。昨日は母親がいなかったから、わたしの家に泊まることができたが、今日はそうもいかない。高校生の娘の養育をサボるような親だ、食事などの家事を保坂にまかせきりにしているとしたら、保坂が家にいないという勝手を許すとは思えない。

「……そんな親、放っておけばいいのに」

「それが簡単にできたら、苦労しないんだけどね。あ、でも、久留美がわたしをお嫁さんにもらってくれたら、簡単に解決するかもね」

「簡単に解決するまでのハードルが高すぎる……」

 冗談だと思いたいが、そもそも女が女を嫁にもらうって、法律がまず認めてくれない。いじめの問題だけでも手一杯なのに、これ以上厄介な課題を増やさないでほしい。

 何より、わたしは……。

「言っておくけど、わたしはあんたを、そういう目では見られないから」

 これははっきり言っておいた方がいいと感じていた。保坂は友達にはなれても、保坂がわたしに向ける好意と、同じものを抱くことはできない。女同士の恋愛を、否定も嫌悪もしないけど、わたしがその当事者になることには抵抗がある。何より、保坂とのこういう好意のずれを、延々と引きずることが、保坂にとってもよくないと思うのだ。

 気持ちには答えられない、それだけは分かってほしかった。気づいてくれるだろうか。

「うん、知ってる。だから別に、久留美がわたしを好きになる必要はないよ」

「…………は?」

 気づいてくれるどころか、とっくに理解していた。そして、気持ちに答えることも望まなかった。わたしには、その保坂の反応がよく分からなかった。

「好きになる必要がないって……ずっと、片想いのままでいるっていうの?」

「先のことは分からないけど、片想いのままでもいいよ。わたしがどんなにアプローチしても、久留美がそれを受け止める必要はないの。振り切っても拒絶してもいい。受け止めてくれたら嬉しいけど、そうでなくても構わないの」

「なんでよ……報われない恋をずっと引きずるつもりなの? どうしてよ」

「慣れてないから。わたし、誰かに愛されたこと、ないから」

 ひぅ。呼吸が止まりそうになった。

 保坂は、まるで文章の朗読のように、自分のことを話した。

「お母さんはあんなだし、おかげで近所とも親戚とも疎遠だし、小さい頃から友達もいなかったから……お父さんは違ったかもしれないけど、幼い頃に死んじゃってるし、愛情を注いでくれたかどうかなんて、今のわたしには分からない」

「…………」

「もう、そういうのは慣れっこなんだ。だから今さら、誰かに愛してもらおうなんて、そんなおこがましいこと言えないよ」

 保坂は笑う。どうしようもないくらいに、笑っている。

 こいつは愛情に飢えているんじゃない。ずっと長らく愛情を注がれなかったせいで、もうそれが普通になっているのだ。彼女にとって、愛情を向けられることは、自分にはもったいなくてふさわしくない、そういうものなのだ。

 だけど、そんなの……あまりに空しいじゃないか。拳をぎゅっと握りしめて、わたしは言葉を絞り出した。

「わたしは…………っ、わたしは!」

 顔を上げて、その続きを、保坂に伝えたかった。

 でも、できなかった。気持ちははっきりしているのに、言葉が出なかった。握り拳に込めていた力がすっと抜けて、また顔を伏せてしまう。

「……自宅に着くまで、油断しちゃ駄目だから。じゃあ、また」

 踵を返して、わたしは保坂と顔を合わせることなく、その場を走り去った。保坂の呼び止める声は、聞こえなかった。

 自分の家までの道を、逃げるように駆けていく。悔やむ気持ちを振り払えない。

 言えなかった。

 そんなことはない、わたしなら保坂を愛することができる。そう言いたかった。

 でもそれは、今のわたしが言ってはいけない。まだ保坂を友達としてしか見られず、いじめからも守りきれていないわたしが、そんな無責任なことは言えない。

 自宅までまだ少し距離があるが、急に走ったせいで、わたしはもう立ち止まってしまった。息が荒れているのは、走ったせいだよね、きっと。

 わたしにとって保坂は、ただのクラスメイトでしかなかった。呉田たちのいじめを妨害するときも、決して保坂を見ていたわけじゃなかった。でも、あいつはわたしのことを見ていて、わたしに勇気をもらっていた。与えたつもりもなかったのに。

 そして今度は、あいつがわたしに勇気を与えてくれた。その瞬間、わたしには、保坂を守る理由ができた。真っ当な努力を、臆面もなく堂々とやってやろうと思えた。

 それなのに、このままの関係でいることに、後ろめたさを感じる自分がいる。保坂はわたしを好きで、でもその気持ちにわたしは答えない。あいつが差し出す愛情と同じものを、わたしは与えてやれない。

 わたしはこのまま、保坂に何も、与えてやれないのだろうか……。

 そんな事を考えながら、とぼとぼと道を歩いていると、目の前に突然、グレーのワゴン車が行く手を遮るように停まった。後部のスライドドアが開き、中にいた三人の男が降りてきた。

「…………あっ」

 わたしは、闇の中に引きずり込まれた。


  * * *


 翌朝、わたしはいつものように登校した。もとい、いつもとは少し違うかもしれない。一昨日、誰かがわたしの外靴をボロボロにしたせいで、昨日と今日は久留美の靴を借りていた。昨日の夜は母親が帰っていたけど、わたしの靴が変わっていることには気づかなかった……やっぱり娘に関心がないのだろう、きっと。

 まあいい。久留美という心強い味方ができたから、ちょっとやそっとじゃへこたれない。そろそろこの問題に決着をつけよう。久留美とも協力して、わたしへのいじめを根本から消し去るのだ。

 そう思いながら階段を上り、教室のある階に到着すると、廊下がいやに騒がしかった。

 どうしたのだろう。廊下を進んでいくと、わたし達の教室に近づくごとに、どんどん人の数や騒がしさが増していく。何かよくないことでも起きたのかな。

 嫌な予感がする……わたしは少し歩くスピードを上げて、教室に入った。

 案の定、久留美の席の周りに、ずいぶんと生徒が集まっていた。ひそひそとした話し声、表情はみんなどれも曇っている。

 その人だかりの中に、久留美とよく一緒にいる友達の姿が見えたので、声をかけた。

「ねえ、米谷さん。何かあったの?」

「保坂……」

 米谷さんはしかめ面で目をそらし、歯がゆさをにじませるように言った。

「そんなの、こっちが知りたいよ……」

 そして米谷さんは一歩下がった。わたしに、人だかりの中心にあるものを見せようと、隙間を開けてくれたのだ。その隙間から覗き込むと、誰も座っていない久留美の席が見えた。

 ひぅ。呼吸が止まりそうになった。

 久留美の机の上は、大量の写真で埋め尽くされていた。それこそ、下の天板が隠れて見えないくらいに。その写真には全て、久留美が映っていた。

 ……制服の至る所を引きちぎられ、体のあちこちに細かい傷や打撲痕をいくつもつけられた、見るも無残な姿で。仰向けに倒れているところ、四つん這いで表情を歪ませているところ……そんな久留美を、あらゆるアングルから撮影していた。

 この状況は、一言でいえばそう……。

 蹂躙(じゅうりん)だ。

「く、久留美……」

 頭の中が、ぐるぐると回り出す。声が出ない、体も動かないのに、頭だけが凄まじく動いている。

 いつ? いつ撮られたものだ? 昨日の別れ際までは無事だったのだから、その後しかない。

 どこで? どこでこんなことが? 暗くて場所が判然としないが、久留美の体の下は車の座席に見えた。

 何が? 久留美に何が起きた? 想像するだけで恐ろしく、吐き気がするようなことだ。

 誰が? 誰がこんなことをした? 暗いうえに、久留美以外の人物は手とか足しか見えない。相当注意深く撮ったか、あるいは足がつかない写真だけ選んだか。

 なぜ? なぜ久留美はこんな目に遭った?

 なぜ? なぜ? なぜ?

 ハッとして、わたしは顔を上げた。視線の先、人だかりの向こうで、教室の入り口近くの壁にもたれかかって、横目でこちらを見ている呉田がいた。たぶん、目は合っていない。

 その呉田の口角が、一瞬だけ、ぐにゃりと上がった。

「…………!」

 ああ、そうか。すべて分かった。ターゲットが変わったのだ。

「ちょっと見てよ、同じ写真がネットにも上がってるよ」

「うわ、マジかよ。この画像とか、ここの写真の中になくね?」

「やべぇよ、完全にさらし者にされてんじゃん……」

 久留美が暴行を受けたことは、学校中に知れ渡った。客観的に見れば久留美は被害者だけど、この手の悪いイメージは、性根の腐った人間にとって、久留美をいじめる格好のネタになる。ネットにアップされた写真も簡単には消えない。久留美はこの先、心無い奴の餌食にされる。

 そう、これはきっと、始まりに過ぎないのだ。

「そういえば羽沢さん、きのう保坂と一緒に帰ってたよね」

「えっ、あの二人、友達だったの?」

「それで呉田がマジギレしたっぽいよ」

「ねえ、もしかして……そういうことなのかな」

「保坂の肩もつようなことするからよ。じごーじとくってやつじゃん?」

「下手に手出しして自分が襲われたら世話ないじゃん」

 ……もうすでにこの教室でも、心無い奴が見当はずれなことをほざいている。たぶん、呉田の取り巻きも含まれているのだろう。

 わたしは今まで、自分に何をされても、決して怒りはしなかった。怒ってもどうにもならないということを、わたしは知っていたから。でも、これは……もう頭にきた。

 怒りに突き動かされるまま、わたしは、机の上の写真を、両手でかき集めた。

「ちょっ、保坂?」

 周りの声は聞こえない。大量の写真を両手に抱えると、教室の端に向かって駆けだした。その勢いのまま、隅っこに置かれていたゴミ箱に、写真をすべてぶっこんだ。

 こんなもの、こんなものはゴミだ。これ以上人の目に触れる所に置いてたまるか。

「ふぅ、ふぅ、ふぅ!」

 なるべくゴミ箱の奥に突っ込もうと、捨てた写真を手で押し込んでいく。息も絶え絶えに、怒りをぶつけるように。

 ゴミ箱の中の写真はことごとくしわくちゃになった。その成れの果てを見下ろしながら、わたしは自分の頭が冷えるどころか、沸騰するほど熱い何かがうごめいているのを感じた。それが、ただの怒りでないことにも、徐々に気づき始めていた。

 くるりと踵を返し、久留美の机の人だかりへと走った。もつれそうな足で駆け寄って、米谷さんに掴みかかった。

「ひっ……!」

「久留美は……久留美はどこ! どこにいるの! 今!」

「さ、さあ、今日はまだ見てない……たぶん、学校にも来てないと思う」

「普通に考えたら、家か病院じゃない? 本当に、あんなことになってるなら……」

 久留美の友達のひとりがそう言った。確か名前は綾瀬(あやせ)さんだったかな……みんな、久留美に何が起きたのかはっきりと分からなくて、表情を曇らせている。

 彼女に何があったのか。知りたい。いや、知らなければならない。

 衝動に突き動かされるまま、わたしは米谷さんを解放して、逃げるようにその場を離れた。教室を飛び出して、まだ生徒たちが行き交う廊下を全速力で駆けていく。自分のカバンを忘れずに持っていくあたり、わたしの中にまだ冷静さが残っているみたいだ。意外だけど。

 階段を駆け下りて、靴を履き替えることなく外に出て、真っすぐに走っていく。ホームルームの時間が迫っているけれど、そんなものより、久留美の今の状況を知る方がはるかに大事だ。

 息が切れる。心臓の拍動が激しさを増して、胸を突き破りそうになる。元々、運動は得意な方ではないのだ。こんなに思い切り走るのも、かなり久しぶりだと思う。

 だって、早く知りたい。早く会いたい。一秒でも早く。

 制服姿の学生は、周りに見えなくなってきた。たぶん、この時間に町の中を走っている高校生は、わたししかいないだろう。もうこの時間は、みんな学校に着いているはずだから。

 久留美の家の場所は知っていた。昨日は久留美の家から、直接学校に行ったから、そのルートを逆に行けばいい。一度通ったきりだけど、それほど複雑なルートではなかったから、逆にたどっても迷うことはなかった。

 そして、五分くらいでわたしは、久留美の家に到着した。

「はあっ、はあっ、はあっ……!」

 思い切り走ったせいで、呼吸が荒れまくって苦しい。玄関先で立ち止まった途端に、太ももの筋肉が悲鳴を上げている。ヤバい、少しは体を鍛えた方がよかったかな……。

 まあ、そんなものは後だ、後。わたしは玄関のチャイムを鳴らした。

「あら、あなた、この間の……」

 出てきたのは久留美の母親だった。一昨日、ここに泊まった時に顔を合わせている。

「保坂杏奈です。あの、久留美、今どこにいますか」

 まだ十分に呼吸が整っていないけど、わたしは真っ先に、一番知りたいことを訊いた。

「あぁ、えっと……久留美のこと、学校で聞いたの?」

「まあ、そんな所です。詳しいことはまだ聞いてないですけど……」

 とっさに誤魔化した。学校側から生徒への説明はまだない。でも、この母親の様子だと、教室に写真がばらまかれたことはまだ知らないみたいだ。こんなことを言ったら、とてつもないショックを受けるかもしれない。

「昨日、久留美の帰りがやけに遅くて、スマホにも繋がらないから心配していたのよ。そしたら夜になって、病院から連絡があって……久留美が、体をボロボロにされた状態で、搬送されたって……」

「…………!」

「検査の結果、大ごとになるような異常はなかったけど、メンタルケアは担当の先生がすでに帰宅された後だったから、また後日検査するってことで、今は、自分の部屋にいるわ……」

「そのまま入院しなかったんですか?」

「……男のお医者さんを目にした途端、悲鳴を上げて暴れ出したの。よほど、男の人への強い恐怖を植え付けられたんだろうって……だから、ひとまず自宅で、私だけで面倒を見ることになったの」

 久留美が、そこまで怯えるほどの何かをされた……駄目だ、これ以上のことはきっと、本人の口から語らせてはならない。ただでさえ壊れかけている久留美の心を、さらに追いつめかねない。

 でも、ひとりにするわけにもいかない。わたしは……わたしだけは、そばにいてあげないと。

「あの、久留美に会わせてもらえませんか。少しでも話がしたいんです」

「え、でも……」

「お願いします!」

 わたしは深々と頭を下げた。誰かのために頭を下げるなんて、初めての経験だ。

 久留美の母親はまだ戸惑っていたけれど、最終的には、わたしが家に入るのを許してくれた。スリッパを借りて家に上がると、二階にある久留美の自室に向かった。一昨日泊まったときも、その部屋で久留美と一緒に寝たのだ。……布団は別々だったけど。

 部屋の前まで来て、ドアをノックする。

「久留美? 杏奈だけど……部屋の中に入っていい?」

 呼びかけに応じる気配はない。寝ているのかもしれないけれど、どちらにしても入らないわけにはいかなかった。わたしはゆっくりとドアを開ける……。

 久留美はベッドの上にいた。毛布に頭から包まって、うずくまっている。閉めきったカーテンから透き通る外光が、その姿に影を落としている。

「久留美……」

 その呼びかけに、ようやく久留美は応じてこっちを向いた。

 薄暗い室内でも分かるほど、彼女の顔はひどく青ざめ、絆創膏の貼られた頬も少しこけたように見える。潤いの減った唇を震わせながら開く。

「なんで、ここに……」

「久留美のこと聞いて、いても立ってもいられなくて……」

「ああ……写真でも、ばらまかれた?」

 びくり、と肩が跳ねた。なぜ、学校に来ていない彼女が、そのことを知っている? すでに誰かが知らせたのだろうか。……いや。

「あの連中、わたしを殴っている最中、スマホで何度もフラッシュをたいていたから……きっと、学校とかでばらまくために、撮っていたんだろうって思った……たぶん、ネットにも上がってるよね」

「…………」

「ご丁寧にあいつら、わたしのスマホをメモリごと壊して、わたしと一緒に道端に捨てたんだよ。たぶん、あの音声データも、なくなっちゃったと思う……」

「…………」

「あいつら、カッター使って切りつけてきたんだよ。あれ想像以上に痛くて……」

「……どうしよう」

 うわ言のように、自分の身に降りかかった出来事を滔々(とうとう)と語る久留美を見ているうちに、名状しがたい感情が募っていく。

 傷ついた彼女に、なんて声をかけたらいいのか。

 大丈夫? どう見ても大丈夫なわけがない。

 大変だったね。なんだそれ、他人事みたいに。

 元気出しなよ。こんなことがあって元気になどなれない。

 ……ああ、駄目だ。本当にどうしよう。

「今の久留美に、なんて言ってあげたらいいのか、全然分からない……」

「…………」

 毛布が少しずり落ちて、久留美の顔がはっきりと見えた。

「なんで、あんたが泣いてるの……」

 久留美に言われて気づいた。わたし、泣いているのか。久留美を可哀想だと思ったからか。

 ううん、違う。うまく言えないけど、たぶんそうじゃない。

「ごめんね……せっかくここまで、あんたがうまくやってくれたのに」

「そんな、そんなこと……」

「わたしだって、傷つく覚悟はしてた。あんたを守るためだったら、傷ついてもいいって、思ってた。それなのに……」

「やめて、久留美……」

「ここまでされるなんて、普通思わないじゃん。いつ、女の子の大事なところまで、傷つけられるんじゃないかって、もう、怖くて……」

 聞きたくない。そんなこと。

 見たくない。そんな顔。

 でも見ずには、聞かずにはいられなかった。

「どうしよう、杏奈ぁ……!」

 久留美はベッドから降りて、ふらふらとした足取りで近づいて、そして……。

「うっ、うぅっ、うぅぁうぅ……!」

 わたしの胸にしがみついて、泣きじゃくり始めた。

 制服のシャツが濡れる。生温かいものが触れている。少し力を込めたら崩れそうな、脆いそれを、わたしはそっと抱きしめた。

 何かがこみ上げてくる。久留美の嗚咽(おえつ)が耳に入るごとに、こう、むくむくと。

 昔に使われていた、休火山ってやつみたいだ。長い間に渡って噴火していない火山を、便宜的にそう呼んでいた時代があったらしい。しかし、休火山は全く噴火しないわけじゃない。火口の下にはマグマだまりがあって、その下には膨大なエネルギーを孕むマグマがあって、次にいつ噴き出てもおかしくない状況にある。

「あっ……あっ……はぁっ……」

 わたしの中にもきっと、マグマのようなものがある。怒りとか、悲しみとか、そんな生易しい言葉で片づけられないほどの、とてつもない感情が……それが今、一気に噴き出そうとしている。久留美という存在を、起爆剤にして。

「あ、ああ、あああっ……!」

 胸の中に愛する人を抱いて、その華奢で儚い体躯(たいく)を全身で受け止めて、与えられた痛みの全てを感じ取ったとき、わたしは叫んでいた。

「ああああああああああ……!!」

 わたしは知らなかった。自分の中に、これほど大きなマグマがあったなんて。

 止められない。止まるつもりもない。一度噴き出したマグマを止める方法などありはしない。だったらいっそ、このマグマですべてを覆い、焼き尽くすしかない。

 慟哭(どうこく)にも似た叫びを放ちながら、わたしは誓った。

『ハレーション(Halation)』写真の白くぼやける現象。転じて、派生して他に影響を及ぼすこと。副作用。


やっと二人が互いを名前で呼び合うようになりましたが、こんな形で呼ぶようになろうとは……。いつか自作品でこういうシーンを書きたくて、ずっと温めていましたが、ようやく日の目を見る時が来ました。こういう、胸に刺さるような“叫び”の場面を……。

前回もそうでしたが、杏奈と久留美の二人、モノローグで全く同じフレーズが出ています。二人は意識しないうちに、心が通じ合っている模様です。そんな二人に襲いかかった最大の危機。逆襲に転じた二人がどんな結末を迎えるのか、最後まで見守っていてください。

またしばらくご無沙汰になるとは思いますが、次が第8章ラストです。お楽しみに。


(追記)一部の読者から、不快感を抱かれたという指摘をいただきました。不快感を与えたことについては陳謝いたします。修正を試みますが、作品の方向性を大きく変えないように、一部の表現を変更して、ストーリーの大枠は維持します。この作品は暴力を肯定・推奨するものでもなければ、軽視するものでも断じてありません。そのような行為は罰せられて然るべきという考えのもと、執筆された作品であることをご理解ください。私自身も書いている最中は非常につらい気持ちになりましたが、最後には必ずこの状況をひっくり返してやると思いながら書きました。

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