表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第8話 グラデュエーション
41/48

8-3 グラデーション

今回から、杏奈と久留美、両方の視点から展開します。二人が互いをどのように思っているのか、じっくりお楽しみください。


 今日も今日とて、わたしは朝からいじめの標的にされている。もはや、教室で自分の席に座って早々に、幼稚な嫌がらせを受けることが、保坂(ほさか)杏奈(あんな)のルーティーンになっている。

 机にはまた油性マジックで『ブス』とか『キモダサビッチ』とか『さっさと死ねクソ女』とか、語彙力のかけらもない暴言が書き殴られている。落書きをアルコールで落とそうとすれば、周りでひそひそと小声が聞こえてくる。机の中にも、ゴミ箱からわざわざ移したのか、ティッシュや飲み物のラベルなどのゴミが入れられていた。

 そうやって他人を貶めるのに費やす時間を勉強に回せばいいものを……とは思うが、そんな正論を聞き入れるような人なら、こんなバカをやらかさないわけであって。

「よお、今日も保坂は机きったねぇなぁ。あーあ、不潔不潔」

 そして性懲りもなく絡んでくる、いじめの主犯格、呉田(くれた)。相変わらず後ろには数人の取り巻きを連れている。暇なのか、こいつら。

 いちいち相手にする必要はない。わたしは呉田たちを無視して、机の中に入れられていたゴミを抱えて、教室のゴミ箱に捨てに行った。

「うっわ、あいつ机にゴミ溜めてやがる」

「マジ女の子としてありえなくない?」

「ぜってー机の中クサくなってるって、うひー、近づかない方がいいぜぇ」

 だったら今すぐ立ち去ればいいものを、なぜまだわたしの席の近くに(たむろ)しているのか。こう言いだすことは予想していたけど、いちいち突っ込むのも面倒になるくらい、奴らは隙あらばわたしへの中傷に利用してくる。

 席に戻ろうとするわたしの前に、呉田たちが立ち塞がっている。

「お前さあ、なんか言うことないわけ? ゴミの臭いで周りが迷惑してんだからさあ、土下座して謝って何でもしますとか言うべきなんじゃねぇの?」

「邪魔」

 言うことないのかと言われたから、言いたいことを言った。想定外の冷たい返答に、思わず固まった呉田たちの脇をすり抜けて、わたしは席につく。まだ落書きが残っているから、ホームルームが始まるまでに、ある程度綺麗にしないと。

 とまあ、こっちはなるべく清潔であろうと努力しているのに、そんな事にも気づかない分からず屋の呉田は、逆上した。

「テメェいい加減にしろよ、ナメてんのか、ああん!?」

 不良の本性丸出しの脅し文句とともに、またしてもわたしに掴みかかろうとした時だ。

 ガタンッ!!

 ……一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 音をたてて倒れたのは、わたしの席の机だった。横に倒されたから、わたしに実害はなかったけど。もちろん机がひとりでに倒れるわけがない。誰かが蹴り倒したのだ。それはわたしでもなければ、同じように驚いて目を丸くしている呉田たちでもない。

 少し遅れて教室に入ってきた、羽沢(はざわ)久留美(くるみ)だった。

 いつもなら、いじめに加担する振りをして、やんわりといじめを妨害している久留美が、なぜか無言で近づき、無言でわたしの机を蹴り倒したのだ。……なかなか豪快なことをしますね。

 さすがのわたしもびっくりして、こっちを睨んでいる久留美を見た。久留美は口元をきゅっと結んで、少し頬を赤らめ、泣きそうな目をわたしに向けている。まあつまり、怒っているのだ。

「…………意趣返し、だから」

「ん?」

「こんなの、ちょっとした意趣返しだから、あんたに奪われたもの、これで全部取り戻されたなんて、思わないで!」

 そう言うとプイとそっぽを向いて、久留美は自分の席に向かっていく。その足取りは焦っているようにも、苛立っているようにも見えた。

 何が起きたのか分からず、呉田たちも他のクラスメイトも呆然としていた。そして呆然としている間に、ホームルームの時刻を迎えた。呉田たちは慌てて席に戻り、わたしは急いで机を起こした。まったくもう、机に罪はないのに。

 それにしても、意趣返しか……久留美にしては難しい言葉を知っている(失礼)。何のことを言いたいのか、わたしには察しがついていた。

 昨日わたしは、久留美と二人で話をした。久留美がなぜ、いじめに加担する振りをして、わたしを助けているのか。なぜわたしが、これほど陰湿ないじめを受けても泣かずにいるのか。お互いの本音と本心を打ち明け合った。そしてわたしは……久留美にキスをした。

 こう聞くとかなり飛躍しているように見えるだろうが、わたしはこれより前から、久留美のことが気になって色々と調べたのだ。そして久留美の、不器用ながら真剣な優しさを知って、一気にわたしは心惹かれていった。ありていに言えば、好きになったのだ。そして昨日、久留美が自分の弱さを打ち明け、自分の情けなさに泣きそうになるその姿を見て、なんというか、こう……きゅんとしたのだ。で、ほとんど衝動的にキスしてしまった。

 まあ、あの怒りようを見るに、恐らくあれが久留美にとって、初めてのキスだったのだろう。わたしだって初めてだけど。女の子にとって大事なファーストキスを、同性のクラスメイトに、何の前触れもなく奪われたのだから、あれだけ怒るのも無理はない。あの後、呆然と立ち尽くす久留美を置いて、わたしだけ先に帰ってしまったけど……やっぱりまずかったと、少しだけ反省した。

 でも、不思議と後悔はしていない。わたし自身の初めてを、初めて好きになった人に与えられたことも、好きな人の唇の感触を、誰よりも早く知れたことも……何もかもがわたしの中で、ささやかな優越感となっていた。

 もう、今さらいじめなんて怖くない。好きな人が近くにいる、その事実だけで、わたしはどこまでも心が軽くなれた。


  * * *


 あれから一日経っても、まだ苛立ちは治まりそうにない。

 昨日は最悪だった。わたしがずっと必死に隠してきた秘密を、あっさりと見破られ、共感を得られたと思ったらキスをされて、あまつさえそのせいで心を乱された結果、宿題は手につかないし友人とのラインでの会話も上手くいかないし、寝坊して危うく遅刻しかけるし散々だ。……いや、最後は関係ないかもしれないけど。

 とにかく、わたしにとって初めてのキスを、あんな形で、あんな奴に奪われたことが、とにかく無性に腹が立って仕方ない。あいつは何やらわたしに気があるみたいだけど、だからって、いきなりキスするやつがあるか。友達ですらない人に突然キスされて、それで許されるのはマンガの中のイケメンだけだ。あいつはまあまあ可愛いけど、女じゃどうしようもない。

「くっそ、ムシャクシャする……なんであんな奴のせいで、こっちがぐるぐるしなきゃなんないのよ!」

 ひどいことに、キスしたときのあいつの唇の感触は、バッチリ残っている。あんなの、人生で一度味わえば幸運だと言えるレベルだし、忘れようと思っても振り払えるものじゃない。そのせいで未だに引きずっている。

 ちなみに、今朝は遅刻しそうになってお弁当を忘れてしまったので、仕方なく適当に昼食を手に入れるべく、購買に向かっている。悪いことに、お弁当を忘れたことに気づいたのがついさっき、友人たちと一緒に食べようとカバンを探ったときなのだ。購買での争奪戦の凄まじさはわたしも知っているから、正直、今から行っても手に入れられる保証はない。

 お昼どき、しかもこれから食べようというタイミングだから、空腹はピークだった。おかげでさらにイライラが強まっている。

「あーもう、ホント腹立つ! さっさとパンでも食べて忘れてやる!」

 もちろんパンを食べたくらいで、今さら忘れられるとは思えないけど、今はとにかく何か食べないと気がすまない。

 で、購買に来てみると、とうに争奪戦は終わっていて、集まっている生徒はまばらだった。もちろんほとんどの食べ物が取られていて、人気のないおにぎりやサラダが、申し訳程度に残っていた。底の見える陳列台が、争奪戦の熾烈さを物語っているようだ。

「パンが、ない……」

 予想はしていたが、あまりに手遅れだった。目当てのベーコンエピだけでなく、およそパンの仲間と呼べるものは全滅していた。食べ盛りの高校生にとって、パンは魅力的な食べ物なのだ。

 厳しい現実に悄然としながらも、つらい空腹に耐えられないわたしは、仕方なくおにぎり一個とサラダを注文した。ああ、ひもじい。

「よかったら食べる?」

 そんな憐れなわたしに、手を差し伸べてくれる優しい人が現れた。視界の端には、目当てにしていたベーコンエピ。神か仏ですか、と心を踊らせながら振り向いた。

 ……保坂杏奈だった。神というか、疫病神だ。

「朝に登校する前に、コンビニで買ったやつだけど、もしよかったら」

「…………なんであんたがここに」

 昨日、わたしの精神を派手に揺さぶったこの女……お昼になるといつも、気がついたら姿を消していて、教室以外の所で昼ご飯を食べている。わたしはこいつが教室からいなくなった、その後に教室を出たから、こいつがわたしの行き先など知っているはずがない。だから、普通に考えればただの偶然なんだけど……。

 この保坂のことだから、本当に偶然かどうか疑わしい。

「お昼を食べる場所を探していたら、羽沢さんが購買に向かっていくところが見えたから」

「わざわざ後をつけてパンを渡そうと思ったわけ?」

「この時間はほとんど残ってないから……羽沢さんの好きなパンも、だいたいいつも購買が開いて十分くらいで完売するし」

 なんでわたしがパン好きだって知っているんだろう……いつもお昼はお弁当なのに。それに、こいつはこのエピを朝に買ったと言っていたが、どんぴしゃでわたしがほしいと思っていたものを、このタイミングで差し出してくるものだから、本当かどうか怪しくなる。

 とはいえ、こいつの妙な言動は今さらだし、空腹で困っていたからありがたいけど。

「……まあ、くれるって言うんならもらうわ」

「やった」

 保坂は満面の笑みでエピを手渡す。そのセリフと笑顔は本来わたしがするべきなのだが。

「というか、あんたはお昼が減っちゃうけどいいの?」

「うん、これひとつあれば充分だから」

 そう言って、両手で大事に持ちながらわたしに見せたものは、クルミパンだった。それをわたしの前で美味そうに頬張る保坂。くるみ、パン……いや、まさかね。

 そろそろ関わるのも怖くなってきたので、わたしはそそくさとその場を離れた。

 すっかりやることがストーカーまがいになってきたけど、保坂がどうしてここまでわたしを好きなのか、実のところよく分からない。昨日の話によれば、中学時代のことなどを調べるうちに、わたしへの興味が高じて好きになったということだったけど……なおさら理解できない。わたしの弱さと情けなさを知って、好意を抱くことなんてあり得るだろうか。

 ―――――弱い人は嫌いじゃないよ。

 保坂のあの言葉を思い出す。あいつはきっと、わたしが弱い人間だと知っても、幻滅するようなやつじゃないのだろう。でもそれと、恋愛感情を抱くかどうかは別だ。やっぱり分からない。

 だが、一方でホッとしている自分もいる。いじめを妨害するためとはいえ、わたしも保坂に、結構意地悪なことをしてきたから、嫌われる可能性は十分にあった。面と向かって話して、少なくとも保坂がわたしを嫌っていないと分かって、ちょっと安心した。もちろん心配事は絶えないけど。

 ……要するに、わたしは保坂に嫌われるのが怖いのだ。どうでもいいと思っていたはずなのに。

「こんな感じでどう?」

「うーん、ちょっと斜めってるかな。そうそう、右もうちょっと上げて」

 教室に向かう途中の階段の踊り場で、二人組の男女が何やら相談している。掲示板に文化祭のポスターを貼ろうとしているらしい。

 文化祭か……来月の末あたりに行なう予定だと聞いているけど、いじめの問題が解決できていない状況で、果たして開催できるのだろうか。二年生だから、うちのクラスでも何か出し物をやるのだろうけど、はっきり言って今のままでは、やる気にはなれない。

 学校側が、うちのクラスのいじめをどこまで把握しているか、詳しくは知らない。だけど、文化祭の開催の可否は学校が決めるのだから、たとえ把握していても、大きな問題だと考えていない可能性が高い。まったく、この生徒にしてこの学校あり、てか。

 なんてことを考えながら、わたしはエピをちぎって口に放りながら、階段を上がっていく。二年生の教室がある階に着いて、そのまま真っすぐ教室に戻ろうと思ったときだ。

 廊下の一番奥にある、美術準備室。そこに入っていく人影が見えた。横顔が一瞬見えただけだったけど、あれはたぶん呉田だ。もうすぐ昼休みが終わろうというのに、あんな所に何の用だろう。美術準備室を使う部活は美術部くらいで、呉田は確か美術部員じゃないはずだが。

「……ろくでもない悪だくみでもするつもり?」

 わたしにとって呉田への信頼はその程度なのだ。また保坂への陰湿な嫌がらせをするつもりかもしれない……そう思ったら居ても立ってもいられず、わたしは美術準備室のドアを少し開けて、中の様子を窺った。

 カーテンを閉め切った、薄暗く狭い部屋の中で、呉田は誰かと電話していた。

「……そういうわけだから、頼むぜ、お前ら。適当なところに拉致ったら、後は好き放題いたぶっていいぞ」

 これだけでもすでに物騒な内容の会話だ。呉田には学校の外に悪い友人がいると、噂に聞いたことはあったが、どうやらその友人たちに誰かを拉致させて、よからぬ行為に及ぶつもりらしい。

「けど、後始末はちゃんとやれよ。俺は立ち会わねぇけど、お前らがポカやらかしたら、俺にまで火の粉が飛ぶかもしれねぇんだからよ。大丈夫だって。お前らとあの女は何の関係もない、痕跡さえ残さなきゃたどり着かれやしねぇよ」

 わたしにバッチリ聞かれている時点で、痕跡を残しまくっているのだが……呉田のことだから、どうせ自分の手は汚さないと思っていたが、案の定だ。何をさせるつもりか知らないが、拉致は立派な犯罪だし、そそのかした呉田だって同罪になる。教唆ってやつだ。

 それにしても、女か……察するに、強姦の真似事といったところか。さすがにそこまでリスクを冒すとも思えないが。

「とにかく、あの女にしっかり教え込んでやらねぇとな。あの生意気なクソ女、この俺がいくらいたぶってやっても、まるで言うことを聞きやしねぇ。いっぺん、俺みたいな強い男に歯向かったらどうなるか、思い知らせる必要がある。ああ、教育だよ、教育」

「…………」

「名前? ああ、保坂杏奈ってやつだ」

 …………!

 すっと血の気が引いて、総毛立った。呼吸が止まりそうになった。

 嫌な予感はしていた。保坂は呉田たちの、何でも思いどおりになるという幻想を、ぶち壊すと言っていた。だから何をされても泣かないし、何を言われても動じない。そうして逆に呉田たちの方を精神的に追い詰めるつもりでいた。だが、何ひとつ思いどおりにならず、苛立ちの募った呉田が取った行動は、いじめよりさらに過激なものだった。

 あいつの……保坂の、いじめに負けないという強い意思が、呉田という馬鹿をダークサイドに落としたのだ。皮肉なことに。

 どうしたらいい。こんな悪辣な企みを知ってしまったわたしは、どうすればいい? 保坂がどうなろうと、本来ならわたしには関係ない。そもそもわたしは、対外的には保坂をいじめている立場だ。ここで呉田を糾弾したり、保坂を擁護するような態度を見せたら、今のクラスにわたしの居場所はなくなるかもしれない。今度こそ、本当にひとりぼっちに……。

 ―――――あなたが孤独に苛まれているなら、わたしがそばにいてあげますから。

 保坂が手紙に書いていた言葉を、ハッと思い出す。

 違う、ひとりぼっちになんかならない。保坂がきっと、わたしをひとりにしない。でも、彼女を救えなければ、わたしは後悔に押し潰され、誰にも相談できないまま孤独になる。わたしが最も恐れている結果になる。

 だったら、もう答えは出ているはずだ。

 わたしは駆け足で美術準備室の前から離れた。弱い自分に甘えてなんていられない。今度こそ真っ当な努力で、保坂をちゃんと助けなきゃ……!


  * * *


 なかなか平穏な放課後はやってこない。うんざりすることの繰り返しだ。

 下駄箱からわたしの外靴が無くなっていた。いま履いている上履きは間違いなく自分のものだから、別の下駄箱に間違って入れた可能性はない。普通は同じところに入れるから。どうやら別の誰かが持っていったらしい。誰かが間違って履いていったなら、その人の上履きがあるはずだが、それも無くて空っぽだった。ということは、結論はひとつ。

「誰か靴を隠しやがったな……」

 それからわたしが自分の靴を見つけるまで、さほど時間を要さなかった。嫌がらせなら別の下駄箱に隠す可能性もあったが、無関係の人の下駄箱に隠すのは、いじめがバレるリスクがあるし、いじめたい相手の靴を自分の下駄箱に入れるのは、いじめる側からすれば不本意に違いない。でも学校の中に隠しても、見つかるリスクは避けられない。外靴を持って校舎内をうろつくだけでも、かなり目立つからだ。つまり、隠し場所は校舎の外だ。

 そして案の定、外の水場で靴は見つかった。バケツに溜められた水の中に、あちこち切り刻まれた状態で沈められていた。

 …………。

 これって器物損壊だよなぁ。警察が出動してもいい案件だよなぁ。まったく、こんなことでわたしが泣いて苦しむわけ……あ、嘘です。ちょっと泣きそうになった。

 誰がやったか分からない以上、犯人に弁償させるのは現実的じゃない。こんな状態の靴を履いて帰るのは厳しい。内履きで外を歩くのは少々目立つだろうが、今さら好奇の視線にさらされてもやむを得ないし、ボロボロの外靴よりは変な誤解を招かないだろう。

 というわけで、わたしはボロボロの外靴を、お昼用のパンを入れていたレジ袋に入れて、カバンに仕舞った。昨今はレジ袋が有料化されて、なかなか使う機会がないけれど、あるとこういう時に役立つのだ。……こういう時、というのが滅多にないのだが。

「つまり、伝統的なイベントだけじゃなくて、もうちょっと目新しいものも欲しいわけ。分かる?」

 何やら話し声が聞こえてきた。すぐそばの生徒会室の窓が、半分だけ開けられていたのだ。空気の入れ替えでも開いているのだろうが、大事な会議の内容がダダ洩れでいいのか。

「毎年やってるミスコンやカプコン、もうちょっと趣向を凝らしてみる?」

「女装男子や男装女子の枠を作るとか」

「むしろカプコン、男女のペアっていう縛り無くさない?」

「それって誰得なのかいまいち分かんないんだけど……」

 どうやら文化祭でやるミスコンテストやカップルコンテストの話をしているらしい。

 文化祭か……来月の末にやると聞いているけど、いじめの問題が残っている状態で、果たして無事に開催できるのだろうか。たぶんうちのクラスでも何か出し物をするのだろうが、現在進行形でいじめられているわたしは、とても主体的に参加できそうにない。

 このいじめ、いつになったら終わるのだろうか。わたしだって、文化祭の催し物を普通に楽しみたいのに、これではとても望めない。今まではじっと耐えて泣き言もいわなかったが、そろそろこっちも動くべきだろうか。

 そんな事をつらつら考えながら、わたしは内履きのまま学校を後にした。意外と視線を感じない。元からわたしは目立たない存在だし、足元に注意が向く人は少ないようだ。

 帰ったら、代わりの外靴を探さないと……母親に見つかったら色々面倒だし、切り刻まれた靴はこっそり捨てておくとして、別の靴が見つかるだろうか。わたしのお小遣いで買うには少々高いし、どうしたらいいものか……。

 なんてことを考えていると、進行方向を塞ぐように人影が現れた。

 あまりに予想外で驚いた。それは久留美だった。

「羽沢さん……!」

 まさか彼女の方からわたしに会いにくるなんて思わなくて、ちょっと嬉しくなったけど、当人はずいぶんと固い真顔でわたしを見ている。何やら真剣な面持ちだ。

「保坂、こっち来て」

 言うが早いか、久留美はわたしの手をとって、わたしの帰り道とは違う方向に走り出した。裏道に入ってもすぐに通り抜けていく。どこに連れていくつもりだろうか。

 なんだか、この間と逆だ……あの時は久留美の友人の米谷さんを、わたしがやんわりと連れ去って路地裏で尋問したのだ。米谷さんはきっと、わたしに何をされるか不安で、若干でも恐怖を覚えたかもしれない。

 でもわたしは、不思議と不安も恐怖も感じない。わたしの手を引いているのが、久留美だからかな。

 見たことのない道を小走りで通っていき、辿り着いた場所は、普通の民家だった。ごく平凡な二階建ての家屋、切り揃えられた丸太を並べた塀に囲まれた、ごく狭い庭。そして玄関に続く門には表札がかかっている。『羽沢』……と。

「ここ、羽沢さんのうち?」

「そうよ。とにかく入って」

 なおも久留美に手を引かれて、わたしは久留美の家の中へと入っていった。同級生の家にお邪魔するなんて、何年ぶりだろうか……もう記憶にも残っていない。

 わたしが家の中に入ってすぐに、久留美は急ぐように玄関のドアを閉めた。

「ふう……ここならとりあえず安心ね」

「どうしたの? 安心って何が……」

「こうでもしないと、どこで聞きつけられるか分からないのよ。学校の近くで拉致するのは避けるだろうし、ひとの家の中なら下手に踏み込めないから」

 ……今、久留美の口から、物騒な言葉が出なかったか?

「拉致って、どういうこと……?」

 わたしの問いかけに、久留美は顔をしかめながら答えた。

「……呉田のやつ、外にいる悪い友人たちに頼んで、あんたを拉致して襲わせようとしていたのよ。わたし、呉田が電話でその話をしていたの、たまたま目撃しちゃって……」

 そうきたか……。

 呆れるしかない。呉田の性根の悪さはなんとなく気づいていたが、わたしが思い通りになってくれないことに痺れをきらし、ついに暴走を始めたか。具体的に何をするつもりだったか知らないが、平然と人を傷つけて恥じないような人間だ、犯罪まがいのことだって平気でやるだろう。いよいよ救いようがなくなってきたな。

「はあ……」思わずため息が出る。「呉田ったら、手段を選ばないっていうか、そこまでしてわたしを屈服させたいのかなぁ。きっと自分でも、もう訳が分からなくなっているんだね」

「呑気にしてる場合? わたしが偶然目撃しなかったら、あんた今ごろ捕まって、どんな目に遭わされたか分からないんだよ?」

「危機感は持ってるよ。ただ、呉田が憐れだなぁ、って思って」

「その言い方がすでに呑気だって言ってるのよ……まあわたしも思ったけどさ」

 さすがに今回ばかりは、久留美も呉田の行動に目をつぶるわけにいかなかったようだ。だからこそこうして、わたしを助けてくれたわけだし……。

 おっと? これは少し違和感があるかもしれない。

「つまり羽沢さんは、わたしを助けるためにここに連れてきたんだね。自分の意思で」

「……まあ、そういうことになるのかしら」

 不機嫌そうに目を逸らしたけど、久留美は認めた。それは大きな変化だった。

 今までもわたしを助けてくれたけど、それは呉田や周りの人たちのやり方が気に入らなくて妨害し、結果的にそうなっていただけで、その気はなかったと久留美は言っていた。でも今回は違う……ごまかしつつ妨害するのではなく、正面から止めにかかっていた。呉田のやり方に明らかに背き、助けるつもりで助けていた。わたしがどうなっても構わないと思わなかった。

 もちろん、あからさまに呉田の邪魔をしたわけじゃない。学校の中でわたしに、呉田の企みを伝えたら、久留美が裏切ったことがすぐ呉田に知られる。そのリスクは計り知れない。だから下校途中を狙ってわたしを連れ去り、誰にも見られる恐れがない、自分の家の中で打ち明けたのだ。

 自分の安全を考えれば、確かにこれは最善策だと言える。久留美がたまたま目撃したのなら、誰が拉致計画の邪魔をしたのか、呉田には想像もつかないだろう。それでも、久留美にとって一番リスクが低いのは、そのまま無視して関わりを避けることだ。そうしなかったのは……。

「呉田を敵に回すかもしれなくても、とにかくわたしを助けたかった……それって羽沢さんの中で、何か変化があったってことなのかな」

「分析するな、気色悪い。今まではわたしの手の届く範囲だったから、いくらでも妨害することはできたけど、学校の外じゃ難しいじゃない。それに、あいつは今回、保坂を本気で痛めつけて、(はずかし)めるつもりでもいたから……そんなの、女として見過ごせない」

「それだけ?」

 わたしは念を押すように訊いた。久留美の表情が少し強張る。

 もちろん、久留美がわたしを助ける理由としては十分だ。でもわたしはどうしても、それだけじゃないように思える。

 人間はそう簡単に変われない。だけど、簡単に変われるきっかけがあれば、話は別だ。

 久留美はしばらく言葉を詰まらせていた。やがて、重い口を開く。

「……あんたみたいに、なりたかった」

「…………」

「あんたみたいにただ純粋に、正しいと思ったことを貫ける、強い人でいたかった。ここであんたを助けないとわたし、一生後悔することになりそうだったから……」

 ややうつむいて、沈鬱な表情を浮かべている久留美。昨日の出来事が、久留美にも少なからず影響を与えていたらしい。わたしは決して強いわけじゃないけど、久留美がいてくれるから強い自分でいられた。久留美はどうだろうか。

 顔を上げてわたしの目を見つめ、久留美は訴えかけるように告げる。

「わたしを、ひとりにさせないんでしょ?」

 その言葉に、胸が跳ねた。この間、わたしが久留美に宛てた手紙のことを、彼女は言っている。もちろんあの手紙は本心だけど、それがちゃんと久留美に伝わっていたと分かって、じんと来るものがあった。

 だからわたしは、自信をもって答えた。

「うん、もちろん……!」

「…………!」

 久留美の表情が少し和らいで見えた気がした。それでも心配事は消えないみたいだけど。

「でも、これからが大変になってくるんだろうなぁ。明日あたり、拉致計画を邪魔した人が誰か、呉田が探し始めるだろうし……」

「そうだね。電話をしていたのが学校内なら、その計画を聞きつけたのも学校の関係者で、しかもわたしがいじめに遭っていることを知っていて、そのうえでわたしに肩入れしたことになるから……羽沢さんが裏切ったと知られるのも、きっと時間の問題だね」

「まあ、こうなることは覚悟していたけどさ……いざこうして問題のど真ん中に入ると、恐怖を感じるどころじゃないわね」

「わたしはだいぶ前からその状態にあるんだけど」

「みなまで言うな……」久留美は肩を落とす。「わたしだって、あんたほどじゃないけど、周りから冷たく扱われてきつい思いをしているし、気持ちは分からなくないもの。それでも、保坂に色々ひどいことをしてきたのは事実だし、何かしら罰を受けても仕方ないとは思ってるよ」

「ふうん……じゃあ、意外となんとかなるかもね」

「え?」

 わたしのひと言に、久留美は眉をひそめる。確かに久留美の置かれている状況は、あまり生易しいものではない。それでもわたしは楽観視できた。

「羽沢さんはこの機会に、呉田たちときっぱり縁を切ろう。それと同時に、呉田たちのしてきたことにも責任をとらせる」

「それはつまり……うわべだけいじめに加担することも、もうやめるってこと?」

「うん。いじめに加わるんじゃなく、いじめから守る側に立つ。こっそりそうするんじゃなく、誰が見ても明らかに、わたしを守ろうとしていると分かるように」

 いじめの被害者にとって最も怖いのは、味方がひとりもいないという状況だ。誰か一人でも自分に味方してくれる人がいるだけで、その人は心が折れずにすむ。わたしにとって、久留美がそうであったように。そして、被害者に味方がいるという状況は、加害者に対するブレーキにもなる。呉田がこの程度でいじめをやめるとは思えないが、他の生徒には効果を発揮するだろう。それは逆に、呉田を精神的に追い込むことに繋がる。

 わたしは今の状況を早くなんとかしたい。そのためには、久留美が自分の立場を考え直すことが、何より大事になってくる。

「わたしに、今のやり方を変えろってことね……そんなの、わたしにできるかしら」

 久留美は意志の弱さを自覚している。だから今まで、半端な立ち位置に甘んじるしかなかった。でも、わたしはこう言い切った。

「できるよ」

「!」

「羽沢さんはきっと、今までだってわたしを助けたいと思っていた。でもその勇気がなくて、いじめに加わるふりをしてかばうという、面倒な方法をとるしかなかった。そのせいでいつの間にか、自分の本心さえもごまかすようになったんだと思う」

「どこまでわたしの気持ちを分析すれば気がすむの……」

「聞いて、羽沢さん」

 若干引き気味になっている久留美に、わたしは続けて言った。

「今、羽沢さんは改めて気づいたはず。本当は保坂杏奈を助けたいっていう、自分の本心に」

「…………」

「人間はそう簡単に変われない。でも、今まで見えてなかったものが見えたら、簡単に変われる」

 顔を上げた久留美と、目が合った。その目をじっと見つめて、わたしは告げる。

「卒業しよう。いじめっ子を」

 久留美はきゅっと口を結び、ごくりとつばを飲み込んだ。それでもわたしとぶつかった視線を反らすことはなく、真っすぐに見つめ続けた。

 そして、腹をくくったように、わたしの手をとって応えた。

「わたしは、もう絶対に、あなたを傷つけない。どんな手を使っても、あなたを守る」

「……うん、楽しみ」

 ようやくわたし達の間に、心からの笑顔が生まれた。

 もうわたし達の関係は、いじめの被害者と加害者という、忌まわしいものではなくなっていた。もっと温かく、強いものに、変わりつつあったのだ。


 でもこの決意が、さらなる試練と、新たな悲劇の引き金になることに、このときのわたし達は気づいていなかった。

『グラデーション(Gradation)』漸近的変化。


何やら不穏な一文で終わっていますが、とりあえず杏奈と久留美の距離は縮まったようです。

実際のいじめが、このようにエスカレートして明らかな犯罪に繋がるケースを、私はまだ知りません。しかしこうなる可能性は決して低くないと思われます。甘く見るわけにはいきません。

いじめっ子といじめられっ子の関係から、いかにして卒業するのか、次回からも二人を見守っていてください。


ただし、次回は表現が少し過激になるかもしれません。青少年は注意して閲読ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ