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面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第8話 グラデュエーション
40/48

8-2 フラストレーション

大変お待たせしました。第8章、ようやく第2話です。

今回はもう一人のヒロイン、久留美の視点で物語を展開します。

相変わらずいじめの描写は難しいです。油断するとすぐ、いじめに反抗するような流れを作ってしまうので……まあ、今回も5回に収める予定なので、少しの辛抱と思って頑張ります。


 真っ当な努力をしないやつは、駄目な人間になるだけだ。

 それがお祖父ちゃんの教えだった。そのお祖父ちゃんは、わたしが小五の時に亡くなったけど、その教えはわたしの両親にも受け継がれて、仕事では結構稼いでいるという。おかげでわたしは、特に不自由を感じることなく成長できた。

 真っ当な努力というのが何なのか、具体的にはよく分からなかったけど、とりあえず両親のやり方を真似ればいいと思っていた。でも、父親が仕事にのめり込んで、わたしの世話を母親に押しつけるようになった頃、母親が苛立ち紛れにこう言ったことがあった。

「家事を覚える努力もしないで、私に任せきりにしないでよ!」

 おかしいな、と子供心に思ったのを覚えている。わたしが何ひとつ不満なく過ごせているのは、両親が真っ当な努力をしているからだと信じていた。でも母親は、父親が努力をしていないと言い張った。じゃあ、父親は駄目な人間なのか、自分は駄目な人間に育てられているのかと、頭がこんがらがったものだ。

 少なくともこれだけは言えた。真っ当な努力をするのは、言うほど簡単じゃないってことだ。

 中学校に上がって、わたしはそれまでの友達と疎遠になった。そして、理由は今でも分からないけれど、同級生の誰からも相手にされなかった。誰もがわたしと関わろうとしなかった。まるで、関わらない努力をしているかのように。

 すぐに分かった。これが要するに、“真っ当でない努力”ってやつだ。つまりみんな、駄目な人間になるんだ。

 だったらわたしは、わたしだけは、真っ当な努力をしていい人間になってやる。そう心に決めたことで、わたしはかろうじて不登校にならずにすんだ。

 ……もっとも、孤立する時間が平気だったことなんて、一瞬もなかったけど。

 二年生の二学期になって、ようやくわたしを無視する空気が和らぐと、わたしは積極的に人と関わろうと腐心するようになった。これがお祖父ちゃんの言う、真っ当な努力なのだと、自分に言い聞かせながら……そうして日々を送り、気づくと三年が経っていた。

 いま、わたしのクラスではいじめが起きている。わたしが経験したものよりさらに酷く、目に見えて暴力や暴言があって、相手を傷つけようとする確固たる意思すら感じられた。相手の女子生徒を精神的にいたぶって、自分たちの世界から完全に排除したい、そんな思惑さえあるように思える。

 かつて、あの女子生徒と同じ立場にあったわたしには、そうした言動の全てが醜く見えて、虫唾が走るものだった。こいつらも、わたしをずっとシカトしていた連中と同じ……真っ当でない努力ばかりして、本当に必要な努力をサボっているだけの、正真正銘の駄目人間なのだ。たとえクラス内、学校内がそういう空気に満ちていても、そんな連中と歩調を合わせるのは御免だった。

 でも孤立するのは怖かった。その点は、いじめに便乗したり、傍観している奴らと変わらないかもしれない。だからわたしは、連中に合わせる振りだけしながら、その女子生徒に実害が及ばないようにこそこそと助けることにしていた。それがわたしにできる精一杯の、真っ当な努力だと信じて。

 でも……あんなのは想定外だ。

「…………ありがとう」

 いじめを受け、それでもなぜか平然としているこの女子生徒から、こんな言葉をかけられた。彼女に、わたしが助けたと思われたら面倒なので、いつもバレないよう悪口で隠していた。それなのに、他の生徒が見ている前で、これである。

 正直、あの時は想定外のことで取り乱してしまって、彼女に何て言い返したかよく覚えていない。でも彼女の、心を許したような眼差しが、今でも頭から離れない。とにかく調子が狂って仕方ないのだ。

 彼女の名前は保坂(ほさか)杏奈(あんな)

 この日からわたし、羽沢(はざわ)久留美(くるみ)は、この女に振り回され続けている。


「…………なによ、これ」

 わたしは朝から、机の上の惨状に頭を痛めていた。クラス内のいじめのせいで、ただでさえ気分のいい登校ができていないのに、さらに追い打ちをかけるような状況だ。ちょっと、生半可に処理するのが難しいくらい、悲惨なことになっている。

 どうなっているかというと、飴玉が五個入った透明な袋(ラッピングつき)と、かわいらしいヘアピンと、『羽沢さんへ』とご丁寧に書かれた封筒が置かれていたのだ。

「おっはよー、久留美。どうした?」

 わたしの後から教室に入ってきた友達の綾瀬(あやせ)が、わたしの机をの上を見て、苦笑した。

「うわー……久留美、めっちゃ分かりやすいアプローチされてんね」

「分かりやすすぎてたちが悪いわ……」

 気が遠くなって、わたしは目元を手で押さえた。その手の隙間から、ちらっと一人の生徒に視線を向けた。わたしの机をこんな状態にした犯人に、心当たりがあったのだ。

 その相手、保坂杏奈は、自分の机で本を読んでいた。いや、たぶんあれは読んでいる振りだ。本に顔を近づけすぎだし、たまにチラッチラッとこちらの様子を窺っている。あれじゃ、自分が置いたものにわたしがどう反応するか気になる、と自白しているようなものだ。

 とりあえず、こいつらをどう処分しようか……と考えていると。

「わっ、これ、“ミス・シルベスター”のキャンディーじゃん!」

 飴の入った袋を手に取っていた綾瀬が、驚いたように声を上げた。

「なに? 有名な飴なの?」

「そうだよ! 高校生のお財布で買えるかどうか、結構ギリギリなくらいの値段はするから」

「高いんだ、この飴……」

 しかも、一緒に置かれているヘアピンも、よく見たらわたしの好みに合っているし、どちらも捨てるには惜しいものばかりだ。学校でこうやって渡したら、たぶんすぐに捨てられると踏んで、こういうものを選んだんだろうね。どこでわたしの好みを知ったかは知らないけど。……てか、それを考えだしたら怖いんだけど。

「そういえば、その手紙は?」

 綾瀬に言われて、一緒に机に置かれていた封筒のことを思い出した。手に取って見たところ、保坂の名前はどこにもない。まあ、いじめの標的にされている状況では書けないよね。顰蹙(ひんしゅく)の目を向けられるのは明らかだし。

 封筒を開いて、一枚の便箋を取り出して、短い手紙に目を通した。


 この間はありがとう。もとい、ずっと前から、ありがとう。

 わたしは羽沢さんと友達になりたいです。

 あなたが孤独に苛まれているなら、わたしがそばにいてあげますから。


 背筋が凍るように寒くなった。

 もしかしたらと思っていたけど、あの女は何もかも気づいているのではないか。わたしがいじめに加担する振りをして、保坂をこっそり助けていたことに……わたしの過去のことについても。いや、さすがにそれはないだろう。中学校も違うし、調べる方法なんてあるはずがない。

 それよりも、わたしはこの手紙の、感謝と思いやりのこもった内容に……怒りを禁じえない。

 ぐしゃっ。

「ねーねー、それなんて書いてあったの……うわあっ?」

 いきなり目の前で手紙を、両手でくしゃくしゃに握りつぶしたから、綾瀬は目を丸くしていた……と思う。悪いけど、そっちを見ている余裕なんてなかった。

 わたしは机を離れて、手紙を封筒ごと両手で丸めながらゴミ箱に向かい、叩きつけるようにそれをゴミ箱に投げ入れた。正直、かなり苛立っている。舌打ちのひとつもしたかもしれない。なるべくそれらを悟られないように振舞いたいけど、もう無理だった。

 腹立ち紛れに自分の席に戻ると、戸惑った様子の綾瀬が声をかけてきた。

「えっと……どうしたの? なんか怒ってる?」

「別に」

「えー……? さっきの手紙に何か嫌なことでも書いてあったの?」

 はたから見れば、何も悪いことは書いていなかった。でも、わたしの心にずかずかと土足で踏み込むもので、わたし的には嫌なことだ。おかげでイエスともノーとも言えない。

 綾瀬からの質問には答えず、手紙を書いた張本人に視線を向けた。

 保坂は悲しそうな表情でわたしを見返していた。やがて小さくため息をつきながら、手元の本に目を落とした。残念、とでも思っていそうだが、さしてショックを受けている素振りはない。あれほどいじめを受けても平然としていることもそうだが、こいつのメンタルは鋼鉄製なのだろうか。

 正直、あいつにわたしの心配をされても余計なお世話だし、まして友達なんて論外だ。自分がいじめの被害者で、わたしは加害者側の人間、その自覚がないのだろうか。……まあ、わたしの狙いに気づいているなら、自覚がなくて当然なんだろうけど。でも周りから見ればそういう関係なんだから、友達になるなんてどう転んでもありえない。

 なんて考えていると、保坂のもとに数人の生徒たちが寄ってきた。

「なんだお前、朝から本なんか読んで、優等生気取りかよ。点数稼ぎが分かりやすいよなぁ?」

 そのセリフも悪人ぶりが分かりやすいよなぁ、などと思いながら、わたしはその男子生徒を見ていた。

 あいつが保坂へのいじめの主犯格、確か名前は呉田(くれた)ってやつだ。別にクラスのリーダー格ってわけでもないけど、なぜかあいつに逆らおうとする人はこのクラスにいない。教師の前ではごく普通の生徒を装っていて、何やら裏で手を回したりして、自分に歯向かう人を黙らせているなんて噂もある。そして基本的に馬鹿のくせに悪知恵は働くから、ちょっとでも機嫌を損ねたら嫌がらせコースへ直行、というたちの悪い男なのだ。

 どうして保坂があいつにいじめられているのか、正確な理由をわたしは知らない。どうせたいそうな理由なんてないんだろう。わたしの時と同じだ。いじめやすいからいじめている、それだけの理由に決まっている。

 今日も毎度のごとく、数人の取り巻きを引き連れて、保坂に集中砲火だ。保坂もあいつで、呉田に何を言われても動じないし、無視するか理屈で反論するかのどちらかだ。それで余計に呉田を苛立たせて、最後には暴力が待っている。一方的に見えて、実は呉田もなかなか攻め手に欠けていて、保坂を追い詰め切れていないのだ。

 正直、今日は助ける気が起きない。生意気にもあんな手紙をよこしてくるようなやつを、助ける義理なんて無いんだから。まあ、飴はもったいないから貰うけど。

「フン、こんな本、ゴミにしちまった方がいいんだよ!」

 ……本当に、助ける気なんてなかった。

 でも呉田のバカが、保坂の手から本を取り上げたのを見たとき、不思議と体が勝手に動いた。気がつくとわたしは保坂の席の近くまで来ていて、呉田が取り上げた保坂の本を、自然な流れで奪い取っていた。

「何なに? 保坂ったら朝から何読んでんの? ……うげっ、何これ。難しすぎ。あんた、こんなの朝から読むとか頭おかしいんじゃない? ちょっとキショいんですけど」

 そう言ってわたしは顔をしかめながら、本を保坂の頭の上に、叩くように置いた。ちなみに「うげっ」は演技じゃなく、本音だった。難しい漢字や言葉が多すぎて、とても読めたものじゃない。これを朝から普通に読めるなんて、優等生気取りじゃなくて、本当に優等生じゃないのか。

「正直、わたしらには目の毒だからさ、読むならおうちで一人で読んでくんない? あんたみたいなかび臭いボッチにはその方がお似合い」

「はっはっ、違いねぇや」

 幸い、バカ呉田がうまいこと便乗してくれたから、ごまかしつつ本を保坂に返せた。別に保坂を助けたかったわけじゃない。でも、本に罪はない。あのままだと呉田のやつ、本当にビリビリに破いてしまいそうだったし、それはそれで忍びないものがあった。

「……分かったよ」

 わたしの暴言が応えたのか知らないが、保坂は低い声でぼそぼそ言いながら、本を机の中にしまい込んだ。机の中も決して安全ではないが、頭の回る保坂のことだ、あとでカバンの中にでもしまい直すだろう。

 そろそろホームルームも始まりそうだったので、わたしは先に自分の席へ戻っていく。とりあえず大ごとに発展しなかったのだから、良しとしよう。そう思っていた。

 だけど。

「痛っ……!」

 保坂の声が聞こえて、わたしは思わず振り向いた。保坂が後頭部を手で押さえながら、机に伏して震えていた。鼻で笑いながらその場を離れる呉田の姿も見える。

 ……まさか、呉田に頭を叩かれたのか。あれだけ痛がっているなら、結構強かったのでは。仮にも女子を相手に、腕力で勝る男子が、加減もわきまえずに頭を叩いたのだとしたら……。

 わたしの中に、(おり)が生じた。

 何がなんでも保坂を助けようとは思わないし、あの暴力を防げたとは思えない。でもわたしは、保坂の本を取り返しただけで、それで何もかも解決した気になっていた。本当は違った。それだけじゃ保坂は何ひとつ救われない。

 そもそもわたしは、なぜこんな面倒で、回りくどいことをやっているんだろう。呉田たちのやり方が間違っていると思うなら、直接的にでも間接的にでも、正せばいいのだ。でもわたしは、孤立するのが嫌で、でも保坂を傷つけるのも嫌で、だからこんな中途半端なことをしている。それって結局、自分のためでしかないんじゃないか?

 呉田たちが執拗に保坂をいじめるのは、どう考えても真っ当じゃない。では、そいつらをやんわりと妨害しているわたしは、真っ当な努力をしているのだろうか。中途半端な努力が真っ当であることなんて、ありうるだろうか。

 わたしは、どうするべきだったんだろうか。

(……真っ当な努力っていうのが何なのか、死ぬ前に教えてくれてもよかったのに)

 この日はちょっとだけ、あの世にいるお祖父ちゃんを恨んだ。


 保坂はいつも、休み時間に教室にいない。大方、自分がいたらいじめが起きて、クラス内の雰囲気を悪くするとでも思っているのだろう。あいつがどこで時間を潰しているか、わたしは興味ないし、関係ないことだ。

 この日のお昼休みも、保坂の姿は見えなかった。どこかで一人、ぽつんとお昼ご飯でも食べているのだろう。わたしはクラスの友達と四人で、たわいもないおしゃべりをしながらお昼ご飯だ。うん、平和でいい。ご飯の時くらい、ピリピリした空気はない方がいい。

 そのお昼ご飯の最中、友達のひとりである星川(ほしかわ)がふと窓の外を見て、あっ、と何かを見つけた。

「ねえ、あれって保坂じゃない?」

「マジで? わっ、ホントだ~。外のベンチでボッチ飯してるぅ~」

 綾瀬があざ笑うような口調で言った。

 ……本当だ。わたしも二階の窓から外を見ると、中庭のベンチに一人座って、黙々とお弁当を食べている保坂の姿が見えた。予想はしていたけど、やっぱりあいつ、友達いないのか。

「いいじゃん、外で一人で食べてくれた方が平和で」言ってみた。

「それ言えてるぅ~」

「つーか、いるだけで雰囲気悪くするくらいならさ、いっそ来なくていいんじゃね?」

「分かるぅ~。あいつ一人いなくたって、なーんも変わんないし」

 綾瀬と星川は言いたい放題だ。普通に考えたら、糾弾すべきは加害者の方なのに、なぜかいつも責められるのは、被害者と、当事者でない人間の方で、被害者は集団から引き離される。どんなに歪んでいて異常があっても、個人の権利より集団の形式の方が優先される。それが現実だ。

 まったく嫌な話だ。とはいえ、わたしもあまり大きなことを言える立場じゃない。とりあえず言いたい奴には勝手に言わせておけばいい。どうせ今のうちだけだ。

 保坂はクラスにいない方がいい……それはきっと、他ならぬ保坂も思っている。だからこそああやって、誰とも触れ合わずに一人の時間を過ごしているのだ……と、思ったら。

「あれ? なんか、保坂に寄ってきてる奴がいるよ」

「え?」

 わたしが気づいてそう言うと、綾瀬と星川も怪訝な顔で窓の外を見た。

 ベンチに腰かけている保坂に寄ってきたのは……ネコだった。どうやら校内に迷い込んだ野良ネコらしい。保坂は膝に置いていた弁当箱を脇に置いて、近寄ってきたネコを抱きあげた。そしてあろうことか、幸せそうな顔でじゃれ合い始めた。

 ネコもネコで全く抵抗する様子がなく、じっと見つめられても、頬ずりされても、ずっと保坂の両手に抱かれたままだ。餌付けでもしていたのかと疑いたくなる。

 呆然とその様子を見ているのは、綾瀬たちも同じだ。

「めっちゃじゃれ合ってる……」

「ねえ、あいつって一応、いじめられてるんだよね……?」

「バカっ、言うんじゃないって!」

 星川の疑問に、綾瀬が小声でたしなめた。

「あいつがいる所で“いじめ”なんて言葉使わないでよ。わたし達が何されるか分かんないよ」

「ご、ごめん……」

 あいつ、というのはもちろん、教室の真ん中で取り巻きたちとゲラゲラ笑いながらお昼を食べている、呉田のことだ。正直、めっちゃやかましい。

 綾瀬たちが神経質になるのも無理はない。呉田たちの前では、“いじめ”という言葉は禁句、という雰囲気がクラス内にある。

 というのも、あいつらは自分たちのしていることがいじめだという自覚がない。保坂への暴力は当然のことで、揺るぎない善だと思い込んでいる。そんな奴らの前で、“いじめ”などというパワーワードが飛び出れば、奴らはそれを全力で否定するために、どんな暴挙に出てもおかしくないのだ。

 実際、このクラスの何人かは、呉田たちが保坂にしていることは立派な“いじめ”だと思っている。でもそんな人たちも、呉田に目をつけられることを恐れて、あえて口にしないのだ。このクラスは一種の恐怖政治状態になっている。

 ……なんというか、保坂がいてもいなくても、クラスの雰囲気が良くなることはない気がする。

 そんなことを考えていると、隣に座っているもう一人の友達の米谷(よねたに)が、なんだか微妙な表情をしていることに気づいた。あまり箸が進んでいないし、顔色も少し優れないように見える。そういえば少し前から様子が変だったような気もする。

 というわけで、午後の移動教室から戻る時を見計らって、米谷に声をかけた。

「ねえ、米谷。どうかした?」

「へっ? どうかしたって……?」

「いや、ここ最近ちょっと様子が変だなぁ、って思って」

「別に何も、どうかしたというほどのことは、ないけど……」

 わたしからの質問に、米谷は目を逸らしながら答えている。表情も固いし、絶対何かあるね、これは。わたしは米谷に詰め寄って再度尋ねた。

「わたしに隠し立てするようなことでもあるの? ねぇ」

「いや、なんていうか、その……」

 しばらくごにょごにょと誤魔化そうとしていたけど、割とすぐに折れてくれた。

「この間、下校途中で保坂に捕まって、質問攻めを受けたんだよね……」

「…………まじ?」

「うん。やんわりと拉致られて路地裏に連れていかれて尋問された」

 あいつ……大人しそうな外見をして、結構やることがアグレッシブだな。

「それで、何を聞かれたの?」

「……久留美のことを、少し」

 米谷は伏し目になって、言いにくそうに答えた。

「わたしのこと?」

「うん……てっきり、弱みでも握るつもりかと思ったけど、そうじゃなくて、久留美がどうして保坂にちょっかい出すのか、純粋に知りたいんだってさ」

 まじか……今朝の手紙を見たときから、いやもっと前に、あの「ありがとう」発言が出たときから、嫌な予感はしていた。やっぱりあいつ、わたしに疑いを持っている。

 保坂にどう思われても構わないが、あいつの口や態度から、わたしがこそこそとあいつをかばっていると周りに知られたら、わたしのクラスでの立場が危うくなる。どうしよう……いやでも、米谷に聞いたところで、わたしの真意が分かるとは思えない。どうせ無難な返答だっただろう。

「それで、なんて答えたの?」

「そりゃあ、詳しくは知らないって言うしかないじゃん。実際、いつの間にか一緒になって保坂にちょっかい出してたし、わたしから久留美に聞きたいと思ったこともないし」

「だよね……」

 予想どおりの答えに、ホッとしたのも束の間だった。

「ああ、それと、久留美がどこ中の出身か聞かれて、それも答えたよ」

「…………!」

「それだけ聞いて、あいつ先に帰っちゃって……こういうの、久留美にどうやって話そうか迷ってたんだよねー」

「…………」

「あれ……もしかして、なんかマズいこと話しちゃった?」

 保坂がわたしの出身中学を尋ね、それを知った。そのことを聞いてわたしは愕然とした。ひょっとしたら表情に出たかもしれない。米谷を不安にさせるくらいに。

 どうして保坂が、わたしのかよっていた中学に目をつけたのか、そこまでは分からない。だが、もし保坂が、わたしの中学時代の出来事を知ったら……わたしの真意に辿り着く可能性は高い。わたしが孤独を恐れていることを、そのためにどっちつかずな立場にいることを……保坂が気づいてしまうかもしれない。

 待て、落ち着け。そもそもわたしの母校を知ったところで、あいつは他校の生徒だ。わたしが同級生たちに無視されていた、あの頃を知る生徒もすでに卒業している。教師たちだって、詳細を知らない上に体面を気にするから、よそ者に聞かれたところで答えるはずもない。保坂があの出来事を知ることなんて、できるわけが……。

(……ありがとう)

(あなたが孤独に苛まれているなら、わたしがそばにいてあげますから)

 ……ダメだ、それは甘い考えだ。保坂のかけてきた言葉を思い出し、わたしは首を振った。

 あいつは底が知れない。しかもたぶん頭もいい。その気になれば、わたし一人の過去なんて簡単に掘り返せる。そもそもあの手紙は、わたしの過去を知っていたから書けるものだ。それ以外の可能性に望みを繋げたかったが、あいつがわたしの母校を知ったと分かった今、それは望み薄だ。

 どっちつかずの立場でも、自分の安全と信条を守るために、努力して築いた立場だ。それを手放すつもりはまだない。だがその足場は、保坂の手によって、容赦なく崩されそうになっている。

 こうなったらもう……あいつと直接やりあうしかない。


 と、思っていた矢先のことだ。

「…………」

 放課後を迎え、さっさと家に帰って対策を練ろうと思っていたのに、校門の前で思いがけないやつと出くわしてしまった。言うまでもなく、保坂杏奈である。

 保坂は両手を後ろで組みながら、校門にもたれかかって立っていた。近づいてきたわたしと目が合うと、やや控えめに頭をぺこりと下げた。

 心の準備をする隙も与えてくれないらしい。言葉を交わすのも億劫だけど、何も訊かずにはいられなかった。

「……誰か待ってるの?」

「うん、羽沢さんを待ってた」

 うん、知ってた。なんて軽口を叩けるほどの余裕はない。

 こいつ……米谷への尋問といい、個人情報を調べたことといい、だんだん言動がストーカーじみてきていないか? いじめの被害者が加害者をストーキングするって聞いたことないよ。

「……わたしに何か用?」

 眉間にしわが寄るのを実感しながら、わたしは保坂に聞いた。保坂は、うーん、と少し考える素振りを見せてから言った。

「とりあえず、人の目がない所で話そうか?」

 どうやらろくな話が聞けそうにない。まあ確かに、どんな話があるにせよ、同級生がいつ通りかかってもおかしくない校門前で、わたしと保坂が一緒にいるわけにはいかない。続きは別の場所で、というのはわたしも賛成だ。

 ……というわけで、わたし達は場所を変えて話をすることにした。一緒に歩いている所も見られたくないから、申し訳程度に距離を開けつつ歩いていく。

 保坂について行って、辿り着いた場所は川辺だった。日没も近くなり、空が夕焼けで朱色に染まっているおかげで、川面もうっすら赤く煌めいている。こんな所に来るなんていつぶりだろう。よもや、ほとんど会話もしたことない同級生と、ここに来ることになるとは思わなかった。

 この近辺に住んでいる生徒はたいてい、この川に架かる橋を通っていくのだが、この場所はその橋からも離れているし、夕方でも全くといっていいほど人が通らない。確かにここなら、誰にも見られずに話ができる。

「……それで、話って何?」

 ここに来たのはいいけど、二人とも川面をぼうっと眺めるだけで、一向にどちらも口を開こうとしなかった。沈黙の時間がしばらく続いて、先に痺れを切らしたのはわたしの方だった。

 保坂はわたしに見向きもしない。わたしが睨むように視線を向けても変わらなかった。

「……さすがに気づいていると思うけど、わたし、羽沢さんの中学時代のこと、調べたんだ」

「ああ、やっぱりそうなのね……」

 ため息しか出ない。こいつの頭の良さと立ち回りの速さを、侮るべきではなかった。

「てか、さすがにって何よ。わたしが勘の鈍いやつみたいに」

「あははは」

「笑うんじゃねぇ、ぶちかますぞ」

「ごめん、素の羽沢さんがどんな反応をするか気になって」

 口元に手を当ててクスクスと笑いながら、保坂はようやくわたしを見た。そういえば、こいつの顔をまともに近くで見たことなかったけど、笑ってみれば案外かわいい表情をするのね……。

 だからってごまかされないけど!

「何なの、その謎の好奇心。大体、わたしのことをそんなに知ってどうするのよ」

「米谷さんにも同じようなことを聞かれたけど、わたしはただ気になっただけだよ。どうして羽沢さんがわたしをいじめる振りをして、こそこそと助けるようなことをしているのか」

 予想はしていたけど、やっぱり何もかもお見通しだった。けれど、未だ頑なに認めたくない自分もいた。

「……別に、あんたには関係ないでしょ」

「いやわたし被害者だし、無関係ではないよね」

 それもそうだ。ぐうの音も出ないような反論を返された。

「まあ、羽沢さんが言いたくないならそれでいいけどね。なんとなく予想はついてるし、そのとおりなら羽沢さんにとっても、あまり掘り返されたくないだろうし。もちろん、わたしも他の人に言いふらさないって約束するよ」

「よく知りもしない上に、あんたは一応、わたしも加担しているいじめの被害者でしょ。そんなこと言われて、簡単に信じられると思う? 仕返しにわたしの秘密をばらす可能性は普通にあるじゃん」

「だったら羽沢さんも、わたしについて知りたいことがあったら聞いてみてよ。それでおあいこにしよう。わたし、羽沢さんになら、別に秘密とか知られても構わないから」

 さあ、どんとこい、とでも言わんばかりに大手を広げる保坂。現在進行形でいじめられているとは思えないほど、無邪気に微笑んでいる。

 こいつの言葉を頭から信じるわけじゃないけど、どうしてわたしに秘密を知られても平気だって言えるんだろう。保坂の考えていることが一向に分からない。人間の暗部に翻弄されすぎたわたしには、保坂が何か、腹の底でよからぬことを企んでいると思えてならない。

 でも……もしこいつのことを、少しでも知ることができれば、今こうやって振り回されることが多少は減るかもしれない。そうだ、こいつがわたしの弱みを握ったのなら、わたしも同じようにすればいい。これこそ、おあいこだ。

 それに、保坂のことでどうしても知りたいことなら、ひとつだけある。

「じゃあさ……どうしてあんた、そんなに平然としていられるの?」

「…………ん?」

 保坂は首をかしげたが、わたしは構わず続ける。

「あんた、いじめられてるんだよ? 暴力はふるわれるし、嫌なことをねちねちと言われるし、色んな奴から嫌がらせを受けてるじゃん。それなのに、呑気に野良ネコと戯れたり、わたしにプレゼントしたり、今だってそうやって笑ってる」

「…………」

「普通あそこまでされて、平気でなんていられない。つらいし、泣いて苦しむものなんじゃないの? なんでそんなに平然としていられるのよ」

「平気だと思ってるの?」

 その感情のない返答に、わたしはビクッとした。保坂は真顔だった。

「まあ、仕方ないかもね。まさにそう思わせるために、つらさとか表に出さないようにしていたし」

「……どういうことよ」

 わたしの問いかけにすぐには答えず、保坂はわたしから視線を反らすように空を見上げた。

「最初はね、もちろんつらかったよ。なんでわたしだけこんな目に遭うんだろうとか、わたしが一体何をしたっていうのとか、そんなことを考えながら、いつも一人で泣いてた」

「親に相談しようとか思わなかったの?」

「お父さんはいないし、お母さんはよその男とあれこれするのに夢中だし、相談なんてしたら迷惑がられるだけだよ」

 しまった、地雷だった……いじめの被害者は大抵の場合、身近な大人に相談することをためらう。身近な人だからこそ、巻き添えにしたくないという意識が働くのだ。そんなことないよ、と言うのは簡単だけど、家庭の事情はそれぞれだし、土足で踏み込んでいけないことはたくさんある。少なくとも保坂の場合は、大人にいじめを相談できる環境にいないのだ。

「そんな日が続いたものだから、次第に、いじめられる自分が悪いんじゃないかって、思うようになっていった……でも、すぐに目が覚めた。わたしは何も悪いことをしていない。何も悪くない。悪いのは何もかもあいつらの方だって、すぐに思い直したの」

 にわかには信じがたい。そんな易々と、気持ちを切り替えられるなんて。

「そして決めたの。あいつらは、自分たちが悪いとは微塵も思ってない。自分たちが正しい、わたしは屈服させるべき、何もかも思いどおりにできる、という幻想にとらわれている。だから……」

 保坂はゆっくりとわたしに向き合った。そして、真剣な眼差しを向けた。

「その幻想をぶち壊してやるってね」

「…………!」

 なにもかも、どこかで聞いたような話だ。誰かがほとんど同じことを考え、そして、あいつらが間違っていると思い知らせる。臆病風に吹かれて、それを実行できずにいる人を、わたしは知っている。そして保坂は、実行している。

「どんなに嫌なことを言われても、されても、泣いたりしないし、苦しむところは見せない。どんな理不尽を要求されても相手にしない。そんなことをしたら、あいつらの思う壺だもん。そう簡単に思いどおりにならないって、思い知らせてやるから」

 そう言い張る保坂の表情は、この上ないほど晴れやかだった。恐れるものなど何もない、と言わんばかりだ。いじめの被害者が見せる顔じゃない。

 愕然とするしかない。わたしはようやく理解した。

 保坂がしていること、それこそが、真っ当な努力だったのだ。決して雰囲気に流されず、誰の理不尽にも屈せず、自分が正しいと思ったことを貫き通す。わたしがずっと知りたかった、真っ当な努力というものを体現していた。

 でも……。

「そんなの、簡単なことじゃないのに……」

 声に張りがなくなってしまう。中途半端な努力しかできない自分が、とても小さく弱いものに感じられた。

「そうだね。うまくいく保証もないからね。でもやらなきゃ、いつまで経っても状況は好転しない。戦って、抗わなきゃ、こんなふざけたやり方は変えられない」

「保坂って、案外強いのね……わたしとは大違い」

「…………」

「わたしは弱いから、中途半端なことしかできない。間違っていると分かっていても、声を上げるのが恐い。あんたは、つらくて苦しい気持ちに耐えながら、頑張って戦っているのに……」

 自己嫌悪に陥って、ズブズブと底のない沼に沈んでいくようだ。情けなさすぎて、保坂の顔もまともに見られない。結局わたしは、保坂をいじめたり、ただ傍観していたりするだけの、周りの連中とたいして変わらないのだ。自分の、これで正しいはずという甘い考えに、しがみついていた。保坂とはまさに、天と地ほどの開きがある。

 そう、思っていたのに。保坂は真っすぐわたしを見て言うのだ。

「羽沢さん。わたしが苦しみから立ち直れたのは、羽沢さんのおかげなんだよ」

「…………え?」

 保坂のかけた言葉に引っ張られて、わたしは顔を上げた。

「羽沢さんがいつも、こっそりわたしを助けてくれたから、わたしは絶望せずにすんだ。こんなわたしでも、助けてくれる人がいるって分かったから……わたしはひとりなんかじゃないって、そう思えたんだよ。だからわたしは、戦える」

「……違うよ。わたしは、あんたを助けたかったわけじゃない」

 わたしはただ、あいつらと同じような人間に、なりたくなかっただけだ。真っ当でない努力にこだわって、駄目な人間になりたくなかった。中学の頃にわたしが受けた仕打ちと、同じことをやりたくなかった。それだけだった。保坂のためを思ったことなんて、一度もない。

「それでも、だよ。わたしが、羽沢さんのしたことで救われたのは、確かだから」

「…………」

「わたしは強くなんかないよ。羽沢さんがいるから、強くなれるんだよ。もし羽沢さんがいなかったら、わたしは今ごろ、生きることを諦めていたかもしれない」

 いじめが解決しなかった時、被害者がたどる道は二つしかない。その場所から離れるか、この世を離れるか。わたしのしてきたことが、保坂を、その分岐点に辿り着く前に繋ぎ止めていた。

 わたしの努力は真っ当と言えない。でも、決して無意味ではなかった。

 保坂がわたしのもとに歩み寄ってくる。

「わたしは強くないから……羽沢さんが弱くても、全然かまわないよ。羽沢さんだって、弱くても自分にできることを精一杯やってる。呉田たちのことはぶっちゃけ軽蔑してるけど、あなたを軽蔑することは絶対にない」

「保坂……」

「むしろわたしは、羽沢さんのことが好きだから」

「んん、それはちょっと意味分かんない」

 保坂に軽蔑されていないというのは、ちょっと内心ホッとしているけど、唐突に好意を向けられる筋合いはない気がする。

「わたしね、羽沢さんがどうして、わたしを助けようとするのか気になって、色々調べたんだ。きっとまだ十分じゃないし、もっとたくさん知りたいって思った。他人にそんな気持ちを抱いたのは初めてだったの。でもって、知れば知るほど、あなたのことがどんどん気になっていった」

「いや、別に……あんたにそこまで思われるほど、自分に魅力があるとは思えないけど。わたしみたいな、ちっぽけで弱い人間なんて……」

「弱い人は嫌いじゃないよ」

「あんたねぇ、いい加減なことを……っ!」

 その先の言葉は出なかった。唐突に口が柔らかいもので塞がれて、眼前には、ぎゅっと瞑った保坂の目元が間近にあった。

 わたしの口を塞いだものが、保坂の唇だと気づくまでに、時間はかからなかった。

「……………………ぁ」

 永遠にも感じる時間を経て、わたしと保坂の唇はようやく離れた。それでも、触れた感覚とかすかな温もりは、しっかりと残っている。まるで火傷のように。

 保坂はふわりと微笑みながら、わたしの口を塞いだその唇に、指を立てて添えた。


「ね? いい加減な気持ちなんかじゃ、なかったでしょ?」


 ひとつ、明らかになったことがある。こいつは確かに、わたしへの興味を募らせていた。募って、募り続けて、はち切れそうになっていたのだ。それが高じて、わたしを人気のない場所につれて行き、そして募り積もった自分の気持ちを、こうしてぶつけるに至った。

 今さら分かっても、もう遅い。わたしは知ってしまったのだ、こいつの秘密を。恐らく誰にも言えないであろう、重大な秘密を。

 じわじわと胸が熱くなる感覚を抱きながら、わたしは後悔に苛まれていた。

 保坂(こいつ)はやっぱり、底が知れない。

『フラストレーション(frustration)』欲求不満。


……お気づきでしょうか。

女の子同士のキスシーン、第8章にして初めて登場しました。頬にキス程度なら以前に1回だけ書きましたけど。

元々この作品、ラブストーリーを主軸とするために、肉体的な接触は手つなぎとハグだけに留めるつもりでいました。しかし、もうそろそろ折り返しの辺りだろうという所で、一度その制約を破ってみようと思ったのです。いじめを最初から題材にしていることといい、第8章は、これまで以上に挑戦している作品となっています。

はてさて、表向きはいじめの加害者と被害者、この関係がこれからどう変化するのか、次回以降も刮目してご覧ください。

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