表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第8話 グラデュエーション
39/48

8-1 アイソレーション

長らくお待たせいたしました。第8章です。先に注意書きをしておきます。

今回のエピソードには、いじめの描写があります。なるべく不快にならないよう気をつけて書いていますが、暴力や嫌がらせのシーンに不快感を覚えた方は、ブラウザバックを推奨します。本作はあくまでフィクションであり、実話を基にしたものではありませんし、いじめを助長する目的もありません。

なお、作中で描写されるものに限らず、あらゆるいじめ行為は、本来なら刑事罰の対象になる重大な犯罪行為です。決して真似をしないでください。


 孤独が人を強くする、というのを誰かが言っていた気がする。誰にも頼れないから、何が起きても自分で対処するしかないから、様々な力が身につくという理屈だ。強くならざるを得ないから、強くなるのだ。

 では、逆に孤独でない人は強くなれないかと言えば、もちろんそんなことはないだろう。強さの種類が異なるだけだ。しかも、孤独でない人の強さも一元的じゃない。硬い信頼の中で育まれる強さもあるし、弱い者同士で徒党を組んでいるだけの、うわべだけの強さもある。どの種類の強さを求めるかは、その人次第だ。

 だから、わたしは別に、この状況を責め立てようとは思わない。

(朝から嫌なものを見た……)

 学校の教室に入り、自分の机を見下ろしながら、わたしはげんなりとしていた。

 かわいそうに、わたしの机の天板は、黒のマジックらしき物でぐちゃぐちゃに落書きされ、見るも無残な姿になっていた。よく見ると、マジックの黒い文字に紛れて、カッターでつけたような傷跡もある。『チョーシのんな』『ブス』『メスビッチ』と読めるけど、なんかもう、書いた人の頭の悪さを露呈しているだけとしか思えない。

「うわー、きったねぇー」

 やたらよく通る声で、クラスメイトがにやにやと笑って言った。

保坂(ほさか)ってあんな(きたね)ぇ机で勉強できんのかぁ?」

「やだぁ、不潔ぅー」

 そのうち他のクラスメイトも便乗してくる。男女関係なく、だ。

「この間も机にゴミ並べてたしねー」

「きっと私生活ゴミだらけで心まで汚れてんだぜ」

「なにそれー、うちのクラスの、えっと……あれよ、品位が乱れる」

「ねー、言えてるぅ。やだやだ、不登校になってくんないなぁ」

 ……うちのクラスの、偏差値で測れない低能ぶりが次々と露呈している。昨日まで机に落書きなどなかったし、そのゴミをゴミ箱に捨てたのもわたしだし、しかもようやく絞り出した日本語も間違っている。乱れるのは風紀であって、品位は下がるものだ。

 お分かりかと思うが、わたし、保坂杏奈(あんな)はこのクラスでいじめに遭っている。それも、なかなかにレベルの低いいじめだ。……いや、いじめにレベルが高いも低いもないんだけど。

 いつからだろうか。ひどくなって、目立つようになったのはここ一か月ほどだと思う。高校に入って一年半が経とうとしているのに、友達の一人もできずに孤立しがちなわたしは、元からいじめの標的になりやすい存在だったのだろう。相談できる相手がいなければ、何をしても大ごとにならないと思われるからだ。

 まあ……この程度の嫌がらせ、長年ぼっちをしてきたわたしには、たいしてダメージにならない。ゴミはゴミ箱に捨てればいいし、落書きは消せばいいし、傷跡を補修する道具とかもホームセンターで手に入る。知らないうちにカバンにも同じことをされるが、その度に元通りにしてきた。

 というか、わたしに嫌がらせをするのは結構だが、何も悪くない机やカバンを巻き添えにするのは腹立たしい。物を大事にするということを知らないのか。

 カバンをロッカーに仕舞うと、掃除用具入れから雑巾とバケツを取り出し、トイレに行ってバケツに水を入れ、教室に戻って、濡らした雑巾で机を擦り始める。淡々と、粛々と、誰にも目を向けることなく。

 教室のざわめきが一気に静まった。さっきまでくだらない陰口を叩いていた連中も、黙りこくっている。泣いてわめくことも、反抗的に怒ることもせず、冷静に対処するとは予想外だったのだろう。なんでも自分たちの思い通りになると思うなよ。

 ただ、いじめるやつの大半はこれで黙るのだが、何人かさらに突っかかる人がいる。たぶんこいつらがいじめの主犯格だ。

「オイちょっと保坂ァ、何やらかしてくれてんの?」

 中途半端にドスを利かせた声で、背の高い男子生徒が詰め寄ってくる。確か名前は呉田(くれた)だったかな。下の名前は興味ないから忘れたけど。ちなみに顔の良さも中途半端で、外見や服装からはごく普通の高校生と思われがちだが、中身はこのとおりの性悪である。先生とかの前では普通の生徒を演じていて、なかなか尻尾を見せないが。頭は悪いくせにプライドが高くて悪知恵ばかり働くから、全く手に負えない。

 彼は大体いつも、男女数人の取り巻きを連れている。今日もその取り巻きたちの前で、呉田はわたしの机を指先でコンコンと突きながら、わたしを責め立てる。

「こ、れ。学校のモンでしょ。汚しちゃダメでしょ。黙ってないで謝ったらどうなのよ、え?」

 現在進行形でその机を掃除しているわたしに、その言いがかりはかなり無理がある。こんなバカを相手にするのは時間の無駄だ。

 わたしは呉田を無視して机の水拭きを続ける。やっぱ油性だから落ちないな……確か消毒用アルコールで落とせるって聞いたことがある。試してみるか。

「聞いてんのかよオイ!」ブチ切れた呉田が机を平手で叩く。「黙ってねぇでさっさと謝れって言ってんだよ。ふざけてんのかテメェ」

「…………」

 あー、面倒くさい。相手にしたくなかったけど、やむを得ないか。

「……わたし、この机に落書きした覚えがないんだけど。誰に何を謝ればいいの?」

 強気に出たつもりはなかった。だがわたしの問いかけは、呉田の癇に障ったらしい。

「あん?」顔をしかめる呉田。「バカかよおめぇ、汚ぇ机使って迷惑かけてんだから、俺らにちゃんと謝れよ。さっさと頭下げてごめんなさいって言えよ」

「ごめんなさい、掃除の邪魔だから黙って」

 棒読みもいいところの言い草が、さらに呉田の機嫌を損ねたようだ。

「ナメてんのかよオイ!」

 呉田は怒号を上げて、わたしの前髪をがっしりと鷲掴みすると、まだ落書きが消えていない机に向かって、わたしの顔面を叩きつけた。

 額と鼻先をしたたかに打った。これは、さすがに痛い。

「いったぁ……」

「誰が余計なこと言っていいって言ったんだよ。ボコられてぇのか、あん?」

「そうだよ、口答えしないでよ、保坂のくせに」

「呉田、こいつ頭悪いみてーだから、しっかり教育してやろーぜ」

 取り巻きたちが余計なことを言ってはやし立てる。こうなる気はしていたけど、このままだとお腹とか足とかが狙われるかもしれない。今までもそうだったし、顔や腕についた傷だと先生にすぐ気づかれるから、ずる賢い彼らは狙わないのだ。

 わたしの前髪を掴む呉田の手が、さらに強くなる。ぐっ……無理やり髪を引っ張られるのは初めてじゃないけど、いつまで経っても慣れない。さすがにこの状況はヤバいかもしれない……。

 なんて思っていると、教室全体に響く大声が轟いた。

「おっはよぉー!!」

 やたら大げさな朝の挨拶と同時に入ってきたのは、うちのクラスのちょっぴりギャルっぽい女子生徒だ。名前は羽沢(はざわ)久留美(くるみ)。長く綺麗な黒髪を後ろでツインテールにしていて、前髪を留めるピンやネイルのセンスは確かにギャルっぽい。よく知らないけど。

「あっぶねー、遅刻ギリギリじゃん。間に合ってよかった~」

「羽沢……」

 呆然とする呉田。わたしの髪を掴んでいた手が緩んだ。

「なぁにー? 保坂ったらまた何かやらかしたのー?」

 小馬鹿にするような顔と態度で、久留美は近づいてくる。落書きされた机を見て、その表情はさらに意地悪なものになる。

「うわあ、汚い机。学校の備品に落書きとかダメでしょ~」

「だろ?」すかさず便乗してくる呉田。「だから今こいつを教育してやろうと……」

「ん? 何これ。雑巾?」

 久留美は、机の上の水に濡れた雑巾を手に取った。

「あんたバカ? これどう見ても油性ペンじゃん。水で落ちるわけないでしょ。そんなのわたしでも分かるんですけどー?」

 久留美がわざわざ顔を接近させて、嘲るように言ってくる。わたしでも分かる、か……一応バカだという自覚はあるのだな。割と顔はいいのだから、非常にもったいない。

 彼女もまた、わたしへの陰湿ないじめに加わっている。だけど、何だろう……彼女はどこか違っていた。

「こういうの目に毒だからさぁ、ちゃんと綺麗にしてよね。わたし、こう見えて綺麗好きだから」

 そう言って彼女は、机の上にどんっと、消毒用アルコールのスプレーボトルを置いた。……なんでこんなものを持っていたのだろう。

「これ使ってちゃんと綺麗にしな。ちょっとでも残ってたらタダじゃおかない」

「羽沢、お前なにを……」

「呉田も甘いんだよ、教育すんなら相応のバツってやつを与えなきゃ。いーい、保坂? アルコールの匂いキッツいからさ、どこかよそに机持ってって、一人で机の掃除してなよ。ちゃんと綺麗になるまで戻ってこないでよね、邪魔だから」

「いや、でも……」

「でもじゃねぇんだよ」

 久留美はどこかイラつきながら、わたしの胸倉をつかみ上げた。まなじりを上げて睨みつける。

「自分の机なんだから自分が綺麗にするのは当然でしょ。あんた、ただでさえ地味でカビ臭くて、油断してたらすぐゴミまみれになるんだから。ちょっとは自分磨いてから出直しな」

 ひどい暴言だ。他人に対してカビ臭いはないだろう、さすがに。相手がわたしじゃなかったら、すぐさま自殺に走ってもおかしくない。

 だけど……やっぱりおかしいな。

「ほら、さっさと机持って、どっか行ってくんない? 屋上の入り口前とか誰も来ないから、一人でせっせと机掃除してても、誰にも見られずに済むからー」

 久留美がそう言うと、どこからかクスクスと笑い声が聞こえてくる。うわー、恥ずかしー、なんて声も交じっている。

 まあ、この空気では従うほかにない。どうせ教室(ここ)にいたって、机を綺麗にしようとしても邪魔が入るだけだ。

「……分かった」

 ぼそっと答えると、わたしは水の入ったバケツを手に抱えながら、机を持ち上げる。机の中に置き勉をしてなかったのは幸いだった。天板の上の雑巾やスプレーボトルを落とさないよう、慎重に運んでいく。

 まあ途中で、転ばせようと足を引っかけてきた奴がいたけど、そいつは本当にただのバカだ。少し浮かせて机を運んでいれば、机が先に床について支えになってくれるから、転ばずに済む。たぶん引っかけた奴の舌打ちが聞こえた気がしたけど、無視した。

 教室を出る寸前、久留美がわざとらしい大声で言う。

「先生が来たらぁ、月のアレで保健室に飛んでったって言うからー」

 その冗談は主に女子に受けた。まあ、男子は下手に笑えないよな、好感度下がるし。

 ……たぶんそれも、呉田をはじめとする主犯格たちを黙らせるため、なんだろうな。

 なんとなく気づいていた。一見すると久留美の行動は、いじめに加担しているように見える。だけど、彼女の行動のひとつひとつが、結果としてわたしの窮地を救っている。

 空気を読まずに大声で教室に入ってきたのは、わたしを痛めつけようとしていた呉田の、注意をそらすためだ。消毒用アルコールなんて、普通はボトルの状態で持ち歩かない。あれは、わたしの机に誰かが油性ペンで落書きしたことを、前日の時点で知っていて、落書きを消す必要があると考えた証拠だ。相手を侮辱するための落書きを、わざわざ消そうと考えるいじめっ子はいない。わたしに詰め寄るときも胸倉をつかみ、なるべく痛みが少ないようにしていた。暴言を吐きながら教室から追い出したのも、わたしに危害を加えそうな人たちから遠ざけるためだ。

 久留美はいじめに加担しつつ、実はわたしをこっそり助けているみたいだ。それでいて、問題があまり大きくならないよう、コントロールしているようにも思える。

 助けてくれるのはありがたいけど、それなら堂々と助ければいいわけで、いじめているように見せかける必要はない。自分に火の粉が飛ぶのを怖がっているなら、無視すればいい。事実、クラスの中にもそうして無関係を決め込んでいる生徒はいる。

 どうも彼女の行動はちぐはぐな気がする。まあ彼女はバカだし、気まぐれだと言えばそれまでだけど……。

 結構苦労して屋上の入り口前まで机を運んで、アルコールをしみ込ませた雑巾をペタペタと押しつけて、せっせと落書きを消しながら、わたしはずっと彼女のことばかり考えている。こんなにも他人のことが気になるのは初めてだ。

 知りたいという気持ちが膨らんで、いじめによる憂鬱はいつしか薄れていた。

 彼女がこっそりかばった効果はあまりないけど、結果として彼女のおかげで、わたしは絶望に堕ちずにすんでいる。


 知りたいという気持ちが膨らんだ結果、わたしはひとりの女子生徒をやんわりと拉致することになった。

「な、なっ、なに……!?」

 狭い路地裏に連れ込んだ女子生徒を、コンクリートの塀の前に押し留め、わたしはじっと視線を向け続けている。はたから見たら何だと思われるかな。恐喝とか、あるいはキスの強要とか、どちらにしても平和的には解釈されないだろうな。

 学校終わりの放課後、わたしは速攻で校舎を出た。そして、何日か前からマークして行動を把握していた、とある女子生徒を帰り道で待ち伏せた。彼女が一人になったタイミングを見計らって、わたしは彼女を路地裏に引っ張り込んだのだ。

 え、やってることが普通にストーカーだって? 緊急避難だよ。

 さて、首尾よく彼女を捕まえられたところで、周囲に怪しまれないうちに本題へ移ろう。

米谷(よねたに)さん、だよね。羽沢久留美さんと仲がいいクラスメイトの」

「だ、だから何なのよ……」

「羽沢さんのことで、少し聞きたいことがあるんだけど」

「あ、あんたまさか、久留美の弱み握って脅して黙らせるつもりなの! そうよね! 絶対そうだよね! あんたってそういうことしでかしそうだし!」

 気が動転するあまり、かなり失礼なことを言っている。そうか、周りの女子からは、わたしはそんな人間だと思われているのか……まあ、こうやって手段を選ばない時点で、否定しても説得力はないのだけど。

「違う違う……羽沢さんに何かしようってわけじゃないの。ただ、羽沢さんがなんでわたしへのいじめに加わっているのか、その理由が知りたいだけ」

「そんなの、知ってどうするのよ」

「どうもしない。ただ気になるから知りたいだけ」

「意味分かんないんだけど……」

「分からなくていいよ。特に何も知らないなら、別の子を捕まえて同じように聞くから」

「……それははっきり言って迷惑だし」

 いじめの被害者が派手に動き回ったら、クラス内のパワーバランスにどんな影響を及ぼすか分からないし、傍観者に徹している人にとっては気が気じゃないだろう。少し間違えれば、次のいじめの標的にされるかもしれないのだ。

 抵抗を諦めたようなので、わたしは米谷の肩から手を離す。

「言っておくけど、久留美があんたにちょっかい出す理由なんて、詳しくは知らないよ」

「あれを“ちょっかい出す”と言ってしまうあたり、罪悪感の低さが感じられるね……まあ、羽沢さんはその程度かもしれないけど。わたしの感覚だと、羽沢さんはいつの間にかいじめに加わっていたっていう印象だけど、実際のところ、何かきっかけみたいなものってあったかな」

「さあね。わたしも、気づいたら久留美も一緒になってあんたをいじってたから、きっかけなんて思い当たらないよ」

「でも米谷さん、いつも一緒にいるよね」

「一緒にいるって言っても、なんとなくつるんでるだけで、向こうが友達だと思ってるかどうかは、正直分かんない。知り合ったのも高校に入ってからだし」

 そうか……あっさり手掛かりが得られるとは思ってなかったけど、これでいくつか分かったことがある。

 いつも一緒にいる友人にもきっかけが分からないほど、久留美のいじめは唐突に始まった。でも、彼女の行動を見る限り、本当に望んでいじめに加わったか疑わしい。何かきっかけがあったのは確かなのに、それがそばにいる人にも分からないなら、理由は彼女の心の中にしかない。

 高校に入ってからつるんでいる人に、そうした内心を見せないということは、高校入学以前に、何かきっかけがあった可能性が高い。彼女のことを知るには、少なくとも中学校以前まで遡らないといけないようだ。

「じゃあ、最後に一つだけ。羽沢さんって、どこの中学の出身か分かる?」

「中学? 確か四方山(よもやま)中って言ってたような……」

「分かった。引き留めてごめんね」

 それだけ言って、わたしは米谷を放置してその場を去った。何なのあいつ、という呟きが聞こえた気がしたけど、別に気にしなくていいよね。

 手掛かりは得られた。久留美の中学時代に何があったか、とことん探ってやる。


 ……とまあ、意気込んだのはいいけど、わたしの母校でもない四方山中学に知り合いなんていないし、うちの高校で四方山中学出身の生徒を捜して聞き込みなんてしたら、確実に怪しまれる。普段からぼっちのわたしが、こうして派手に動くだけでも目立つからなぁ。

 で、結局、休日を狙って四方山中学を直接訪ねるしかなかった。

 だって、平日は学校あるし、よく知らない中学校に特攻をかけるなら、あまり生徒がいないタイミングを狙うしかないし。中学生って口が軽いやつ多いからなぁ。その点、大人である教師だったら、話の分かる人が一人くらいいるだろうし。

 とはいえ、一度も来たことのない学校に、休日に足を踏み入れるというのは、なかなか度胸がいる。しかも、久留美の事情を知っている人が、今日ここにいるとは限らないのだ。もしいなければただの無駄足だし、その場合の策も考えられていない。

「わたし……探偵には向いてないかも」

 そんな弱音を呟きながらも、わたしは校舎に向かって歩を進めていた。無駄足かもしれないと分かっていても、この好奇心は抑えられない。

「よーし、もうワンセットいくよー!」

 校舎の裏手にあるテニスコートから、威勢のいい声が聞こえてくる。休日も学校に来て部活とは精が出る。わたしは小・中・高と部活をしていないから、まったく無縁のことだ。

 来客用の出入り口から、やけに静かな校舎の中に入り込む。休日なのに外は割と騒がしいが、その喧騒がしっかりと遮られている。

 さて、まずは事務の人に説明をしなければ。アポイントも取ってないし、本当にまるで突撃取材みたいだ。嘘をつくのは我ながら自信がないので、なるべくごまかさずに話そう。

「あの、すみません」

 受付窓口の向こうに人の姿が見えたので、声をかけた。四十代くらいの女性事務員が、気づいて窓に近づいてきた。

「はい、なんですか」

「この学校に、羽沢久留美さんという生徒さんがいませんでしたか。去年の春に卒業したと思うのですが……」

「羽沢久留美さん、ね。ちょっと待っててね」

 わたしがあまり怪しい人に見えないからか、事務員は何の疑いもなく、棚に仕舞われていた名簿らしきファイルを取ってめくり始めた。

 が、すぐに手を止めて、目を丸くしてわたしを見た。

「……え? 羽沢さん? あなた、羽沢さんの知り合いなの?」

「知り合いというか、高校のクラスメイトで……」

 なんだ? 学校の事務員って生徒とあまり交流しない印象があるが、まるで久留美をよく知っているかのような口ぶりだ。久留美はそこまで名前が知られているのか。

「そっか……羽沢さん、高校ではうまくやれているのね」

 事務員はホッとしたような表情を浮かべた。うぅむ……わたしへのいじめに加わっている現状、うまくやれているとは言い難い。

「高校では、ってどういうことですか? わたし、羽沢さんが中学生だった時の出来事を知りたくて、ここに来たんですけど……」

「ああ、そうだったの。まあ本人は話したがらないでしょうしねぇ」

 そもそもそんな話ができるような間柄でもないのだ。

「何があったんですか?」

「こういうのはあまり他人に話さない方がいいような気がするけど……どうしても知りたいの?」

「はい」

 わたしがきっぱりと答えると、事務員の女性は驚いたように目を少し見開いた。

「……仕方ないわね。あなたにも相応の事情があるみたいだし」

 事務員は何かを諦めたように、ため息をつきながら言った。その事情を深く尋ねてこないのは幸いだった。この人はどうやら久留美のことを、在学時から気にかけていたらしい。その久留美がわたしにいじめを働いているなんて、口が裂けても言えない。

 立ち話もナンだから、ということでわたしは事務室に通され、お茶も出してもらった。何やら至れり尽くせりである。久留美の話題を出されたことが、この事務員にとって純粋に嬉しいのだろうか。

「私はこの学校で長く事務員をやってるけど、羽沢さんは特に、忘れられない生徒の一人だったわ。入学したばかりの頃、あの子はずっと独りぼっちだったのよ」

「羽沢さんが? ちょっとイメージできないかも……」

「本当は割と社交的な子だと思うのよ。小学校の友達全員と離ればなれになって、最初のうちはそれで寂しい思いをしていたのね。でも、一年くらい経っても、彼女はなかなかクラスに馴染めなかったみたい。理由は分からないけど、授業や行事でグループを作るとき、毎回彼女だけが仲間外れにされていたらしいの」

「仲間外れ……」

「羽沢さんが頑張って話しかけても、やんわりと拒絶されるか、そうでなくても腫れ物に触るような扱いを受けていたそうよ。原因は本人にも分からないけど、クラス全体が、羽沢さんに関わっちゃいけないという空気で満たされていたみたいだって」

 それも一種のいじめだろう。暴力や暴言を浴びせられることもあるわたしよりは、まだマシだったかもしれないが……いじめとは得てしてそういうものだ。理由も分からず、ただそういう空気だから従ってしまう。なまじ社会から隔絶された空間だから、なおさら集団意識に呑まれやすいのだ。

「ごく普通の社交性がある子だから、余計にそうした扱いが身に応えたのね……お昼休みとかに、いつも一人でいるところを見かけたものだから、声をかけたの」

「それで、羽沢さんの事情を知ったんですね」

「ええ……でも、いち事務員にできることは何もなくて、担任の先生にそれとなく教えることくらいしかできなかったわ」

「それなら、担任の先生が何とかしたんじゃ……いや、そんな単純な話じゃないか」

「お察しのとおりよ。担任の先生は授業などで、さりげなく羽沢さんを仲間に入れるよう諭すだけにとどめたわ。羽沢さん本人も問題を大きくしたくなかったようだし、とてもデリケートな問題だから先生も強く言えなかったのね」

 よくある話だ。思春期の子どもほど、大人が扱いに困るものはない。説教臭くなれば反発されるし、踏み込まなければ怠慢だと後ろ指を差される。いじめはたいてい集団で行なわれるから、教師が対処に動いたときには、すでに一つのコミュニティが出来上がっていて、そこに踏み込むことにはリスクが伴う。いじめがなかなか解決できないのはそのせいだ。

「一度、羽沢さんの相談に乗ってあげたとき、あの子が言ってたの。ひとりは怖い、ひとりは嫌だ、って……結局彼女がクラスに馴染めるようになったのは、二年生の二学期になってからだったわ。でもそれ以降もたびたび、孤立することを怖がる様子を見せていたみたいなの」

「…………」

 何も言えなかった。久留美の妙な行動の理由が、ようやく分かったからだ。

 彼女は孤立を極端に恐れている。どうにかして集団に馴染もうと必死になっていたのだ。彼女がわたしをいじめるのは、クラス内にそうした空気があったからで、わたしをいじめる集団が多数を占めていたから、それに乗じただけだった。

 でも、孤立する恐ろしさを知っているからこそ、いじめられているわたしの苦しみが理解できる。だからいじめる体を装って、こっそりわたしを助けていた。

「交流といえる交流はそれくらいだし、卒業してからもずっと心配だったけど、あなたみたいに気にかけてくれる同級生がいてくれて、ちょっとホッとしたわ」

 事務員は優しく微笑んで言った。……やっぱり、本当のことは話せない。

 確かに、今の久留美は孤立していない。だけど、これでいいのだろうか。いじめられっ子であるわたしにとって、ではなく、いじめっ子である彼女にとって……今のこの状況が、もっと彼女を苦しめることになっているのではないか。空気に呑まれて同級生をいじめることが、彼女の本望ではないはずなのに。

 どうしたらいいだろう。わたしには何ができるだろう。

 事務員の女性にお礼を言って、四方山中学の校舎を出てからも、わたしは悩み続けた。自分以外の誰かを思って悩むのも、初めての経験だった。


 答えが出せないまま数日が経ち、わたしは相変わらず陰湿ないじめを受けていた。

 本来ならこういうことは、家族にでも相談するべきなのだろう。しかしわたしの場合、父親はだいぶ小さい頃に死んでいるし、母親は最近、外に作った新しい男に夢中で、手がかからなくなったわたしには無関心だ。こういう環境がいじめを深刻化させるのだが、わたしではどうにもならない。

 とはいえ今は、好転も悪化もせず、一部の生徒が加担しているだけに留まっている。要所で久留美がいじめに見せかけてやんわりと妨害するから、悪化する前に雰囲気が萎えるのだ。これもいつまでもつか分からないが……。

「うっ……」

 放課後になって、校舎を出ようと靴を取り出したら、ひどいものが目に入った。

 靴の中に、画鋲がしこたま敷き詰められている。

 くすくすとほくそ笑む声が、どこかから聞こえてきた。視界の端に見えたのは、同じクラスの生徒じゃなかった。悪化することはなくとも、わたしに吹く悪い風は、教室の外にも広がり始めているみたいだ。大方クラスの誰かが、わたしに関するいい加減な悪評をネットで広めているのだろう。

 ……ちょっと、悲しくなった。

 もしわたしがぼうっとしていて、靴の中の画鋲に気づかなかったら、足の怪我だけで済んだかどうか分からない。驚いた拍子に転んで、関節を痛めたり頭を打ったりしたかもしれない。どちらにしてもこれは、明確にわたしを傷つけようとしたものだ。

 わたしに、何の恨みがあるっていうんだ……今さら泣きはしないけど、やりきれない気持ちばかりが募っていく。

「…………」

「何ぼうっと突っ立ってんの、保坂」

 沈鬱な気分にあったわたしに声をかけたのは、久留美だった。

「うっわ、何その靴。画鋲でいっぱいじゃん。あんた、そんな靴履いて学校に来る趣味あったの? マジキショいんだけどー」

 わたしの靴の中を覗き込んで、久留美は嘲りながら言った。もちろんそんな趣味はない。

 すると、久留美はわたしから靴を奪い取って、簀子の置かれていないコンクリートの床の真上で、靴をひっくり返した。ジャラジャラと、画鋲が音をたててなだれ落ちていく。

「…………」

「血みどろの足で歩くとかホラーじゃないんだよ? こんなもの捨ててよ。あ、捨てるのは自分でやってねー。わたし鉄臭いの嫌いだからー」

 コンクリートの床に散らばった大量の画鋲に、ぼうっと気を取られていたわたしの足元に、久留美は乱暴に靴を放り投げた。やっぱりここでも、わたしの体に当たるように投げない。

 沈鬱だった気分が、一気に晴れていく。

 ……ああ、なんて優しいんだ。なんて不器用なんだ。

 顔を上げたとき、久留美はすでに背中を向けて、どこかに立ち去ろうとしていた。その背中がやけに頼もしく思える。気がついたらわたしは、その背中に向かって声をあげていた。

「久留美さん!」

 自分でも思いがけず、下の名前を呼んでしまった。ろくに話したこともないクラスメイトに。

 さすがの久留美も驚いた様子で振り向いた。

「ちょっ、何よ。気安く名前で呼ばないでくれる?」

 慣れ合うつもりはないと言わんばかりだが、動揺を隠せていないのが見て取れた。そんな彼女に、わたしは、思うままを言葉に込めた。自分の気持ちを、誰かに伝えたいと強く思えたのも、たぶん初めての経験だ。

「…………ありがとう」

「!」

 その言葉が、ちゃんと届いたのかどうか分からない。だけど彼女は、目を丸くし、その次には耳まで真っ赤に染めた。そして、おぼつかない口調で、わたしに言い放ったのだ。

「は、はあっ!? 意味分かんないんだけど! てか、なんでわたしがあんたに、あれ、逆か、いや合ってるか、なんでわたしがあんたに、感謝されなくちゃなんないのよ。ふざけないでよね!」

 そう吐き捨てるように言い残し、まるで逃げるように去って行った。周りの生徒たちも、何事かと立ち止まり呆然としている。

 わたしは……胸の高鳴りが止まらない。

 あの子の過去を知って、あの子の望みを知って、あの子の優しさを知った。たったそれだけのことが、これほどまでわたしに希望をもたらし、心を救い、惹かれてしまうなんて……自分にこんな気持ちが芽生えるなんて、知らなかった。

「ああ、やば……」

 ぎゅっと胸を押さえながら、わたしはこの思いを噛みしめていた。

『アイソレーション(isolation)』隔離、分離、孤立感。


このシリーズの第1話が、百合から始まるいじめを題材にしていましたが、今回は逆に、いじめから始まる百合を目指しています。過去のエピソードと比べても、格段に暗くてシリアスな内容になっていて、恐らく全編を通してコメディ要素は出てきません。

今回のネタそのものは、一年以上前から温めていたもので、ようやく日の目を見る時がきました。今後の展望としては、これまでのエピソードで抑え気味にしてきた、深井陽介の作風を前面に押し出しつつ、どうにかハッピーエンドに持ち込むつもりです。杏奈と久留美には、これからさらなる困難が待ち受けていますが、最終的には全部解決するので、ご安心を。

執筆ペースは速くないですが、また次回の更新をお楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ