7-4 時にはすれ違うこともある、友達だもの
今回はマテリエンヌの過去にも迫ります。テルを除く四人がどのようにして今の関係を育んだのか、温かい目でご覧ください。
フミちゃんは優しい子だ。いい意味でも、悪い意味でも。
彼女と出会ったことで、良くも悪くもわたしは変わったと思う。根っこや性格はそのままでも、周りに対する考え方が、少し変化したかもしれない。
両親から早くに歌の才能を見出され、幼い頃から音楽の英才教育を受けてきたけど、歌を生業にすることなど、少しも考えていなかった。歌の才能が必ずしも安定した仕事には繋がらないと、早いうちに気づいていたからだ。たいそうな夢なんてない。歌は教養として嗜む程度、将来の安定した生活のための礎のひとつ、くらいの認識だった。
だから、周りから勧められて出場したのど自慢の大会で、芸能事務所の人間から声をかけられたときは、正直言ってとても迷った。芸能界の厳しさは魔窟レベルだと、音楽の家庭教師から聞かされていたのだ。ところがスカウトを受けたという事実は強烈だったようで、周囲からわたしに向けられる期待は膨らむ一方だった。結局わたしは入所を決めた……歌が好きなのは確かだし、歌の技術を上げるための踏み台くらいにはなると考えたのだ。
……まあ、そんな後ろ向きな考えと高い技術が合わされば、孤立を招くのは必然だっただろう。ダンスに関しては学校で教わった域を出なかったけど、リズム感は鍛えていたから、習得に時間はかからなかった。だが、周りと歩調を合わせる訓練は、遅々として進まなかった。誰もわたしと組もうとしなかったからだ。
初めのうちこそ、物好きな子たちが一緒に練習しようと誘ってくることはあったが、次第に誰もがわたしから距離を置くようになった。歌にしてもダンスにしても、レベルの違いを実感して、とても一緒にやっていられないと、彼女たちは言っていた。……たぶん、彼女たちがミスをする度にわたしが毒のある発言をしてしまうのも、理由のひとつだと思うけど。
別に気にしなかった。この事務所でグループを組んでデビューする気はなかったし、元々わたしは面倒な人間関係が嫌いだったから、孤立することには慣れていた。周りの大人たちは無責任で虚栄心の塊みたいな奴らばかりだし、早くから夢見ることをやめたわたしのことを、周りの子たちは「つまらない」と言って関わりを避けていた。わたしも、そんな連中と関わるのはごめんだったし、いつしか他人への関心そのものが薄れていた。
だから、同期で唯一、わたしのそばを離れなかった彼女のことを、最初は疎ましく思っていた。
「まーたハブられちゃったの、雲塚ちゃん。もうちょっとみんなと仲良くしようぜー」
空知芙美は、なぜかいつもわたしに絡んでいた。初めてわたしの歌声を聞いた時から、わたしのことを気に入っていたらしい。
「うるさいなぁ。群れたい人たちで勝手に群れればいいじゃない」
「そんなんじゃ、協調性が育たないぞー」
「びっくりするくらい協調性という単語が空虚に聞こえるわ……覚えたての小学生なの?」
「あはは、言ってるわたしがまず協調できてないからねー」
……なんか悔しかった。手っ取り早く関わりを避けるために、自然と毒舌が磨かれたけど、彼女には微塵も効いていない。
「空知さん、だったかしら。あなたここ最近レッスンにあまり出てないわね」
「いやあ、思ったほど歌もダンスも上達しなくて……割と諦めかけてる」
「大丈夫よ。みんな下手くそだから」
「おぉう……はっきり言いますな。ま、実力以上の力なんて出せるわけがないんだし、わたしはわたしのやり方で、アイドルめざしますよ」
毒舌が通じないばかりか、その無垢な瞳はキラキラと輝いていた。確固たる夢を抱き、その夢に向かって進もうという意思が見えた。……わたしとは正反対だ。
「まあしかし、雲塚ちゃんがアイドルになったら、きっと勝ち目はないんだろうなぁ」
「……わたし、アイドルになるつもり、ないから」
「はあっ!?」フミちゃんは本気で驚いた。「なんで? あんなに歌上手くて、スカウトされて入所したのに?」
「ここでのレッスンなんて踏み台にすぎないわ。労せず練習環境が手に入ると思ったから入っただけ。歌うのは好きだけど、将来的に世渡りの道具にでもなればいいのよ」
この告白には、さすがの彼女も愕然としていた。
「とんでもねぇカミングアウトを聞いてしまった……あ、だから誰ともつるまないの?」
「ええ。だからあなたも、わたしとはくれぐれも関わらないことを勧めるわ。歌声は綺麗でも、話す言葉は汚い……わたしはそういう人間よ。よく言われるの」
これはついさっきも同期の子から言われたことだ。……もとい、言い方はもうちょっとソフトだったし、わたしに直接言ったんじゃなく、陰で話していたのを聞いたのだが。
すると、フミちゃんは首をかしげて言ったのだ。
「……? 歌の上手さとしゃべりの上手さは別物でしょ?」
「…………!」
「実際わたしも、歌は上手くないけど、トークスキルには自信があるからねぇ。ていうかそれなら、わたしと雲塚ちゃんでユニット組めば、ぴったり帳尻が合うじゃない。互いのダメなところを補ってこそのグループでしょ?」
「話聞いてた? わたし、アイドルになるつもりはないんだけど」
「さーて、そんなものがプロデューサーに通用するかなぁ? 一度スカウトした、技術のあるタレントの卵を、事務所がそう簡単に手放すとも思えないけどねぇ」
くっ……見た目アホそうなのに、痛いところを突いてくる。確かによほどの問題が起きない限り、高い技術を持ったタレントを手放す可能性は低い。キリのいいところで独立しようと思っていたが、どうやら認識が甘かったようだ。
「それにわたし、どうせユニットを組むなら雲塚ちゃんと一緒がいいな。歌が上達するコツとかも教えてもらえそうだし、それに……」
「それに?」
「何よりわたしが、雲塚ちゃんの歌を、誰よりも近くでいっぱい聞きたいからさ」
フミちゃんは屈託のない笑みを浮かべて言った。
夢を持つことをやめたわたしには眩しすぎたけど、不思議と嫌な感じはしなかった。思えばこの時から、すべては始まっていたのかもしれない。
それからわたしはフミちゃんと共に、研究生四人でユニットを組むことになった。不安がないわけじゃなかった。サラちゃんは真っすぐな努力家で、自他ともに厳しいことで有名だったから、正直わたしは苦手だった。ひとつ年下のチカちゃんは、選ばれて嬉しいけど自分なんかでいいのか、とでも思っていそうな不安げな表情だったのを覚えている。このメンツでは長続きしないだろうと思ったから、わたしは参加を拒否しなかった。解散すれば事務所を辞めるいい口実になると考えたのだ。
とはいえ、解散や退所をしようにも、大きな障壁があったのだが。
「ほら、やっぱり一緒になったね。これからよろしく、ネム」
願いどおりにユニットを組めたことで、勝手に仲間意識を持ったのか、フミちゃんはこの時からわたしを下の名前で呼ぶようになった。彼女はそう簡単にわたしから離れない。彼女がいる限り、わたしはグループを離れることも、事務所を辞めることもできない。
……うん、たぶん、フミちゃんの悲しむ顔を見るのは、気が引けたのだろう。いつしかわたしはフミちゃんの、穢れを知らない笑顔を、好きになっていたのだ。
わたしの予想に反して、結成されたグループ・Materienneは順調にファンを獲得していき、ついにメジャーデビューを果たした。マテリエンヌでの活動が進むごとに、徐々にわたしの、辞めたいという気持ちは薄れていった。
「いやあ、盛り上がったねぇ。やっぱマテリエンヌ最っ高だわぁ」
デビューして最初の単独ライブを終えて、フミちゃんと一緒に帰路に就こうとしていた時のこと。わたしはその日のライブを振り返って、複雑な気持ちになっていた。
「……そう、ね」
「おいおい、同意の言葉が煮え切らないな。ネムは不満だったの?」
「いいえ……わたし、不覚にも、楽しんでしまったみたい」
「ぷっ」フミちゃんは失笑した。「何それ、不覚って……せっかくのライブなんだから、やってる側も楽しまないと損でしょー」
そう言ってわたしの先を歩いていくフミちゃんの姿に、わたしは胸騒ぎが収まらなかった。あんなにやる気を出せなくて、時に見下してもいたアイドルの仕事を、いつの間にかこのわたしが、楽しんでしまっている。こんなにも、離れがたいと思ってしまっている。どうして?
理由は分かっていた。わたしのそばには、いつもあの子がいた。彼女がいるから楽しくて、彼女がいるから離れたくない。虚飾にまみれたアイドルの世界で、純粋に好きで楽しんでいる彼女は、いつしかわたしの心を溶かしていた。
彼女の引力を感じながら、わたしは彼女の後ろ姿に駆け寄って、背中から抱きしめた。
「ちょっ、ネム……?」
「フミちゃん」震える声で耳元にささやく。「今日、フミちゃんの家に、泊まってっていい……?」
この日からわたしとフミちゃんの、互いの家に泊まりに行くという関係が始まった。
それから数か月の時が流れ、相変わらずその関係はズルズルと続いている。今日はわたしがフミちゃんの家にお邪魔している。
「ああ~……なんであんなこと聞いちゃったかなぁ。こうなるって分かってたのにさぁ」
フミちゃんはテーブルに突っ伏して、ひとり大反省会を始めていた。その手にはサイダーの入ったコップが握られている。例によって炭酸飲料で酔っているのだが、どうやら今日の出来事で、彼女は酔いたい気分だったらしい。
「まあ、いずれ分かることだったんだし」
「でもさぁ、わたしらの少なくとも三人は片思いで決まりなんだよ? 事務所にはわたし達以外にも女子がいっぱいいるし、両思いの確率は四分の一以下……望み薄だよ。これで酔わずにいられるかぁ!!」
「フミちゃん、近所迷惑になるから叫ばないで」
本当に酒癖が悪い、もとい炭酸癖が悪い。これは将来、お酒を飲むようになったら、もっと手が付けられなくなりそう。
この日、フミちゃんは街で偶然テルちゃん、中江輝美と出くわし、話の流れで思わず、テルちゃんに好きな人がいるか聞いてしまった。結果、同じ事務所にいる女性を好きになった、という答えが返ってきたという。マテリエンヌのメンバー五人、揃いも揃って、である。
「というか、その好きな人の名前は聞かなかったの?」
「聞けるわけないじゃん、怖いもん……」
「あー、フミちゃんって変なところで、その……鶏肉さんになるし」
「普通にチキンって言えっ! オブラートの包み方が下手だな!」
叱られてしまった……やっぱり慣れないことはするものじゃない。今まではオブラートの持ち合わせすらなかったからなぁ。
「でも、可能性はゼロじゃないでしょ? 何もそこまで落ち込まなくても……」
「だってさぁ、好きな人の前で、自分は同性の子が好きなんだって言えると思う? いくら変に思わないって言われても躊躇するでしょ。わたしだったら絶対言えないよ……」
それは割と人による気がする。積極的な性格だったら、相手に気があるそぶりを見せたくて、それっぽいことを言うかもしれない。テルちゃんの返答がその類いでないとは言い切れないのだ。わたしだったらどうだろう……想像するのが難しい。何しろ今まで、どんな形でも人を好きになった経験がないから、自分が恋愛に関して積極的かどうか分からないのだ。
フミちゃんはどうなのだろう……恋愛に関して消極的、あるいは奥手だと自覚しているのか。彼女は普段からテルちゃんに積極的に絡むけど、これは他のメンバーに対しても変わらない。逆にテルちゃんから褒められたりすると、恥じらいながら満更でもなさそうな態度をとる。これも普段から調子に乗りやすいフミちゃんのことだから、何ら特別な反応ではない。こうしてみると、フミちゃんは言うほど恋愛に奥手ではなさそうだが。
たぶん彼女の場合、アイドルとしての素養に自信がないから、テルちゃんに好意を寄せられる、もしくは自分の好意を受け止めてもらえることに、確証を持てないのだ。普段そんな自信のなさを表に出さない分、本当の自分をさらけ出しても大丈夫だと思わない限り、自分から好意を告げる勇気が出ない……同性だったらなおさらだろう。
チカちゃんが同じ理由で、自分がテルちゃんに好かれる可能性を疑った時、フミちゃんがあれほど感情的になったのは、まるで自分を見ているように思えたからじゃないか。自分の、認めたくない側面を見せられたような、そんな気になったのではないか。
……まあ、フミちゃんが認めたがらないなら、わたしに本心を知るすべはないのだけど。
わたしはフミちゃんの隣に寄り添って、自分でも薄っぺらに感じる言葉をかける。
「大丈夫だよ。フミちゃんは素敵な女の子だよ。この恋が叶うかどうかは分からないけど、テルちゃんならきっと受け止めてくれるよ」
薄っぺらでも、本心だった。何よりもわたしが、そうあってほしいと願っている。わたしだって、テルちゃんに恋をした一人だし、フミちゃんの魅力を知っている一人だから。
すると、ずっとテーブルに突っ伏していたフミちゃんが、ゆっくりと顔を上げてこちらを向いたかと思うと……わたしの両肩をどんと突いて、仰向けに倒れたわたしの上に覆いかぶさった。
あれ、何が起こったの? フミちゃんが四つん這いになって、困惑しているわたしを見下ろしている。不覚にも……あくまで不覚にも、わたしの鼓動が早まっている。
「えっと、フミちゃん……よくないよ? 酔った勢いで押し倒すなんて」
わたしは笑ってごまかそうとしたけど、フミちゃんは酔いが回って赤らんだ顔で、じっとわたしを見つめている。徐々にその顔が、わたしに近づいてくる。
どうしよう……と思っていると、フミちゃんが口を開く。
「ネムって……顔はわたしの好みなんだよね」
「え?」
フミちゃんはぼそっと呟くと、わたしの上に倒れこんできた。幸い、頭はわたしの横にそれた。フミちゃんの温もりが、鼓動が、息遣いが、全身に伝わってくる。
「フミちゃん……?」
「わたしは別に、女の子が好きってわけじゃないんだよ。でも、ずっと考えてた……わたしが最初に好きになるとしたら、たぶん、ネムなんだろうなって……」
「…………」
「ネムがわたしのこと、特別だと思っていることには気づいてた。マテリエンヌに自分の居場所を見出して、でもそれでも不安があって……必死に自分を隠そうとしていることにも気づいてた。わたしがネムの気持ちに応えられたら、きっと力になれるって思ってた……」
そんなことを……なんとなくだが、フミちゃんには気づかれている気がしていた。わたしが自分の居場所を確保するために、どれほど素の自分をごまかしているか。仕事の時は気を張っていても、フミちゃんと二人の時には緊張が解けて、いつもは見せない素顔をあらわにしていたと思う。それでもフミちゃんはそばにいてくれたけど、まさかそこまで想っていたなんて……。
服越しにフミちゃんの震えが伝わってくる。……泣いているの?
「なんで……なんでもっと早く、ネムを好きにならなかったんだろ……そうしたら、こんなにグダグダ悩まずに済んだのにぃ……」
フミちゃんの両手が、わたしの肩口をぎゅっと掴んでいる。耳元で、ぐすっ、ぐすっ、と泣きじゃくる声が聞こえてくる。
フミちゃんは優しい。こんなわたしでも、好きでいてくれる。もうとっくにわたしを特別に想っているのに、気づく前にテルちゃんへの好意を自覚してしまった。わたしも同じだと分かっているから、こうやって泣く事ができるのだ。
わたしにはできない。わたしは、他人に優しくなれないから。
せめて、フミちゃんの震える背中に手を回して、その温もりを受け止めよう。彼女が疲れて眠りに落ちるまで、そばにいてあげよう。彼女の優しさを受け止めきれなかった、その償いに。
* * *
野村千花という少女は、本当に不思議な存在だ。
決して目鼻立ちが優れているわけでもなく、高い技能を有しているわけでもない。それは本人も十分に自覚している。しかし、マテリエンヌのファンの中には、彼女を推している人が必ず一定の割合で存在している。安定してファンを確保できるというのは、それだけで人気の証なのだ。何がファンの人たちの心を繋ぎとめているのだろう。
わたしは詳細を知らないが、彼女は小さい頃からアイドルに憧れて、自分もなりたいという夢を抱き、ひたむきな努力を重ねてきた。外見も技能も平均くらいの彼女が夢をつかむには、並大抵の努力では足りなかったはずだ。それこそ、血が滲むほどのものでなければ。
その手の努力なら、わたしもたゆまず続けてきた。でもそれは、チカの努力と本質的に異なる。わたしの場合は、すでに持っていた技能をさらに極める努力であり、彼女の場合は、及第点との差を埋めるための努力だ。半可な覚悟で臨めるものでない点は同じだが、努力が実らなかった時のダメージは、彼女の方が何倍も大きい。チカは、いつ事務所を首にされるか分からない恐怖と戦いながら、必死に食らいついてきた。契約で守られていたわたしとは違って……。
もちろんファンの大多数は、そんな内部事情を知らない。それでもチカのパフォーマンスには、そうした努力の跡が滲んで見えるのだろう。洗練されたものでなくても、面白おかしいものでなくても、ファンは純粋に、彼女の頑張る姿を見守りたくて足を運ぶのだ。庇護欲を掻き立てられる愛されキャラ……ネムは以前にチカをこう評していたが、確かに言い得て妙だと、わたしも思う。
とはいえ、それはごく最近の話だ。わたしは長らく、チカのそうした評価に否定的だった。
エンターテイナーはまず技術を極めるべきだ……そう考えていたわたしにとって、チカの努力は不毛としか思えなかったのだ。技術に裏打ちされた芸風でなければ、一時的に注目されても、すぐに飽きられて相手にされなくなる。周りの連中が、見守っていたいと思わせる魅力があると言っていても、そんな魅力に意味はないと、内心で小馬鹿にしていたものだ。
それが変わり始めたのは、チカが入所して三か月ほど経った頃だ。わたしはその日、マネージャーの一人だった鬼龍院氏に呼び出されて、新しいユニットに関して打診を受けていた。構想段階だが、参加してみないかと誘いを受けたのだ。舞台のエキストラの仕事も控えていたので、すぐに返事はしなかったが、前向きに考えておくとだけ言っておいた。
その帰りにレッスン室を通りかかった時だ。日没を過ぎ、他の研究生が全員帰ったというのに、チカだけがレッスン室に残ってダンスの練習をしていた。
まだやっていたのか……と思いつつ覗き見ていると、目の前でチカは、足がもつれて転倒してしまった。見るからに手首を床にしたたか打っていて、さすがのわたしも放っておけなかった。
「ちょっと! 大丈夫?」
「っつ……すみません、心配おかけして……あ、萬田さん」
「さっき手首ぶつけたみたいだけど、捻挫とかしてない?」
「えっと……」チカは左手首を右手でくりくりと弄る。「たぶん大丈夫です。骨をぶつけて痛かったみたいです」
本当だろうな……念のため、わたしもチカの左手をとって、異常がないか確かめてみた。素人が確かめたところでどうなの、とは思ったが。
「ふぅむ……ひとまず問題はなさそうだけど、少しでも痛みを感じたら診てもらいなさい」
「あ、はい……」
「それよりあなた、野村さんだっけ……こんな遅くまで練習してたの?」
「はい……わたしには、あまり時間がないので。使える時間はなるべく練習に充てたいんです」
「熱心ね……そういえばあなた、準所属だっけ。詳しいことは知らないけど、期限内に仕事を得られないと解雇されるのよね」
「そうです……歌もダンスも下手ではないつもりですけど、やっぱり皆さんほど上手くはできなくて……だから人よりたくさん練習するしかないんです」
チカは止まっていたラジカセのスイッチを再びONにした。インストだけの音楽が流れる。鏡張りの壁の前に立って、チカは音楽に合わせて踊り始める。
……どうもぎこちない。細かい体の動きを気にしすぎて、自然な動かし方ができず無理をしているように見える。これはもうセンスの問題と言っていい。残念ながら、これ以上練習を重ねても、人並みをやや上回る程度で、この世界で通用するレベルには達しない。
「そんな必死こいてダンスを上達させなくても、準所属から抜け出したければ、キャラ作りで勝負すればいいんじゃない? あなた、研究生の間では割と人気だし、ああいう愛されキャラを目指せば、お茶の間にもファンを獲得できると思うけど?」
「人気なんですか、わたしって?」
自覚がなかったのか。彼女の口調はどう見ても、満更でもなさそうにおどけている、という感じじゃない。他人からの評価が気にならないのだろうか。
もちろん今の言葉はただの皮肉だ。キャラ作りだけで生きていけるなんて、本気で思ってはいない。ただ、準所属から抜け出すには、プロデューサーに目をかけられる必要があるし、技能の足りない人間ならそれも選択肢の一つだと思っただけだ。
「まあ、仮にそうだったとしても、キャラ作りで人気をとるつもりはないですよ」
「ふうん? そりゃどうして」
「ご存じだと思いますが、わたしは補欠合格で運よく入所できた、立場も能力も最底辺の人間です。それでも今後の伸びしろに期待すると言われて、ここに置かせてもらっています。入ってみればわたしより上手い人ばかりで、追いつこうと頑張れば生暖かい目で見られて……腸が煮えくり返るんですよ、そういうの」
「…………!」
唐突に怒りの滲んだ言葉が聞こえて、わたしは思いがけず驚いた。わたしの皮肉には動じなかったくせに、同情や甘やかしに怒りを覚えるとは……。
音楽が終わって、チカは息を切らしながらその場に立っている。
「……わたしがステージに立つ日を、心待ちにしている人がいるんです。その人のために、わたしは胸を張ってステージに立ちたい。だからこれ以上、誰かの情けや運で、身の振り方を決めるなんて御免なんです!」
チカは吐き出すように怒りの言葉を……覚悟をぶちまけた。
ぞっとした。彼女の覚悟の強さに。そして何より、わたしの浅はかさに。
ひたむきに努力する姿が庇護欲を掻き立て、周りを惹きつける魅力を生む……本人がその評価に甘んじていると、いつしか錯覚していた。いや、そう思うことは自然なはずだ。周りの評価を聞いて、生き残るための手段に替えるのはよくあることだ。チカだって、そういうキャラ作りに活路を見出しても不思議じゃなかった。
でも実際は違った。彼女はわたしと同じく、技術を磨くことで、自信をもってステージに立ちたいと考えている。そのための努力を惜しまない。周りが何と言おうと、惑わされずに自分のやり方を貫こうとしている。……周りに惑わされていたのは、わたしの方だ。
ああ……こういうところか。彼女が周りに愛される所以は。
胸が高鳴る。今わたしは、強烈にチカを応援したくてたまらない。
「チカ、もう一回最初から、通しで踊ってみて」
「えっ、通しで? まだ細かいところができてないんですが……」
「細部は後回しでいい。まずは全体の流れを体に染み込ませて。幹の部分をしっかりさせないうちに、枝の先だけ育てても、不格好なものにしかならないのよ」
「あ、はい……」
「ほら、早く準備して!」
その日は夜遅く、事務所が施錠される時間まで、わたしはチカの練習に付き合った。普段よりもずいぶん厳しめな指導をしたと思うけど、それでもチカは文句ひとつ言わずついてきた。そんな彼女の姿に、このたった二時間ちょっとで強く惹かれていった。
なるほど……アイドルに心惹かれ、応援したいと思うファンは、こんな気持ちなのか。わたしは初めて、ファンの心理というものを理解した気がした。
終わった時には外も真っ暗になり、わたしとチカは途中まで一緒に帰ることになった。チカは田舎から出て来てアパートに一人暮らしだというから、途中までだと少々心配なのだが。
「今日はありがとうございました……こんな遅くまで付き合ってくださって」
「いや、わたしは構わないけど……ねえ、そろそろ敬語はやめてもいいんじゃない?」
「色々教えてくれた先輩にタメ口はちょっと……」
「いいんだよ。どうせ、これっきりにするつもりなんて、ないし」
ポカンと口を開くチカ。いくら何でもこれで伝わらなかったら、さすがに悲しい。
「それって……これからもわたしに、ダンスを教えてくれるってことですか」
「……ええ。まあ、チカが良ければ、だけど……」
「もちろんいいですよ! 萬田さん、研究生の中でも群を抜いてダンスが上手ですし、すでに舞台経験を積んでいるらしいじゃないですか。そんな人に今後も教われるなんて光栄です!」
割と言われ慣れているはずなのに、チカから真っすぐ尊敬と憧れの眼差しを向けられて、ひどく落ち着かない自分がいた。
「ああでも、貰いっぱなしじゃ悪いような……萬田さん! お礼に何か、わたしにできることがあれば仰ってください!」
「チカにできること、か……じゃあ」
「はい」
「今すぐ敬語をやめて。もうすでに違和感が半端ない」
「えぇー、それは厳しいですよ……」
まあ、すぐには無理だろうな。これからゆっくりと距離を縮めればいい。そう、ゆっくりと……。
なんて、無理だった。
「じゃあ、今はこれでいい」
そう言ってわたしは、チカを、正面から抱きしめた。とうに事務所から離れて、人通りの多い場所で、である。いいさ、どうせ傍観者効果で誰も気に留めない。
「あ、あの、萬田さん……?」
困惑しているチカの耳元で、わたしはささやいた。
「沙良」
「え?」
「せめて下の名前で呼んで。わたしはチカと、対等に付き合いたい」
「あの、それって……」
「大丈夫、わたしはチカの夢を応援する。わたしが必ず、チカを立派なアイドルにするから」
こんなにも、誰かの力になりたいと思ったのは初めてだ。自分以外の誰かの夢が叶ってほしいと、心から願ったのも初めてだ。そして……我が身を委ねたいと思ったのも。
「その代わり……わたしが疲れたときは、こうやって甘えさせてほしい。お願い」
同性でも抱擁には慣れていないのか、直に聞こえるチカの息遣いには緊張が混じっていた。それでも最後には、はっきりとこう答えた。
「……は、はい」
たぶんわたしは、仲間がほしかったのだ。一匹狼を気取っているようで、本当は誰かに、自分の気持ちに共感してほしかった。そうした仲間になれそうな人と出会えて、わたしは無性に、その人に自分のすべてをさらけ出したくなった。
わたしはきっと、いつチカを本気で好きになってもおかしくなかった。彼女の努力に惹かれ、彼女の優しさに甘え、彼女の夢を願った。女の子だろうが関係ない。わたしがチカを好きになるのは時間の問題だったのだ。
それなのに、今のこれである。
「はあ、はあ、っ……どうかな、サラちゃん」
息を切らして、わたしを振り向くチカ。出会った頃とくらべたら、かなり打ち解けたよな……なんて感慨にひたっている場合じゃない。
「うん、完璧。あとは本番でどこまで力を発揮できるかだね」
「うーん……本番に弱いと思ったことはないけど、何が起きるか分からないからなぁ」
何の話をしているかといえば、それはもちろんダンスの話である。断じて劣情の絡んだ話ではない。
「まあ、多少失敗しても、ファンの人たちは大目に見てくれるよ。よほど重箱の隅をつつかないと気が済まない、心無い輩がいなければね」
「ああ、いるよね……何かとネットで芸能人を叩くひと。しかも批判の内容はたいていどうでもいいことなのに、あたかも客観的な評価みたいに書くんだよね」
「正直そんな連中は無視するに限るんだけど、この手の“炎上大好き人間”は、たとえ多数派から排除されてもくすぶり続けるからね。チカは心配ないと思うけど、問題は……」
……ああ、いかん。またあの子の話にシフトしてしまう。最近は油断しているといつも、あの子の姿が脳裏に浮かんでしまうのだ。
あの子、とは中江輝美、愛称テルのことだ。今のわたしの、意中の人である。
…………。
「どうしたの、サラちゃん。頭痛いの?」
馬鹿なことを考えてしまったと頭を抱えるわたしに、チカが心配そうに声をかける。
「いや、大丈夫……ちと反省したいと思ったとこ」
「?」
「それより、わたしがいない間、しっかり練習していたみたいだな」
わたしはここ数日、振り付けの勉強のために関西へ出張していた。デビュー前から、舞台に出演するために遠方へ行くことがままあったので、出張そのものには慣れているが、今回は学んだことをマテリエンヌの活動に還元する予定なので、今まで以上に緊張感をもって臨んだ。
そしてその出張の間に、先日のライブで気になったチカのダンスの問題点を、修正しておくように頼んでいたのだ。結果、チカは見事に応えてくれた。
「まあね……大変だったけど、サラちゃんの言うことなら間違いないし」
「そっか……」
ダンスに関して、チカがわたしを信頼してくれるのは素直に嬉しい。だけど今のわたしが、果たして信頼に値するかどうか、自分では今ひとつ実感できない。ここ最近はテルのことで集中が切れることが多く、ダンスの精度が落ちているのでは、と不安に思っている。今回の出張の目的も、一度テルのいる関東を離れて、振り付けの勉強に集中したかったという事情があった。
とはいえ、戻ってみれば、テルのことを考えない時間はほとんどない。こうなるともはや病気だ。
「サラちゃん……やっぱりちょっと疲れてる? 膝枕しようか?」
本当に、わたしの異常にはよく気がつくな、チカは。
「そこまで疲れてないからいいよ……ただ、テルちゃんのことは、そろそろケリをつけたいと思ってる」
「テルちゃんの……」チカの表情が曇る。
「フミから聞いてると思うけど、あの子、うちの事務所に好きな人がいるらしいな。それも女性」
「うん……それでフミちゃん、最近落ち込み気味なんだよね」
あいつ、普段はお調子者で明るく振舞っているのに、こと恋愛が絡むとネガティブになるな。わたしも人のことは言えないが……。
「まあわたし達としては、テルちゃんが誰を好きであっても、黙って応援するくらいのことはしてやりたいけど、それで綺麗に丸く収まる保証はないんだよな」
「わたしのせいでもあるよね……この間のこと、みんなまだモヤモヤしているみたいだし」
この間のこと、というのはたぶん、テルが加入して最初のライブのラストで、チカがテルに抱きついた件のことだ。あれはわたしの一言で、チカの責任を問わないってことで終わらせたけど、澱のようにくすぶっているのも確かだ。
「それは否定できないけど、あまり責任を感じることもないんだよ? 気持ちは分からなくもないから……好きな人と一緒にいたら、衝動的に抱きつきたくなることもあるし」
ん? なんでその気持ちがわたしに分かるんだ。誰かに抱きつきたいと思ったことなんて、思いだせる範囲では一度しか……。
ああ、もう。あれはそういう意味でやったわけじゃ……いや、どうなんだろう。いかん、思いだしたら顔が火照ってきたような気がする。チカには気づかれたくない。
「……それだけなのかな」
俯いているチカが、ぼそっと呟いた。
「え?」
「テルちゃんのことは間違いなく、恋愛的な意味で好きだけど……あの時抱きついたのは、それだけが理由じゃない気がする」
「どういうこと? 他にも何か原因があるっていうの?」
「分からない……そんな気がするだけで、それが何なのか自分でも分からなくて……」
顔をくしゃりと歪め、片手で押さえつけるチカ。泣きそうな声を漏らす。
「どうしよう……」
その一言に、わたしは凍りついた。まただ。またわたしは、チカの気持ちを察せなかった。
チカがここ最近、自分がマテリエンヌのためにできることを、必死で探しているのは知っていた。その過程できっと、一時的とはいえグループ内に不和をもたらした、自分の行動を顧みたに違いない。わたし達はずっと、あの抱擁が恋愛感情の暴走だと思っていた。でもチカが改めて自分の気持ちと向き合ったとき、まるで別の答えが出てきたのだ。
恋愛感情ひとつで片づけられない、もっと複雑な感情の存在に、チカは気づいてしまった。そのせいで人知れず悩んでいたのかもしれない。それなのに……。
それなのに、わたしはどこかホッとしている。しちゃいけないはずなのに。
「……感情とか気持ちが言葉で説明できないって、よくあることだと思う」
「……そうなの?」
「複雑な感情を言葉で表現できる人って、すごいと思うけど、きっとできない人が大半だと思う。不安に思うのは当然だけど、だからって無理に言葉にするのは違う気がする」
わたしだって、チカに今抱いている気持ちを、言葉で説明するのは難しい。
「そっか……」
「でも、いつかは言葉にしないと、後悔するかもね。今あるモヤモヤを断ち切るなら、覚悟を決める必要がある」
「え?」
難しくても、不器用でも、言葉にしなければ気持ちは沈んだままだ。このまま腐らせるくらいなら、ちゃんと伝えてスッキリさせた方がいい。
わたしの中にある違和感や、断ち切れない迷い……それらはすべて、わたしがまだ一歩を踏み出せないでいるからだ。今後のわたしのために、何よりもマテリエンヌのために、いい加減わたしも腹をくくらなければなるまい。
「チカ、提案がある。近いうちに、テルちゃんに告白しよう。四人で」
「ふあっ!?」
驚きすぎてチカが変な声を上げた。まあ、そう反応するよな……。
「誰かはきっと断られることになる……あくまで目的は、わたし達の中のモヤモヤを解消することにある。気持ちをはっきりと告げて、テルちゃんの答えを聞いて、気持ちの整理をつける」
「待ってよ! 四人から一斉に告白されたら、テルちゃんが困るんじゃ……」
「そうだな。だけど、わたし達の間で何の同意もなく、好き勝手なタイミングで告白すれば、もっとテルちゃんを悩ませることになる。あらかじめ、どんな答えが来ても恨みっこなしだと、四人全員が同意したうえで告白すれば、テルちゃんを悩ませるものは減らせる」
本来なら、テル本人の口から意中の人を聞いた方がいいのだろうが、それでわたし達の気が晴れる保証はない。気持ちを伝えたうえで聞いた方が、お互いにとって後腐れがない。一時的な心のダメージは覚悟しなければならないが……。
「でも、心の準備が……」
「今すぐ告白しようってわけじゃない。全員、それなりに準備をしておく必要がある。これは恋愛シミュレーション企画の総仕上げだと思って、そのつもりで準備してほしい。……いい加減、このあやふやな状況にも、ケリをつけたいからな」
チカはまだ不安そうだったが、ぬるま湯のような片思いを続けたところで、マテリエンヌの活動に支障をきたすばかりで、いいことはひとつもない。長引かせるわけにはいかないのだ。
「急な話なのは分かってる。でも、これで迷いを断ち切れたら……」
「……断ち切れたら?」
ここから先は、正面切って口にするのが難しい。わたしは踵を返して、チカから顔を背けた。
「……チカのこと、ちゃんと向き合えると思うから」
「…………」
「じゃあ、わたしはそろそろ行くから。スケジュールが決まったら知らせるね」
わたしは逃げるようにその場を離れた。チカの反応を見るのは怖かった。
レッスン室を出て、廊下を速足で駆け抜け、誰もいない休憩スペースまで来た。壁にもたれかかって、バクバクと激しく脈打つ胸を押さえる。
「はあっ、はあっ……こんなつもりじゃ、なかったのに……」
マテリエンヌに不和を起こさないよう、自分の気持ちはなるべく押さえ込むつもりでいた。それなのに、チカがああやって深く悩んでいる姿を見ていたら、なんとか状況を打開したいと思う気持ちが強くなった。
なんでそう思ったのだろう。なんであんなことを、チカに言っちゃったんだろう。
……本当に、不思議な存在だ。
* * *
行ってしまった。そして、どういうわけか決まってしまった……。
止めることはできなかった。サラちゃんも必死なんだ。どう見ても暴走しているけど、うだうだ悩んでばかりのわたしには、止める言葉が思いつかない。
もう逃げ道はない。テルちゃんへの気持ち。サラちゃんがわたしに向ける気持ち。そしてまだ、名前も付けられないこの気持ち。全てに決着をつける時が近づく。カウントダウンは始まったのだ。
考えなくちゃ……わたしにできることを。マテリエンヌのためにできることを。
野村千花という人間に眠っている何かを、探さなくちゃ。
* * *
年内最後の模試が終わって、わたしは試験会場を出た。そろそろマフラーなしでは外出が嫌になる時季になってきた。吐き出す息も白くなっている。
「そろそろ鬼龍院さんと、スケジュールの相談しなくちゃ……」
マテリエンヌの先輩たちは、高校に通っていないらしい。せいぜい、ネム先輩がボイトレの教室、チカ先輩が月に三回ほど予備校の講座に行っているくらいだ。
でもわたしは親との約束で、アイドルとして活動するのを許す条件として、高校をきちんと卒業しなければならない。そのためにはまず、来年の高校受験を突破しなければならない。残念ながら今の事務所の先輩方は、ほとんど高校受験を経験していないので、勉強の助けにはならない。つまり勉強は自力でやらないといけないわけで……。
「よしっ、帰って勉強の続きだ」
寒空の下、わたしは家路を進んでいく。ここ最近は模試の成績も上がっているし、油断せず勉強を続けていけば、なんとか志望校には手が届くはずだ。
アイドルの仕事はまあまあ順調といえるだろう。来年からオンエアされる予定のCM撮影も滞りなく行われ、春に発売する予定のファーストアルバムのレコーディングも始まっている。アルバムの内容はまだ確定していないけど、シングル曲はすべてわたしを加えて再録するという。雑誌やラジオの仕事にも加わることが増えて、充実したアイドル生活ができていると思う。
ただ、気がかりなことがひとつ……。
マテリエンヌの先輩たちは、初めて会った時からわたしを可愛がってくれるけど、大事な集まりには時々呼ばれないことがある。マネージャー兼プロデューサーの鬼龍院さんに言わせれば、全員が集まって話し合う方が珍しいとのことだけど、やっぱりまだ、わたしを仲間として認めきれていないのでは、と不安に思うこともある。
ここ最近も、仕事以外で先輩たちと会うことがない。仕事に忙殺されて友達とも会う機会が減っているし、受験勉強もあって遊びに行くこともままならない。
なんか、寂しいな……。
会いたいな。わたしの居場所を作ってくれた、大切な先輩たちに。
そう思っていると、スマホからピコンと音が鳴った。ラインの通知が来たのだ。開いてみると、マテリエンヌのグループラインに、リーダーのサラ先輩からメッセージが届いていた。
『12/24にマテリエンヌの皆で、ささやかですがクリスマスパーティーをやろうと思います。年内最後のライブを前に、いい機会なので親睦を深めましょう。参加したい人、返信願います』
「…………!」
クリスマスパーティー。今年は受験があるからといって、友達の間ではその話はなくなっていた。それが、マテリエンヌの先輩たちと一緒にできるなんて……。
ああ、どうしよう。ニヤニヤが止まらない。
わたしはすぐにメッセージを返した。スタンプだけど。
『よろこんでー!』
「ちょっとノリがよすぎたかな……」
でも楽しみだなぁ。色んなことがあったこの一年の締めくくりを、大切な先輩たちと一緒に過ごせるなんて……わたしはなんて、恵まれているんだろう。
灰色に澱んだ空を見上げて、まだ少し先のクリスマスに思いを馳せていると、綿のような白い粒が、ふわふわと舞い降りてきた。
「わぁ、雪だ……!」
* * *
サラから、クリスマスパーティーの誘いが来た。
あいつは近いうちに、四人でテルっちに告白する機会を作ると言っていた。そのためには、五人全員が一堂に会さないといけない。テルっちにあらかじめ知らせるわけにはいかないから、何かしら建前を用意する必要がある。
なるほど……サラの狙いを読んだわたしは、テルっちがスタンプで返信したのを確認すると、すぐに続けて返信を送った。
『よかろう。楽しいパーティーにしようじゃないか』
自室の窓を開けて、薄い雲に覆われた空を見上げる。
あの一件以来、ネムはうちに来ていない。わたしもネムとは、仕事以外で会っていない。このパーティーで久々に会うことになるけど、どんな顔をして会えばいいのかな……。
冷たい空気にのせて、白い綿帽子が舞い降りてきた。
「あ、雪だ……」
* * *
サラちゃんから、クリスマスパーティーの誘いが来た。
同世代の友達とパーティーなんて、マテリエンヌのみんなとしかやっていない。しかもクリスマスに集まるのも初めてじゃないかな……初めての告白に、こんな舞台を用意するなんて、サラちゃんも気の利いたことをしてくれる。
テルちゃんはすぐにOKの返事をした。だったら行かないわけにいかないね……すぐに返信を送ったけど、タイミングがフミちゃんからわずかに遅れた。
『いいわねぇ、素敵なクリスマスになりそう。ぜひ参加したいわ』
ボイトレのレッスンを終えて、ビルを出たところで、わたしは鉛色に染まった空を見上げる。
しばらくフミちゃんと外で会ってないけど、元気にしてるかな……告白の結果次第では、フミちゃんとの関係も、きちんと考えなくちゃいけないかもしれない。
ぼうっと空を眺めているわたしの頬に、冷たい綿毛が舞い降りる。
「あら、初雪……」
* * *
テル、フミ、ネムの三人は、すぐに返事をくれた。残るはチカだけだ。
あまり期待はできないな……四人で告白すると決めたときも、彼女だけはまだ乗り気じゃなかったし。クリスマスまでに心の準備が整うといいのだけど。
「もしチカが選ばれたら、わたしはどうしたらいいんだろう……」
鬼龍院さんと相談してスケジュールを調整し、パーティーの開催を決めると、わたしはそのまま事務所を後にした。今日は他のメンバーは来ていない。
大通りの道に出て、街灯に寄りかかって空を見上げる。
ここしばらく、ぐずついた天気が続いていて、お天道様を見る機会がない。空気も冷えてきているし、そろそろ……と思ったら。
「おっ、降ってきた……」
* * *
どうしようかな……スマホを片手に、わたしは迷っていた。
田舎から出て来て一人暮らしを始めてから、自炊にも慣れてしまった。今日も一人で買い物に出ていたけれど、大方を買い揃えていざ帰ろうとしたとき、サラちゃんからメッセージが届いた。クリスマスパーティーのお誘いだ。
すぐに分かった。このパーティーの日に、みんなでテルちゃんに告白するつもりなのだ。正直まだ気が進まない。気持ちの整理がついていないというのもあるが、何より、本当にこれでいいのかという迷いもある。
すでに他のメンバーはOKの返事を出している。みんな、今のモヤモヤした状況を、解消したくて仕方ないのだ。これでわたしだけ参加しなければ、たぶんマテリエンヌ内の雰囲気はさらに悪化する。告白も予定通りには行われないだろう。今のわたしに他の選択肢はないはずだ。それなのに……。
決めきれない。今のわたしでは、まだ……。
「あっ……」
スマホを持つ手に、冷たく柔らかいものが降ってきた。それは一瞬で融けて水になったけど。
雪だ……まだちらほらと見える程度で、たぶん積もらないと思うけど、それでもこの冬になって初めての雪だ。
ふいに思い出す。マテリエンヌがまだ駆け出しだった頃に出会った、あの曲を。
『♪小さなー、雪がふわりと舞い降りてー、素肌に沁みる』
自然とわたしは、空を見上げながら、ささやくように歌っていた。
『♪今年はやけに、遅い気がしたー……』
* * *
雪の舞い散る空を見ていると、思い出す。
リーダーになったばかりで右往左往していた頃に出会った、あの曲を。
『♪暮れなずむー、空はやがてー、光を失うだろう……』
* * *
雪の舞い散る空を見ていると、思い出す。
水明の女神ともてはやされ、プレッシャーと戦っていた頃に出会った、あの曲を。
『♪かじかむ言葉はー、雪へと、変わっていくー……』
* * *
雪の舞い散る空を見ていると、思い出す。
誰の助けも借りられず、不安に駆られて暴れまくっていた頃に出会った、あの曲を。
『♪誰の手にも、触れられずー、すり抜けた雪はー……』
* * *
雪の舞い散る空を見ていると、思い浮かぶ。
いつかラジオで流れていた、わたしが初めて聞いたマテリエンヌの曲が……。
『♪アスファルトにつかまってー、透き通るようにー……』
* * *
『♪空に浮かんだ、この気持ちは』
『♪町中に降り注ぎー……』
『♪白く、淡く、溶けていくー……』
『♪誰も気づかぬままー……』
わたしは知らなかったけど、みんなほとんど同じタイミングで『snowlike』を歌っていたらしい。離れていても、すれ違っていても、心のどこかで繋がっている……そのはずなのに、それを知ることはついになかったのだ。
結局その日のうちに、わたしは返信できなかった。
翌日は久々の晴れだった。昨日の雪は三時間ほどで止んでしまい、やはり積もることはなかった。少し地面が湿っているけれど、お昼過ぎにはたぶん乾いているだろう。
この日わたしは、年内最後のライブを行う予定の会場に足を運んだ。いつものライブハウスではなく、もう少し規模が大きく、お客さんも倍近くを収容できる施設だ。三年前から、メジャーデビュー組がこの会場で、年末に一回だけライブを行なうことが恒例になっている。今年はもちろんマテリエンヌも仲間入りだ。
ぶっちゃけ特に用事はない。昨日あんなことがあったから、気分転換もかねて会場の下見でもしようと思い立ったのだ。直近の使用予定はマテリエンヌや先輩グループのライブくらいで、会場にいるのは数人のスタッフのみなので、ホール以外なら入っても咎められない。
武道館ほどではないにしても、いつも小規模のライブハウスで公演をしているわたしにとって、まだ手が届かないと思っていた場所だけど……こうして中に入ってみると分かる。二週間後には、わたし達もここでライブをする……。
「実感がわかないなぁ……」
わたしはまだ夢見心地だった。この場所に来るのは初めてじゃない。お客さんとして、何度か足を運んだことがある。それゆえに、自分が観客席じゃなくステージに立つということが、未だに信じられずにいる。
チケットの売れ行きは好調らしい。基本的に所属タレントの家族は特別扱いされないから、家族がチケットを入手して会場に来られるかは、はっきり言って運次第だ。人気のアーティストとなるとすぐにチケットも完売するし、近年は転売も厳しく規制されているから、入手するだけでも困難が伴う。それでも何とかして見に行きたいという人もいるわけで……。
「……絶対に、成功させてみせる」
そういう人がいると思うだけで、わたしの気持ちは燃え上がる。
ホールの中は入れないけど、裏方のいるスタッフルームなら、タレントは顔パスで入れる。新人のアイドルがここの下見に来るのはよくあるらしく、スタッフさんたちは快く入れてくれた。まあ、機材に触れることは禁止されているけど。
ステージに直通する控えスペースに来ると、顔に覚えのある男性スタッフと目があった。図面らしきものが書かれた紙を広げて、何やらチェック作業をしていたらしい。
「おっ、お嬢ちゃん、マテリエンヌの……下見に来たのかい」
「はい。ここでやるのは初めてなので……やっぱり倍の人数を収容できる施設だと、スケールが段違いですね」
「そうだろう。ここは選ばれし者だけが立つことを許されるステージだからな」
選ばれし者ね……会場の運営者はチケット収入を頼りにしているから、集客力の有無でアーティストを選ぶという点では、確かに間違っていない。
この男性スタッフは、マテリエンヌや先輩グループのライブで、何度か会場のセッティング作業を担当している。メンバーにとっても顔なじみ同然の人なのだが……。
「お嬢ちゃん達もついに、この舞台に立つんだなぁ。いちファンとしても嬉しい限りだよ」
「……皆さんの支えがあってこそですよ。本当にいつも、ありがとうございます」
「おう。年末のライブでも、おじさんたち頑張っちゃうからな」
にかっと笑う男性。まだ三十代くらいに見えるけど、言動が完全におっさんだ……まあ、親しみやすさの表れだと思うことにしよう。
「そういや、今度CMに出るんだって? すごいじゃないか。グループのみんなで?」
「はい……まだ単独で出られるほどの力はないですし」
「それでもたいしたものだよ。仕事、順調そうでなにより」
「はあ……」
確かに仕事は順調だけど、それと反比例するように、グループ内の雲行きは怪しくなっている。意図的なのか無意識なのか、仕事以外で顔を合わせることが減って、どことなく意思疎通に歪みが生じているような……。
「あれ? そうでもない?」
わたしが煮え切らない反応を見せたせいか、男性は意外そうに尋ねた。
「いえ、仕事は結構うまくいってるんですけど、グループ内が冷戦の一歩手前というか……」
「なんだなんだ、穏やかじゃないなぁ。仲良しってのもお嬢ちゃんたちの売りだろう?」
「別に売りじゃないです……そういう評判があるってだけで」
「あ、そうなの? まあ、友達なら誰しも一度はケンカするんだし、意地張らずに向き合えばちゃんと仲直りできるさ」
ただのケンカじゃない。ベクトルが複雑に絡み合った恋愛が根底にあるから、そう簡単に修復できるとは思えないのだが……。言えないけど。
ん? いまこの人、なんて言った?
「えっ、あの……友達、ですか?」
「あれ、違った? いつも仲いいし、お互いに支え合っているって感じがするし。友達ってそういうもんだろ?」
そういうものか……研究生の頃は友達を作る余裕なんてなかったし、小学校の時の友達ともすっかり疎遠になっていたから、友達がどういうものか考えたことがなかった。そうか、よそから見たら、マテリエンヌのみんなは友達なのか……。
でも、互いに支え合っているというのは、少し違う気がする。
「わたしは……みんなに支えられてばかりです。今のわたしにできるのは、何かとバラバラになりやすいサラちゃん達を、一か所に繋ぎとめることくらいですから」
「ふうん、それは結構大事なことじゃないか?」
「大事だとは思いますけど、これまでいつも助けてくれたことと比べたら、全然足りない気がして……わたしはマテリエンヌのみんなのために、何ができるんでしょう」
こんなことを、裏方のスタッフに打ち明けたところで、どうにもならないことは分かっていた。結局どこに行っても、この悩みが付きまとうのだから、誰でもいいから聞いてくれる相手がいればよかったのだ。
「うーん……お嬢ちゃん、難しく考えすぎて気づいてないと思うけど、俺たちが気持ちよく仕事できるのって、お嬢ちゃんのおかげでもあるんだよ」
「え?」
「この間、ライブのあとにお嬢ちゃんが、俺たちに向かって『ありがとう』って言ってくれただろ。仲間内で飲む機会があって、その時に聞いたんだけど、どのスタッフにも言ってるらしいな」
「だって、皆さんの力がないとライブはできないわけで……」
「感謝するのは当たり前、だって? でもな、お嬢ちゃんの先輩たちや他のグループは、滅多に『ありがとう』なんて言ってこないぞ。別に言われなくても構いやしないが、やっぱ感謝を言葉にされると嬉しいし、モチベーションも上がるんだよ。おかげでいつも気持ちよく作業できる」
「…………」
わたしの感謝の言葉が、裏方の人たちのエネルギーになり、わたし達のライブを支えていた……当たり前だと思って気にも留めなかったけど、そんなに大事なことだったのか。
「言霊っていったら大げさかもしれないけど、不器用でも気持ちを言葉にするって、大切なことだと思うよ。お嬢ちゃんの“言葉”には、心を動かす力があるかもしれないな」
「そうでしょうか……わたし、自分の気持ちも上手く言葉にできないのに」
「そりゃあ人の気持ちなんて、一言でまとめられるものじゃないだろ。お嬢ちゃんが言葉にできないのは、一発で伝えられる言葉を知らないだけさ。好きなものでも嫌いなものでも、やりたいこともやりたくないことも、ひとつひとつ向き合っていくことでようやく、好きとか嫌いとか言えるようになるんだから」
好きなものに、ひとつひとつ向き合っていく……わたしはあの時、何に心を動かされただろう。
楽しいライブだった。いい曲にも恵まれた。お客さんは少なくても、全力で応援してくれた。当日ギリギリまで、調整に奔走していた人たちがいた。わたし達のわがままに、応えてくれた人がいた。つらい状況でも、支えてくれる仲間や友達がいた。おかげで最後までやり遂げられた。
大好きな場所。大好きな人々。大好きな時間。大好きな空間。そのすべてがあったから、わたしはステージに立てている。
ううん、わたしだけじゃない。きっとそれは、みんなも同じ。
そうか……だからわたしは。
突き動かされるように、わたしは走りだした。ホールに向かって。
「ちょっと、お嬢ちゃん! ホールはまだ入っちゃダメだよ!」
男性スタッフの制止する声も聞かず、わたしは真っすぐに走った。もうすぐ分かりそうなのだ。わたしの中に眠っているものが、何なのか。
骨組みだらけの舞台裏を通り抜け、ステージの袖に出ると、最前に立って、観客のいないがらんどうのホールを見渡した。ごく少数の照明しかなく、それほど明るくないが……ここに立つだけで容易に想像できる。ホール全体を埋め尽くす無数の観客と、万雷の拍手と歓声に満たされた、心臓を震わせるほどの光景を……。
これだ。これだったんだ。わたしの好きなもの……わたしを突き動かすもの。そのすべてが形となって、わたしの中に流れ込んでくる。
「見つけた……わたしにできること」
そのささやかな呟きは、高鳴る鼓動の前に掻き消えたけど、確かにそこにあった。
くるっと踵を返し、袖に向かって駆け出す。わたしを追いかけてきたらしい男性スタッフの脇を通り抜け、出口に向かっていく。
「ちょっと、今度はどこに行くの!」
男性の声はもう耳に入らない。ようやく気づいた、マテリエンヌのためにできること……それを一刻も早く形にしたくて、衝動に突き動かされている。
会場を出て、わたしは走った。
とにかく走った。
どうすれば形にできるのか、今はまだ分からない。だから、どんな手段を使ってでも、その方法を見つけ出すんだ。
所属事務所のビルに行き着くと、自動ドアに阻まれながらも建物の中に滑り込み、周りの人たちの視線も気にせず駆けていく。役員やプロデューサーが詰めている事務室の前に来ると、ノックもそこそこにドアを開け放った。
役員たちが、何事かと言いたそうにわたしを見た。その中で、突然の来訪者がわたしだと気づいたのは、鬼龍院さんだけだった。よかった、彼女がいてくれて……。
「チカ……どうした、息切らして」
「鬼龍院さん!」
例の会場から事務所のビルまで結構な距離があったから、ほとんど休まず走ったせいで足がふらついているけど、わたしは鬼龍院さんに駆け寄って、彼女のスーツの袖を掴んで訴えた。
「折り入って、相談したいことがあるんですが!」
「そ、相談……?」
タレントの女の子が息を切らして、おぼつかない足取りで詰め寄ってくれば、さすがの鬼龍院さんも困惑するだろう。それでもわたしは、一刻も早く鬼龍院さんに相談したかった。彼女ならばきっと、わたしの望みを叶える方法を知っている。
時間は圧倒的に足りない。簡単にできることでもない。それでもクリスマス会までに……せめて年末のライブまでには、なんとしても成し遂げないと。
その日の夜、やっとわたしはサラちゃんに返信した。
『返事が遅くなってごめん。わたしも参加するよ。とっておきのプレゼント、用意しておくから!』
それは、覚悟のメッセージだった。
前回、サラとネムの出番があまりに少なかったので、今回はこの二人の視点で前半部分を展開してみました。さらに、重要人物であるはずのテルが放置されそうだったので、彼女が四人の先輩たちをどう思っているのか、その心境も付け加えました。
第6章最終話のあとがきで、この章はさらに面倒くさい関係性を扱うと書いた気がしますが、本当にその通りになっています……自分で作っておいてアレですが、この子たち本当に面倒くさい。思い通りの展開になってくれないんだもの。それでも一人ひとりを大事にしたいので、文章量もめっちゃ多くなります。じっくり見守ってください。
次回でこの第7章は終わります。これから夏だというのに、作中はクリスマスです。面倒な恋をしてしまったアイドルたちがどんな結末を迎えるのか、刮目してお待ちいただければ。




