7-1 見せたくない姿がある、アイドルだもの
長らくお待たせしました、第7章です。そしてものすごく、長くなりました。
ついこの間まで体調不良で執筆が難しかったのですが、コメディ風の内容を考えていたら筆が乗り、さらさらと書き上げることができました。やっぱり気分が落ち込みそうなときはコメディに限る。
主人公たちはアイドルですが、筆者はアイドルの実情など知りません。見聞きしたものをつなぎ合わせて作っているだけなので、特定のモデルも存在しません。この小説はフィクションなので、そのつもりでお楽しみいただければ。
足元は少し寒い。工事現場で建物の周りを覆う骨組みに使われる、アルミ製の敷板にブルーシートを張りつけただけだ、地面からの冷気を遮る能力はない。ステージの裏側なんて、表側ほどにお金をかける必要はない。十分な強度が確保できて、スタッフの動線を塞がなければ、最低限の材料ですませるのが業界の常だ。
もちろん、わたし達は他のスタッフみたいに、足元を極端に隠すことはできない。華やかな装いにそぐわない履き物など、最初から計算に入れていないのだ。そしてわたし達はどんなに冷気にあてられても、血の気の引いた顔を見せてはならない。ステージに出たらなおさらだ。
奈落の外を見上げると、強烈な光が容赦なく差し込む。電球だけの薄暗い舞台裏にいると、奈落の向こうは逆光に遮られるし、薄暗さに慣れた目には眩しすぎて、思わず目を細めてしまう。
心臓の音が、耳の奥にこだまする。かすかに聞こえる騒がしさも、かき消されるほどに。
本番まで一分を切る。マイクを握る左手は、じっとりと汗ばんでいる。華奢な足がかじかむように震えるのは、きっとこの冷気のせいだけじゃない。
何度も立ってきた舞台。それでも未だに慣れなくて、いつもわたしは奈落の口の前で立ち尽くす。
でも……大丈夫。
わたしのそばには、三人の仲間がいる。色調は違っても同じ衣装をまとい、同じ舞台に立とうとしている。何より、たくさんの艱難辛苦を一緒に乗り越えてきた、大切な仲間。
そう。この四人だから、わたしは戦える。
「よし……行くか!」
ひとりのその掛け声に奮い立つように、わたしと、残りの三人は声をそろえた。舞台の向こうで待っている人たちには、聞こえないように。
「「「おう!!」」」
そしてわたしは……わたし達は、一歩を踏み出した。
「待たせたなみんな! 『Materienne』のお出ましだ!」
大量に噴き出されたスモークなどものともせず、わたし達は手をつないで一斉に壇上に立つ。第一声はサラちゃんのこのコールだ。焚きつけられるように、眼前を埋め尽くすファンの群れが、色とりどりのペンライトを高々に掲げて、場を揺るがすほどの雄たけびを上げた!
「おぉ―――っ!」
「待ってたぞー!」
「早くはやくー!」
鳴りやまない雄たけびに紛れて、わたし達の登場を待ちわびていた人の声も聞こえる。
ああ……やっぱり、いい!
わたし達を待っていてくれた。それだけでもう、感無量だ。
大歓声のなか、サラちゃんはさっそく1曲目のタイトルを声高に宣言した。
「よし行くぞ! 1曲目はこれだ! 『Piece of Flare』!!」
最高潮の熱狂のなか、サラちゃんの宣言を合図に、フェードインのイントロが流れ始める。
わたし達のメジャーデビュー曲『Piece of Flare』は、四人のユニゾンで幕を開ける。
『♪ここから世界を作り上げていこう~!』
「Hey!」
アドリブ担当のフミちゃんが、拳を高く突き上げながら叫ぶと、呼応するようにキャノン砲が紙吹雪を放った。
舞台は都心にあるアイドル御用達のライブハウス。日替わりで一日一組、趣向を凝らしたパフォーマンスを行なう。たまに駆け出しのミュージシャンが使うこともあるけど、設備的にはアイドルのライブのために造られている。
本日はわたし達マテリエンヌの、今月予定されている最後のライブ。これが終わると、次にここでやるのは二週間以上先ということになる。
露出も派手さも控えめにして、音楽とダンスと舞台演出を中心にしたパフォーマンスが、マテリエンヌの売りだったりする。かわいらしさだけでなく、激しさ、力強さ、儚さ、美しさ……古今東西のパフォーマーが目指す要素をふんだんに盛り込んでいる。
『Piece of Flare』はやや激しめの曲で、間奏中もとにかく壇上を動き回る。フォーメーションが何度も変わるのが、この曲の振り付けの特徴だ。
『♪さあ、時は満ちたよ、隠せない思い、この両手に抱えて』
『♪準備は整ったよ、はじまりの合図、号砲を打ち鳴らしてReady steady go!』
最初はサラちゃんとフミちゃんのユニゾン、その次はフミちゃんとわたしのユニゾン。Bメロに入ってようやく最初のソロパート、ネムちゃんの透きとおるような歌声が響き渡る。
『♪きっと~一人ひとりが、太陽のカケラ』
そこにサラちゃんが加わって、二人で肩を寄せ合いながらユニゾン。
『♪かき集めた夢を繋いで、あの場所へ~』
『♪いつか掴み取るから!』
サラちゃんのソロを挟んで、四人全員によるサビに入る。そのわずかな時間に、わたし達は決まった立ち位置に移り、横一列の等間隔に並んでから、一糸乱れぬダンスパフォーマンスへ!
『♪君を!見つめるだけで、心!燃え上がるよ』
『♪言葉、にならないほどに~We're alive now!』
『♪叫べ!思いの丈を、感じ、るままに強く』
『♪世界はまだ完成されてないから~』
そしてサビのラストは、四人と観客全員で、拳を斜め上に突き上げる!
『♪ここから、飛び立つんだ、Burning heart!』
ライブハウスを埋め尽くすファンたちの、熱に浮かされたような大歓声が沸き上がる。冬も間近だというのに、この会場の中だけ夏のままみたいだ。わたしも激しく動き回って、すでに汗がにじみ出しているけど、一曲終わるまではぬぐい取れない。
ここからは2番を飛ばして3番のCメロに入る。ライブのためのショートVer.だから、大体三分くらいでこの曲は終わる。Cメロは二人か三人のユニゾン、そして最後のサビは、ネムちゃんとサラちゃんの各ソロパートから始まって、1番サビと同じフレーズを全員のユニゾンで歌い上げる。そして最後は全員で……。
『♪ぼくらで、生み出すんだ、Shining world!』
フルVer.よりも短めのアウトロに入って、1曲目のパフォーマンスは終わった。
ここからは、メンバーの紹介や短めのトークも挟みながら、残り5曲を歌い上げた。大人の事情があって三十分ほどしか割り当てられないので、披露できる曲の数は限られている。もっと人気の高い先輩グループだと、一時間以上が割り当てられたりするのだけど……。
三十分でも結構体力使うのに、一時間以上ぶっ続けで踊るとか、先輩たちは化け物か。
「みんなありがとー!」
最後の曲を終えて、わたし達はファンのみんなに頭を下げてから、舞台裏に通じる階段を降り始めた。フミちゃんだけはその前に観客席を振り返り、なおも熱気を煽るように言い放つ。
「おいお前らぁー! もう終わっちゃったなんてシケた面してんじゃねーぞ! どうせ来月になったら戻ってくるし、ライブDVDだって出るんだ! それまで元気で待ってろよ!」
おぉーっ! とまたさらに歓声が上がる。さすがはアドリブメーカーだ。
「センキュー!」
フミちゃんは華麗な決めポーズを見せて、舞台裏に戻った。そんなフミちゃんを、わたしが最初に出迎えた。
「おつかれ~」
「おっつー、チカぁ」
「ったく、あんたってやつは……」
わたしと両手を絡め合って喜んでいるフミちゃんに、サラちゃんは肩をすくめて告げる。
「最後のもそうだけど、余計なアドリブ挟みすぎ。持ち時間、三十分しかないんだから、時間配分とか意識しながらやりなさいよ」
そう言って、腕時計のない自分の左手首をつんつんと突くサラちゃん。彼女はマテリエンヌの中で一番、時間に厳しい。
「いーじゃん、お客さん盛り上がってたし」
「盛り上がれば何をしてもいいわけじゃないって……まあいいや、続きはこの後の反省会で、だ」
「ほーい」
舞台裏からスタッフ専用ブースに移動する、その前に裏方のスタッフたちと出くわした。お客さんが出ていった後の撤収作業まで、舞台裏で待機しているのだ。みんなでスタッフたちに「おつかれ」と口々に言って、そのまま着替えに直行するのだが……。
わたしはその前にもう一度、裏方の人たちの前に戻ってくる。
「あのっ、皆さん……!」
「ん? どうした?」三十代くらいの男性スタッフが応える。
「その、いつもわたし達のために、たくさん頑張ってくれて……おかげでわたし達、すごくいいライブができました。ありがとうございます!」
そう言ってわたしは、裏方のみんなに向けて、深々と頭を下げた。最初はポカンとしていたスタッフたちは、突然噴き出して、一斉に笑い始めた。
「はっはっは……なーに、お前たちアイドルが舞台で輝くのを、陰から支えるのが俺らの仕事だ」
「それでお客さんや君たちが楽しんでくれれば、苦労した甲斐があったってもんだ」
「けどありがとな! やっぱ直接言ってくれると嬉しいや」
中年のおじさんも若い人も、誰もが屈託のない笑顔をわたしに返してくれた。それを見ているうちに、なんだかわたしも、自然と笑みがこぼれるみたいだ。誰かのために懸命に、そして笑顔で頑張ってくれる存在って、なんて貴いんだろう。
「おーい、早よ行くぞ」
フミちゃんがわたしを呼んでいる。
「あ、ごめん。すぐ行く」
「とは言うものの……」
フミちゃんはニヤリと笑うと、サラちゃんの腕を引いて戻ってくる。突然のことでサラちゃんは驚いているけど、ネムちゃんは柔和な笑みを絶やすことなくついて来た。
「チカが言うことももっともだ。というわけで」
フミちゃん達も、スタッフさんたちに向けて頭を下げた。サラちゃんはフミちゃんに無理やり下げさせられた感じだけど。
「「ありがとうございます」」
「あ、ありがとう、ございます……?」
サラちゃんだけは出遅れたけど、感謝の気持ちは無事に伝わったようだ。
「おう、こっちこそありがとな!」
「次の仕事も頑張りなよ」
激励の掛け合いの中で、わたし達も心に温かいものをもらった気がして、みんなの視線と笑顔がぶつかり合う。今度はみんなで、声を合わせて答えられた。
「「「「はい!」」」」
「はい! というわけで、今月分のミニライブ5本、ありがたくも全て満員御礼となりました。皆さんの頑張りと結果を祝しまして、乾杯!」
音頭役のサラちゃんがグラスを高々と掲げると、わたし達も揃ってグラスを掲げた。
「「「かんぱーい!」」」
とはいえ、わたし達は全員未成年なので、ジンジャーエールとかカルピスとかのノンアルコールしか入っていないけど。
ここはわたし達マテリエンヌの行きつけのお店で、小規模宴会用の個室にて、四人だけのちっぽけな反省会、という名の打ち上げを行なっている。ライブが終わってからも、次にリリースする新曲の相談とか他の仕事があって、結局三日後になってしまったけど。ちなみにこのお店は、同じ事務所の先輩方もよく打ち上げに使っているという。今日来ているのはわたし達だけだ。
「いやー、ちっちゃなライブハウスとはいえ全公演全席完売とか、わたしらの知名度もなかなかのもんなんじゃなーい?」
ジョッキで豪快にカルピスを呷り、上機嫌になっている空知芙美ちゃん。マテリエンヌの元気印でムードメーカー。どれだけ派手に動いても汗ひとつかかない体力と、トークで遺憾なく発揮するアドリブ力が自慢なのだ。少しいい加減なのが玉に瑕だけど。
「そこはプロデューサーのセールス力に感謝ね。まあライブパフォーマンスには改善の余地が山ほどあるけど」
ジンジャーエールをちびちびと口に含みながら、冷静に痛い所を突いてくる萬田沙良ちゃん。マテリエンヌのリーダーで、ライブのMCやグループ内での最終決定を担っている。とても頼りになる姉御肌だけど、いい加減なフミちゃんとはたまにケンカもしてしまう。
「うーん、サラちゃん少し厳しすぎなんじゃないかなぁ。歌もダンスもみんないいと思うよ?」
アイスティーをストローで吸いながら、おっとりとした口調で言う雲塚ねむちゃん。音楽の英才教育を受けてきただけあって、抜群の歌声と音感を持っている、マテリエンヌの不動のリードヴォーカルだ。お嬢様みたいなおっとりした雰囲気だけど、割と毒舌だったりする。
そして最後はわたし、野村千花。……正直言って、普通です。
容姿や体格は可もなく不可もなく、歌唱力はあるけど耳に残りにくい、ダンスはひと通りできる程度。オーディションの審査員からは「将来的な努力次第」と言われ、結局、通知の内容は補欠合格だった。合格者の一人が家の事情で辞退して、次点にいたわたしが繰り上がり合格なったのは、本当に幸運だったのだ。
とはいえ、元々補欠合格だったわたしは準所属扱いとして、レッスンには参加できても、先輩たちのバックにつくことは認められなかった。しかも準所属は、一定の期間内に芽が出なければ即解雇される。レッスンの指導者か事務所のスタッフに目をかけられない限り生き残れない、通常の合格者よりはるかにハードルが高いのだ。
そのレッスンでわたしは、養成所のメンバーのポテンシャルに圧倒されることになる。ダンスの切れ、表現力の高さ、耳に残るほどの声色……一発で合格を勝ち取るほどの子は、やっぱり根っこから違う。厳しい世界だということは分かっていたけど、こうして現実を突きつけられて、わたしは何度もくじけそうになった。たった一人で田舎から出てきてすがるものもないわたしは、落ち込むことが増えていった。
それでもわたしは諦めなかった。そして今、わたしはここにいる。
「……サラちゃん的に、今回のパフォーマンスの出来はどうだったの?」
イチゴとミルクのノンアルカクテルをストローで一口飲んでから、わたしは尋ねた。
「歌に関しては文句ない。音程は外してないし、多少の表現の弱さは、リードヴォーカルがしっかりカバーしてくれる」
「あらぁ」
嬉しそうに微笑むネムちゃん。少し赤くなった頬に手を添えるところが、なんともお嬢様っぽい。
「だけど問題はダンスよ。1曲目こそ勢いがあったけど、以降は少し抑え気味というか、疲れを必死で隠そうとしているところがちらほらと見えたわ」
「サラも踊ったりファンに手を振ったりしてたのに、よく見てんな」
「そりゃあ、みんなと息を合わせる必要があるもの、意識するのは当然でしょ。それとフミ!」
サラちゃんはビシッと、フミちゃんに向かって指を差し向ける。びくりと肩が強張るフミちゃん。
「な、なんですか……」
「この間も言ったけど、アドリブを挟みすぎ。確かにマテリエンヌのトークには、フミのアドリブが欠かせない。だけど、使いどころを間違えると時間が押してしまって、次のパフォーマンスにも影響が出る。大切な武器なら、それを有効に活用する方法を、ちょっとは考えなさい」
「へーい」
フミちゃんに、真面目に聞く態度はゼロだった。それでもサラちゃんが信用しているなら、フミちゃんはきっと対処を怠らない。心配はないだろう。
「それとチカも……」
「う、うん」
「今回もそうだったけど、あんまり見せ場らしい見せ場を、作れてなかったね」
本当によく見ている……自覚はしていたし、たぶんサラちゃんも言ってくると思っていたけど。
「だって、ソロパートそんなになかったし……」
「分かってる。だけど、あんたを見るために来ているお客さんだっているのよ。そういう人を見つけてアピールするのも大事なこと……何度も言われてるでしょ」
「ごめん……」
「まあ、チカがそういうのに慣れていないのも分かるから、とりあえず何でも試してみな」
そう、サラちゃんもわたしの性格を分かったうえでアドバイスしている。そういう、厳しくても寄り添える姿勢が、彼女の優しさなんだろうな。
次にサラちゃんはネムちゃんを見たけど……じっと見るだけで口を開かない。視線に気づいたネムちゃんが先に言う。
「サラちゃん、わたしにも何か、言いたいことがあるの?」
「ネム、あんたはいい加減、そのお嬢様みたいな態度と雰囲気をやめてほしい」
「あ、それわたしも思ってた」
珍しくフミちゃんもサラちゃんに同調してきた。口には出さないけど、実はわたしも同じことを考えていた。
「おっとりした言動だったら個性的なキャラとして受けるだろうけど、アイドルには親しみやすさも求められる……浮世離れした雰囲気を出したら、ちっとも親しみやすくないでしょ?」
「うーん、難しいわねぇ。アイドルっぽいオーラの出し方って教わらなかったし」
「普段わたし達を相手にしているときの感じでいいんだよ」
「あら、それだと毒舌なお嬢様キャラになっちゃうけど、いいの?」
「……いいんじゃないの。何事もチャレンジだ」
サラちゃんはすっと視線をそむけて、急になおざりな態度になった。どうやらまともなアドバイスが通じないと判断したらしい。ネムちゃんは、フミちゃん以上の自由人なのだ。
「まあ、かくいうわたしも、6曲目になると振り付けも余裕がなくなってくるし、まだ修業が足りないと思い知らされるよ」
「それでも周りをちゃんと見て分析できるのが、サラのいい所だよ。鬼龍院さんも言ってたよ。マテリエンヌのライブのクオリティは、サラがいてこそのものだって」
フミちゃんのその言葉に、肩を落としていたサラちゃんはふっと微笑む。
「ありがと、フミ……でもおだてられたって甘くはしないからね」
「ちぇー」
口を尖らせるフミちゃん、あえなく篭絡失敗である。
鬼龍院さん、というのは、マテリエンヌのマネージャーにして、プロモーションと指導を一手に引き受けている敏腕プロデューサーである。まだ二十代半ばの女性だけど、事務所の創設時から運営に関わっていて、その手腕は社長からも一目置かれている。毅然とした佇まいと冷厳な言動、それでいて誰よりもアイドルたちを大切にしている、事務所のアイドルたちの憧れの的なのだ。
準所属の期限が迫ってきたころ、わたしは鬼龍院さんに誘われて、研究生によるユニットに入ることになった。それが今のマテリエンヌだ。今のわたしがあるのは、鬼龍院さんのおかげ……わたしにとって、一番の恩人なのだ。
「さて、今までの話を通して、わたしからひとつ提案がある」
「何だい、サラ之助」
「サラ之助いうな、フミ左衛門」
これは二人のお決まりのやり取りである。これを見て笑うのはネムちゃんと社長の二人くらいだけど。まあそれはいいとして、サラちゃんは真剣な面差しでわたし達に告げる。
「次のライブまでに……恋愛ソングを習得してみないか?」
「恋愛ソング?」
マテリエンヌの持ち歌には、まだ恋愛を扱ったものがない。とはいえ、まだシングル2枚しか出してないけど。ライブでは持ち歌のほかに、先輩アイドルのカバー曲も披露していて、その中にラブソングがないこともない、が。
「わたし達は元々、大きく動くダンスパフォーマンスが売りだった。だけど、今やアイドル戦国時代……こだわりが強すぎるのはマンネリ化を招き、すぐファン離れにつながる。ダンスの切れを維持しつつ、ファンを飽きさせないようにするには、どんなジャンルの曲にも対応できるようにしたい」
「確かに最近のガールズアイドルは入れ替わりが激しいからなぁ。わたしもなるべく、マテリエンヌは息の長いグループにしたいし」
フミちゃんもそんなことを考えていたんだ……普段おどけていても、マテリエンヌへの愛はちゃんと強いんだから、やっぱり彼女もマテリエンヌの一員なのだ。
「色んなジャンルに対応できるようにしたい、いい目標だと思う。しかしなぜに恋愛ソング?」
「過去に恋愛ソングを一度も歌ったことがない、そんな有名アイドルがいるか? それにどんな時代でも、ヒットチャートには必ず恋愛ソングがある。世の中は未だに恋愛ソングへの需要が高いのよ。ということは当然、世の中の意識に敏感なプロデューサーは、その高い需要に応えようとする」
「需要と供給のバランスは大事だものね」と、ネムちゃん。
「わたし達が、先輩方のラブソングをいくらライブでカバーしても、それは結局“先輩方の真似”にしかならない。いずれわたし達にその出番が回ってくるときのために、恋愛ソングを歌い上げるコツを習得するべきだと思うんだけど、どう!?」
どう、と言われても……サラちゃんの気迫が強すぎて、イエス以外を言える雰囲気じゃない。
「積極的な反対はなーし」手を挙げて答えるフミちゃん。「でも、習得するってどうやんの? 先輩方だって、恋愛ソングの玄人ってわけでもないでしょ」
そうなのだ。確かにいつの時代も恋愛ソングは需要があるけど、恋愛ソングなら必ず売れるとは限らない。実際ここ最近は、女性アイドルが歌うラブソングがなかなかヒットしていない。
「そうねぇ」ネムちゃんが言う。「わたしも先輩方のラブソングをいくつも聞いたけど、楽曲そのものの質はいいのに、薄っぺらな歌唱力で台無しになってる感じだし」
「よーし、ネム。とりあえずその発言を引っ込めようか」
よかった、この場に他のグループがいなくて……フォローするフミちゃんも苦労するね。
「しかしネムの言うことはもっともだ。ラブソングを仕入れて、ダンスナンバーとバランスを取りながらセットリストを組んでも、歌のクオリティを落としたら元も子もない。だからまずは、恋愛とはどういうものかを、身をもって知ることが大事だと思う」
んん?
一瞬、サラちゃんが何を言ってるのか分からなかった。えっと、つまり……?
「サラちゃん? アイドルが恋をしたら、例外なくスキャンダル扱いされるわよ?」
瞬時にサラちゃんの意図をくみ取ったネムちゃんが、優しくたしなめるように言った。
「スキャンダル以前に、そもそもアイドルって、たいがいは恋愛禁止じゃない?」
「そうね。わたしたち自身が恋愛の当事者になるのはリスクが高い。しかし、世の中に恋をしている女子は山ほどいる。わたし達の身近にも、当然いる。そういう人たちから、恋する気持ちとか、悩みとか、喜びとか、聞いて聞いて聞きまくって参考にすればいいのよ!」
ぎゅっと握った拳を見せつけながら、サラちゃんは力説する。それにすぐ飛びついたのがフミちゃんとネムちゃんだ。
「なるほど、それならわたし達や事務所へのダメージは小さいな!」
「マーケットリサーチはビジネスの基本だものね!」
「あ、えっ、あのっ……」
「よしっ、みんな! 各々のコミュニケーションツールをフル活用して、恋愛とは何たるかを徹底的に調べ上げ」
「ちょ、ちょっと待って」
ひとりだけ置き去りにされていたわたしは、たまらずサラちゃんの言葉を遮った。
これも割といつものことだ。熱血リーダーのサラちゃんが何か言い出して、フミちゃんが深く考えずに乗っかり、ネムちゃんが面白がって煽ってくる。そうしてとんでもない方向に話が転がっていく。それを止めるのはいつもわたしなのだ……。
少し不満そうに、サラちゃんはわたしに尋ねる。
「……なに、チカどうしたの」
「その……リサーチが意味ないとは思わないけど、それって結局、他人の恋愛の話だよね」
「…………!」
「それをいくら調べて参考にしても、身をもって知るのとは違うんじゃないかなぁ……」
三人は急に静かになった。何か見当はずれなことを言ったかな……不安になってきた。
すると、三人は急に顔を合わせて話し出した。
「確かにそうだな。リサーチしたところで、平均的なことしか分からないよな」
「そうね、結局気持ちの問題だもの。カスタマーがうまく説明できる保証もないし」
「ありていに言えば恋愛ソングで恋を知った気になるのと同じってことか」
うぅむ……と言って、再び黙りこくる三人。わたしの主張が通ったのは嬉しいけど、何だろう、この常に置いていかれている感じは。
「やはり何かしらの形で、自分たちが恋愛の当事者になるしかないのか……」
「リスクを承知で生き残りをかけるか……」
「ハイリスクハイリターンはビジネスの宿命だものね……」
「お前さっきから何なの?」
なぜかビジネスに絡めたがるネムちゃんに、フミちゃんが突っ込みを入れる。
「あの……」わたしはまた慎重に口を挟む。「そもそも恋愛って、やろうと思ってできることじゃないような気が……」
「そうよね。相手がいて初めて成立するものなんだし」
「相手がいても成立するとは限らないよ。わたしにも仲のいい男子は何人かいたけど、こう……ときめいた感じってのが全くなかった」
「うーん、ちょっとその男の子たちが不憫に思えてきたかも?」
ネムちゃんがやんわりと、フミちゃんに“ときめかない”と言われた男子たちを憐れんだ。
「なるほど、相手か……」
サラちゃんがぼそっと呟くと、正面にいたわたしに視線を向ける。
「…………え?」
サラちゃんが無言でこっちを見つめるから、わたしは困惑するしかなかった。その目が徐々に、睨みつけるように細くなり、眉間に寄るしわも増えるものだから、なおのこと戸惑うしかない。わたし、何かサラちゃんの気に障るようなことをしたかな……。
その険しい表情のまま、サラちゃんはぼそっと、割ととんでもないことを言った。
「……わたしが男だったら、たぶんチカを選んだだろうな」
「へ?」
そして続けて、サラちゃんはもっと突拍子のないことを提案したのだった。
「メンバー間で、恋愛シミュレーション?」
せわしない事務室にて、デスクに向かってエクセルをいじっていた鬼龍院さんは、サラちゃんの提案におうむ返しで答えた。
「そうです。今後わたし達に恋愛ソングが提供されたとき、曲のクオリティを損なうことなく歌いこなすには、少しでも恋する気持ちを知っておくべきなんです。そのためにわたし達は、恋愛が生じやすい状況を自ら作り、いかにして気持ちが芽生えるのか、検証したいと思います」
「ああ、テ○スハ○スみたいなことをしたいの? 君たち四人で?」
「はい! 女の子同士なら間違いも起きませんし」
「お前はどんなレベルの“間違い”を想定してるんだ?」
フミちゃんが冷静に突っ込む。その隣でわたしは、鬼龍院さんに背を向けながら、しかめ面で胸とお腹の間あたりを両手で押さえていた。サラちゃんの提案が賛成多数でグループの意思と相成ってから、こんな状態が続いている。
「ああ……胃が、胃が痛いよぉ……」
「大丈夫? ここ最近の緊張でストレスが蓄積してるのかしら」
ネムちゃんが優しく背中をさすってくれている。……まあ、ストレスが溜まっているのは、あながち間違ってないかもしれないが。
「ふむ……私としては、メンバー間の関係を道具にするのは憚られるな……」
鬼龍院さんはじっくりと考えながら呟く。どうも芳しくない反応だ。
サラちゃんが珍しく自信なさげに尋ねる。
「やっぱり、メンバー間でも恋愛をするのはご法度でしょうか……?」
「いや、そうじゃなくて……そもそもうちの事務所には、所属タレントに恋愛を禁止する方針というのがないんだ」
…………はい?
わたし達は揃って目を丸くして立ち尽くした。
「この事務所が創設されたときのメンバーのほとんどは、大手事務所のそうした方針に不満を抱いて離反した人たちだったんだ。未来ある若者を見せ物のように扱うばかりか、その行動や感情にまで制約を与えるのは、人としてどうなんだと言ってね……尤もアイドルの大多数は、そうなることを覚悟の上で芸能界の門戸を叩いたんだろうけど」
「だから、恋愛に関しても制約をつけなくなったと?」
「全くないわけじゃないよ。ただ、付き合うなら芸能記者やパパラッチにスクープされる前に、自分から名乗り出て、責任を持った付き合いをしてほしいとのことだ。君たちだって未成年とはいえ、事務所に雇われている以上は社会の一員だし、その自覚は持ってほしいのよ」
強固なまでの正論を突きつけられて、わたし達は何も言えない。いや、そもそも反論する気力がないんだけど。
だって、恋愛が禁止されてないってことは、つまり……昨日のわたし達の相談とか心配事は、一体何だったんだ、って話になる。それ以上に、所属タレントであるわたし達が、そんな肝心なことをなぜ知らなかったのか、という疑問が当然出てくる。
「それって……その話って、契約の段階で出てましたっけ」
「ああ、たぶん出てない。禁止していないことまで丁寧に説明する必要はないからね。会社のタレント育成ポリシーの条文には書いてあるから、そのうち目にする機会もあると思う」
「あるかなぁ……? まあそれはいいとして、それじゃあ、さっき言った恋愛シミュレーション企画は、やっても問題ないんですよね?」
えらく押しの強いサラちゃんだけど、鬼龍院さんの呆れたような半目は変わらない。
「言っておくが、事務所の認可が下りなければ、公式企画としてアナウンスされることはない。今の時点でお前らが先にやるのは勝手だが、SNSでの扱いはくれぐれも慎重にやれよ」
「もちろん肝に銘じています。メンバーの投稿内容は、わたしがいつも厳しく監視しているので」
「なにそれ!? 聞いてないよ!」
フミちゃんが過剰に反応した。意外とプライバシーを気にする性格なのだ。
「いずれにしても、やり過ぎないよう気をつけろよ。マテリエンヌは、私が単独でプロデュースした最初のユニットだ……私にとっても思い入れの強い存在だってことを、忘れないでね」
念を押すように鬼龍院さんは告げる。自分を悲しませるようなことはするな、と釘を刺しているつもりだろう。わたしだって、鬼龍院さんには大きな恩があるから、あの人を悲しませることだけは絶対にしたくない。それは他のメンバーも一緒だろう。
「は、はい……」
「まあ、恋愛なんて自由にやっていいと思うよ。一線を越えない限りはね。私もなるべく、お前たちが年頃らしく恋のひとつでもするのを、止めないようにするつもりだから」
「…………」
「それじゃあ、今日のスケジュールを確認するよ。午前中は新曲の選定に参加して、午後からは、雲塚がいつものボイトレ、他の三人がダンスの基礎練ってことでいいな?」
「あ、はい。オッケーです」
「じゃあ部屋で待ってて。後でデモテープと資料をもっていくから」
こうして朝の定時連絡は終わる。いつもは来られるメンバーで一日の予定を確認して、それを共有するのがメインだけど、今日は最初にサラちゃんが企画を持ち込んだおかげで結構ずれ込んだ。それでも大目に見てくれるのだから、鬼龍院さんも懐の広い人だ。
……と、思っていたのだが、わたし達が事務室を出たあと、鬼龍院さんは同僚の人にこんなことを打ち明けていた。
「あの子たちには期待してるのよ。私にできなかったことを、アイドルとしてやってくれそうだし。それに、あの子たちはクセが強いから、芸能人としては受けても男受けはよくないと思う。私が男性でもあの子たちからは一人も選べないわ。恋愛に関してこっちが何も言わなくても、どうせ失敗すると分かってるから放っておけるのよ」
まあどっちにしてもいい経験になると思うわ、なんて言っていた。
……言っていたのを、わたしは事務室のドア越しに聞いてしまった。聞いて、がっくりと落胆したのは言うまでもない。
実はその後にも鬼龍院さんは大事なことを話していたんだけど、ショックですぐその場を離れたわたしは、結局それを聞き逃してしまった。
「んじゃ、お先に失礼するよー」
午後のダンスレッスンを終えて時刻は五時を回り、フミちゃんは先に事務所を後にした。自宅に帰ってやりたいことが山ほどあるという。
「じゃあねー」
「また明後日ね」
手を振って見送るわたしとサラちゃん。振り付けの細かい確認をしたいサラちゃんに、わたしが付き添う予定だ。次にみんなと事務所で会うのは明後日になる。
フミちゃんの後ろ姿が見えなくなると、サラちゃんは普段どおりの微笑みを崩さないまま……。
ダンッ!
廊下の壁を拳で叩きつけた。びっくりしてのけ反るわたし。
「あんの鬼婆め……男に受けないってなんだよ、プロデューサーがアイドルに向かって言うことかよ」
ひええ……サラちゃんの笑顔が般若の面みたいで、なんだか怖い。
「い、一応、婆はやめておこう? まだ二十代だし……」
「だったら尼って言ってやる。独身だし」
うーん……男勝りなサラちゃんでも、異性にモテないと言われるのは癪に障るらしい。
「フン、どうせわたしは可愛げがないですよ」
そう吐き捨てながら、サラちゃんはレッスンルームに戻っていく。その身のこなしは、さすが普段から体幹を鍛えているだけあって、無駄も隙もなく均整がとれている。スリーブレスのフィットネスシャツだと、ほどよく引き締まった腕や胴が映えて、同性のわたしも惚れ惚れするくらいだ。
「……サラちゃんはカッコいいから、そのままでいいと思うけどなぁ」
「可愛げがなくて結構だと言いたいのかな、チカくん」
「い、いやっ、そういう意味じゃなくて……だって、サラちゃんがこういう自分でいくって、決めたんじゃない……」
言い訳じみてしまったけど、サラちゃんは素直に聞いてくれた。
「……そうだったな」
その弱々しく苦笑する姿に、ふいにわたしは胸を掴まれる。ああ……この状況だと、彼女に何を頼まれても、わたしはきっと断れない。
「……ねえ、少し休ませてくれない?」
サラちゃんに頼まれて、わたしはいつものように、壁際のベンチに腰かけて、ぴったり揃えた太ももの上にサラちゃんを寝かせた。彼女が疲れたときは、二人きりになったタイミングを見計らって、こうして膝枕をさせている。
「サラちゃん……振り付けの確認するんじゃなかったの?」
「少し休んでからね……たぶんすぐに終わるし。それにしても、ホントにチカの太ももって心地いい……枕にぴったり」
「そう言われるのはちょっと恥ずかしいんだけど……」
「はいはい。あー……チカのにおい、すごく落ち着く……」
サラちゃんは寝返りを打って、わたしの腹部に顔を向ける。レッスン直後で汗臭いはずなのに、なんでわたしの体臭で落ち着くのだろう……やっぱりよく分からない。
ファンの前でも、事務所の人や他のメンバーの前でも、サラちゃんは男勝りで頼れる姉御肌として振舞っている。そういう一面があるのは確かだけど、でも……それは一面に過ぎない。ユニット結成時からリーダーを務めている彼女は、その重圧に密かに苦しみ耐えていて、頼りにされるための努力を惜しまない分、誰よりも心労が募っている。
そんなこともあってか、羽目を外したサラちゃんはこんなふうに、甘えたがりで人肌を求めるようになってしまう。少なくとも、わたしの前では……他の人の前でも同様なのか、わたしは知らない。
周りの人たちがサラちゃんに求めるのは、アイドルの仕事に情熱をもって臨む、激しさと真っすぐな意思を備えた姿だ。だから、こんな姿は決して見せられない。誰にも。
確信はないけれど、サラちゃんのこの姿を知っているのは、たぶんわたしだけだ。サラちゃんの望みを尊重する気持ちもあるけれど、それ以上に、この優越感が心地よくて、手放したくないと思っているところがある。
最低だな……わたし。サラちゃんの髪を撫でながら、ひっそりと自己嫌悪する。
* * *
あたりもすっかり暗くなって、街には帰宅の途に就く人の波があふれている。
うちの事務所よりずっと高くて大きなビルの前で、わたしは待ち構えている。そろそろ例のトレーニングも終わった頃だろうし、徐々にビルから出てくる人数も増えている。もうすぐ彼女も姿を現すだろう。
おっ、出てきた。どこか気だるげな所作も綺麗で、さすが水明の女神と称されるだけある。
「…………あっ、フミちゃん」
「やっほー」
向こうもわたしの存在に気づいたみたいなので、軽く手を振って応えた。
「どうしたの? こんなところで」
「いひひ……マテリエンヌの女神さまをお出迎えに上がったまでですよ」
「女神さまなんて言いすぎよ。わたしぐらいの歌声を持っている人なんていくらでもいるわ」
「またまたご謙遜を。今日はどうする?」
「そうねぇ……今夜はフミちゃん家で過ごしたい気分かな」
「んじゃ、一緒に行くか」
わたしはネムの手を取って、人波の流れの中に分け入っていく。大切な女神さまが流されてしまわないように、しっかりと握って離さない。
「どうだった? 今日のボイトレ」
「感触は悪くなかったかな。この調子で、使える音域をどんどん広げていくから」
「何オクターブをカバーするつもりだよ……」
「あと……同じ教室の男の子に声をかけられた。連絡先交換してくれないかって」
「マジで?」思わずほくそ笑む。「ほれ見ろ鬼龍院めぇ、ちゃんと男受けするメンバーだっているんだよ、ざまあめぇ」
「フミちゃんも実は気にしてたんだね……でもそれ本人の前で言っちゃだめだよ」
分かってるって。わたしだって竜の鱗に進んで触るほどバカではない。新曲の打ち合わせの後に、チカからその話を聞いたときは、こっちが怒髪天を衝きそうになったけど。
「まあでも、断ったけどね。こういうのはどこでゴシップに発展するか分からないし」
「うん、それが順当だね」
「それに相手の男の子、全然わたしのタイプじゃなかったし、言い寄られて邪魔だなと思う前に、適度な距離に戻した方がいいと思って」
……悪気はないんだろうけど、今のネムの発言は相当破壊力があるぞ、悪い意味で。
「あのさ、それ本人の前で言わなかっただろうね」
「大丈夫よ、言ってないわ。言うほどの価値もないと思ったし」
「にっこり笑って言うな、大丈夫に聞こえないから」
まったく、毒舌キャラとはよく言ったものだが、これが素なのだからたちが悪い。いつもフォローする側に回っているわたしの苦労も分かってくれ。
「じゃあ、ネムってどういう人がタイプなわけ?」
「うーん……」
少し考えてから、ネムは寂しそうにふっと笑った。
「なんだろうね。考えたことなかったな、どういう人が好きかなんて……」
「…………」
「昔から面倒な人間関係に巻き込まれて、心を開ける人なんてめったにいなかったもの。今じゃ、本気で心を許しているのは、マテリエンヌのみんなだけだもの」
「ネム……」
サラは言っていた。恋をしている女子なんて身近に必ずいると。きっとそれは、ネムに限っては当てはまらない。彼女の周りにいる人間は、彼女にとってはほぼ全員が赤の他人だ。
ネムは他人に興味を示さない。面倒な関係に巻き込まれることを嫌って、誰とも表面的な付き合いしかしてこなかった。当然彼女を取り巻く人間は、次々と何度も入れ替わり、出会う事にも別れることにも、彼女はなんの感情もわかなくなっていた。
マテリエンヌのメンバーのうち、ネムだけは事務所のスカウトで入所している。歌が好きだった彼女は、練習環境が労せず手に入るという理由だけで誘いに乗り、上達したところで独立することを目論んでいたという。でも、マテリエンヌとしてデビューしたことで、その目論見は潰えた。予期せぬ形で、タレントとしての責任を負うことになってしまったのだ。
アイドルが全てのファンに気に入られる必要はない。でも他人に無関心な態度は禁物だ。それはアイドルである以前に、タレントとして許されない。
他人に心を開けない素の自分を隠し、アイドル界の歌姫としてファンを繋ぎとめることで、ネムは必死に自分のポジションを確保している。週に一回のボイトレに参加してまで、その歌唱力に磨きをかけているのは、素の自分を隠すための仮面を、分厚くするために他ならない。
たぶん、そのことを知っているのはわたしだけだ。でも、知っていながらわたしには、彼女のためにできることが何ひとつない。
悔しいな、本当に……。ネムの手を握る力が、少しだけ強まった気がした。
* * *
「ああったく! 言わせておけばぐちぐちとぉ!」
満面を朱に染めて荒れ狂っているフミちゃんを、わたしは呆然として見ていた。
「こっちだって真剣にやってんだよ! 細かい所でいちいち突っかかってきてぇ! 上質なパフォーマンスを追究すんのはどーぞご自由にって感じだけどぉ、見てる人の何割がそーゆーのに気づくのって話ぃ。んなもんビシッとやりゃあ受けるんだっつのぉ!」
愚痴に呂律が回っていない……見慣れた光景ではあるけど、やっぱり彼女も、ため込んでいた鬱憤を晴らしたかったのかなぁ。
ここはフミちゃんが一人暮らしをしているアパートの一室。アパートと言ってもなかなか立派な所で、四階建ての上にセキュリティもしっかりしている。年頃の女の子が一人で暮らすにはちょうどいい物件なのだ。まあ、一応フミちゃんもタレントなので、表に本名を出してはいないけど。
今日はわたしがこの部屋に泊まることになっていて、その前にお疲れさま会と称して簡単な祝杯をあげていたのだけど……フミちゃんが冷蔵庫から取り出した、炭酸の入った飲み物をぐいっと呷ってしばらくして、フミちゃんはこんなふうに荒れ始めた。
未成年なのにそんなものを飲んで大丈夫なのか、と思う人もいるかな。大丈夫だよ、たぶん。
「フミちゃん……なんでサイダーで酔っぱらうの?」
「知らねぇよぉ、昔っから炭酸飲料飲むとぐでーんって酔っちゃうのよぉ」
「うーん、まだまだ人間の体には底知れない神秘があるのね……」
「おっ、ネムさまいいことおっしゃるぅ。うひひひひ」
こういうことがあるから、フミちゃんは人前で炭酸の入ったものを頼まない。普段の彼女がそうであるだけに、酔っぱらうとどんな醜態を晒すか分からないから、と本人は言っていた。
「ホントにさぁー……なんで鬼龍院さん、あいつとわたしを組ませようなんて思ったかなぁ。そりゃあ仲が悪いってわけじゃないけどぉ、気が合うように見えねーじゃん、どう見てもぉ」
「鬼龍院さんなりに、何か考えがあってのことじゃない? それに、喧嘩してぶつかり合うくらいの方が、いいグループになれるかもよ?」
「うがああ」フミちゃんは自分の髪を掻き乱す。「今のわたしに正論をぶっこむなぁ。あああ、ホントどうしてくれって言うんだぁ……うぅ」
フミちゃんはテーブルに突っ伏して、そのまま動かなくなった。寝ちゃったかな?
「おーい、フミちゃーん?」
「……わたしはさぁ」
「あ、起きてた」
「歌も踊りもいうほど上手くないし、顔やスタイルが特別いいわけでもないし、勢いで突っ走るしか能がない女だよ……それってアイドルとしてどうなんかなぁ」
「顔はともかく、技術やスタイルは磨けば光るものがあると思うよ? アイドルの中にも、顔がいいわけじゃなくても人気の子はいるし」
「そこはお世辞でも『顔もいいよ』っていうところじゃないの……」
うーん、上手くいかないなぁ。人付き合いの薄かったわたしは、お世辞が大の苦手なのだ。こういう時、彼女のアドリブの能力がうらやましい。
「小さな頃からアイドルが好きでさぁ、いつか自分もなってみたいって思ったわけよ。あんなふうにキラキラしてさ、たくさんの人を笑顔にするようなアイドルに……」
「そうね、フミちゃんがどれだけアイドルが好きか、わたしにも分かるわ」
何しろ、部屋中にアイドルのポスターやグッズが所狭しと並べられて、この部屋の本来の壁が全く見えないほどなのだ。男性でも女性でも、そればかりかフィクションであろうと構わず、とにかくアイドルなら何でも好きらしい。出演するテレビ番組はすべてチェックするし、都合があえばコンサートにだって顔を出す。もはや彼女の人格を構成する大部分といっても差し支えない。
「ちなみに、いま一番ハマってるアイドルって?」
「マテリエンヌに決まってるだろ」
フミちゃんは即答した。少し怒っているような口調に、わたしはドキッとした。
「マテリエンヌは絶対、どこのグループにも負けねぇ……日本一のアイドルだよ。このわたしが言うんだから絶対だ」
「フミちゃん……」
「すごくいいグループなんだからさぁ……見放されたくないんだよ。マテリエンヌの一員だって胸を張りたいんだよ。でも……ホントにそうなれるのかなぁ」
泣きそうな声でフミちゃんは呟く。マテリエンヌへの愛の深さが、彼女を苛んでいる。
サラちゃんの言うとおり、彼女の明るさとアドリブ力は武器だ。……唯一の、といってもいい。それ以外に胸を張れるものがないから、ひたすら利用して貢献したいと思っているだけだ。
アイドルとしての素養が自分にあるのか、彼女に自信がないことに変わりはない。でもその不安を、他人に見せるわけにはいかない。アイドルという立場が、そして彼女の、グループへの愛と義務感が、それを許さない。
身につまされる……彼女のために何かしたいと、思わずにいられない。
「……大丈夫よ」
わたしはフミちゃんの頭をそっと撫でる。
「フミちゃんはきっと、素敵なアイドルになれるわ。わたしが保証する」
「…………」
するとフミちゃんは無言のまま、わたしの胸元にしがみついてきた。何やら唸りながら、顔をぐりぐりと擦りつけている。どうしたのだろうと、彼女の言葉に耳をすませた。
「うぅ……抱きまくらぁ……」
「……まだ酔ってるのかしら」
たぶん、彼女のこんな醜態を知っているのは、わたししかいない。わたしの前ではこうして弱さをさらけ出していて、そのことでわたしは初めて、彼女に心を開くことができた。彼女にとって特別な存在に選ばれたことが、むず痒いくらいに嬉しい。
ダメだなぁ、わたし……わが子を愛おしむように、そっと彼女を抱きしめた。
* * *
人間は一面だけでできているわけじゃない。誰にも見せない一面があるのは当たり前だ。
アイドルは人々の理想を体現した存在……直訳のとおり、“偶像”でなければならない。人々が見たくないものを見せてはならないし、あってほしくないものがあると思わせてはいけない。
だからわたしは、必死で隠してきた。些細なことで心折れそうになる弱さも、頼りがいがあると思われるための努力も。それがアイドルになるための絶対条件だと、信じて疑わない。
でも、そんなわたしを知られてしまった。今わたしに膝を貸してくれている、彼女に。
チカはわたし以上の努力家だった。補欠合格に準所属という、誰よりも厳しい条件の中で、必死に食らいつこうと努力していた。そして、その姿を見せれば誰かが同情して拾ってくれるかもしれないのに、彼女も努力する姿を人に見せようとしなかった。
初めてわたしは、自分ではない誰かが、アイドルになってほしいと強く願った。その願いは、現在進行形で叶おうとしている。
勝手にシンパシーを覚えたわたしは、彼女の前でだけは、力を抜いて接しようと決めた。どれほどきつい努力を続けても、たまには誰かの優しさや人肌が恋しくなる……その気持ちが、彼女なら分かってくれる気がしたのだ。実際に彼女は、わたしの甘えを拒まなかった。
その一方で、彼女は未だに、素の自分というものを見せてくれない。甘えようとしない。
心を開き切れていないのか、それとも素の自分を隠していないのか……訊けばもしかしたら答えてくれるかもしれない。でも、その勇気はない。
「サラちゃん? そろそろ振り付けの確認しよう?」
「んん……もう少しだけ」
しょうがないなあ、というチカの心の声が聞こえそうだ。
チカの与える温もりは本当に心地よくて、この心地よさを知ってしまったら、手放すことなんてできそうにない。だから……もし下手に踏み込んで、この温もりがわたしから離れてしまったら。そう思うと怖くて、とても聞けない。もちろんそんな一面は、彼女にも見せない。
ずるいなぁ、本当に……もう少し味わいたくて、今度はチカのお腹に顔をうずめる。
* * *
二日後の朝、わたし達マテリエンヌのメンバーは、事務所で衝撃的なことを伝えられた。
「マテリエンヌに新メンバーが加入する!?」
わたし達はみんな、鬼龍院さんからの報告に驚いていたけど、代表でサラちゃんが声を上げた。マテリエンヌにあてがわれた専用の一室で、そろそろ定時連絡に行くか、という話をしていたところに、鬼龍院さんの方から部屋にやってきて、重大な話があると切り出されたのだ。
「ええ……まだ正式な決定事項じゃないけど、そうなる見通し」
「そんな! このメンバーで二年以上一緒に活動して来たのに、いきなりもう一人追加するなんて、いくら何でも話が乱暴です!」
「そーだそーだ」
フミちゃんも煽ってくるけど、サラちゃんほどには真剣みに欠けていた。
「仕方ないじゃない。タレントも含めてうちの人事は、社長を含めた取締役会で決まるもので、ただのプロデューサーに過ぎない私は口を挟めないし……今の四人だって、人選こそ私が担当したけど、結成とかデビューには取締役会の承認が必要だったのよ」
それもタレント教育ポリシーとやらに書いてあるのだろうか……。
「だけど、すでにデビューしているグループに、後からメンバーを追加するなんて……」
「そう、普通はない。だけど弱小プロダクションには、それなりの大人の事情ってものがあるのよ」
「納得できません! 例の企画だって、これからようやく始めようというのに……」
「恋愛シミュレーションね? あれなら一応相談したけど、事務所は関与しないから責任ある範囲で好きにやれ、ということになったわ」
予想はしていたけど、やっぱりそうなったか……事務所で打ち出した企画となったら、周りからどういわれるか分からないからなぁ。
「まあまあサラちゃん、落ち着いて」やんわりと抑えにかかるネムちゃん。「まずはその新加入の子と会って話してみて、気が合いそうだったら入れてみるのを考えてみない? 社長だって、わたし達がどうしても嫌だと言えば、無理を通したりしないでしょうし」
「むぅ……まあ、ネムの言うことも一理あるか」
「あの、新しく加入するってことは、この事務所の研究生ですか?」
わたしが尋ねると、鬼龍院さんは首を横に振った。
「いや……つい先日、うちの事務所に入ったばかりの新人だ。しかし、すでに別の事務所で実戦経験を積んでいるから、技術面では申し分ない。その事務所が倒産して、抱えていたタレントを次々と手放すことになって、その子はうちで預かることになったってわけだ」
思いのほかハードな経緯だった……ならばその子には戻れる場所がないことになる。せめて手を差し伸べるくらいの優しさは示そう。
その子はもう近くに来ているらしく、鬼龍院さんはドアに向かって呼びかけた。
「おーい、話はついた。もう入ってきていいぞ」
鬼龍院さんの呼びかけを合図に、ドアがゆっくりと、キィと音を立てて開いていく。そして、ひとりの小柄な女の子が、わたし達の前に現れた。
その瞬間……わたしは、心臓がじわじわと膨らんだような気がした。
顔は小さく、目鼻立ちも整っていて、薄い桃色の唇はぷっくりとして愛らしく、どこか遠慮がちに眉が下がっている。たとえるなら、そう……人懐っこい小動物のよう。
そのふくよかな唇が開かれ、彼女の一声が放たれる。
「初めまして……中江輝美です。テル、って呼んでください」
透きとおるような声、でもネムちゃんとはどこか違う……ふわりと包み込むような、決して主張の強くない、でも心をつかんで離さない芯の強さを思わせる。
かわいい……本物のアイドルって感じだ。
あ、あれ? あれあれ? なんだか心臓の音が激しい。どうなってるの?
そんな、彼女の姿を見るごとに、どんどん拍動が激しくなるのに、なぜか彼女から目を離せない。どうしよう、このままじゃなんか、胸が破裂してしまいそう。
ねえ、これってもしかして……サラちゃんたちに相談したくて、わたしはなんとか力を振り絞って、視線を輝美からサラちゃんたちに移した。
が、そこでわたしは、とんでもない光景を目にした。
……三人とも、頬を赤らめながら、呆けたような表情で輝美を見つめていた。輝美は緊張しているのだろうか、この三人の、というかわたし達の変化に気づいていないようだ。
ちょ、ちょっと待って。これってもしかして……。
この日、わたし達マテリエンヌによる、恋愛シミュレーションが始まった。
スタートはまさかの、全員一目ボレ。
粗筋には四人組アイドルの恋愛模様と書いているのに、五人目が加わりました。しかも四人の関係について色々書いておきながら、始まりは全員が同じ人に一目惚れするという展開。これ、どれだけの人がついていけるのかな……まあ、気長にお付き合いください。
ちなみに作中に登場する楽曲は、本作のオリジナルです。作曲はされていませんが、詞はフルバージョンまで実際に作っています。本編では一部しか見せられませんが、もし皆様から希望があれば、そのうち全編をどこかでお見せしようかと思っています。……まあ、素人の作詞なので、大目に見てください。




