6-2 輪になって描こう
第2話は、もう一人の主人公・高峰玲香の視点で展開します。
引き続きよろしくお願いします。
小さい時から、走ることが好きだった。色んな所で、走り回って遊んだ。
記憶に残っている限り、ひとりで遊んだ事はなかった。外では学校や近所の友達とつるみ、家では歳の離れた姉が相手になってくれた。……まあ、姉に関しては、遊び盛りの妹に付き合ってあげている、という意識だっただろう。実際、わたしが中学校に上がった頃には、姉は就活で忙しくなっていたし、わたしも無理に付き合わそうとはしなくなった。
小さい頃は、男子たちに交じって遊んでいても、まったく違和感がなかった。お互い、気の置けない友達としか思ってなかったし、何も考えずただはしゃぎ回って、ちょっとドジ踏んでは笑い合って……そうした時間を一緒に過ごせるだけで、わたしは幸せだった。
だけど、中学校に上がってしばらく経つと、嫌でも思い知らされた。
ずっと一緒に遊んできた男子のひとりから、ある日突然、人気のない場所に呼び出された。何か面白いものでも見つけたのかな、という軽い気持ちでついていくと、
「玲香。俺……お前が好きなんだ。俺の、彼女になってくれないか」
わたしと正対し、覚悟を決めたようにその男子は告げた。その告白が何を意味するのか、理解できないわけじゃなかった。周りに、その手の話題で盛り上がっている子は何人もいたから。
この時にわたしは知った。何も考えなくてすむ関係が、唐突に終わる事もあるのだと。
恋愛というのを、楽しそうと思うことはあった。もしかしたら自分にも……そんな期待を、冗談半分で抱いたこともちょっとはある。だけど、幼い頃からの付き合いだった男子に、真剣な好意を向けられて、わたしは、自分にその番が巡ってきたという喜びより、ずっと続くと思っていた関係が終わることへの、言いようのない不安と恐れがあった。
「…………ごめん」
わたしは結局、現状維持を選んだ。彼との友達付き合いは、幸いまだ続いている。
この出来事をきっかけに、わたしは、特定の誰かと特別に親しくすることを避けるようになった。中学の陸上部で男子並みの活躍をするようになって、男女問わず仲良くなりたいと言ってくる人が増えて、わたしは誰も断らなかった。交友を持つことでみんなが、ささやかでも幸せに感じられたら、そしてたくさんの人と深く考えずに付き合えたら、それで満足だった。
外ではしゃぎ回ることは減ったけど、それでもたくさんの人と交友を持った。先輩も後輩も、時には陸上絡みで他校の生徒とも。いつしかわたしは学校の人気者になって、みんなからほどよく愛されることを、わたし自身も嬉しく感じるようになっていた。
だから、まさか自分が、誰かひとりをこんなに好きになるなんて、思わなかった。
しかもそれが、高校に入ってからも付き合いの浅い、女の子だなんて。
その日、わたしは少し寝不足気味のまま、友達の遠山美雪と一緒に登校していた。
「ふわあぁ〜ぁ〜」
これでもか、というくらい大きく口を開けるわたし。なんか、目元もショボショボする。
「盛大なあくびだなぁ。高峰、寝不足?」
「んー、ちょっとね」
わたしは目元を軽く手でこすりながら言った。あんまり目をこするのはよくないと聞いているから、ほどほどに。
「ま、朝練で走ってるうちに目ぇ覚めるでしょ」
「走って目が覚めるってのはあまり聞かないんだけどな……」
そんなことはない。足を使うことは脳の活性化に繋がるから、脳に覚醒を促して眠気を飛ばす効果は十分にある、はず。科学的根拠ってやつがはっきりしないけど、少なくともわたしは身をもって体験しているから、まあまあ信に値するはずだ。
陸上部が使っている運動部棟は、正門から見てグラウンドの向こうにあるので、結構遠い。グラウンドと校舎に挟まれている道路を通って、ぐるっと迂回しなければならない。グラウンドを突っ切ればもう少し早く着けるけど。
わたしは朝練、美雪は委員会の用事があって、どちらも七時までに学校に来る必要があったから、たまには一緒に行こうという話になっていた。もちろん行くべき場所は違うので、昇降口前で美雪と一旦お別れとなる。
「じゃあ、またあとで教室で」
「うん。……あれ?」
何だろう、視界の隅に妙なものを見た気が……。
「ん? どうした」
首をかしげる美雪をよそに、昇降口前の階段の脇、園芸部のプランターがある所に駆け寄る。プランターの中に、何か薄茶色の物体が入り込んでいるようだ。わたしはその物体をつまんで拾い上げた。
「これって……犬?」
「犬だね」
「犬だよね」
もちろん本物のワンコじゃない。手の平にすっぽり収まる大きさの石に、垂れ耳の犬の正面顔が描かれているのだ。どうやら絵の具で色付けしたらしい。つぶらな瞳と、鼻の下にωの形に描かれた口、石のかすかなでっぱりに合わせたらしい垂れ耳と、愛嬌のある絵柄だ。
「へぇ、結構カワイイ絵じゃん。誰が描いたんだろ」
美雪もどうやら気に入ったらしい。普段は石なんて見ないけど、このワンコの絵は美雪の心を掴んだようだ。
「誰だろうね。でもプランターの中にあるってことは、落としたわけじゃなくて、誰かに見せるために置いたのかも」
「誰かって、誰に?」
「通りすがりの犬が好きな女子高生とか」
「あはっ、ばれたか」
笑っておどける美雪。こいつの動物好きはみんな知っている。
冗談はさておき、これはいったい誰の仕業なのか……石のことなら、あの子に聞けば何か分かるかもしれない。とりあえず目的がよく分からないから、この石はプランターに戻そう。
「さて、そろそろ朝練に行かないと」
「やばっ、もう一分もないじゃん」美雪はスマホで時間を見て慌てだした。「じゃあ、朝練頑張って!」
「うん」
「あ、あと他にもアートストーン見つけたら写メ撮っといてね! そいじゃ!」
そう言って美雪は四段だけの階段を駆け上がり、校舎の中に入っていった。忙しい人だな……てか、アートストーンって。よく分かんないのに勝手に名前つけていいのか。まあ、案外本当にそんな名前かもしれないけど。
さて、わたしも朝練の開始まで時間がないから、駆け足で運動部棟に向かう。ウォームアップだと思えばちょうどいいかな。
運動部棟の、陸上部の部屋の前まで来たけど、人がいる気配が全くしない。声は遠く後方からかすかに聞こえる、登校中の他の生徒のものだけ。
「あれ……時間、間違えたかな。あ、鍵あいてる」
部室のドアノブは普通に手応えなく回った。誰かはいるのかな……と思いながらドアを開けようとしたら、何かにコツンと当たる感触があった。下を見ると、ドアとドア枠の間に入り込むように、石ころが転がっていた。見ると、これもなにやらペイントされているみたいだ。
しゃがんで石を手に取ってみる。さっきの犬と同様、アクリル絵の具で動物の顔が描かれているが、それを見てわたしは思わずくすっと笑った。
「なるほど、チーターか……陸上部にぴったりじゃん」
描かれていたのは、チーターの横顔だった。トラやヒョウと比べて顔が丸っこいからすぐ分かったけど、石の形からチーターの横顔を思い浮かべるとか、なかなかいいセンスをしている。しかもこのチーター、ちょっと口を開いて歯を見せている。
「もしかしてこれ、走っている最中のチーターかな。絶対陸上部を狙ってるね」
「うーん……」
部室の中から、眠たそうな唸り声が聞こえてきた。覗いてみると、部員のひとりがベンチの上に寝転がっていて、気だるそうに上体を起こしたところだった。
「あれー……たかみねー、もう来たのかー」
陸上部のユニフォーム姿の女子が、寝ぼけ眼でわたしを見る。
「……睦、なんで部室で寝てるの」
「ひと足先に来たんだけど暇でねー、居心地いいから横になってたらいつの間にか」
「なんじゃそりゃ。てか、準備運動くらいしなよ」
「うわっ、高峰さんもう来てた!」
今度は外から声が聞こえてくる。振り向いたら陸上部の仲間たちが数人来ていた。
「あんたら、集合時間ギリギリじゃん……わたしが時間を間違えたと思ったよ」
「いやー、きょう先生来れないかもって言うから、ちょっとくらい遅れてもいいかなーって思ったんだけど」
よくないだろ。こいつら、練習中は互いにライバル心剥き出しにするくせに、それ以外の時間だと適当になるんだよな。
ちなみに部長はさらに遅れてやってきて、「重役出勤よ」と胸を張って言い訳したら、部員から総ツッコミを受けた(自分たちも遅れたくせに……)。何ともグダグダな始まり方だけど、とりあえず練習メニューはすでに部長が作成していたので、予定より少し遅れて始まった朝練は、滞りなく進んだ。そしてついに、顧問の先生は現れなかった……。
そんな感じで一時間の朝練を終えると、みんな早足で教室に向かっていく。ゆっくり歩いても朝のHRには間に合うけど、みんな教室でダラダラする時間が欲しいらしい。
一方、わたしはゆっくり歩いて教室にいく。HRまでにやらなくちゃいけないことは特にないし、雑談の時間はなくてもいいし、たかが一時間程度の練習で体を休めたくなるほどヤワでもない。わたしが教室に入ってする事といえば……。
「あっ、高峰さん、おはよー」
「おはよー、朝練お疲れさまー」
「おーはよー」
何人ものクラスメイトに囲まれて、口々に朝の挨拶を受けてはそれに応える。
「うん、おはよう」
笑顔でそう言うだけで、なぜだか女子たちから歓声が上がる。ここ一年くらいでクラスに定着してしまった朝の光景。たまに別のクラスからも追っかけてくる人がいるんだから、本当にどうしたものか。
まあ、みんなが楽しそうなら、わたしは別に構わないけどね。大勢から好かれるのは悪い気がしないし、基本的にみんな、わたしと仲良くなりたいだけだから、笑顔でそれに応えるのはわたしにとって当然のことだ。わたしだって、みんなと友達になりたい。
ところで、クラスの女子はほぼ全員(たまに男子も交じって)、わたしが教室に入ってすぐに話しかけてくるのだが、一人だけ……窓際の席に座って静かに本を読んでいる女の子だけは、自分から決して声をかけない。気にする素振りはあるけれど。
「おかえり、高峰。でもってお疲れさん」
一緒に登校した美雪だけ、「おはよう」ではなく「おかえり」と言ってきた。
「美雪も、委員会お疲れさん」
そう言って、美雪と拳をコツンと叩き合う。美雪は椅子の背もたれに後ろから寄り掛かっていた。
「ホントお疲れだよ。朝から定例確認のための会議とかマジ勘弁。いっつも似たような結果しか出てこないもん。新任の先生が分掌会議で文句言う気持ちが分かるわー」
「あはは……大変だね」
「それより高峰、あれからアートストーンは見つけた? でもって写真撮った?」
ぐいっと迫ってくる美雪の、瞳がキラキラと輝きだした。そんなに気に入ったのか、アートストーン(命名、美雪)。
「まあね。陸上部の部室と、あとグラウンドの隅っこにあったよ。チーターとウサギ」スマホを取りだして写真を見せる。「ほら、こんな感じ」
「おぉ〜……」
美雪はさらに目を輝かせ、受け取ったスマホの写真に見入っている。ちなみにウサギは白地の上に薄いピンクで全身が描かれている。何かのキャラクターをもじったのかな。
「ま、じっくり観賞するがよい」
「……満悦至極」
スマホを両手で持って、とろんとした緩い表情になる美雪。かわいいウサギの絵に心奪われてか、ボキャブラリーがおかしい。そして、動物の描かれた石の写真に興味を引かれて、数人のクラスメイトが集まってきている。どうやら他の場所でも見かけた人がいるらしい。
さてわたしは……事情を知っているかもしれない彼女に、石の絵について尋ねてみることにした。まだわたしに挨拶していない、ただ一人の女の子。
「花、おはよ」
「! お、おはよ……」
妙に肩を縮こまらせて、女の子はおもむろにこっちを振り向く。天然パーマがやや混じったセミショート、少しふっくらとしたほっぺと、平均ちょい低めの背丈の、かわいらしい女の子。名前は石崎花。
「今日もその本読んでたんだ」
花の手には、キレイな鉱石の写真が載っている本がある。外の図書館で借りているそうだが、よほど気に入っているみたいだ。
「うん……ターコイズがキレイ」
「水色だね。これって宝石だっけ」
「他の宝石ほど価値があるわけじゃないけど、昔から装飾品に使われてきたらしいよ。あと、12月の誕生石でもあるね」
へぇー……っと、それは12月生まれのわたしに絡めた話なのかな?
まあ、それはないけどね。花はまだ、わたしの誕生日を知らないし。というか危うく本題を忘れるところだった。
「それよりさ、花にちょっと聞きたいことが……」
わたしの視線は、不意に花の膝元に向く。さすがはまじめな優等生、スカート丈はぴったり膝の位置に来ている。……いや、何を残念に思っているのか。それよりもそのスカートに、わずかだが、白い汚れが付いている。
ははーん、なるほど、そういうことね。
「なに? 高峰さん、聞きたいことって」
「ううん、後でいーや」
わたしは笑ってごまかした。というかまた名字呼びに戻っている……人の目があるからかな。わたしはずっと前から花のことを名前で呼んでいるけど。
ちょいちょい、と手招きすると、花はすぐに気づいて耳を貸してくれた。他の誰にも聞かれないようにこっそりと、花に耳打ちする。
「今日、部活が早めに終わりそうだから、そのあとで地学部にお邪魔するね」
「!」
花は少し頬を赤らめて、びっくりしたように目を丸くした。
「い、いいけど……」
「うん。じゃあまた放課後にね」
それだけ言って、自然な感じにその場を離れた。わたしは気にしないけど、花は自分と一緒にいるところを見られるのが、あまり好きではないらしい。
実は、花が入っている地学部を訪れるのは、これが初めてなのだ。もう今から楽しみで仕方ない。スキップしそうな足取りを、そして緩みかけた表情を、わたしは必死に抑えこんでいた。
その日の放課後、練習を終えたわたしは急いで荷物をまとめた。
「たかみねー、もう帰るのー?」
睦がゆったりとした口調で訊いた。普段は寝ぼけていなくてもぼうっとしているが、走り幅跳びでは無双だったりする。
「いや、ちょっと教室に寄ってく」
「忘れ物でもしたの?」
「会う約束をしてる人がいるから。じゃねっ」
「忙しいなー……」
教科書とかを入れたカバンと、大きめのスポーツバッグを抱えて、わたしは部室を出る。
……嘘はまったく言ってない。人と会う約束があるのは事実だし、地学部の部室は地学準備室という立派な教室だ。特別教室って言うもんね。
とはいえ、あえて誤解を招くようなことを言っている意識はあるので、少しだけ罪悪感があるのは否めない。わたしとしては、おおっぴらに付き合ってもいいんだけど、彼女に予期せぬ火の粉が飛ぶ恐れがあるから、まだ誰にもこの事は言ってない。自分のことはともかく、彼女のことは最優先で守らないと。
さて、特別教室のある校舎に入ると、三階まで上がって地学準備室に向かう。お隣の地学教室は授業用のはずだけど、座学メインなのであまり使われないと聞く。そもそもわたしは地学を選択していないので、この辺りに来ること自体が初めてなのだ。
(うーん、ちょっと緊張してきたな……)
地学準備室の前まできたが、引き戸は閉まっていた。廊下にも人の気配はなく、不気味なくらい静まり返っている。引き戸に付いているのはすりガラスなので、中の様子は分からない。
それでも、なんとなく分かる。あの子はちゃんといる……他の誰も気づかなくても、わたしだけは見つけられる。
ノックすると、建てつけが甘いのかガシャガシャと鳴った。引き戸にかけた手に力を入れると、難なく開いた。その向こうには……。
「あっ、玲香ちゃん……いらっしゃい」
石崎花がひとり、夕日の差し込む小さな教室で、椅子に座って待っていた。
「うん、お邪魔するよ。今日は花だけ?」
「えっと、元々ここってわたししか部員いないから……さっきまで顧問の秋保先生もいたんだけど、女バスの子たちに呼ばれて出て行っちゃった」
そういえば地学部の顧問って、女子バスケ部と兼任しているんだっけ。つまりしばらく、ここで花と二人きり……ヤバい、この状況で理性保てるのか、わたし。
「そ、そうなんだ……」
心拍数が上がっている事を隠しながら、わたしは花の元へ。
さっきから花は何をしていたかというと……机の上には新聞紙が広げられ、大小さまざまな石たちと、絵の具とパレットと水バケツが置かれていた。すでに何個かの石に、動物の絵がペイントされている。美雪が言うところのアートストーンだ。
「やっぱりこれ、花の仕業だったんだね」
「玲香ちゃんも見つけたんだよね。今朝、そんな話が聞こえてきたから……」
「うん。陸上部の部室の前にチーター、グラウンドの隅っこにウサギがいたね。その事で何か知ってないか、花に聞こうと思ってたんだけど、スカートについていた白い絵の具を見てぜんぶ分かっちゃった」
「えっ」花は慌てて自分のスカートを見る。「わっ、ホントだ。気づかなかった……」
よほど作業に熱中していたんだろうな。それにしても、花って意外と絵が上手いな……ペイントされた石のひとつを手に取って、わたしはそう思った。
「ところで、これって何なの? 美雪は勝手にアートストーンなんて言ってたけど」
「あはは……これはWA ROCKって言って、秋田県の一部地域で行なわれている遊びのひとつだよ。乾いた石にアクリル絵の具で絵を描いて、外のあちこちに置いて、見つけた人は拾ったり移動させたり、別の石と入れ替えたりするの」
「変わった遊びだね」
「全国的に知られたものではないね。石に描く絵は何でもいいから、描く人の好みとかが見えてきたりするのが面白いんだよね。まあ、わたしは純粋に、石を使った遊びがしたかっただけなんだけど。ちなみに……」
花は石をひとつ手に持って、裏返した。裏面には『WA ROCK』と白い絵の具で書かれていた。
「裏面とか隅っこにWA ROCKと書くことで、持っていっていいってことを示しておくの。あと、邪魔にならない所に置くのもルールだよ」
「書かれてたのか……」
動物の絵に目が行きすぎて気づかなかった。見つけていれば、たぶんネットで検索すれば分かったと思うけど。
「でもなんでWA ROCKっていうの?」
「元々この遊びは、オーストラリアの西部で行なわれていたものを、日本人が持ち帰って広めたものなんだ。WAは、Western Australiaの頭文字を取ったもので、日本語の“輪”にひっかけて名付けられたんだよ」
花は両手で輪っかを作りながら言った。なるほど、石の絵を通じて人の輪を作って広げていくという趣旨か……というか、手で輪を作っている花がかわいい。
「玲香ちゃんも描いてみる?」
「わたしも? えー……あまり絵に自信ないんだけど」
「そんなに上手くなくても大丈夫だよ。動物でなくてもいいし、好きなもの描いていいよ」
「好きなものかぁ……」
わたしの好きなものといえば走ることだけど、そんなのは絵に描けないし、絵に描けるものでわたしの好きなものは……。
「ほら、筆一本あげる」
細い筆を差し出してきた花。ふわっとした微笑みは、まるで野に咲くたんぽぽのようだ。
……いやいや、人の顔は難易度高すぎるでしょ、自分の絵心を考えろ。思い浮かんだものは、首をブンブン振って払いのけて、わたしは花の手から筆を受け取る。
「まあ、せっかくだから描いてみるよ」
「いま首を横に振らなかった?」
「気のせい気のせい。じゃあ、この石もらっていい?」
「いいよ。楽しみだなぁ、玲香ちゃんがどんな絵を描くか」
「さらっとプレッシャーかけないでくれる?」
わたしは苦笑しながら突っ込んだ。まず筆を持つこと自体がかなり久しぶりなのだ。小学校以来かもしれないが、その頃だって決して上手に描けたわけじゃない。
石の形は、やや円に近い楕円形……卵を斜め横から見た形に近いかな。人や動物の顔を描くのは厳しいけれど、花……隣にいる彼女じゃなくて、植物の花だったら、わたしでも描けるかもしれない。そうだ、さっき花を見て思い浮かんだものを描いてみよう。
夕日の差し込む地学準備室、一つの机に向かって、一緒に小石に絵を塗っていくわたし達。外で元気よく走るのは好きだけど、こういうのも、たまには悪くない……。
さて、基本的に黄色しか使ってないし、スマホで画像を見ながら描いたから、出来栄えは案外悪くないと思うのだが……どうだろうか。
「描けた? ……うん?」
花がわたしの手元の石を覗き込んでいる。細く小さい黄色の花びらが、放射状にまんべんなく描かれている。そう、これは……。
「うーん……お刺身についてる食用菊?」
「なんでピンポイントでそれが出てくるの? うーん、やっぱ茎も描いた方がよかったか……」
「あ、もしかしてたんぽぽ?」
「まあね」
「だったら、茎は裏側まで伸ばすように描いてみたら?」
「そっか、そっちの方が面白そう。というかこれって、結構インスタ映えしそうだよね。この石を写真に撮って投稿して、どこにあるか探してみて、っていうのは面白いかも」
「ふふ、そうだね……」と言って、急に暗くなる花。「まあ、わたしはインスタどころかSNSの類いを全くやってないし、即フォローしてくれる友達もいないし……玲香ちゃんなら、たくさんの人が見てくれるだろうからね……」
「こらこら、卑屈にならないで」
花がわたし以外の人と話している所は見たことがないが、実は本人も割と気にしているみたいだ。確かに石好きの趣味はなかなか共有しにくいだろうけど……。
「だからってわけじゃないけど、玲香ちゃんからこの事を広めてくれると嬉しいかな」
「そりゃあ広めるのは構わないけど、花が始めたんだから、花が話して広めてもいいんじゃないの?」
「…………」
「いやまあ、無理する必要はないんだけどさ!」
花が弱々しく微笑んだのを見て、まずい、と思った。今のはちょっと失敗だったかもしれない。花がこういうのを苦手にしているのは知っていたのに。
どこか陰鬱な雰囲気を漂わせ、伏し目になりながら花は口を開く。
「昔から……石が好きなわたしのこと、『意味わかんない』とか『危ないやつ』とか言われて、たぶんこれは、わたし以外誰も好きになるものじゃないんだって、思うようになってね……」
「…………」
「元から他人と関わるのが得意じゃなかったけど、とりわけ石遊びに関しては、誰とも一緒にやろうとはしなくなった……どうせ誘っても、どんなに楽しいか話しても、分かってくれたり、共感したりしてくれる人なんていないから。今だって付き合いのある人は玲香ちゃんくらいだし、いきなりわたしからWA ROCKのことを言い出しても、『石オタクが変なことを言い出した』くらいにしか思われないよ」
そう言って花は微笑む。無理をしているように、諦めが滲んでいるように見えた。
そんなことはない、と言ってあげたかった。でもそれは気休めにもならない。この嗜好に共感を示されず、変わった趣味として遠ざけられる……花はずっと、そればかり経験してきたんだろう。そんな彼女に言ったところで、受け入れられるはずはなかった。
わたしだって、石遊びにネガティブなイメージは持たないけど、普段から花と一緒にやっているわけでもないし、積極的に関わる理由は『花がやっているから』くらいのもので、特に興味があるとは言えない。花もその事を理解しているから、無理にわたしを巻き込むことはない。そんな状態で、わたしから何が言えるだろう。
悔しい……花のためにできることが何もないのが、心の底から悔しい。
歯痒さのあまり唇を噛んでいると、制服のポケットに入れていたスマホから、ポンッという電子音が鳴った。ラインにメッセージが届いたのだ。
「美雪から……?」
スマホを取りだしてメッセージを表示する。
『帰り道でまた絵の描かれた石みっけた。裏側にWA ROCKって書かれてたから、調べてみたら、拾ったり交換してもいいんだってさ』
『てなわけで、あたしも作ってみました!上手く描けたかな?』
その後に送信された写真には、机の上に置かれたと思しき、にんじんの擬人化キャラが描かれた小石が映っていた。そういえば美雪の家に行った時、にんじんのキャラの抱き枕が部屋にあったような記憶が……。
ふふっ。わたしはこっそり笑ってしまう。なんだ、これでよかったんだ。
「花。やっぱり、花の口から説明する必要はないみたい」
ラインのトーク画面を見せると、花は驚いたように目を見開いた。その間にも、メッセージへの反応が次々と現れ、ポンッポンッと音が鳴る。
「…………!」
「みんな自分で、WA ROCKの意味に辿り着いて、少しずつ広めようとしてる。花がまいた種はちゃんと、輪になって広がっているんだよ」
「すごい、こんなに……」
もっと見ようとして、わたしのスマホを両手で掴んでくる花。一瞬だけ花の手がわたしの手に触れて、ちょっとドキッとした。
「……これさ、花がこっそり始めたってこと、みんなには秘密にしてみない?」
「え?」
「誰がきっかけを作ったのか分からないけど、いつの間にかWA ROCKがこの地域に広まっていた……こういうの、謎めいていて話題を呼びそうでしょ。その中で、わたしだけがその秘密を知っているシチュって、なんだかおいしい感じがするじゃん?」
冗談めかすように、わたしはニカッと笑いかける。
他の誰も知らない、WA ROCKと花の秘密。わたしだけがそれを知っているというのは、それだけで特別感があるし、花との繋がりをより強く意識できる気がする。何より、花がその事実をひとりで抱え込むより、大切な人と共有している方が、彼女にとっても心の救いになるはず。
……とまあ、わたし史上一番といっていいほどの熟慮に、花が気づいているかどうかは分からないけど、花はしばらく呆然とした後に、
「……あはっ、もう、玲香ちゃんったら」
困ったふうに、だけどどこか嬉しそうに微笑んだ。
やっぱり花は、こうやって笑っている方がいい。花が笑ってくれるだけで、わたしは……。
「あ、もう暗くなってきたね。そろそろ帰ろっか」
「そうだね」
すっかり日は沈んで、地学準備室も徐々に暗闇が濃くなっている。天井の明かりをつけて、帰り支度を始める。パレットと筆は水道の水でしっかり洗い、干しておく。ペイントした石はそれぞれ持ち帰ることになった。
そしてわたしと花は、きょうも連れ立って帰宅する。おおっぴらに付き合えないから、こんな事くらいしかできないけど、今のわたしにはそれでも十分だった。
……花が笑顔を見せるだけで、わたしはいつも救われるから。
さて、家に戻ってからわたしはどうしたかというと……。
「……探してみてください。よかったら、みんなが作った物も見てみたいな。送信」
さっそく自分のインスタにWA ROCKの写真を載せて投稿した。ちなみにたんぽぽを描いた石は帰る途中で隠した。フォロワー数を見る限り、何人も探すことになりそうな気がする。流行に便乗するふりをして、花のためにしっかりと話題を広げるのだ。
「ふう……それにしても」ベッドに寝転がり、両手を広げる。「誰かのためにここまでするなんて、かつてのわたしからは想像できないなぁ」
……ふと思うことがある。
いろんな人に好かれることも、たくさんの人と友達になることも、とても楽しくて、幸せに感じられる。だけど、そうやって形作られたコミュニティの輪の中心に、わたしがいるわけじゃない。わたしは輪を作っている一部にすぎなくて、そして全部を認知しているわけでもない。その輪の中に、わたしがいて、美雪がいて、睦がいて、他の知っている友人がいて……ただそれだけの形を求めていた。
だから、その輪の中で、わたしの隣に存在するものが何なのか、今までは気にしてこなかった。隣にあってもなくても、知っている人がいることに変わりはない。誰であろうと同じこと、そう思っていた。
でも……隣にいる、誰よりも近くにいる存在を認知したとき、同じではないと気づいた。それはかけがえのない存在で、失ってしまえば、わたしを含めた輪が途切れてしまうほどの、大切なものだったのだ。
知らなかった……こんなにも、自分の心を揺さぶるものが、すぐ隣にあったなんて。
「花……」
大好きな人の笑顔が脳裏に浮かんで、うわ言のようにその名前を呟く。
もっと近くにいたい。もっと彼女を知りたい。もっと彼女のことを、肌で感じたい……日に日に強くなっていく邪な欲求に、わたしの理性は潰れそうだ。
「あー、かわいい……っ、ホントかわいいよぉ、花ぁ……」
熱くなった顔を両手で押さえて、ゴロゴロ転がりながら苦悶する。
彼女と出会い、彼女に恋心を抱いてから、その一挙手一投足に心を動かされ、眠れない日が続いている。ああ……明日も寝不足になりそうだ。
……なんか高峰さん、全然高嶺の花じゃないなぁ。まあ、こんなもんか。
東北ローカルのテレビ番組で取り上げられていた『WA ROCK』を見たときから、いつかネタにしたいと思っていましたが、やっと世に出せました。もっと広がれ、ROCKのWA(輪)。
次回は恐らく年内最後の投稿になります。ついに、あの人が登場……?




