5-5 そうだよ、わたしもだよ
少し希望のありそうなサブタイ。
今までよりずいぶん時間がかかりましたが、第5章最終話です。
そして今までで一番中身が長くなりました。うーん、なぜだ。
何はともあれ、不器用な二人の関係が行き着く結末を、見守ってください。
森川桜子が、わたしの前から姿を消して、もう二週間が経とうとしていた。
未だにわたしの脳裏に焼き付いて離れない、別れ際の桜子。たんぽぽをあしらった浴衣。ポニーテールが跳ねて、かすかに覗く白いうなじ。振り向いたときの、キラキラした笑顔。
忘れようと思っても、忘れられない。思い出として刻まれてしまった彼女の面影は、あれからずっとわたしの視界にまとわりついている。
それでも乱されることはない。大学の授業はちゃんと真面目に聞けているし、友人たちとの会話が途切れることもない。バイトでも、前と変わらず懸命にやっていて、ミスが増えたり減ったりもしていない。いたって普通に生活できている。
でも……道を歩いている途中やバイト先で、桜子の学校の制服を着た女の子たちを見かけると、いつも桜子の姿がフラッシュバックする。一番たくさん見てきた、バイト先に現れる時の、制服姿の桜子を……。
お祭りデートの翌日から、電話は繋がらず、ラインには既読もつかない。本当に一切の連絡を絶ってしまったようだ。住所は知らないから、家に行って確かめることもできない。いま桜子がどんな状況にあるのか、調べるすべがわたしにはない。
……時が経てば、どんな記憶もいずれ薄れる。多感な中学生ならなおさらだろう。そのうち桜子も、わたしのことを忘れていく。わたしの中の桜子だって同様だと思っていた。だったら無理に彼女の面影を追いかける必要はない。時が流れるに任せて忘れていけばいい。これでいいはずなのだ。
それなのに……わたしの中の桜子は、日を追うごとに大きくなっている。
「中瀬さん、そろそろ給料日だけど、いつも何に使ってるの?」
シフト前の着替え中、梶原さんが尋ねてきた。
「貯金してますけど。生活費とか参考書を買う時に、必要な分だけ引き出すくらいで」
「寂しい使い方してんなぁ……なんかこう、パーッと使おうとか思わないわけ?」
「一年生の時からつましく暮らしていましたし、今のわたしに、お金の使い道なんてたいしてないですよ。せいぜい、光熱費や国民年金が引かれる程度です」
「それは消費とは言わん。ったく、学生なんだから、友達と一緒に旅行とかでも行ってくりゃいいのに」
友達と旅行か……それはそれで魅力的ではあるが。
「まあ、そのうち考えますよ」
「先延ばしにしない方がいいぞ。大学三年になったら、自由に使える時間なんてめっきり減っちまうんだから、行ける時に行った方がいいって」
「うーん……じゃあ、卒業旅行にとっておきます」
「結局二年以上先延ばしにするのかよ」
梶原さんはどこか不満そうだけど、貯金を崩してでも旅行に行きたい所が、今のわたしには思いつかないのだから仕方ない。まあ、優奈か知世のどちらかが誘ってきたら、考えてみてもいいかな。
最後にキャップを被って、わたしの準備は完了した。ロッカーの扉を閉めて、ひと足早くカウンターに向かう。
「それじゃ、先に行きますね」
「中瀬さん」
梶原さんに呼び止められて、わたしは振り向く。なにやら梶原さんは言いにくそうに口ごもっている。
「えっと、その……大丈夫?」
「え? 何ですか、体調なら問題ないですよ。最近は適度に休みを入れるようにしてますし」
「いや、うん……」
「……先に行ってますからね」
梶原さんはまだ何か言いたそうだったが、わたしはそのまま更衣室を出た。
……あの人が何をわたしに尋ねようとしていたのか、わたしはなんとなく察していた。自分では、いつも通りにしていたつもりだけど、よく分かる人から見れば、わたしはきっと、いつもとどこか違うのだろう。自分では分からないけど。
桜子への気持ちが日に日に膨らんでいくことに、わたしは内心で焦りを感じていた。このまま忘れて吹っ切って、気持ちを新たに仕事に臨もうとしていたのに、一向にそのタイミングが訪れないばかりか、そのうち仕事に支障をきたしそうでもある。気を張って、いつも通りに振る舞おうとしているせいで、どこか無理をしているように見えるのかもしれない。
それでも仕事を滞らせるわけにはいかない。わたしはカウンターに立って、次々とやってくるお客さんの注文に対応していく。とにかく今は、仕事に集中しないと。
「次のお客さま、こちらへどうぞ」
大丈夫、笑顔も声量も理想通り、上手くやれている。
「えっと、ダブルバーガーのセットを……あっ」
「ん?」
カウンターの向こうにいる来客と、目が合った。よく見ると、桜子の学校の制服を着ている女の子だった。ぱっつんの前髪に細面の、大人しそうな女の子だ。
「中瀬……」
女の子は、わたしの胸元を見て呟く。制服のネームプレートを見たのだろうか? 困惑しているわたしに、女の子はキラキラした視線をパッと向ける。
「もしかして、あなたが実桜姉さまですか?」
「姉さま!?」
いきなり高ランクの敬称で呼ばれて、こっちはびっくりしてのけ反った。
「中瀬さん、いつの間にこの子と姉妹になったの?」
隣のカウンターの梶原さんから、呆れたような視線を向けられる。もちろん濡れ衣だ。
「いやいや、そんな契約を結んだ覚えはないですって」
「お客さん」梶原さんが女の子に尋ねる。「この子のことご存じなんですか?」
「はい、桜子姫からよく話を聞いてたので」
さっきから変な敬称をつけているのは、この子の癖なのだろうか……。
「ああ、やっぱりお客さん、桜子ちゃんのお友達ですよね。以前、彼女と一緒にご来店されていたのを覚えてますよ」
「わたしも覚えてますよ。よく桜子姫に注文されていたお姉さんですよね」
ぶふっ! 思わず噴き出したのは梶原さんだった。当事者でなければ笑えるのだろうが、言われる側は表情をしかめるしかない。
「その話は忘れて……あ、そうだ。せっかくだから聞いておきたいんだけど、桜子ちゃん、いま何してるのかな」
桜子の友達なら、きっと何か知っているはず。店に来ている今がチャンスだ。
ところが……女の子は眉をひそめて、どこか悲しげな雰囲気を漂わせた。不安になる。何か、聞いちゃいけないことを聞いてしまっただろうか。
「やっぱり、桜子姫は、姉さまに何も言わなかったんですね。そんな気はしてたんですが」
どうも姉さま呼ばわりは違和感があるけど、今は突っ込まないことにしよう。
「どういうこと?」
「桜子ちゃん、転校しちゃったんです。家庭の事情で」
そばにいた別の女の子が答えた。たぶんこの子も桜子の友達だろう。うっすらだが、以前に桜子と一緒に来ていた覚えがある。
「転校……?」
「先々月から決まってたみたいです。本当は、もうちょっと早い時期の予定だったんですけど、桜子ちゃんの希望で、できる限り延ばしてもらっていたらしくて……でも、これ以上はさすがに延ばせないってことで、先々週、ついに転校することになっちゃって」
「転校の時期を遅らせたってこと? それってもしかして……」
梶原さんが尋ねた。そうだ、桜子から週一のデートを頼まれたのが、先々月のことだ。あの時点で桜子は、どんなに遅くても一か月後には、転校することになっていた。
「はい……実桜姉さまを好きになって、ようやくお話しできるようになったから、できる限りたくさん、会って話す時間が欲しかったんです。それで無理言って、転校の時期を延ばすように、親に頼んでいたみたいで……」
女の子たちは、うつむきながら打ち明ける。彼女たちにとっても、仲のよかった桜子が学校を離れてしまったことは、少なからずショックだったに違いない。
……どうしよう、考えがうまくまとまらない。
桜子は自発的に離れたわけじゃなかった。そうせざるを得ない事情があったのだ。
「……桜子ちゃんは、もうこの町にはいないの?」
「この町どころか、東京も出ることになるって言ってました……桜子姫、実桜姉さまとの念願のデートが叶って、すごく嬉しそうにしてたんです。初めて好きになった人だから、離れてしまう前に、なるべく長く一緒にいたいって……でも、転校してしまうこと、どうやって姉さまに打ち明けるか、ずっと悩んでもいたみたいです」
「…………!」
反射的に、わたしは額を押さえた。
どうして気づかなかったのだろう。彼女があんなハイペースのデートに誘ってきたのは、限られた期間の中で、できるだけわたしと過ごす時間を増やすために他ならない。お祭りデートに誘われた時の、『もう友達とは十分に思い出を作った』という桜子の言葉も、もうすぐお別れになることをほのめかしていた。手掛かりはいくつもあったのに、わたしは気づかなかった。
もしかすると、桜子がわたしに、はっきりと好意を言葉に出さなかったのは……。
「なんというか、やり切れない話だな……」
梶原さんは眉間にしわを寄せ、痛ましさを滲ませる口調で言う。
「好きな人ができて、会話する機会も得られた矢先に、離ればなれになるような話が持ち上がってしまうとは……逢瀬を重ねて、ようやく中瀬さんもその気になってきたのに」
「あの、人の気持ちを勝手に決めないでくれませんか」苦言を呈するわたし。
「桜子姫としては、何もしないで離れてしまうより、できることを精一杯やってから離れた方がいいと、思ってたんです。でも、やりすぎてしまったら、今度は離れたくない気持ちの方が勝ってしまうから、好きだって伝えるのは難しいって言ってました……」
女の子の話を聞いて、やっぱり、と思った。桜子は好意を口にして伝えることで、気持ちがわたしに繋ぎ止められるのを恐れたのだ。詳しい事情は分からないが、桜子が転校することは避けられない状況にあったのだろう。ここを離れたくないと思うようになれば、今度は家族に迷惑をかけることになる。桜子はまだ中学生、自立して生活する力があるとは思えない。家族と離れて生活するという選択肢は初めからなかったのだ。
―――わたしが、お姉さんと一緒に、支え合えたら、よかったのに。
あの時の、桜子の放った言葉の重みが、一層増した気がした。わたしの精神的支柱になる、それだけの力が、時間が、今の自分にないという現実を、彼女はどれほど悔しいと感じていたことだろう。今なら、あの時の彼女の気持ちが、わたしにも痛いほど分かる。
……どうしようもないことに、変わりはないけど。
「ありがとう。桜子ちゃんのお話、聞けてよかったよ」
せめて桜子の友人たちには、笑顔でお礼を言うことにしよう。こんな機会でもなければ、桜子の本心を知ることなんてできなかったんだから。ちゃんと、礼と笑顔で接するのだ。
「は、はい……」
「それでお客さま、ダブルバーガーのセットの他に、何かご注文は?」
「あ、そうでした!」
そうそう、今は接客中だからね。途中だった注文の内容を、こんなごちゃごちゃした話の後でも覚えているわたし、すごい(調子乗んなby梶原)。
「えっと、セットを三人分で、サイドは三つともポテトで、ドリンクはコーラ二つとオレンジシェイクで、あとは……はっ」
ぱっつんの女の子は、何か思いついたように顔を上げ、ニヤリと笑ってわたしに告げた。
「お姉さんをくれますか?」
「お客さま、メニューにあるものを注文してください」
相手は桜子じゃないので、わたしは冷静にあしらうことにした。とはいえ、スマイルを維持できている自信は、ない。
まったく……従業員を注文するというジョークが、女子中学生の間で流行ったらどうしようかな。休憩時間に入っても、わたしの悩みの種は尽きないのであった。
「中瀬さん」
そんなわたしを、梶原さんが通用口から呼びかけてきた。おや、と思った。あの人はまだ休憩時間ではなかったはずだが……。
「あの話を聞いても、何もしないつもりなのか?」
「…………」
梶原さんの、真剣そのものの問いかけに、わたしは返す言葉がない。いや、それはダメだな。
「えっと……すみません、察しが悪くて。あの話というのは?」
「しらばっくれんな。あんたがそこまで察しの悪い奴だなんて思ってねぇよ。いい加減、心にもないこと言ってはぐらかすの、やめろよな」
やばい、これは本気だ……わたしは慄然とした。今までは厳しくても何かと手心を加えてくれていたが、今度ばかりは容赦しそうにない。
梶原さんは睨みつけるような形相のまま、大股でわたしに歩み寄ってくる。そして、足がすくんだわたしの目と鼻の先で、腕を組んで立ち止まる。いや、立ちはだかっている。
「あんた……桜子ちゃんに言わなきゃいけないこと、あるんじゃないのか?」
体中を鷲掴みにされたように、梶原さんの視線に固まってしまう。今の彼女に、うわべだけのごまかしは通用しない。それどころか、どんな仕打ちが待っていてもおかしくない。その恐怖を前にして、わたしは、偽りのない本心を告げた。
「わ、わかりません……」
「……分からない?」
「桜子ちゃんの気持ちとか事情を、今になって知って、整理が追いついてないというか……このままじゃダメだっていうのは分かっても、どうやって伝えたらいいのか……どんな言葉で伝えたらいいのか、全然分からないんです……っ」
得体の知れない苦しみに苛まれ、わたしはぐしゃりと髪を掴んだ。
「今さら、桜子ちゃんに何を言っても無駄なのかもしれない……あの子はもうここにいないし、わたしとの交遊も終わってる。でも、なんか、こう……ぐちゃぐちゃして、何を思えばいいのかも分からない……」
いま、わたしの視界には、桜子の面影ばかりが映し出されている。そのせいで、眼前にいる梶原さんの姿はぼんやりとしか見えないが……きっと、思いきり眉間にしわを寄せているに違いない。
……誰かのため息が聞こえた。
「まったく、下手に知恵をつけているせいで、ただでさえ面倒な話が余計に面倒くさくなるな」
「す、すみません……」
「別に責めたいわけじゃない。ただ、それがあんたの本心なら、やるべきことはひとつだ」
「え?」
「すぐにでも桜子ちゃんに会いに行って、気持ちの赴くまま、言いたいことを言えばいい」
すぅっと桜子の面影が消え去り、真っすぐにわたしを見つめる梶原さんの表情が浮かぶ。それは単なる怒りじゃなく、子どもを諭す大人の顔だった。
「桜子ちゃんに、会いに……?」
「他人の口から事情を聞いて、遠く離れた所でうだうだ考えたところで、今みたいに袋小路に行き当たるのが関の山だ。だったら、直接本人に会って、自分と相手の気持ちを確かめるしかない。そうやってケリをつけるしかないんだよ」
「で、でも、今さら会いに行っても、何を話せばいいのか……」
「実桜っ!!」
急に大声で呼ばれて、わたしはビクンと肩を揺らした。梶原さんが、わたしを下の名前で呼ぶなんて、それもこんな大声を出すなんて、初めてだ……。
「か、梶原さん……?」
「あーもう」梶原さんは苛立たしげに髪を掻く。「本当に面倒くさいよ。あんたも、桜子ちゃんも」
「桜子ちゃんも?」
「そうさ、考えてもみな? 桜子ちゃんがあんたに週一のデートを取りつけたのも、事情も言わずに去ったのも、気持ちを言わなかったのも、結局みんな桜子ちゃんの事情だろ。これだけあんたを、精神的にも時間的にも振り回しておいて、あの子は自分の事しか考えてなかったんだ」
「そ、そんなこと……」
「でも、今は桜子ちゃんも、きっとそれに気づいてる。あんたと付き合いを重ねるうちに、あんたの事もよく知っていき、嫌でも気づかされただろうさ。自分の事情で振り回したことが、あんたにどれほど、後戻りの利かない影響を与えてしまったかを……その罪悪感があるから、電話にも出られないのかもな」
「…………」
「桜子ちゃんは、ここに留まりたいと思うことの無いように、ずっと自分の気持ちをセーブし続けていたんだろう。でも残念ながら、それは無意味だったな。私が偉そうに言えることじゃないが、中瀬実桜という人間を知ったことで、結局桜子ちゃんは未練を残してしまったはずだ。あんたの元を離れてしまったこと……後悔していないはずがない」
その言葉に、わたしは呆然とした。
なんてことだ……もしかしたら梶原さんは、わたしよりも、桜子のことをよく理解しているかもしれない。
そうだ。後悔してないはずがない。今のわたしでさえ、こんなにも苦しい思いをしているのだ。わたしが桜子に思っている以上に、わたしのことを好きなはずの桜子は、今のわたしの何倍も苦しい思いをしているだろう。そのつらさは計り知れない。
「以前のような付き合いは、もうできないかもしれない……でも、今の気持ちを、たとえ上手く言葉にできなくても、伝え合うことができないままじゃ、あんた達はこの先何年も悔やみ続けることになる。うだうだ悩むくらいなら、さっさと会ってけじめをつけてきなさい」
「けじめをつけるって……果たし合いじゃないんですから」
「ケンカになるくらいの覚悟はしておいていいんじゃない? 元はと言えば、桜子ちゃんが自分の勝手な事情で振り回した結果なんだから、あんたが自分勝手に桜子ちゃんを振り回してもバチは当たらないでしょ」
それはそこはかとなく無茶苦茶な理屈に聞こえるが……まあ、そのくらい腹を割って話をした方がいいという事だろう。
「でもなぁ……少なくとも今は東京以外の場所にいるみたいだし、お金とか時間の問題もあるからなぁ」
「何言ってんの。一年生のときからあちこちでバイトして稼いだんでしょ。今日日電車とバスを乗り継いで行けない場所なんてそうないんだから、貯金を崩して旅の費用に宛てればいいじゃない」
「えっ、でも、そんなことに使っていいんですか? 将来のことを考えて計画的に貯めておいた方が……」
至極真っ当な事を言ったつもりだけど、梶原さんは口をへの字に曲げた。
「あ、あの……?」
「はあ〜〜」大仰にため息をつく梶原さん。「あんたは老後の心配をするサラリーマンかよ。金なんて使ってなんぼだろうが。あんたが頑張って働いたことで受け取った金なんだから、あんたがいくら自由に使ったっていいんだよ。いいか? 金は本来自分のために使うものだ。他人とか将来のために使うなんて道楽もいいところなんだよ!」
「……いい大人の言うこととは思えないですね」
「私がいい大人じゃないのは認めるよ。けど、金の使い方の賢い奴は、いずれ使った分だけ自分に返ってくる。使い方のダメな奴はただ浪費するだけ……あんたは桜子ちゃんに会うことで、自分のあり方を見つめ直せるんだから、絶対無駄になんかならない」
そうだろうか。会って何も変わらなかったら、そもそも会うことさえ叶わなかったら……どちらにしても無駄になるのでは。まだわたしはぐるぐると思い悩む。
「第一、あんたは何のために稼いでいるんだ? 貯金を増やすためか? 違うだろ?」
「…………」
もちろん違う。だけど、じゃあ何のためだと聞かれたら、上手く答えられない。以前だったら自分の成長のためと言っていた。それが今は、空々しい言い訳にしか思えない。
畳みかけるように、梶原さんは強い口調で言った。
「使わずに貯め続けたところで、宝の持ち腐れになるだけだろ。今あんたは必要に迫られているんだ。今使わないでいつ使うんだよ!」
ああ、ダメだ……もう何も言い返せない。
わたしはうつむいたまま、拳をぎゅっと握りしめる。歯を食いしばりながら、弱い自分が襲ってくるのを必死に耐える。そうだ、わたしは桜子ちゃんに会いたい。会わなければならない。くだらない矜持で出費を惜しんでいる場合じゃない。
梶原さんは打って変わって、いつもの、優しく頼りがいのある雰囲気を見せた。
「心配すんな。あんた一人が抜けた穴なんて、一日や二日くらいなら、この私でも十分に埋められる。後で店長に相談して調整してもらうから、あんたは気にせず行ってこい。その代わり、結果は真っ先に、私に教えてくれよ」
心にじんわりと滲むものがある。わたしはいつも、この優しさに助けられている。こんな大人がひとりでも、あの家族の中にいてくれたら……そう思わずにいられない。
「……うらやましいなぁ」
「え、何が?」
「いえ、何でも……」
会ったこともなければ顔も知らない、梶原さんのこの愛情を一身に受けられる幼子へのジェラシーなんて、今は知られたくない。情けない限りだけど、本当に大人を目指すのなら……こんな優しさを、分け与えられるようになりたい。
意を決し、顔を上げた。
「さっきの子たちに、桜子ちゃんの引っ越し先、聞いてきます!」
わたしは踵を返し、足早に更衣室を出た。もう一分一秒も無駄にできない。逸る気持ちの赴くまま、決意を行動に移すしかない。
足早に更衣室を出た実桜を見送って、梶原は感慨深いものを感じていた。そんな梶原の背後から、先輩従業員が声をかけてくる。
「あなたもずいぶん世話焼きねぇ」
「! 田端さん……」
梶原より一回りほど年上の彼女は、先日、実桜が更衣室で倒れた時にその場に居合わせ、救急車を呼ぶなどして対応してくれた人だ。荒れていそうな風貌ゆえか、同僚から距離を置かれることもある梶原と、対等に話ができる数少ない一人でもある。
「まあ、子どもは大事にした方がいいって、ガキの頃から言われてますんで」
「それだけかしらね?」
「え?」
「あなたの言動は、親が子に向ける愛情とは、どこか違う気がしたから。どちらかというと、人生の先輩からのお節介に見えるわね」
上には上がある、ということだろう。梶原は観念したようにため息をつく。アラサーで人生の先輩を気取るなんて、いい笑いものだ。
「そうですよ、私もですよ」
「やっぱり、同じような経験があるのね」
「……ああいう子を見ていると、どうにも放っておけないんですよ。今の私みたいになってしまいそうで」
「あら、その昔話、他人に話していいものなのかしら」
「構いやしないですよ」
梶原は、吹っ切れたように話し始めた。
「私には、仲のいい幼馴染みの女の子がいたんです。知ってのとおり、私は高校まで島の学校にかよっていたんですが、その子は本土住まいで、しかも三つ年下なんです」
「それでよく仲良しになったわねぇ」
「本土の親戚のご近所さんだったんですよ。小さい時から、時々本土に遊びに行っては、その子と遊んだりしてました。だけど、高校を卒業する少し前に、些細なことでケンカして、それ以来疎遠になっちゃったんです」
「あらまあ……」
ケンカの原因はもう覚えていない。そのくらいどうでもいいことで仲たがいした、という事だろう。だけど、そんな些細なことが、何年も梶原の心に傷を残している。
「原因がどちらにあろうと、私自身の本心としては、その子とちゃんと仲直りして、また一緒に遊びたいって思っていたんです。でも、どう話を切り出したらいいのか、分からなくて……そうしているうちに私は島を出て、あの子と会う機会がなくなってしまって、それっきりです」
「そうだったの……その幼馴染みの子は、どうしているかしらね」
「それが……親戚に聞いてみたら、何かトラブルが起きて、一家離散してしまったそうです」
「あらっ……」
その時のことを思い出して、チクチクと痛み出した頭を梶原は手で押さえた。
「私は……見てのとおり、馬鹿を絵に描いたような人間ですけど」
「そんな事はないんじゃないかしら」
「それでも別に構わないって思ってきた。でも、あの時だけは……自分のことを、馬鹿野郎って罵りたくなりましたよ。ちゃんと話し合って、仲直りできていれば、そんな災難に見舞われてしまったあの子の、支えになれたかもしれないのにって……!」
あの時に自覚した失敗は、今もなお梶原のトラウマとなっている。
たちの悪い後悔をしてしまった……あの時、自分の気持ちに素直になっていれば、という後悔は、本当にたちが悪い。あの時と同じ気持ちは、一度失われれば戻らない。そして時間が経てば経つほど、どうにもならないほどしこりは大きくなる。台無しにしてしまった過去は、取り戻すことも帳消しにする事もできない。ずっと、心の澱として残り続ける。
「……この前、旦那が海外に出ている間だけ、実家の島に里帰りした時も、同じように悩みを抱えていそうな女の子に会ったんですよ」
「ふうん……」
「ちょっとしたお節介程度に、偉そうに助言してやりました。そうしたら、次に会ったとき、その子は晴れやかな表情をしていました。たちの悪い後悔を、避けられたんです」
「あら、よかったじゃない」
「ええ。どうやらあれで味を占めたみたいですね……実桜を見ていたら、同じことをしてやりたくなったんです。私みたいに、たちの悪い後悔をしないように……自分の気持ちに素直になっていればよかったと、思わないように」
ぐるぐると悩んで踏みだせない実桜に、梶原は昔の自分を重ねていた。あの時は、背中を押してくれる人に恵まれなかった。もし実桜もそうであれば、自分しか彼女の背中を押せる人はいない、そんな義務感に突き動かされた。
「なるほどねぇ……あなたもずいぶん、先輩という自覚が芽生えたみたいね」
「そうなんですかね。じゃあ私、持ち場に戻りますね」
実桜のことが気になって、梶原は休憩時間でないにも関わらず持ち場を離れていた。さすがに早く戻らないと、店長にどやされそうだ。
その寸前、田端が呼びかけた。
「そういえば元気かしら。おたくの所の、美緒ちゃん」
来年の春に三歳になる、娘のことを尋ねられ、梶原はふと立ち止まった。
「……つつがなく」
それだけ言って持ち場へ急ぐ。実桜の名前を呼んだとき、自分の娘を叱っている気分になったことは、まだ本人には内緒だ。
大学のカフェは、休日でも昼間なら開店している。とはいえ、休日に大学に来る学生がそもそも少ないので、平日と比べるととても空いている。
そんなカフェの片隅の席で、都築優奈はひとり、ミルクを多めに入れたコーヒーを静かにすすっていた。一人でここに来る習慣はない。いつも一緒に来ている友人が、今日は大事な用があって遠くに出かけているため、暇つぶしのために来店していたのだ。
カランカランとベルの音を鳴らし、友人のひとりである原口知世が店に入って来た。
「あれー、優奈ひとり? 実桜は?」
「この間言ってたでしょ。桜子ちゃんに会いに行くって」
「あー、あれって今日だったっけ。それで優奈、退屈で死にそうな顔してんだ」
「死にかけてないってば、失礼な。ちょっと物思いに耽ってたの……あの実桜も、ようやく一歩を踏み出せるようになったんだなって」
「まぁねー」
知世は優奈の隣に腰かけて、カウンターの向こうの店員に、タピオカアイスティーを注文した。
「他人に興味ないって公言していた実桜が、ひとりの女の子のために行動を始めたんだもんね。ホント、成長したよ」
「桜子ちゃんのためというのは微妙に違う気もするけど……要は、宙ぶらりんになった関係に決着をつけるためなんだよ。ずっと桜子ちゃんに振り回されてきたから、今度は自分の番って感じでね」
「実桜がそう言ってたの?」
「まあね。ただ、それがどこまで本心なのかは分からないけど……」
そう言って、優奈はコーヒーを一口すすった。その様子を、知世はじっと見ている。
「そういう優奈はどうなのかな」
「え?」
店員が運んできたタピオカアイスティーのグラスを受け取って、知世が尋ねる。
「ともよんは知ってるんですよー。一人で旅行なんてしたこともない実桜に、チケットの買い方や時刻表の使い方を、優奈が懸命に教えていたことをね」
「なんで知ってるの……」
「ともよんの桃色情報網をなめないでおくれよ」
知世はドヤ顔で言うが、わざわざ卑猥なイメージの単語を選んだという事は、恐らくろくな類いのネットワークでないだろうと優奈は察した。
「優奈だって実桜のことは、なんだかんだよく見てるんだよねー。なのに最近、桜子ちゃんにばかり気を取られているもんだから、ちょっと穏やかならざるものを感じていそうだなー……と」
「わたしが桜子ちゃんに嫉妬してるっていうの? まさか」
「そこまでとは言わないけどさー……うん、退屈で死にそうな、というのは言いすぎだったけど、寂しそうには見えたよ。さっきの優奈」
冷静さを装っている優奈だが、図星を突かれて割と動揺している。どうやら内心を見抜いているらしい相手に、意地を張っていても仕方がない。
「……わたしと実桜がケンカしたとき、実桜は桜子ちゃんに励まされたことで、わたしと仲直りするきっかけができたんだって」
「ふむふむ」
「それを聞いたときから、なんかもう……実桜の背中を押せるのは、わたしじゃなく、桜子ちゃんになったんだなって、そう思った。今回のことも、バイト先の先輩に背中を押してもらったらしいし」
「…………」
「なんというか……止めるにしても動かすにしても、いざって時に必要な力がないのは、悔しいね」
気がついた時には、実桜はもう踏み出す準備を整えていた。自分ではない誰かの手によって、すでにイグニッションキーを回されていた。手を出すのが遅れてしまった自分にできるのは、そんな実桜を、さらに加速させる事だけだった。それが理解できていたから、迷いなく彼女に手を貸せた。
思う所がないといえば嘘になる。だけど、諦めがつくのも割と早かった。
「うーん……わたし、難しいことはよく分かんないんだよね。要約すると?」
ああ、もう。無邪気なのかわざとなのか、知世は素直な反応を求めてくる。知世が好意的に接してくれるとは分かっていても、それはやはり恥ずかしい優奈であった。
優奈はカップとソーサーを脇によけ、目の前のテーブルに突っ伏した。ぼそっと呟く。
「……早く、実桜に会いたい」
「はいはい、よく言えました」
小さい子どもをあやすように、知世は優奈の頭を撫でる。……認めたくないが、いろいろな意味で彼女が一番大人かもしれない。
同じ頃、わたしは電車を乗り継いで、東北のとある町に来ていた。町と聞いて思い浮かべるような、高い建物が乱立しているような所じゃなく、山に囲まれた一面の田園に、一戸建ての民家が点在しているような、そんな町である。写真でよく見るような田舎の光景だ。
わたしは駅のホームに降り立ち、駅舎の屋根の向こうに広がる景色を眺めた。呆然と。
「来ちゃった……」
電車は上りと下りでそれぞれ一時間に一本。自動改札はなくて、駅舎に通じる階段の前で待機している駅員が、切符を回収するシステム。駅舎は一階建てのこぢんまりとした規模で、三メートルほどの盛り土の上に造られたホームから、屋根が全部見える。恐らくこの町で一番賑わう駅でさえこの程度。
本当に桜子は、この町に引っ越したというのか。桜子の友人たちも、引っ越し先の住所は知らされていなかったが、断片的な情報を繋ぎ合わせて、この町にいることだけは分かった。しかし、こうして現地に来てみると、本当にここで合っているのか、自信がなくなってくる。
「うーん……」
わたしは腕組みして唸った。さて、ここからどうやって桜子を探そうか。一か月以内に引っ越してきた、森川という家がどこにあるかを尋ねて回れば、そのうち見つかるだろうけど……学生ゆえに、猶予は土日の二日間しかない。あまり時間をかけるわけにはいかないのだが、効率的な人探しの方法なんて、わたしは知らない。そもそも、引っ越してきたばかりの家の名前なんて、把握している人の方が少ないだろうし、これでは何日かかるか知れない。本当にこの町にいるという保証もないし……。
「あの……どうかしましたか?」
うんうんと悩んでいると、見知らぬ女の子から声をかけられた。少し天然パーマがかかったセミショートの髪に、どこか引っ込み思案な所がありそうな……高校生くらいの女の子。
「あ、えっと……人を探しに来たんだけど、どこを探せばいいか悩んでて」
「人探しですか?」
「うん……ここ一か月以内に引っ越してきた、森川って人で、中学生くらいの娘さんがいるんだけど……なんて、知らないよね」
「ん?」
女の子は口元に手を当てて考え出した。
「モリカワって……どういう字を書きます?」
「え? 木が三つの森と、三本線の川だけど」
「……それ、もしかしたら、うちの近所に越してきた家かもしれません」
なんだと!? 思いのほかすぐに手掛かりが見つかった。なんだか巡り合わせがよすぎないか。
「それ、本当に?」
「お姉さんが探している家かどうかは分かりませんけど……」
「ううん、とりあえず行って確かめてみる! 案内してくれる?」
思いがけない幸運に、わたしもずいぶん興奮しているらしい。女の子の両肩を掴んで迫った。
「えっと、すみません、今日はこれから出かける所なので……」
困惑しながら女の子は言った。そういえば、ハンドバッグを持って駅のホームにいる。これからここを離れようとしているのは明らかだった。
「あ、ごめん、つい……」わたしは女の子から手を離す。
「いえ、大丈夫です。簡単ですが地図を書きますから、ちょっと待っててください」
女の子はハンドバッグから生徒手帳とペンを取り出し、地図を書き始めた。いや、休日の私服でのお出かけに生徒手帳って、まじめすぎないか、この子。
書き終わると、女の子はそのページを破り取って、わたしに差し出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
何もかもまじめそうな女の子を相手に、年上のはずなのにかしこまってしまった。そして、受け取った紙片には、駅から目的地へのルートが、たくさんの目印と一緒に書かれていた。なんて分かりやすい……よほど地図を読むのが下手でない限り、これで迷うことはないだろう。
「では、わたしはこれで」
女の子はわたしから離れ、ホームのベンチで待っていた別の女の子の元へ駆けてゆく。その子は短髪ながら整った顔立ちをしている、都会でも十分に目立ちそうな綺麗な少女だった。今は座っているけど、立ち上がったらたぶん、一緒にいる女の子より背が高いだろう。
休日に友達と町の外へお出かけか……楽しそうで何よりだ。それよりもわたしは、早く桜子を探しに行かなければ。女の子からもらった地図を片手に、わたしはホームを後にした。
とりあえず途中までバスで移動しようと、駅前のバス停まで足を運んだ。しかし、バス停の表示を見て衝撃を受けた。
「ウソでしょ……」
駅から出るバスなのに路線はひとつしかなく、そのためか、どの停留所を経由するのか書かれていない。そして、昼間は一時間に一本しか出ないようで、そのバスはついさっき出発したという。ちょっとホームでもたつきすぎたか……。
「どうしよう、タクシーもないみたいだし……仕方ない、歩いていくか」
昼間の晴れた時間帯とはいえ、今の季節は比較的涼しい。まあ、歩いているうちにどうしても汗をかくから、水分補給は必要だけどね。自販機がない場合を想定して水筒は持ってきたし、準備は万端だ。……本当は、駅構内に自販機があったんだけど、お金がもったいないし。
人通りの少ない、閑散として見通しのいい道をひたすら歩く。田舎とはいえ、道路はきちんと整備されているし、小さいながら商店もいくつか並んでいる。途中にあった公園には子供や母親らしき女性たちも来ていた。心地よい風が吹き抜ける。吸い込む空気は、東京と比べたらはるかにきれいだった。
時折地図を確認しながら、そして途中で人に会ったら目印の位置を尋ねたりしながら、少しずつ目的地に近づいていく。
しばらくして、一戸建ての住宅が建ち並ぶエリアに入った。地図はここで途切れているから、この辺りに桜子の家があると思っていいだろう。あとは一軒ずつ回って、森川という表札がある家を探すだけ……。
そう思って一歩踏み出してすぐのことだった。
「あっ……」
わたしの立っている道の先、十字路になっている所から、彼女は現れた。
……わたしと彼女の名前に、同じ桜の字が入っていることを、彼女は運命だと言った。わたし達の間に運命的な何かがある、そんな話は一笑に付すべきだと思っていた。だけど……駅で彼女を知る人物に会えたこと、そしてここで彼女と遭遇したこと、すべてはまるで、わたしと彼女を引き合わせる運命であったかのように……。
「おねえ、さん……」
森川桜子は呆然と呟いて、手に持っていたビニール袋を地面に落とした。何が入っているのか、ドサッという音がここにも聞こえてきた。
すると、桜子は急におどおどし始め、白いスカートを揺らしながら背を向けて、走り出した。いけない、わたしと顔を合わせるのが怖くて、逃げ出そうとしている。
逃がしたくない、その一心で、わたしは桜子に向かって叫んだ。
「待って! 桜子ちゃん!」
桜子は立ち止まらない。わたしも荷物を放り出して、彼女を追いかける。
こう見えてわたしは、新聞配達のバイトで自転車を漕ぎまくっているから、足腰は結構鍛えられている。走っているうちに、徐々に桜子との距離は縮まっている。
そうだ、錯覚じゃない。わたし達の距離は、ちょっとずつだけど、着実に縮まっている。伝えられる。今なら、わたしの気持ちのすべてを、あの子にぶつけられる……!
「桜子ちゃん!」
息を切らしながら、その小さな背中に、第一声を放つ。
「わたしは、ここにいるよ!」
「!」
桜子のスピードが急激に落ちていく。やがてその足は完全に止まった。わたしも止まる。手はまだ届かない。でも声は、思いは届く距離にいる。
……桜子はまだ振り向かない。
「……大丈夫だよ。今わたしはここにいるから、いつでも応じられる。あなたがわたしをオーダーしたら、すぐにでも応えられるから!」
お姉さんをください―――もう遠い昔のようだ。話す時間を確保できて、その文句を言わなくなってからずいぶん久しい。だけど、それがすべての始まりだった。
「…………」
迷う時間がかなりあったが、桜子はようやく振り向いた。そこに、いつも見ていた無邪気な笑顔はない。色んなことに気づきすぎて、ぐちゃぐちゃな感情が浮き出ている。同じような顔を、わたしは鏡の向こうに何度も見たことがある。
「つらかったよね……自分の力だけじゃどうにもならなくて、それでも何とかしがみつこうとして、相手のことを見る余裕もない。分かるよ……わたしも、何度もあったから」
「……わたし、自分勝手でした」
桜子は震える声で、泣き出しそうな口調で、思いを口にした。
「誰かに、あんなに心ひかれて、いつもその人を考えて、夜も眠れない……そんなことは初めてでした。ずっと一緒にいられたら……そう思わずにいられなかったのに、それが叶わないかもしれないって知って、怖くなって……」
「うん」
「せめて、わたしが満足するまで、お姉さんとの時間をもっとたくさん過ごして、悔やむことなく別れようって決めていたのに……わたし、考えが甘かった。一緒にいたいって気持ちが、どんどんどんどん大きくなって、離れたときは、ものすごく胸が苦しかった……」
桜子は左手で、震える右腕を掴んで必死に抑えている。ぽろぽろと、涙の粒をこぼす。
「離れたあともずっと、お姉さんのことばかり考えてた……あのお祭りの日、お姉さんはわたしに、わたしの気持ちについて聞きましたよね」
「うん……」
「あれで気づきました。お姉さんの中にもちゃんとわたしがいて、離れたらきっと、悲しい思いをするんじゃないかって……そんなこと、わたし、考えもしなかった。ごめんなさい……わたしのせいで、お姉さんにも、つらい思いをさせてしまって……」
桜子は泣きじゃくりながら、ごめんなさい、と何度も言う。
ああ……やっぱりそうだった。桜子も、わたしと同じ気持ちだった。同じ時間を過ごすことが当たり前になっていて、離れている時間を苦しく感じる。
「……わたしだって、桜子ちゃんのこと、ちっとも見てなかった。同じように苦しんでいるかもなんて、他人に言われるまで気づかなかったし、わたしのこと、忘れようとしてるんじゃないかとも思った」
「忘れようとしましたよ、お姉さんのこと……でも、無理だった。お姉さんのことを考える時間ばかり、どんどん増えていった……」
「そうだね。わたしだってそうだった。このままじゃ、お互い前に進めない……だから、こうやって桜子ちゃんと会って、気持ちの整理をしておきたかったの」
涙の跡がくっきりと残った顔を、そっと上げる桜子。そんな彼女を、真っすぐ見つめて、
「桜子ちゃん、もう逃げるのは終わりにしよう。言いたいこと、ぜんぶ言って。今」
引き出したい、彼女のすべてを。
桜子の手は震えている。きっとまだ、気持ちを露わにするのが怖いのだ。でも、怖くてもその瞳は、ちゃんとわたしを見ている。
「……言ったら、もう、引き返せませんよ……?」
「引き返すつもりなんてないよ。言ったでしょ、わたしは今、ここにいるって」
「え……」
「確かに、今までと同じ付き合いはできないかもしれない。でも、二度と会えないわけじゃない。時間や余力が許す限り、わたしは桜子ちゃんに、いつでも会いに来れるよ。お別れなんかじゃない」
わたしがここに来た意味、ようやくその事に気づいて、桜子は呆然と見返している。手元に目をやると、震えはいつしか収まっていた。
「だから、もう怖がる必要なんてない。いつかあなたが、自分の力で前に進めるようになったら、その時は、必ず迎えに行くから……だから教えて。あなたの気持ちを」
「あ……あぁ……っ」
桜子は歩み寄る。束縛から解放されたように。わたしに、引き寄せられるように。
「わ、わたしは……!」
そして、手の届く所まで近づいて、わたしの心にしっかり届けるように、ちょっとだけ背伸びして、
「お姉さんが……実桜お姉さんが好きです」
その言葉を呼び水に、穏やかな何かに包みこまれるような気がした。
やっと、桜子の口から、その言葉が聞けた……たったそれだけのことなのに、こんなにも心地いい。わたしはずっと、この瞬間を待っていた。桜子の気持ちを確かめて、同時に、わたしの気持ちにも確かな名前をつける時を……。
「わたしにも、教えてください」
「…………」
「お姉さんも……わたしのこと、好きですか?」
そう尋ねる桜子の瞳は、もう今さら疑っていないよ、と訴えていた。
わたしはずっと背伸びしてきた。早く大人になりたいと思い急いで、身の丈を顧みなかった。そんなわたしに、桜子はかがみながら視線を合わせてきた。でも、今は違う。本当はこうあるべきだったのだ。
わたしはちょっとだけ姿勢を低くして……桜子を両腕で包みこむ。
その体温をいっぱいに受けとめながら、気持ちの赴くまま、口を開いた。
「……そうだよ、わたしもだよ」
<第5話 終わり>
……なんだか綺麗に終わったので、いつもの寸劇はなしです。
私の作品はいつもハッピーエンドとは限りません。バッドエンドを絶対の禁忌として、少しでも希望の残る終わり方を心がけています。しかし今回は、完全なるハッピーエンドになりました。もはや希望しか残ってない。
前章および前々章から引き続き、サブタイトルに一種の制約を設けてしまいました。白状すると、この章は冒頭の桜子と実桜のやり取り以外、初期段階では何ひとつ構想を練られていませんでした。とりあえずインパクトありそうなシーンから始めよう、という行き当たりばったりもいい所の状態から始めています。そんなだからサブタイトルも深く考えずに付けましたが、後になって、“そ”で始まる指示語で縛る、ということでもいけると思い、そのままずるずると続けました。如何でしょう、皆さんにはこの試みが奏功したように見えたでしょうか。
さて、この第5章には、他のエピソードとのリンクが大量にあります。作中随一のカッコいい大人・梶原氏の過去に登場する友人も、そのうちどこかのエピソードで出てくる予定です。
そして、しばらく先になりますがお知らせです。実桜が駅で遭遇した二人組の女子高生が、次の第6章の主要キャラとなります。この二人がどんな物語を紡いでいくのか、どうぞお楽しみに。




