5-4 それでも忘れられない
また長らくお待たせいたしました。また長くなってしまいました。なんでだ?
最終話直前なので、もちろん何かが起きます。
「お祭り?」
ただいま絶賛バイト中のわたし、中瀬実桜は、今日もストーカーのごとく来店している森川桜子(中2、13歳)に、おうむ返しに答えた。
……ああ、ちょっと違う。バイト中ではあるけれど、今は休憩時間だった。体面的にはお客さんとして来ている桜子と、こうして自由に会話できるのは、休憩時間しかないのだ。
「そうです。近所の神社で、毎年秋祭りをやっているんですけど、境内が広いので結構大きなお祭りなんですよ」
「へぇー……」
「今度の日曜日にやりますから、次のデートはお祭りに出かけましょうよ」
桜子は、心底楽しみにしていそうな、かわいらしい笑顔でわたしを誘う。
最初のデートから早一ヶ月、日曜日のデートはすでに四回を数え、もうわたしの中で、そうした付き合いに対する抵抗感は薄れていた。事情を知る友人も気を遣って、日曜日の予定にわたしを入れることは無くなっている。よって、わたしに断る理由は何もなかった。
「わたしはいいけど……そういうのは友達と行った方がいいんじゃないの?」
最近、桜子はひとりで来店する。以前は学校の友達を連れて来ることが多かったのだが……友達付き合いが上手くいってないのでは、と心配にもなっている。
でも桜子は、屈託のない笑顔で言った。
「いえ、最初は友達も交ぜようかと思ったんですけど、『デートの邪魔しちゃ悪いから』って、みんなから遠慮されてしまって」
そっちも優奈たちと似たようなことを言われたのか……なぜそこまで気を遣われないといけないのだろう。たいして重要な付き合いをしているわけでもないはずなのに。
「それに、今のお友達とは、学校でたくさん思い出を作ったので……もう、お腹いっぱいなくらいなんです」
桜子は嬉しさを噛みしめるように言うが、その桃色に染まった表情には、心なしか、寂しさが感じられるように見えた。
「桜子ちゃん……?」
彼女のことを気にするあまり、わたしは気づかなかったが、背後では注文カウンター越しに先輩の梶原さんが、どう見ても接客向きじゃない仏頂面でこっちを見ていた。「女の子とのデートの相談とか、神聖な休憩時間を何だと思ってんだ」とか考えていそうだ。
「だから今は、なるべくお姉さんと一緒にいる時間を大切にしたいなって」
「お姉さんね、たまに桜子ちゃんのそういう愛情が怖い時あるよ」
「逢瀬を重ねるうちに慣れますよ」
「可及的穏便に慣らしたいんだけどな」
というか、中学生で“逢瀬”なんて単語、どこで覚えたんだろう。
「そういうわけですんで、当日は浴衣で来てくださいね。あのお祭り、浴衣で来るとサービスしてくれる屋台が結構あるんです」
「経済的事情……? てか、わたし浴衣持ってないんだけどっど、っど」
梶原さんに後ろから襟首を引っ張られたせいで、語尾が乱れた。
「ほら、そろそろ休憩時間終わりだよ。とっとと持ち場に戻れ」
「梶原さん、そこ引っ張るのやめぇ……」
「それじゃあお姉さん、日曜日、楽しみにしてますねー!」
ずるずると引きずられながらスタッフルームに連れ戻されるわたしに、桜子は笑顔で手を振っている。浴衣は無理かもしれないというくだりを、ちゃんと彼女は聞いていただろうか……。
従業員更衣室に戻ると、わたしは梶原さんに、ロッカーの前で詰め寄られていた。わたしの耳元で、梶原さんの平手がロッカーのドアをバンと叩く。これが、今はやりの壁ドンというやつだろうか……ガン飛ばしてきているせいで、どちらかというとカツアゲの現場みたいだが。
「ずいぶん楽しそうねぇ……かわいくて小っちゃい女の子とイチャコラしてて」
「いや、イチャコラはしてませんけど……」
「最近はあの子とのデートにも積極的だし、迷惑そうな顔をしなくなったし、中瀬さんもそろそろあの子に気持ちが傾いてるんじゃないの?」
うっ……梶原さんはまだ二十代後半のはずなのに、人生経験豊富そうな一面を見せることがある。そんな彼女にかかれば、わたしの心境の変化なんてお見通しってわけか。
事実、わたしは徐々に、桜子に惹かれつつある。とはいえ、だから桜子に対して何かしようとは、少なくともそう思うような段階にはなっていない。言葉で説明するのは難しいが、妹のように愛でたいという気持ちの方が近い。今は一緒の時間を過ごせるというだけで重畳なのだ。
もっとも、それが他人に理解してもらえるかどうかは別の話なのだが。
「べ、別にいいじゃないですか……わたしが誰と付き合ったって」
何となく梶原さんと目を合わせたくなくて、わたしは視線を背けながら言った。
「そうね、それは一向に構わない。でもね、少ないとはいえお客さんもいるんだから、他愛のないおしゃべり程度ならまだしも、逢引きの相談を店内でされるのは目の毒なんだけど」
「み、見なきゃいいじゃないですか……」
口答えだと分かっていても、言い返したくなった。というか、逢引き。桜子といいこの人といい、なんでデートを古めかしい言葉に置き換えようとするのやら。
「十分目立つのよ、あなた達。ただでさえ店員が個人的にお客さんの相手をしていて、しかもあなた達の事情はほとんどの従業員が知ってるんだから」
「す、すみません……」
「はあ~……」
梶原さんは大げさにため息をつき、ロッカーから手を離した。
「こっちはねぇ、そんなピュアな付き合いをやらなくなって久しいから、眩しくって仕方がないんだよ」
「まあ、行けるところまで行ったからお子さんがいるわけですしね……」
「なに? 中瀬さん、桜子ちゃんと行けるとこまで行きたいの?」
「ど、どうしてそういう話になるんですか……」
「まあそれは冗談だけどさ、今後ああいう相談はラインとかでやってくれよな」
「え?」
「え?」
梶原さんの一言で、わたしはとんでもないことに気づいた。気づいて、さーっと血の気が引いた。
そういえば……ライン交換したのに、ほとんど使ってない……。
「なーんか知らんが、コミュニケーションの不備に気づいたか?」
ショックを隠せないわたし、梶原さんの声は耳に入らない。
しまったぁ……ここ最近、桜子とはシフトが来るたびにこの店で会って話しているから、せっかく交換した会話ツールを、ちっとも活用できてなかった。おかしい、大学の友人たちとは普通に使っているのに。
「おーい、大丈夫か?」
「そ、そうですね。今後は積極的に使います」
「どっちにしろ節度を弁えてほしいところだけどね……まあいいや。早いとこ持ち場に戻りなよ」
「あ、はい!」
休憩時間に入ると、制服の一部を外して身軽にしてから桜子と会うので、終わったらすぐに正式な恰好に戻さなければならない。わたしは急いで服装を整え、カウンターに向かった。
入れ違いで休憩に入った梶原さんは、そんなわたしの姿を見て、思わずこう漏らしたそうだ。
「まったく……会いたいと思った時に会えるんだから、十分贅沢だよ、あんたは……」
さて、浴衣を持っていないのに浴衣でお祭りデートに行こうと約束してしまったわけだが(というか、いつの間にかそういうことになったのだが)、後でラインでそのことをちゃんと桜子に伝えたところ、こんな返事が来た。
『では、お姉さんは無理をしなくて大丈夫ですよ』
『その代わり、わたしの浴衣姿をじっくり堪能してくださいね♡』
「って言われても困るんですけど……」
翌日、大学の講義室で教授の到着を待っている間、わたしは机にあごを力なく載せていた。この講義を受け持っている教授は、遅刻の常習犯である。だから友人に愚痴を垂れ流す、時間的余裕はあるわけだ。
「ほーん?」隣に座る都築優奈が、シニカルに笑ってくる。「すると実桜は、桜子ちゃんの浴衣姿を見ても動揺しない自信があるわけだ。実際にその時になって慌てる姿が目に浮かぶよ」
ちょっと関係がギクシャクした時期を乗り越え、なんとか仲直りできた後、優奈は以前にも増してわたしをいじることが多くなった。主に桜子絡みで。
「本人に会ったこともないのによく言えるね、優奈」
「そりゃあ顔も知らないけどさ、実桜がここまで入れ込んでいる以上、そうなる可能性が高いって思うじゃない。桜子ちゃんも実桜のこと、全力で落としにかかるだろうし」
「うぅ……そう言われるとちょっと自信なくなってきた」
「……あんたもだんだん本気になってきたね。中学生相手なんてありえないって言ってたのに」
今度はやけに優しい口調で言ってくる優奈。
似たようなことを梶原さんにも言われた。桜子からの熱烈なアプローチを受け続けるうちに、わたしも桜子を好きになり始めているのでは、と……それはもはや否定できないが、その通りだということもできない。これまで恋をした経験がないわたしには、自分の気持ちがそれだと理解するのが、まだまだ難しいのだ。とはいえ、今のところ確かだと言えることもある。
「そうねー……ああいう妹がいたら幸せだろうなぁ、と思うことはあるかな」
「なるほど、『お姉さん』って呼ばれ続けていたら、まずそっちが先に来るわけか。それにしても、ひとつ気になることがあるんだけど……」
「え、なに?」
「実桜ってさ……桜子ちゃんから、ちゃんと告白されたことあるの?」
優奈の疑問に、わたしの思考がフリーズしたように止まる。
「…………え?」
「いや、実桜の話を聞く限りだと、桜子ちゃんが自分の好意をはっきり口にしたことって、一度もないような気がするんだけど。もちろんわたしの知らない所で、目いっぱい言われてるのかもしんないけど」
桜子からの好意の言葉……? わたしは思い返してみた。
そう言われると、桜子はわたしと関係を深めようとたびたびアプローチしてきたけど、自分の好意についてはっきりと口にした記憶はない。あれだけ積極的に距離を縮めようとするくらいだし、好きでもなければデートに誘うことはないはずだから、桜子の好意については疑いようがないと思っていた。明確な言葉がなくても、これまで気にしてこなかった。
もちろん、ただ言い忘れているだけかもしれないが……あの桜子が、この一か月間、そんな大事なことを言い忘れるなんて事があるだろうか?
「…………」
バイト先やデートでの桜子とのやり取りを思い出そうとして、ちょっと無言の時間が長くなってしまう。おかげで、優奈が先に不安になった。
「えぇっと……まあ、別に告白の言葉がなくてもいいんだけどね」
「でも優奈、そのことがちょっと気になったんだよね」
「うん、まあ……もしこれから、実桜が桜子ちゃんに告白するようなことがあっても、先に惚れてきた桜子ちゃんより先に、というのはどうなのかなって」
「いやいや待たんかい。そんなifを想定するのはだいぶ早くないか」
だってわたしは、まだ桜子を好きになったつもりはない。……いや好きだけど、そうじゃなくて、桜子と同レベルの好意を抱いているかどうかは自分でも確信が持てないということであって……ああ、自分で言ってて面倒くさいな、かなり。
ところが優奈はちっとも気に留めてくれない。ニヤニヤ笑ってわたしに言う。
「果たしてそうかなぁ~。意外とその時は近いかもよ?」
「そんなに意志薄弱な人間に見えるの? 優奈には」
「いーや? なんだかんだ攻めに弱そうな人間に見える」
「どっちにしてもろくな感じじゃないな……」
「なになにー? また桜子ちゃんの話してるのー?」
急に話に割り込んできたのは、たったいま講義室に入って来た、友人の原口知世だ。彼女は別学部だけど、この授業は複数の学部にまたがって開講されているので、珍しく一緒にいる。ちなみに、もう授業が始まる時刻である。
「知世……ずいぶん遅かったね」
「いやー、盛り合ってたら朝になっちゃって」
「大声で言うな、恥ずかしいから」
相変わらず知世は無駄に男を転がしているらしい。男女のどちらとも付き合った経験のないわたしには、いささか刺激の強い話だ。
「そんで?」知世が詰め寄ってくる。「実桜は桜子ちゃんとなんか進展あったの?」
「いや、別に期待させるようなことは……」
これ以上からかわれて疲れたくないので、わたしは隠しておきたかったのだが……。
「お祭りデートに誘われたけど浴衣を持ってないからどうしよっかなー、って話を聞かされたところ」
「ゆーな、ゆーな」
さらっとばらす優奈に、わたしは苦言を呈した。ちなみに片方は“優奈”で片方は“言うな”だけど、どっちでもいい。また例によって知世にも笑われると思ったが……。
「浴衣ねぇ……」知世は、うーん、と少し考える。「実桜って、わたしと身長と体型、同じくらいだよね?」
「え? まあ、そうだと思うけど」
「だったら、わたしの浴衣、貸してあげよっか」
なんと、思わぬところから浴衣を手に入れるチャンスが巡ってきた。そんなにどうしても欲しいわけじゃないけれど……。
「ホント? 知世、浴衣持ってるんだ」
「まあね。ほら、浴衣って肌着一枚の上に羽織るから、男の子の視線を誘うにはもってこいなんだよね」
「そんな理由か」
どこに行っても知世はこんな調子である。
「けど、いいの? 貰っちゃって」
「いいよ~。たくさん持ってるから、むしろ一着くらい貰ってほしいくらい。それに……」
知世は意味深な笑みを浮かべ、上目づかいでわたしに言った。
「こういうこと、ご両親には相談しにくいでしょ。実桜は」
くっ……反射的に頬がつり上がるのを感じる。
詳しい事情を話したわけじゃないが、知世はなんとなく気づいているみたいだ。嫌な事で図星を突かれると、言い返すこともままならない。
わたしの反応が予想どおりで満足したのか、知世はニカッと笑う。
「そういうわけだから、実桜に似合いそうなもの、いくつか見繕ってあげる」
「嬉しいけど……何もそこまでしてくれなくても」
「なーに遠慮してんの。友達がデートに着て行くんだから、協力するのはやぶさかじゃないよ。もうすぐ浴衣も厳しい季節になってくるし、これから何度デートに行けるか分かんないんだし、やれることはやっておいた方がいいよ」
ずいぶん力説してくるが……まあ、おおむね当たっているかもしれない。
桜子の好意は嬉しいけれど、それが不安定な思春期ならではの、一過性の感情である可能性も否定できない。こうした付き合いが長続きする保証なんて、どこにもないのだ。桜子が、わたしと揃って浴衣を着て、連れ立ってお祭りに出かけることを望んでいるなら、彼女の思い出を彩るために、わたしはその望みを叶えてあげたい。今後、こんな機会はもう来ないかもしれないのだから。
……なんて考えてしまうあたり、わたしは桜子に甘いようだ。
「そうだね……桜子ちゃんには、いい思い出を作ってほしいからね」
「それと、実桜もね」
「え?」
優奈の言葉に、わたしは思わず尋ね返した。
「一時的なものかもしれないとしても、さ……それでも、お互いにとって忘れられない、いい思い出を作りなよ。たぶんそれが、実桜のためにもなると思う」
わたしを見つめるその瞳には、今までの優奈が見せてこなかったような、深淵の奥の煌めきを纏っていた。
彼女が何を考えて、わたしにそんな事を告げたのか、この時はまだ分からなかった。でも、それが正しかったのだと悟ったとき、わたしは心から思うことになる。この友達の言葉を、もっと胸に深く刻んでおくべきだったと……。
お祭り当日の日曜日。お昼過ぎに知世が数着の浴衣を持って、わたしが借りているアパートにやって来た。浴衣ニュービー(優奈の言)であるわたしに、ぴったりの浴衣を見繕うとともに、着付けを施すためである。
「いわゆる着物よりは楽だけど、慣れないと結構大変なのは変わりないからね。着付けを間違えたらとんでもないことになるし」
わたしの腹部に半幅帯を丁寧に巻きながら、知世は言う。
まあ、確かにそうだろうな。慣れない状態で着付けして、間違えて左前とかにしてしまったら大変だ。初めてなら、知っている人に任せた方が賢明ではあるだろう。と、わたしは思ったのだが、知世が言いたいことは少し違った。
「ほら、帯の締め方とかが緩いと、はらりとはだけてあられもない恰好に」
「しないでよ?」
ニヤニヤ笑って品のないことを言ってくる知世に、わたしは少し不安を覚えた。このひとの着付けは、着崩すことが前提になっているのではないか……?
幸い、わりときつめに帯を締めてくれたので、はだける心配はなさそうだ。さすがの知世も、大勢の人の目があるお祭り会場に行くのに、そんな卑猥な着付けをしようとは思わなかったようだ。そして浴衣の柄も……姿見で確認したら、意外なほど違和感がなかった。
「おーおー、いいね、わたしの見立て通り!」
「こんなの着たことなかった……」
「実桜は顔が細くて白いから、華やかな感じじゃなくて、淡い色合いの模様がマッチすると思ったんだ。清流を模したやつと迷ったんだけど、ここはあえてシャクヤクの花を選んでみました」
「あ、これシャクヤクの花なんだ。ボタンかと思った」
「まあどっちも美しい女性をたとえるのに使われるけどね。ちなみにシャクヤクの花言葉は『はじらい』とか『慎ましさ』なんだって」
「ふうん……悪くないかも。清楚な感じがあって好きだな。むしろなんで知世が、こんなきれいな浴衣を持っているのか不思議なくらい……」
「なーんか失礼なこと考えてない?」
そんなことはない。恥じらいなんて欠片もなさそうな知世に、清楚な雰囲気の装いなんてあまりに不釣り合いだとか、そんなことは思ってないですよ?
「でもまあ、ありがとね、知世。どうしてもってわけじゃなかったけど、やっぱり着ていけるならそうしたかったし」
「だったら願ったり叶ったりだね。箪笥の肥やしにならずにすんだし」
知世はそう言って、浴衣を入れていた薄い箱を片づけ始めた。
……その手を止めないまま、知世はおもむろに告げた。
「……言おうかどうか迷ったんだけど」
「ん?」
「優奈もね、実は、今日のお祭りに実桜を誘おうとしてたんだよ。わたし達みんなで、浴衣を着てさ」
「えっ……」
わたしは言葉が出なかった。初耳だ。そんな話、優奈は何も言っていなかった。
「だけど、誘う前に実桜とギクシャクしちゃって、結局言い出せないまま、日曜日の予定がみんな桜子ちゃんに取られちゃったってわけ。ほら、少し前まで実桜、バイトの入れ過ぎで体調を崩さないか心配だったから、息抜きするタイミングが欲しかったんだよ」
「そう、だったんだ……」
ああ……わたし、馬鹿みたいだ。
優奈も気づいていたんだ、わたしが過労で倒れる寸前にいたことを。わたしの身をずっと案じていても、言い出せずにいた。桜子と毎週日曜日にデートする約束をしてしまったこと、桜子から今日のお祭りに誘われたこと、それらを聞いた時の優奈は、一体どんな心境だっただろう。どんな思いで、わたしに言葉をかけてくれたのだろう。
またわたしは……自分のことで手一杯で、すぐそばにいる人の、わたしに向けられた気持ちに気づけなかった。優奈の、色んな表情を思い起こすたびに、胸が締めつけられる。
「気にしなくていいよ」知世が声をかける。「当の本人は、桜子ちゃんに先を越されちゃったって、笑ってたから」
「でも……」
少し落ち気味のわたしの両肩に、知世が手を添える。
「とにかく今日は、桜子ちゃんと一緒に、いっぱい楽しんでおいでよ。わたしと優奈の分も、いい思い出を作ってきな」
それでいいのだろうか……初めて知った友人の気持ちに戸惑って、うまく頭が回らない。
「それに今日は、わたしと優奈で同じお祭りに行くつもりだし」
「……尾行てこないでよ」
「やだなぁ。友達のデートを覗き見なんて野暮なこと、さすがのわたしもしないって」
一応やりかねないって自覚はあるんだな……。でも、お祭り会場で遭遇しても、偶然バッタリ会ってしまったと言い訳してきそうな気がする。
さて、こんな感じで着付けを済ませると、知世は自分の準備があると言って早々に部屋を出ていった。お祭りの時間まで部屋で待機して、待ち合わせの時間が迫ってきたところで、わたしはアパートを出た。
待ち合わせの場所は、会場の神社からほど近い所にある町内案内板である。ほど近いといっても、入り口の鳥居から三十メートルくらい離れているが、入り口付近は他のひとの待ち合わせでごった返すので避けたのだという。その辺り、桜子はなかなか計画的だ。
「お姉さーん! お待たせしましたー!」
案内板の前に先に到着して、ほどなくして桜子もやって来た。
カランカランと草履の音を鳴らし、走って来たのか少し息を切らしながら、桜子はにっこり笑ってわたしに歩み寄る。身に纏う浴衣は、たんぽぽをあしらった黄色い模様で、細身の桜子を優しく包んでいるように見えた。そしていつもはツインテールの髪も、今日はポニーテールにしている。
「大丈夫、そんなに待ってないよ」
「あぁ~、お姉さんも浴衣着てきたんですねぇ。すごくお似合いです」
キラキラと瞳を輝かせて桜子は言う。今までのデートでは普通の服ばかり着ていたから、ようやく眼福にありつけたというところだろう。なんだか複雑な気分だ。
「お姉さんどうですか? わたしの浴衣」
体をくるりとひるがえし、黄色い浴衣をひらひらと揺らす桜子。
「うん……素敵だよ。桜子ちゃんにぴったり」
「ふふっ。やっぱりお祭りといえば浴衣ですね。一緒に浴衣で来れて嬉しいです」
はしゃいでいるなぁ。そしてわたしは、思ったほど桜子の浴衣に心動かされてはいないけど、お祭りの類いが本当に久しぶりだから、桜子と一緒に行けるというだけで、ワクワクしてしまっている。ずいぶんデート慣れしたものだ。
桜子がわたしの手をとって、神社に向かって歩き出す。
「さ、行きましょう!」
「お、とっとっと……」
いつものように、積極的な桜子によってわたしがリードされる……そろそろわたしから動いてもいい頃だろうか。桜子は気にしないだろうけど、年上の威厳を示せないのはどうも情けない。そんなもの、最初からないのかもしれないが。
鳥居を通り抜けると、参道を囲むようにたくさんの出店屋台が並んでいた。屋台の軒先に並ぶ提灯の、オレンジ色の明かりに照らされて、たこ焼き、焼きそば、焼き鳥、クレープ、綿菓子などの名前が浮かび上がっている。すでに参道は大勢の人であふれていて、そのほとんどが浴衣を着ている。
「盛り上がってるね……」
「焼きそば! お姉さん、焼きそば食べましょう!」
「あー、焼きそば好きなのね」
さすがによく来ているだけあって、桜子はお祭りの楽しみ方を知り尽くしていた。食べ物は買ってすぐの熱いうちに食べ、射撃は撃ち落としやすいものを狙い撃ちし、金魚すくいでは五匹という釣果を上げた(もっとも金魚はオモチャだが)。桜子に迫られてわたしも金魚すくいに挑戦してみたけど、一匹捕まえたところでポイが破れてしまった。
そんな感じでひと通り屋台を回って、気づけばわたし達の両手は大量の荷物で塞がっていた。草履の鼻緒の影響もあって、そろそろ座って休憩したい気分だ。
「あーどうしよう。おこづかいずいぶん使っちゃいましたよ」
桜子は困ったように言うが、その顔はどうしようもないほど笑っていた。
「本当に楽しそうだね……ちょっと休もうか?」
「いえ! まだまだ二周目もいけますよ!」
拳をグッと握る桜子。これが若さというやつなのだろうか……妙に気が遠くなる。
「やだなぁ……年は取りたくない」
「……お姉さん、お疲れならちょっと休んでもいいですよ?」
また気を遣われた……しゃがんで顔を隠して塞ぎ込みたい気分だったけど、それはさすがにまずいと思って耐えた。たぶん表情は歪んだと思うけど。まったく、威厳もへったくれもありやしない。
お社の石段に腰かけて少し休憩。草履を脱いで、足の親指と人差し指の間を見てみたけど、思ったほど痛めてはいなかった。これなら数分で痛みは引くだろう。
一直線に伸びる参道と、その両脇に連なる屋台の明かり。わいわいとにぎわう浴衣姿の人の群れ。友達、家族、カップル……いろんな形はあるけれど、誰もかれも幸せそうだ。こんな光景はきっと、今の時期までしか見られないだろう。来てよかった……素直にそう思える。
「お姉さんは楽しかったですか、お祭り」
すぐ隣に腰かけている桜子が尋ねてきた。
「うん、楽しかったよ。こういうのもたまにはいいね」
「わたしもお姉さんと一緒に来れて最高です。きれいな浴衣姿も見れましたし」
「桜子ちゃんの浴衣姿もきれいでかわいいよ」
「…………!」
何の気なしに口をついた一言が、桜子には強烈に効いたらしい。さっきよりも頬と耳が赤くなり、急に体温が上がったのか手で顔を扇ぎだした。
「あ、ありがとう、ございます……」
浴衣にポニーテールということもあって、いつもより肌の露出が少し多い桜子が、こうやってあからさまに恥じらう姿は、何というか……下手をすると艶めかしく見える。いけない、こっちも油断すると引き込まれそうだ。
しばらく、目を合わせない、言葉を交わさない時間が流れる。
こんなところ、恐らく来ているであろう、優奈と知世の二人に見られたらどうなるか……若い二人でごゆっくり、とか言って写真や動画の撮影を始めそうだ。それだけは避けたい。
「えっと……これから、どうする?」
「そう、ですね……あ、そうだ。もうすぐ花火が始まるんでした」
「花火? 住宅が結構あるけど」
「少し離れたところの川辺で、いつも同じ日に花火を上げるんですよ。ここの裏手から見えますよ」
というわけで、わたしと桜子はお社の裏側に回った。裏手は五メートルほどの高台になっていて、丈夫な柵の向こうは高い建物が少なく、視界は良好だった。この先に川があるそうだから、確かにここからならよく見えるだろう。有名な花火見物スポットなのか、他にも何人か集まっている。
ほどなくして、花火の打ち上げが始まった。
ドォーーン!! ドン、ドン、パララ……
赤、緑、水色、オレンジ、黄色、ピンク色……色とりどりの大輪の花が、爆音とともに、暗い夜空に咲き乱れる。月の光よりも眩しく、町を鮮やかに照らしている。
「おぉー……」
想像していた以上に、スケールの大きな打ち上げ花火だ。こんなに近くで、こんなにたくさんの花火を見たことなんて、今まであっただろうか……いま、かすかに足が震えているのは、爆音のせいか、それともわたしの心が揺さぶられているせいか。
「すごい……」
「毎年見ていますけど、やっぱり花火って、いつ見ても素敵ですねー……こうして、お姉さんと一緒に花火が見られて、すごく幸せです」
「桜子ちゃん、わたしが一緒なら何でも楽しいんじゃないの?」
「そうかもしれません」
てへっ、と舌を出しておどける桜子。かわいいなぁ、もう。
色鮮やかな光を散らす花火、それを眺め続けるうちに、胸の奥にくすぶっていた思いが、少しずつにじみ出てきた。思い返されるのは、ここ一か月の間のこと。
「わたし……ちっとも桜子ちゃんを楽しませてないなぁ」
「え、なんでですか? 楽しいですよ?」
「それは桜子ちゃんが、自発的に楽しんでいるからだよ。わたしがそうさせたくてやった結果じゃない……わたしから桜子ちゃんには、何もできていないから」
「そんなことは……」
「だって、毎回桜子ちゃんが何かしら提案して、わたしをリードしようとしてるじゃない」
「うっ……」
さすがに桜子も返す言葉がないようだ。桜子としては、年上であるわたしと、なんとか対等に付き合いたいと努力しているのだろうけど、そもそもわたしの方が年上らしくできていないから、対等になる努力が過ぎて、むしろ桜子の方が一枚上になっている。
「桜子ちゃんは前に、わたしが大人だって言ってくれたけど……もちろん言ってもらえたのは嬉しいけど、自分ではまだ、大人になりきれていないと思う。今でも必死で、背伸びしようとしてる。だから、それができないとなんだか、自分が情けなく思えてきて……ああ、もちろん桜子ちゃんは悪くないんだけど、あんまり情けない姿を見せたら、がっかりさせてしまいそうでね」
「がっかりなんて、しないのに……」
「うん、分かってる。桜子ちゃんは、こんなわたしを認めてくれる。それでも……桜子ちゃんの気持ちと関係なく、わたしはまだ自分を認められてない。恥ずかしい話だけど……」
花火の音、周りの人たちのはしゃぐ声。その中でわたしと桜子の間には、沈黙の空気が漂う。
地面を震わせるような大きな音に、かき消されそうな声で、桜子は沈黙を破る。
「……あの、前から気になってたんですけど、お姉さんはどうして、大人になることにこだわっているんですか」
「…………」
「もしかして、聞いちゃいけない話でしたか? だったら」
「ううん、違う。あまりにつまらない理由だから、言うのが少し恥ずかしいだけ……でもまあ、桜子ちゃんには、特別に教えちゃおうかな」
わたしに特別扱いされて嬉しかったのか、桜子は赤くなった頬をぽりぽりと掻く。
「桜子ちゃん……わたしの実家はね、ここから割と距離のある場所にあるの。厳しい家でね、勉強はできるのが当たり前、マナーは守るのが当たり前、家柄にふさわしい振る舞いをするのが当たり前……そういう価値観で縛りつけるのが当たり前の、そういう家だった。学校生活にまでは口出ししてこなかったけど、将来のことに関しては思い切り揉めたよ。家柄にふさわしいような進路を選べ、それ以外は断じて認めない、そんなことばかり言ってね……さすがにもう、耐え切れなかった」
「それで、距離を置くことにしたんですか」
「うん。家族に内緒で今の大学を受験して、合格証明書を手に入れて、小さいころから貯めていたお金で入学金を払った。さすがにそこまでしておいて、無理やり入学辞退を申し入れるのは、外聞がよくないと思って引き下がってくれたけど……学費以外は出さないって言われてしまった」
「だからお姉さん、あんなにたくさんバイトを入れていたんですか」
「初めのうちはね。一年も続けたら、もう余裕ができてきたよ。ただ、入学前にいろいろ言われて、それを未だに引きずっている所はあるね」
「何を言われたんですか?」
「……子供は大人しく、親の言うことだけ聞いていればいいのに、って」
今度は何も反応がなかった。
「以前から感じてはいたけど、こうもはっきり言われるとは思わなかった。あの人たちにとって、子どもはどこまで行っても親の所有物でしかない。家族の思い通りに子どもを動かすのが当たり前だと、本気で考えている人たちだから……わたしも、ほとほと嫌気がさしたの。だから、早く大人になって、わたしが、あの人たちの所有物なんかじゃないって、証明したかったんだ」
「…………」
「いま考えたら、そういう発想自体が子どもじみているけどね。けど、今さら後には引けないし、精神的にも経済的にも自立した大人になるまでは、まかり間違ってもあの人たちと顔は合わせられない。だから、過労で倒れるのも厭わず働いて、今日に至るってわけ。ね、くだらない話でしょ?」
結局のところ、わたしがバイト漬けの毎日を送っている一番の動機は、背伸びしたいからという一言に尽きる。そんなことを望んでいる時点で、わたしは大人になりきれていない。冷静に考えてみれば、精神的にも経済的にも自立できたところで、あの家の子どもであるという事実はつきまとうのだから、それを見て家族がわたしを所有物と思わなくなる可能性は低いのだ。望み薄だと理解していてもしがみついてしまう所が、いかにも子どもっぽい。
さて、ここまで聞いて桜子はどう思っただろう。そんな保証はないはずなのに、桜子なら何だかんだ認めてくれそうだと、ひそかに期待している自分がいる。
反応が返ってくるのを待っていると、柵に掴まっていたわたしの手に、柔らかく温かい何かが触れた。振り向くと、桜子がわたしの手に手を重ねていた。顔は柵の向こうを見ているが、その横顔からは、寂しさにも、悔しさにも似た表情が滲んでいる。
花火の爆音が響く中でも、震えるその声ははっきりと聞き取れた。
「……わたしが」
「え?」
「わたしが、お姉さんと一緒に、支え合えたら、よかったのに……」
潤みを帯びた瞳は、必死に落涙を抑えているように見えた。
……何なんだ。
何なんだ、わたしは。
いま許されるなら、思いきり自分を殴りたい。責めたい。馬鹿野郎となじりたい。
だがもちろん、桜子の前でそんなことはできない。唇を噛むのがせいぜいだ。
ああ、本当に……どうして桜子は、わたしにここまで寄り添おうとするのだろう。六歳も年上の、こんなにも情けない女に、どうしてここまで入れ込めるのだろう。
……どうしてわたしは、素直に桜子を好きになれないのだろう。
答えなんて出ない。分かっていることはひとつ。わたしはいま、必死でわたしを受け止めようとしてくれている、健気でかわいいこの少女を、力いっぱい抱きしめたい。衝動に任せるまま、気持ちを吐き出してしまいたい。
でも、それさえわたしにはできなかった。
いつしか花火は終わり、神社の裏手から徐々に人が離れていく。派手な明かりに包まれる時間が長かったせいか、ぐっと宵闇の色が濃くなった気がする。
「……花火、終わりましたね」
「う、うん……」
「お祭りもそろそろ終わるはずです。帰りましょうか」
「そ、そうだね……」
今度は桜子と並んで、その場から離れる。さっきわたしの手に触れた桜子の手は、磁石のように離れないまま、まだわたしの手の中にある。
参道に戻ってくると、提灯の明かりはすべて消え、屋台の明かりがまばらに残っているくらいになっていた。訪れている人の数も減っている。これが、祭りの終わる瞬間か……。
わたしと桜子は、まだ手をつないだまま、お社の前に立ちつくしている。
「……今日も楽しかったですね」
「あはは、今日も……うん、そうだね」
「お姉さんのこと、ちゃんと知れてよかったです。お姉さんのためにできることは、何もないかもしれないけど……お姉さんと巡り会えたことは、絶対後悔しないと思います」
……あたたかい。手も、心も。
桜子は気休めの言葉を使わない。節操なくわたしの望みに合わせることもしない。きちんと本気で寄り添って、わたしに本当に必要なことを言ってくれる。これが、優しさというものなんだろう。これまで、こんなにも素直に、優しさを感じられたことがあっただろうか。
わたしも同じ……桜子に出会えたことを、もう決して後悔しない。
「それじゃあ、お姉さん。わたしはこれで」
唐突に手を離す桜子。何の前触れもなかったから、少し驚いた。
「え、あの、大丈夫? 真っ暗なのに一人で……」
「平気ですよ。この時間になったら、お父さんが近くまで迎えに来てくれるので」
計算してるなぁ……どう見ても友達とは思えないわたしと、一緒にお祭りに来ている所を、親に見られるのはよろしくないだろうし。
カランカランと草履の音を立てて、徐々に遠ざかっていくその背中を見ているうちに、ふと、優奈の言っていたことを思い出す。桜子は今まで一度も、自分の気持ちをはっきりと口にしたことがなかった。
今さら確かめるまでもないとは思う。だけど……妙な不安がまとわりついて、確かめたい衝動が強くなっていく。
華奢なその背中に向かって、わたしは声を上げた。
「桜子ちゃん!」
その声に、桜子は立ち止まり、ポカンとした顔で振り向いた。
言葉は自然と口に出た。
「あなたは……わたしが好きなんだよね?」
その問いかけが予想外だったのか、桜子の目がわずかに大きく開かれた。
いま気づいたけど、この場には他にも人がたくさんいたんだよね。そんなに大きな声で訊いたはずはないけど、誰も聞こえてないといいな……。
桜子はしばらく、わたしを呆然と見つめていたが、
「…………そ」
と、口を開き、どこか儚げな笑顔を向けた。
「そんなの、今さら聞くまでもないじゃないですか」
風が吹き抜ける。
あんなに優しく、わたしの欲しい言葉をくれた桜子が、ここに来て壁を作った。
あらゆる音が、景色が、猛スピードで遠ざかる感覚。
どうしよう、考えがまとまらない。頭がうまく回らない。次に体のどの部位を動かせばいいのかも分からない。
愕然として立ち尽くしているわたしに、気づいているのかいないのか、桜子はそのまま身をひるがえし、駆け足で去っていった。
わたしはその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
この日を境に、桜子はわたしの前から姿を消した。
なぜ、なんて虚しくなるばかりだ。きっとそれは一炊の夢のようなもので、深く考えることは許されないのだろう。楽しかった日々は、遠く過去の彼方に消えていく。
それでも、わたしは忘れられない。
……忘れられそうに、ない。
知世「あーあ、残念だなぁ」
優奈「そんなにお祭りが残念な出来だったの」
知世「違うよぉ。実桜と桜子ちゃんの忍び逢いを、写真や動画で残せなかったこと」
優奈「……なるほど、それは確かに残念だ」
はてさて、実桜は大人になれるのでしょうか。
まあ厳しいと思いますけどね。この作者が大人になりきれていませんし。
次回で第5章は完結します。二人の未満恋愛(いや以下か?)の行く末を、温かく見守ってあげてください。




