5-2 そこまでは思ってない
お待たせしました。またずいぶんと長めになりました。
大人になりきれない大学生と、子どものままの中学生。二人の関係が少しずつ変わります。
理想的な接客には、三つの欠かせない要素がある。笑顔で話しかけること、誠実かつ平等に対応すること、必要以上の干渉を避けること。たとえ迷惑な客が来たとしても、この三つは絶対に忘れてはならない。平然と迷惑をかける人間に、実際に迷惑そうな態度を見せるのは逆効果だし、それは決して誠実な対応とはいえない。平等な対応が求められるなら、相手の反発を承知で迷惑行為を訴え、すべての客に不快感のない時間を与えなければならないのだ。
そんなことは、ここでの仕事を始めてから、何度となく言われてきたことだ。実際、これまでのわたしは忠実に守ってきたと自負している。しかし……。
「…………」
窓際のテーブル席、ちょこんと腰かけている中学生の女の子の、喜びと期待のこもったキラッキラの視線が、カウンターのわたしに向けられている。
わたしは彼女に対して、つい先日、理想的な接客三要素のうち、笑顔を除く二つをすでに破ってしまっている。誠実な対応に失敗し、あからさまに特別扱いし、必要以上に踏み込んでえらい目に遭った。だから今のわたしにとって、笑顔だけが最後の生命線だったのに……。
女の子、森川桜子の視線を浴びているうちに、どんどんわたしの表情は、パクチーをブラックコーヒーで流し込んだように、苦み走っていく。
これで三要素、ぜんぶアウト。スリーアウト。中瀬実桜、チェンジまで待ったなし。
もうすぐ休憩時間。桜子がわたしに何を期待しているのか、それはもう分かっていた。
「……先に、休憩入りますね」
一緒に接客している先輩の梶原さんにそう告げると、大方の事情を知っている梶原さんは、実に投げやりな態度で返した。
「好きにすれば?」
三十分も与えられていない貴重な休憩時間……今のわたしはそのすべてを、桜子との他愛のないおしゃべりに費やすことになってしまっている。
その日、大学の午後の講義がすべて終わった後、わたしは学内のカフェで、友達に事の顛末を話した。別に隠す理由はなかったし。
「「ぷっはっはっはっは!!」」
結果、腹を抱えて笑われることになった。畜生、言わなきゃよかった。
「それでその女の子と、休憩時間全部使っておしゃべりすることになったわけ? それ全然休憩になってないじゃん!」
「しかも名前が桜つながりで運命感じられるとか、乙女か? 少女マンガの乙女かぁ?」
今日は都築優奈の他に、別の学部に所属する原口知世も交じっている。こっちは別学部だから、教室で顔を合わせることはあまりない。
「そこまで馬鹿笑いすることないでしょ……自分に好意を持ってる中学生の女の子とか、どう接したらいいのかなんて分からなかったし」
「だからそこがオトメなんじゃん」知世がいう。「処女と書いてオトメと読むやつ」
「男性遍歴の激しい知世にだけは言われたくないんじゃないかなぁ」
優奈は冷静に突っ込んでくれたけど、事実、二十年近く恋愛らしい恋愛をしていないわたしは、まさに処女と書いてオトメと読むやつなのだろう。
「んで?」優奈がニヤニヤしながら訊いてくる。「恋愛ニュービーの実桜くんは、その桜子ちゃんとどうなりたいのかな、ぶっちゃけ」
「まずそのニュービーって言い方やめてよ。それハッカー用語でしょ」
「いやー、なんとなく犯罪っぽい響きを出した方がしっくりくるかなーって思って」
「しっくりこなくていい。そもそも付き合うつもりないから、犯罪になる余地ないし」
「ずるいぞー、高度な会話にわたしも混ぜろー」
アホ知世が何か言ってるけど、とりあえず無視することにした。わたしは、テーブルに頬杖をついて、少しアンニュイな気分でいう。
「ただ、まあ……せっかくわたしを気に入ってくれているんだし、悲しそうな顔をさせるよりは、時間削っても話し相手になる方がマシかなって……」
ふと、優奈と知世の表情が、変化していることに気づく。何だかよく分からないけど、驚いているようにも、感心しているようにも見える。
「……なに?」
「いやー……ネコにしか興味がないとか言ってた実桜が、ねぇ……」
「いっぱしに他人のことを気遣えるようになったとは……ぐすっ、成長したんだねぇ」
今すぐボディブローとジャーマンスープレックスをかましてやろうかと思ったけど、なけなしの友情を優先して思いとどまった。その代わりに、精一杯の怒りを込めて二人に言った。
「黙れ、薄っぺら保護者まがい」
もっともアホの二人には通じなかったが。
「まあこれは冗談だけどさ、人間に興味がないとか言っておいて、桜子ちゃんのことは気にするんだね」
「気にしないわけにいかないでしょ。多感な時期の女の子なんて、ひとつ間違えたらどんなことになるか分からないんだもの。これでお店にまで火の粉が飛んだらまずいじゃん」
「うーん……それってさ、本当にお店のことを考えての行動なの?」
「何かおかしい?」
「おかしいってわけじゃないけど……」
さっきから優奈の歯切れが悪い。何が気に入らないのだろうか。なかなかそのセリフの続きが出てこないから、待ちきれなくてわたしはアイスティーのストローに口をつける。
優奈はしばらく「うーん」とうなりながら考えて、そしてわたしにこんなことを告げた。
「……誰にも興味を持てないならさ、誰かのことを考えて、っていうのは空々しいよ」
「…………」
ストローから離した口からは、信じられないくらい、少しの音も漏れなかった。
心臓にナイフを突き立てられたような、感じたことのない胸の痛みに、追い打ちをかけるように優奈の言葉が響く。
「わたしは実桜が、自分勝手だとか自己中だとか、そんな人じゃないって分かってる。いざとなれば、ちゃんと他人に気を遣える性格だと思ってる。わたし自身の、人を見る目が確かならね……だけど、それは他人のことを考えての行動じゃなくて、実桜にとって社会常識みたいなものだからでしょ。当たり障りのない関係を築いて、波風立てないようにして、なるべく自分が傷つかないようにしている」
「…………」
アイスティーのグラスに添えた手に、徐々に嫌な力が入っていく。優奈の、子どもをたしなめるような言葉は続く。
「本音では関心なんてこれっぽっちもないのに、建前が大事でそれっぽく装っているだけ……でもさ、うわべだけの気遣いなんて、案外簡単に見抜かれるもんだよ。まして、実桜が他人に興味ないって知っているわたしらからすれば、誰かのことを考えて、っていうのは本当に建前にしか聞こえない。何を怖がってんのか知らないけど、下手なうちは本音を隠したって無意味だからね」
優奈の言葉が、ずっしりと重くのしかかる。いちばん突かれたくない所を容赦なく突いてくる。
わたしがなぜ、他人への興味がドライなのを隠してまで、他人との関わりを維持しようとしているのか、その理由をたぶん二人は知らない。本音を隠すのがまだ上手くないのは自覚しているし、優奈がわたしを案じているのは理解しているつもりだ。だけど……聞けば聞くほど、苛立ちばかりが募っていく。
「……なんで」
「ん?」
気が付くと、そんな言葉が口をついていた。
「なんで優奈に、そこまで言われないといけないの」
「…………」
「優奈はわたしを、うわべだけの人間だって思ってるわけ?」
カフェのこの一角だけ、やけに陰鬱な空気が流れる。戸惑っているのは知世だ。
「ちょ、ちょっと、あの……」
「そこまでは思ってない」優奈がいう。「ただ、実桜はそれでいいの? ってこと」
「……余計なお世話よ」
ああ、ダメだ。どんどん空気が澱んでいく。だけど今のわたしに、優奈の言葉を上手く跳ね返す方法は思いつかなかった。このままじゃ、どんどん泥沼にはまっていくだけだ。優奈も優奈で、とうにわたしを見限っているのか、この状況を何とかしようとする素振りを見せない。
その時、居心地の悪さに耐えかねた知世が、唐突にこんなことを言い出した。
「そ、そういえばさ! 実桜って桜子ちゃんと、しっぽりしようと思ったことはないの!?」
ブフーッ!!
TPOを斜め上にぶっ飛んだ知世の発言に、思わずわたしは、アイスティーを噴き出した。角度が悪くて、優奈の顔に少しかかってしまった。
「あるかっ! 中学生と付き合うだけでも条例に抵触しそうなのに、そんなことしたら児童わい○つでお縄になるわ!」
「あんたもカフェでそういう品のない発言は控えたらどうなの」
優奈に言われて、それもそうだと思い直した。とりあえず落ち着いて……優奈の顔をハンカチで優しく拭いてから、知世に言う。
「というか知世、あんたね……どこからそういう発想が出てくるかな。大体、わたしはあの子と付き合うつもりもないって散々言ったよね」
「実桜はそうかもしれないけど、桜子ちゃんは分かんないんじゃない?」
「いや、だって相手、中学生なんだけど……」
「最近は初体験の低年齢化が深刻らしいんだよなー……」
優奈がぼそっと呟く。こいつら、どうしてもわたしに一線を越えさせたいのか。他人事だからって友人をおもちゃにするなよ……。それに、統計的事実は知らないが、桜子はたぶんいい子だ。いくらなんでも、わたしに対してそんな邪なことを企んでいるなんて……。
脳裏に浮かぶ、桜子の言動。わたしのシフトを狙って店に来る。距離が縮まったと知るや目を輝かせて迫りくる。そして極め付き、『お姉さんをください』……。
あれっ、なんか、普通にありそう!
混乱してきた。考えてみれば結構肉食系なところがあるし、首尾よくわたしと関係を作ったら、本能に任せた行為に及ぶかもしれない。あ、どうしよう。今さら不安になってきた……。
「大丈夫? 実桜、顔色悪いよ」
こういう時、知世は素直に心配してくれるのだ。
「割と大丈夫じゃないかもしれない……」
「まあ、結構前から顔色が優れてないけどね。疲れてるでしょ、ぶっちゃけ」
「それは否定できないかな……あの子のことで色々悩まされるから」
「んん?」
とりあえず、一度はあの子の好意と向き合ってしまった以上、それを無視することはできない。優奈の言った通り、わたしは、誰かのことを本気で考えることをしない。そのくせ本音を隠そうとして、社会ではそれが当然だからと自分に言い聞かせて……でも、そんな態度ではダメなのだ。あの子に嫌われても構わないけれど、彼女の好意を踏みにじる権利なんてない。
何より、どこまでもわたしのことを見ていそうな彼女に、本質を隠したって無意味だ。予感だが、立ちどころに見抜かれそうな気がする。
「実桜、そろそろ時間じゃない?」と、優奈。
「え? あっ、ホントだ!」
カフェの時計を見たら、次のバイトの開始時間が迫っていた。わたしは慌てて荷物をまとめる。
「なに? 今日もバーガー店でバイト? 桜子ちゃんに会えるね」
知世はやっぱりわたしと桜子をくっつけたいみたいだが、生憎、その進展は今日望めない。
「残念でした。今日は金曜なので塾講師助手のアルバイトです。あの子とは会いません」
「そーなの?」
「とにかくわたしは忙しいんだってば。じゃ、またね!」
そう言い残し、わたしはテーブルを離れた。ちなみにわたしのアイスティーは少し残っている。
わたしがカフェを出た後、残された優奈と知世はこんな会話をしていたらしい。
「行っちゃった……」
「ここのカフェ、後払いなんだけどね」
「…………」
知世は出入り口を見つめて、どこか浮かない表情を浮かべている。
「実桜のことが心配?」
「うん、心配……確かに疲れてるみたいだけど、それってホントに、桜子ちゃんが原因なのかな」
「……止める力が足りないのは、悔しいね」
優奈の一言で、また少し静かな時間が流れる。が、携帯の着信音ですぐに破られた。
「おっと、わたしだ」携帯を取り出す知世。
「誰から?」
「うふふ、オトモダチ♡」
何の気なしに訊いたつもりだったが、知世の思わせぶりな答えに、優奈はちょっと後悔した。電話に出た知世は打って変わって、ヘリウム並みに軽い口調になる。
「もしもしー? うん、ともよんだよー。今ちょっと女の子とデートしてたー。うふふ、もー、せっかちさんだなぁ。キモチいいことは夜までお預けにしましょ♡」
「わたしはあんたが心配だよ……」
そのうち弄ばれた男どもに刺されやしないか、不安になる優奈であった。
「はあ……」
別の日、わたしはため息をつきながらバーガー店のシフトに入った。もはや、ため息をつくほどの心境を隠す余裕もなく、着替えを始めてすぐ、梶原さんに気づかれた。
「中瀬さん、ため息ついてカウンターに立つつもりなら、息を吐けないようにしてあげようか?」
「ごめんなさい、気をつけます……」
わたしはすぐ平謝り。一昔前のヤンキーみたいな見てくれの梶原さんがいうと、恐ろしいことをされそうな気がしたのだ。
「つっても、ため息は無意識のうちに出るものだからねぇ……何かあった?」
「ええ、まあ……この間の塾のバイトで、ちょっと」
「そっか……ちっ、あの中学生絡みだったらいじり甲斐があったのに」
「人の苦労をいじるのも大概にしてくださいよ」
「まあそれは冗談だけど。で、何があった? 仕事でミスして落ち込んでんの?」
「うーん……そういう、ことに、なるんですかね」
「なに、その煮え切らない返答は」
あれがミスだったのかどうかといえば、難しいと言わざるを得ない。バイト先の人は誰も、あれをミスだとはたぶん言わないだろう。本来の仕事の範囲を超えていたからだ。
塾のバイトといっても、仕事内容はほとんど、講師のアシスタントに限られる。資料作成の手伝い、試験監督、採点などだ。ある程度勉強ができることが大前提ではあるが、教えるとなると相応の能力と経験が求められるので、素人の学生が教卓に立つことは基本的にないし、生徒から質問などをされる立場でもない。
であるにもかかわらず、わたしは先日のバイト中に、帰り際だった中学生の塾生につかまって、質問を受けてしまったのだ。子どもからすれば、相手が未経験のバイト学生であるかなんて、見て分かるはずがなかった。一応質問の内容は、わたしもちゃんと理解していることだったけど、教える経験なんてろくすっぽないわたしは、頭の中が整理できず説明がしどろもどろになってしまった。別の先生が助け舟を出してくれたおかげで、その場はなんとか乗り切ったけれど、中学校の内容さえろくに説明できなかったという事実は、わたしに重くのしかかっている。
「ほー……そりゃ難儀な目に遭ったもんだ」
梶原さんは塾の人たちと違い、同情の目など一切向けなかった。
「だがな、それで問題なのは説明できなかったことより、最初にきちんと断れなかったことだよ。難しいと思ったなら、迷わず講師の先生の元へ連れていくべきだったね」
「うぅ……だって、質問されたのはわたしだし、中学校の勉強なら、わたしでもできると思ったから……」
「無理っぽいと判断されたからアシスタントを任されているんだろ?」
……ぐうの音も出ない。確かに、職域をはみ出してしまったのはわたしの方だ。熟達もしていないうちに、安易に質問を受けるべきじゃなかった。
「まあ、中瀬さんは中瀬さんで、生徒の期待に応えたかったんだろうから、あんまり責めることはできないけどね」
「責めはしなくてもきつい指摘はするんですね……」
「失敗は学ぶためにあるんだよ。だけどね、中瀬さん。他人からの期待にいちいち答える必要なんてないんだよ? できない事を頼まれてイェスといえるのは、本気でやりたいと思っていて、長い時間をかけてでも必ずできるようになると確信できることだけ。その場でできない事を引き受けちゃダメよ」
「す、すみません……」
「私に謝られてもね……とにかく、そんな落ち込んだ顔でカウンターに出てくるのはやめなさい。切り替えの早さは社会人の資質のひとつなんだからね」
そう言って、梶原さんは颯爽と更衣室を出ていく。あの人はわたしよりも長い時間、パートのシフトを組んでいるらしい。あれくらい飄々としていないと、激務には耐えられないのだろうか……。
だけど梶原さんの言うことも尤もで……わたしはどうも、面倒なことや嫌なことを引きずってしまうきらいがある。早く自立した大人になるのなら、ちゃんと気持ちを切り替えられるようにならないと。
「……よしっ」
着替え終わったわたしは、気分一新のために軽く体操をしてから、更衣室の鏡で自然なスマイルを出せていることを確認し、そうして更衣室を出てカウンターに向かった。
……そしてさっそく、引きつった笑顔に戻った。
「えーと、メロンソーダフロートと、チキンナゲットと、お姉さんとおしゃべりする時間をください!」
森川桜子は、やはり今日も来ていた。最近、注文の最後が「お姉さんをください」からこの文句に変わっている。わざわざカウンターで頼むことでもなかろうに……。
「はい……メロンソーダフロートとチキンナゲットで三百六十円、お姉さんとのおしゃべり時間に関してはプライスレスとさせていただきます……」
そう答えたら、桜子は満面をパアァァと輝かせた。うん、喜んでる喜んでる。こっちはだいぶスマイルに自信ないけど。
すると、梶原さんがこっそり耳打ちしてきた。
「切り返しが上手くなったじゃん」
どうも。今のわたしの精神状態では、気の利いたお礼なんてできそうにない。
そんな梶原さんとのやり取りは気に留めず、桜子はいつものように、ぴったりの金額の小銭を受け皿に置いた。ニコニコとわたしを見ながら……。
「どうぞ~」
「あ、はい……三百六十円、ちょうどお預かりします」
受け皿の小銭をレジの投入口に放り込み、呼び出し番号つきレシートを手に取り、桜子に渡す。いつもと何も変わらない。違うのは桜子の注文内容くらいのはずだ。
だけど……レシートを受け取った桜子は、真顔で少し眉をひそめて、わたしをじっと見ている。
「あの……どうしました?」
「…………いえ」
明らかに何か気がかりなことがある様子だったが、桜子はそのままカウンターを離れた。何だろう、手順を間違えたつもりはないけど。
それから、桜子が注文したドリンクとナゲットを受け取って、テーブル席でナゲットをつまみ始めるまでに、わたしは三人のお客さんをさばいた。迅速かつ丁寧に……桜子がカウンターでわたしを注文するようになってから、少し鈍っていた接客の感覚が戻ってきたみたいだ。
よし、この調子で次の休憩時間まで……と思った矢先、テーブル席から桜子の声が届いた。
「実桜お姉さん、ちょっと来てください!」
名指しで呼ばれて、わたしはビクッとした。テーブル席を見ると、桜子がやけに真剣な面持ちでこっちを見ている。あれ、わたし、本当に何かやらかしたかな……? そういえば、桜子はいつもわたしのことは“お姉さん”と呼ぶだけで、本名を知ってからも名前で呼ぶことはなかった。わざわざ下の名前を使ったのは、他の人に来てほしくないからだろうな。
どうしよう、まだ休憩時間じゃないけど……桜子の視線に不安を覚えながら、どうするか迷っていると、梶原さんがこそっと耳打ちした。
「行っておいでよ。お客さんのご指名だよ」
「クラブとか風俗じゃないんですから……じゃあ、行ってきます」
なんだろう、この、どっと疲労が増したような重みは。
わたしはスイングドアを通ってカウンターを出て、桜子の元へ向かう。すでにナゲットは食べ終え、なぜかメロンソーダフロートのカップは蓋が外されていた。
「えっと……どうかした? 桜子ちゃん」
何となく、ここは店員ではなく知り合いとして接した方がいいと思った。桜子は、たぶん店員を呼んだつもりなんてない。
桜子は無言でじっとわたしを見つめて、そしてぼそっと呟いた。
「…………いけない」
「え?」
「お姉さん、これを」
桜子は、ドリンクのカップを持って、腰を浮かせてわたしに詰め寄ろうとする。ぶつかりそう、そう思ったわたしは反射的にのけぞった。だが、それでは済まなかった。一歩踏み出した桜子の片足が、テーブルの脚に引っかかり、バランスを崩した桜子は、手に持ったカップを離してしまったのだ。
「きゃっ!」
蓋の外れていたカップの口から、薄緑の液体が飛び出し、わたしの制服にかかってしまった。
その様子を見た周りのお客や店員たちが、一斉にどよめき始める。視線がわたしに集中し、どっと流れてくる。まずい、この状況はどう対処したらいいんだ……? ずっとカウンターの接客しかしてこなかったわたしは、体験したことのないトラブルに混乱をきたしていた。
同じだ……先日の塾での出来事と同じ、自分の力でどうにもできない事態に直面して、体がうまく動いてくれない。どうしたら……。
「中瀬さん、早く着替えておいで!」
助けてくれたのは梶原さんだった。見るに見かねてカウンターを飛び出したらしい。
ふと我に返ると、ドリンクをこぼした桜子も、テーブルの脚につまずいたはずみで、床に膝をついてしゃがみ込んでいた。幸い、服を汚してはいないみたいだ。
「あ! 桜子ちゃん、大丈夫?」
「お客様、怪我はありませんか?」
わたしと梶原さんに尋ねられ、桜子はうつむきながら答えた。
「大丈夫です……ごめんなさい」
その声に、いつもの溌剌とした雰囲気はなかった。
「ここは私が何とかするから、中瀬さんは早く着替えてきなさい」
「あ、はい!」
わたしは、その場から逃げだすようにスタッフルームに向かった。ふと気になって、ドアを開ける前に振り向くと、桜子がこちらを見ていた。さっきと同じ、妙に真剣みを帯びた表情で……。一瞬だけ後ろ髪をひかれたけど、制服がこの状態じゃ後戻りはできない。わたしは桜子に何も言わず、更衣室に入った。
更衣室には、先に休憩に入っていた年配の女性従業員がいた。ちなみにこの人は調理担当である。
「実桜ちゃん、制服にドリンクかかっちゃったんだって? 災難だったねぇ」
「まあ事故みたいなものですよ。それよりこれ……落ちますかね」
更衣室には大きめの洗濯機と乾燥機がある。その洗濯機の前で、脱いだ制服を見て途方に暮れる。
「メロンソーダでしょ? 難しいわねぇ……まあ、いざとなったら店長がクリーニングに出してくれるわ」
「一応、水洗いでも、しておこうかな……」
「そんなことしたら余計シミになっちゃうわ……よ?」
そこから先の声は、かすかに感じた痛みと、床に倒れた感覚とともに、唐突に途絶えた。
あれ……なにが、起こった?
まるで地面に吸い寄せられるように、わたしの意識はすっと消えた。
得体のしれない何かに追われて、捕まりそうになる寸前で、わたしは目を覚ました。薄くぼやけた視界には、白い天井と、心配そうにわたしを見つめる、梶原さんと、さっきまで一緒だった先輩店員と、そしておじさん店長もいる。
「あー、よかった。気がついたんだ」
梶原さんは心底ほっとした表情で言った。その表情を見て、何となく分かってきた。わたしの身に何が起きて、そして今どこにいるのか……。
「んんっ……もしかして、ここ、病院ですか」
「そうだよ。中瀬さん、更衣室で突然倒れて、そのまま運ばれたんだよ。ホントに心配したんだから」
「過労だそうだ」店長が言った。「とりあえず今日と明日、じっくり休養をとれば問題ないらしい。念のため精密検査はするそうだが」
「そうですか……」
自分の身に起きたことは理解したけど、まだちょっと頭がぼうっとする。結構長く眠っていて、変なタイミングで起きたせいで、ちょっと寝ぼけているのかもしれない。
「いやあ、申し訳ない。従業員の体調には気を配っていたつもりだったんだが……」
「店長の責任じゃないですよ」梶原さんがいう。「悪いけど中瀬さん、カバンの中のスケジュール帳、勝手に見させてもらったよ。何なのよ、あの地獄のようなハードスケジュールは……学生が組むバイトのシフトとは思えないよ。毎日の勉強とかを含めたら、絶対休む時間ないでしょ」
「あはは……」
わたしは苦笑した。勝手に見られても、今は怒る気になれない。過労で倒れたとなれば、最初にわたしのスケジュールを確かめたくなるのは当然だし、そのことで責めるだけの余裕もない。
「一年生の頃から続けているから、体力はついてきたと思ってたんですけどね……」
「自分の体力の限界くらい弁えておきなさいよ。若いうちから過労の苦痛を覚えるなんてよくないわよ」
「すみません、ご心配をおかけして……」
「でもホント、実桜ちゃんに大事がなくてよかったわ」先輩店員が胸をなで下ろす。「それに、お店の方もそれほど騒ぎにならなかったしね」
「確かに……お客さんの前で倒れたりしたら、SNSとかであっという間にこのことが拡散して、どんな目に遭うか分からなかったからな。倒れたこと自体は喜ばしくないが、場所が更衣室で本当によかったよ」
店長が心から安堵したようにそう話すのを聞いて、なおさらわたしは、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。雇用先のことを常に考えて行動していたつもりが、少し間違えたら大迷惑をかけたかもしれなかった。体調管理だって、自立した人間に求められる資質なのに。今回はたまたま更衣室だったけど、次はどこになるか分からないのだから、ちゃんとしないと……。
あれ? たまたま? 本当に?
「ああ、そうだ。ご両親にも連絡しておかないと。中瀬さん、ご両親の連絡先は……」
「しなくていいです」
「え?」
危ない……こんな状況だ、店長がそう言いだすのは読めていた。
「両親に連絡は、しなくていいです」
「いや、しかし、娘さんがこんな状態なわけだし……」
「必要ないです」
頑なに両親への連絡を拒まれて、おろおろと戸惑っている店長に、何かを察したらしい梶原さんが声をかけた。
「店長、中瀬さんにもいろいろ事情があるんだと思います。本人が嫌がっているのなら、無理強いはしない方がいいかと」
「うぅむ……まあ、梶原さんがそう言うなら」
なんだか助けてもらってばかりだなぁ、梶原さんには。この人も詳しい事情は知らないはずだけど、その事情を下手に突っ込まれたくないということは承知している。当然わたしの口から話すのは難しいし、フォローしてくれるのはありがたい。
入院費用については、梶原さんがいくらか立て替えてくれるそうだ。そのうち一生分以上の恩を売ってしまいそうだけど、梶原さんは「子どもは大事にさせてくれ」と言って、恩に着せるつもりはないと約束してくれた。ああ……何もかも大人だ。わたしとは大違い。
わたしの無事を確認して、梶原さんたちは病室を後にした。そして、入れ違うように森川桜子が病室に入ってきた。もう夜になるけど、なんとなく彼女は来ていそうな気がしていた。
「お姉さん……大丈夫ですか」
その表情は、心からわたしを案じていた。嘘いつわりなく。
「万全ではないけどね……明日にはたぶん全快してるよ。桜子ちゃんも、ありがとね」
「いえ、そんな……お見舞いくらい、当然です。まあ、夜中に押しかけてごめんなさいですけど」
「それもあるけど、桜子ちゃん……わたしが、大勢のお客さんの前で倒れないように、わざとメロンソーダを制服にかけたでしょ」
「……やっぱ、ばれてましたか」
桜子は少しバツが悪そうに、エヘヘと笑う。
「分かるよ。わたしのことをよく見ている桜子ちゃんなら、きっと気づいただろうって」
そう……わたしが自分でも気づかなかった疲労の限界に、桜子はいち早く気づいて、そしてわたしやお店に迷惑が掛からないように、何とかしてわたしをホールから遠ざけようとしたのだ。その結果、自分が周りから白い目で見られることも厭わずに……。
観察力と機転の賜物、もとい、わたしに対する一途な思いのなしえたことか。本当に情けない限りだけど、わたしのことをどこまでも考え、どこまでも想ってくれる存在は、わたしの心を少しだけ温めてくれる気がした。
「ねぇ、桜子ちゃん……わたしに何か、してほしいこととかある?」
「えっ」
「少しくらいなら、桜子ちゃんに付き合ってあげてもいいよ」
これは恩返しだ。ストーカーみたいなことをされて、そのうち押し倒されやしないかと不安になっても、一度とはいえ彼女に助けられたのは確かだ。法的または倫理的に問題がなければ、彼女の思いに応えてあげるのも悪くないかもしれない。
予想外の提案に、桜子は戸惑いと喜びを隠せないらしい。浮き足立ちながら言った。
「いっ、いいんですか?」
「まあ、あんまり無茶はさせないでほしいけど」
「え、えぇ~、どうしよう。こうなるなんて思ってなかった、心の準備が……あっ、そうだ!」
何か思いついたようだ。桜子はわたしの枕元に近寄ってきて、文字通りわたしの目の前で言った。
目の前、たぶん十センチも離れていない。
「わたし、お姉さんとデートしたいです!」
「なんかそんな感じの頼みごとをされそうな気がした……まあ、いいけど」
「やったぁ! じゃあ、毎週日曜はスケジュールを開けておいてくださいね!」
「へ?」
いまこの子、毎週日曜と言ったか……? 聞き間違いかもしれないので、一応尋ねてみた。
「もしかして桜子ちゃん、週一ペースでデートするつもり……?」
「はい。だって、一緒にいる時間が長ければ長いほど、お互いのことをもっと好きになれますから」
桜子は、にっこりと屈託のない笑みを浮かべ、澱みのない好意を込めて告げた。
油断していたかもしれない……一回か二回くらいで済むかと思ったのは、甘い考えだった。本人は自覚していないけど、桜子みたいな純朴な肉食系が、こんな好機を逃すはずがなかったのだ。
いや、たとえそうだとしても、ただでさえバイトで忙しいわたしに、週一ペースのデートをお願いしてくるなんて、誰が予想できただろう。桜子だってこの事は知っているはずなのに。だからわたしは、後悔の念をたっぷりこめて、誰に言うでもなく呟いた。
「そこまでとは、思ってないよ……」
わたしが、この週一ペースのデートの意味に気づくのは、もう少し先のこと。
実桜「桜子ちゃん、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
桜子「大丈夫ですよ。お姉さんをひとりにする気はありませんから」
実桜「(何だろう、いま聞くとちょっと怖いな……)」
何気にメインの二人より、梶原さんの活躍が光っていましたね。次回は二人のデート回です。




