3-4 思い出が遠くても
この島では、雨があまり降らないという。たまに降る時は,雨脚が強いうえに激しい風を伴うことがほとんどらしい。昨日もかなり久々に雨が降ったが、まるで台風が上陸したような空の荒れように、わたしは家の中にいながら不安を募らせた。聖木の家が、見た目そんなに丈夫そうに見えないから、屋根が飛んだりしないかとひやひやしたのだ。
幸い、この家はもちろん、島のどこでも目立った被害が出ることはなかった。島の人たちは経験で雨風の強さを察知するのか、大事なものは雨が来る前に厳重にしまうことにしている。雨雲が過ぎ去った翌日、わたしはおつかいを頼まれて、ふもとにある小さな商店に出向いた。
トイレットペーパー、衣料用洗剤、醤油、味噌……渡されたメモを頼りに、買うものをカゴに放り込んでいく。島に長く住んでいれば、店にどんな商品があるか大体分かるのだろう。頼まれたものはすべて店に置かれていた。
「お願いします」
奥のレジカウンターにカゴを置いて、店番をしている人に告げた。
「ほいほーい」
返ってきた声は、思ったより若い女性のものだった。顔を上げると、確かに二十代くらいの女性がいて、慣れた手つきでレジを操作していた。長い茶髪を後ろで束ねていて、左の耳にはピアスをつけていて、背丈もわたしより十センチ近く高い。こんな人も島に住んでいるのか……。
「ん? どうかした?」
じっと見続けていたら、その人に変な目で見られてしまった。そしてこの女性、お客さんに対してタメ口である。
「ああ、いえ……この店に来るのは初めてなんですけど、雰囲気から勝手に、年配の方がやっている店なのかと思って……」
「普段はそうだよ。この店やってるのは私のおじいちゃん。私は東京に住んでるんだけど、ちょっと事情があってこっちに戻っている間、たまに店番させられてんの」
「そうなんですか」
「まあ、ここって島の外からの郵便物とかも預かるお店なんだけど、その辺の仕事はまかせられないって、レジ打ちばかりやらされてるんだけどね」
「レジをまかされるってことは、東京でレジの仕事をしていたんですか?」
「パートだけどね。旦那の稼ぎだけでも不安があるから私も働いてるけど、今ちょっと旦那が海外に飛んでてね、ひとりだと子ども育てるのに手が回らないから、ここの実家に身を寄せている最中ってわけ」
あっ、結婚している上に子持ちだったか。外見からもしゃべり方からも、そんな雰囲気が全くなかったけど。
「……不躾なこと訊きますけど、今おいくつですか」
「二歳五か月」
「お子さんじゃなくてあなたの歳です」
というか、年端もいかない子どもの年齢を訊いたところで、不躾でも何でもないだろう。そのことは、この母親の歳の頃合いから察せられる。
「私? 28歳だよ」
「にっ……二十代で母親になるって、大変じゃないですか……?」
「そりゃあ苦労も多いけどさ、やっぱり子どもはかわいいし、生意気に親のこと気にかけたりするから世話も焼きたくなるし。それに……小さい頃からおじいちゃんやおばあちゃんに、子どもはとにかく大事にするべきだって、耳にタコができるほど聞かされてきたからね。私は見てのとおり、バカを絵に描いたような人間だけど、それでも自分の子どもだけは大事にするって決めてんだ」
バカを絵に、って……そこまでは言わないけど、一応自覚はしているんだな。
この島で子どもが大事にされているのは、なんとなく分かる気がする。十人くらいしか在籍していないのに、学校が高校までちゃんとあるし、島の人たちはみんな、わたしくらいの歳の人でも優しく接してくれる。離島ならでは、と思っていたけど……。
「おじいさんとおばあさんは、子どもが大好きなんですね」
「私の子どももかわいがっているからねぇ。おかげで助かってるよ。まあ、旦那の海外出張が終わったら、また東京に戻ることになるだろうけど」
「……店員さんは、この島が好きですか?」
「さっきから踏み込んだこと訊いてくるなぁ。そうだねぇ……」遠い目になる店員。「嫌いだったら、わざわざ小一時間も船に揺られてやって来やしないよ。なんだかんだ、ここがいいと思ってはいるんだろうな。ま、手放しで好きだとも言えないけど」
「そうですか……なんか、わたしもそんな感じです」
「ほー?」
「わたしも父が仕事で海外に行ってて、さすがに一緒にはいけないから、父の実家があるこの島に来てるんです。出張が終わったら、たぶんまた別のどこかに移り住みますね」
「ふーん……でもお客さん、ここを離れようなんて思ってないでしょ、ぶっちゃけ」
「え?」
「何かを好きかどうか訊いてくるのはさ、相手のことを深く知りたい時か、同じように好きでいてくれる人を求めている時くらいだよ。お客さん、そんなに私に興味があるように見えないし」
なんだ、この見た目にそぐわない悟ったような物言いは……わたしと十歳ほど違うだけなのに、経験値の差に大きな開きを感じる。
しかし、言いたいことは分かった。わたしはこの島が好きだから、本心ではここを離れたくないと思っているのではないか、この店員はそう言いたいのだ。確かに、一か月足らずの期間だけど、少しずつ居心地の良さを感じ始めてはいる。だけど、好きかどうかと言われると……。
「ど、どうでしょうね……まだよく分からないです」
「お客さん、まだ高校生かそこらでしょ。気持ちがはっきりしないなんてよくあることよ。その時が来るまでに、じっくり気持ちと向き合えばいいじゃない。あの時自分の気持ちに素直になっていればよかった、っていう後悔が、一番たちが悪いんだからね」
「気持ちに、素直に……」
「七点で千百二十五円」
「え?」
「とっととお金払いな。言っとくけど、ここ現金しか使えないからね」
それは分かる。カードリーダーなんてないし、そもそもこんな田舎の離島に、高度なシステムが導入されているなんて思っていない。
千百三十円を払って五円のお釣りを受けとり、重い商品を入れたビニール袋を手に持ってお店を出る。重さでビニール袋の持ち手部分が手のひらに食い込んで、地味に痛い。雨上がりで日差しが出ていることもあって湿度も高く、不快な暑さの中で痛みに耐えて歩かないといけない。
億劫だな……と思いつつも、足は止めない。
こういう時に、岸崎恵が現れて手伝うと言い出すことがあれば、大助かりなのだが。いや袋はひとつしかないから、手伝いようがないけど。それでも外を歩けば、大体いつも彼女に出くわすのがお約束なのだが。
しかし……ついに一度も遭遇することなく、家に着いてしまった。
「あれ…………?」
冷静に考えれば、いくら小さな離島でも、外を出歩いて必ず特定の人と遭遇するなんてありえないけれど、今までかなりの頻度で出会っているから、どうも調子が狂う。そのくらい、わたしと恵は頻繁に会っている。どちらもそんなつもりはないにもかかわらず、である。
なんだろう、わたしと恵は見えない糸で繋がっているのか。そして今日はたまたま繋がれていなかった……というのはご都合主義が過ぎるな。
ただばったり出くわして、ちょっと挨拶を交わす程度ならこうはならない。恵は偶然会っただけのわたしを、とにかくこれ幸いとばかりに引っぱり回す。そしてその先でほぼ毎回、思い出に残りそうなものを見つけるか体験している。おかげで、この島にくるまでは必要ないと決めつけていた思い出というものを、自然と求めるようになってしまった。というか、恵と会うことが純粋に楽しみになってしまった。たった三週間でずいぶんな変化だ。
それが本当にいいことなのか、まだ自信が持てないけれど……。
「何かにつけて恵さんのことを考えてしまうのは、あまりよくない気がする……」
買い物袋を祖母に手渡し、自室に戻ってベッドに転がって、わたしは呟いた。
ずっと空っぽだったわたしの中に、恵は遠慮なく入り込んできて、ささやかで、素敵なもので満たしていく。こうなったらもう、彼女を意識せざるを得ない。とはいえ、今まで誰かひとりの存在を、ここまで強く意識した事なんてないから、まだわたしは戸惑っている。
どうしたらいいのかな……このまま島を出たら、正気を保てないかもしれない。
そんなことをぐるぐると考えていると、枕元に放り出していたスマホに電話がきた。手にとって画面を見ると、よく知っている人の名前があった。
「もしもし?」
「あ、もしもし奏ちゃん? 久しぶりだね〜」
「矢澤さん……久しぶりっていうほど長く離れてはいないのに」
矢澤波花。わたしが前にかよっていた高校の同級生で、転校した今でもたびたびメッセージでやり取りしている人だ。性格や言動が、どこか岸崎恵に似ている。
「どう? 島暮らしは満喫してる?」
「まあ、それなりに……初めのうちこそ結構バタバタしましたけど、今は落ちつきましたよ。あぁ……そんなでもないかな」
さっきまで恵のことでぐるぐる悩んでいたから、落ちついているとは言いがたい。
「どっちだよ、もう。まあでも、奏ちゃんってうちの高校にいたときから、ひとりで過ごしていることが多かったから、友達とかができるとかえって落ちつかないかもしれないね」
「……友達?」
「え、ほら、この間わたしに送った写真……あれに写ってた女の子でしょ」
ああ、そういえば恵を写した写真を、一度波花に送ってたな。とはいえ、彼女が友達かと言われると、妙にしっくりこない。
「友達……なのかな」
「えー? あんないい笑顔、赤の他人には向けないでしょ。というかあれって、引っ越して間もない頃に撮ってるよね。奏ちゃん、こんなに早く友達ができるなんて、やるじゃん」
「ああもうあの人のことはどうでもいいですから! それより、矢澤さんこそ何の用で電話してきたんです?」
「いやぁ……ちょっと、声が聞きたくなって」
「矢澤さん、それは心に重いものを抱えてしまった人の常套句ですよ」
何の気なしに言ったつもりだったけど、急に電話の向こうの声が途絶えた。あれ……もしかして、余計な急所を突いてしまったか。
「……相変わらず、冷静沈着だね」
「どうしました? 前と様子が違うみたいですけど……」
「色々あってね。まあ、話せば長くなるっていうか、うまく話せる自信がないっていうか……」
「楢崎さんと倉知さんの二人と、何かあったんですか?」
「のぁっ!? なっ、なぜに……!!」
分かりやすい反応をする人だなぁ。どうやら図星みたいだ。
「いえ、なんとなく。そういえば、前に皆さんで海水浴に行ったんですよね。そこで何かが?」
「いーやぁ……何か、ってほどたいしたことはないんだけどぉー……」
「ごまかし方下手ですか。何があったのか知りませんけど、わたしの声を聞くだけで何も言わないっていうのは、ちょっと扱いが悪すぎると思います。手助けできる距離にいませんし、頼りにはならないでしょうけど、愚痴くらいは聞いてあげますよ」
「奏ちゃん……」
「色んな手違いで、こっちはだいぶ暇を持て余しているので」
「暇つぶし感覚で相談を聞くというのもどうなのかなぁ……」
苦笑する波花の声が聞こえてくる。決して暇つぶしなんかじゃないぞ。
「えーと、どこから話すかな……奏ちゃん、鞠亜と明菜が付き合い始めたのは気づいてる?」
「なんとなくそうだろうとは思っていました」
「終業式の日に鞠亜が告って、その日からもう付き合い始めてんだ。今じゃ順調に関係を深めていて、まだ初々しい所はあっても、ちゃんと恋人の付き合いができているみたい。まあそれは二人の友達として嬉しい限りなんだけど……ここ最近、そんな二人を見ていると、なんだかこう……胸が苦しくなるっていうか」
それって……いや、早まった断定はよくない。わたしだって、思春期の複雑な心を正確に解することができるほど、場数を踏んでいるわけじゃない。
「それ、二人が普段から恋人みたいに仲良くしている時に、いつも感じますか?」
「うーん、そうでもないかな……なる時とならない時があって、自分でもよく分からない」
「じゃあ、最近だと、どういう時に胸の苦しさを感じました?」
「やっぱり海に行った時かなぁ。あれからもちょくちょく会ってはいるけど、いたたまれない感じになったのは、たぶん海に行った時が最後だね」
「どんなことがあったんですか? できる範囲でいいので教えてくれますか」
「いいけど……奏ちゃんって、わたし達のことでそんな積極的だったっけ」
むー……これだから。恵と同様、このひとも無自覚に痛い所を突いてくる。自分の悩みに出口が見いだせないから、少し他のことで気を紛らわしたかったのだが、それはさすがに波花に悪いから知られたくない。
「こっちは不慣れなのに相談を受けている立場ですけど」
「ごめんごめん。海での出来事か……最初はなんともなかったんだよ」
そうして波花が語った、海水浴の顛末。水着に着替えて、しばらく浜のそばでビーチボールバレー、その後に休憩。そこで波花の名前に関する衝撃の事実が判明。そして波花が飲み物を買うために、鞠亜と明菜を残して離れた。ここまでは特に何もなかった。しかし戻ってきたとき、二人にちょっとしたピンチが起きていた。
「そっか……二人を応援していた立場からすれば、確かにそれは腹が立ちますね」
「でっしょー?」
「……でも、話を聞く限りだと、あの二人の距離感が一気に縮まった瞬間に、矢澤さんが胸の苦しい感覚を覚えたように見えますが」
「一気に?」
「そうです。矢澤さんが想定した通りに、二人が互いを意識した時には、矢澤さんも普段と変わらないですけど、想定外の形だと違うんじゃありませんか」
「あー……言われてみればそうかも。考えてみればあの時も、不意打ちを食らったような感じだったなぁ。うん、今までに変な感じがしたのって、みんなそういう時だったかも」
なんだかひとりで勝手に話を完結させそうな勢いだ。聞いていない話で納得されても困る。
「つまりわたしは、予想もしなかったことで動揺しただけってこと?」
「ただ動揺しただけなら、そもそもこんなに引きずらないんじゃありません?」
「それもそっか。じゃあどういうことなんだろ」
電話の向こうで、うーん、と唸り始める波花。抱いたことのない感情を目の当たりにして、なんとしても説明をつけて気を落ちつかせようとしているのだろう。
それにしても……聞けば聞くほど、わたしの心境とシンクロするところが見えてくる。予想もしないものに遭遇して、心を掻き乱されて、その時の気持ちをずっと引きずっている。そして気持ちを見つめる時はいつも、決まった人の姿が脳裏に浮かぶ。
同じような気持ちを抱いている他人の話を聞いていたら、不思議と自分の気持ちにも答えが見え始めてきた。もしかしたら、波花も同じなのかもしれない。いつも、当たり前に二人のことを考えているから、気づかないだけで。
「……もしかしたらわたし、矢澤さんのその気持ちが何なのか、分かるかもしれません」
「え? ホントに?」
「ええ……その前に少し、わたしの知り合いの話をしてもいいですか」
「それ、本当は自分の話だけど恥ずかしくて言えない人の常套句だね」
勝手にわたしのセリフを借用するな。
「……別に恥ずかしいわけじゃなくて、本当にわたしの話をするつもりでしたよ。わたしと、知り合いに関する話です」
「もしかして、写真の女の子のこと?」
「こういう時だけ勘がいいですね……あの人とは、島に来てすぐに出会ったんですが、なぜか早々に気に入られてあちこち振り回されるようになって」
「うわー、奏ちゃんそういうの苦手そう」
「まあ最初は渋々でしたけどね……でもそのうちに、どこか楽しみに思うようになりました。その人と一緒に色んなものを見て、色んなことを経験して、島での出来事を思い出すといつも、その人のことが思い浮かぶくらい、同じ時間を一緒に過ごしました。ことあるごとにその人のことを考えるようになって、そのたびに心臓が締めつけられるような気持ちになるんです」
「あはは、まるで恋でもしたみたいな感じだねぇ」
恋ね……そんなはっきり言えるものじゃないけれど、近いものはあるかもしれない。
電話の向こうからは、まだ波花の「ふふふ」という含み笑いが聞こえてくる。だけど、わたしがずっと黙っていると、徐々にその声は小さくなっていく。似たような気持ちを抱えている他人の話を聞いて、ようやく気づいたみたいだ。
「…………うそ」
「簡単に決めつけていいものではないと思いますけどね。でも、わたしにとって、あの人に心惹かれるものがあるように、矢澤さんにとっても、あの二人には心惹かれるものがあるんじゃないですか? わたしから言えるのはこれだけです」
話はもう終わらせるつもりでいた。これ以上、他人の気持ちに踏み込むのは気が引ける。
「……まいったなぁ」
「どうしました?」
「奏ちゃんの言ったとおり、やっぱり予想外ってだけじゃなかった。考えてみれば、海でも他に予想しない出来事があったけど、同じような感じはしなかったし。でもって、今この状況でも同じ感じはしてない。けどまさか……友達どころじゃなかったなんて」
その声に、わたしの知るはきはきした感じはなかった。
話がまとまったような雰囲気になったので、電話を終わらせる。スマホを手に持ったまま、わたしは再びベッドに倒れ込んだ。
まだ、自分の気持ちを完璧に把握できているわけじゃない。それでもいつかは、向き合わないといけない。その時が来る前に。たちの悪い後悔をしないように。
次に恵と会ったら、もう少し踏み込もうと決めていた。
「恵さんって、友達いないんですか」
そしてそのとおりに、翌日さっそく会ってしまい、ズバッと踏み込んだ質問をした。もちろんまごうことなく失礼も甚だしい質問だとは分かっていた。
海沿いの道路の脇を並んで歩いているところでそんな事を訊かれた恵は、両脚と一緒に表情も停止した。そして、
「やっぱり奏ちゃん、友達だと思ってくれてなかったんだ……」
口元だけが泣きそうな感じになった。嘆き方が器用すぎる人だ。
「はいはい、恵さんにとってはいないわけじゃないんですね。だから泣かないでください」
「奏ちゃんには島の外に友達がいるんでしょ? いいなー」
「友達って自信持って言えるほど、付き合いがあるわけじゃないですけどね……」
「いやいや、それでも気軽に電話とかするなら十分仲良しだよぉ」
「恵さんにはいないんですか? そういうひと」
と訊いたら、目の前で恵の姿が、視界の下の方向にスッとフレームアウトした。何事かと思ったけれど、何のことはない、ただ素早くしゃがんだだけ。
「うぅ……これでも社交的な方だと思ってたんだけどなぁ……」
うずくまって涙声で唸る恵。どうやら本当に、明るい性格の割に友達と呼べる人が少なかったようだ。悪いことをしたとは思っているけど、彼女の場合、社交性が強すぎて社交的の枠を外れている口ではないだろうか。要するに、押しが強すぎて付き合いきれない。
「普段わたしにやっているようなこと、他の人だったら確実に遠慮してきますよ。わたしと違って、恵さんと同じくらい長く島にいるから、振り回されても得るものがないですし」
「えー? わたしは毎日だって素敵なものを見つけられるよ?」
「それは恵さんの感性の問題です。恵さんが素敵だと思っても、他の人にとってはそうじゃないかもしれないんですから」
「うぅ……奏ちゃんも、わたしの遊びに付き合うの、迷惑だと思ってる……?」
出会ったばかりの頃だったら、迷いなく迷惑と答えた。特に仲がいいと思っていない相手に、気を遣う事なんて考えられなかった。だけど、今は……。
「今は、思ってません」
「今は、かぁ……まあそうだろうね。ただ、遊び相手がいないのは、夏休みだからってのもあるんだよね」恵は立ち上がった。「島で見るものがないと分かっているから、大体みんな夏休みに入ると、揃って本土へ遊びに出たりするんだよ」
「そういう事ですか」
「だからね! 奏ちゃんというピッタリな遊び相手が見つかって、本当に幸運だったんだよ?」
どの辺がピッタリだったのだろうか……。
「きょうもこうしてバッタリ会っちゃったわけだし、どっか行こうよ!」
「そうですねぇ……じゃあ、展望台とかどうです?」
珍しく引きつった顔になる恵。最近、恵の表情を動かすのが楽しい。
「……わたし、展望台があんまり好きじゃないって、ついこの前言った気がするんだけど」
「ええ、言ってましたね」
「嫌がらせ? 嫌がらせなの?」
「いいじゃないですか、案内するくらい」
「むぅ〜……」渋い顔になりながら恵は唸った。「まあ、そろそろいいか……島の中あらかた案内しちゃったし、奏ちゃんがどうしても行きたいって言うなら」
どうしても、というほどでもないが、展望台が気になっているのは確かだ。島にきた最初の日に存在を知ってから、まだ一度も来ていないというのもあるが、島が大好きな恵が唯一苦手にしている場所ということで、ちょっと興味があったのだ。
展望台に行く前に、恵は「ちょっと家に寄るね」といって自宅に向かった。岸崎の家は島の東側、海沿いの道路から別れた坂道を少し上った先にある。野生児の住まいにしては、新築っぽい普通の二階建てだった。いや、恵が選んで建てたわけじゃないのは分かってるけど。
「お待たせ。さ、行こう!」
準備を整えて家から出てきた恵だが、さっきと特に服装が変わったわけではない。いつもと同じく、一枚シャツの裾を縛ってへそを出し、ジッパーつきのハーフパンツを穿いている。自宅に立ち寄って、いったい何をしていたのだろう……。
恵の家から展望台までは、目と鼻の先といっていい。山頂へ続く曲がりくねった坂道の向こうに、本土からの電波をキャッチする電波塔のてっぺんだけが見える。展望台はあの電波塔を建てるために、地面を補強したついでに作ったものにすぎない。だけど展望台に続く道には、港から歩いてきた観光客の姿がちらほらと見える。他のどの道路より、歩行者の数が多い。
「小さな島の展望台でも、コンスタントにお客さんを引き寄せるものなんですね」
「四割くらいはリピーターになってるって聞いたよ。でもドラマが放送されたのは今年の一月だから、間もなく巡礼ブームも下火になると思うけど」
「アクセスの悪い離島で、観光産業は難しいでしょうしね……あ、見えてきた」
二人で坂道をゆっくり進んでいくと、次第に電波塔の胴体部が視界に現れてくる。見た目はまるで灯台みたいに、ろうそくのような白い胴体と管制室のような頭部を持っている。話によると、あれは役目を終えた灯台を買い取って移築し、電波塔に改造したものらしい。
坂道を上り終えると、思いのほか広いスペースに出た。ここが展望台のようだが、確かに見るものは少ない。それでも、柵の向こうの景色を眺めたり、塔のそばで写真を撮ったり、ドラマ放映後に設置されたと思しき、この場所を解説する看板を見たりする人が、三十人ほどいる。
「結構ひとが来てますね。でも余裕で入るくらい広いなぁ……」
「ここには電波塔を整備する人も来るから、トラックとかを停められるスペースを確保するために広くしてるんだよ」
「さすがに詳しいですね、恵さん。あまり好きじゃないのに」
「昔は好きだったんだけどね……観光客が来るようになってから、そうじゃなくなった」
「ふうん……」
よく意味は分からないが、好みは人それぞれだろう。わたしはそれ以上わけを聞かず、柵に歩み寄って、展望台からの景色を見ることにした。
なるほど、シーイングは悪くない。たぶん島でいちばん高い所だから、海も、そして島の東側もよく見える。だけど……やっぱりどこか物足りない。恵と一緒に猫山神社から見た、あのキラキラ輝く海は、ここからだと見えなかった。
「東向きだから、日の出とかはとてもキレイに見えるよ」恵が背後から言う。「元旦とかは島の人たちもここに来て、初日の出を見にくるんだよ。だけどそれ以外の時間帯だと……まあ、慣れちゃうとつまらないかもね」
「……分かっていましたけどね。海の景色を、あんなにキレイだと思えたのは、後にも先にも、あの時だけですから」
「初めて会ったとき?」
「はい。わたしがこの景色を楽しむのは、まだ早かったみたいです」
「だったら……」突然、恵がわたしの手をとる。「とっておきの場所、教えてあげる。誰にも教えるつもりなかったけど、奏ちゃんは特別」
とくん……
澄みきった笑顔で、そんなことを言ってくる恵に、またわたしは心を乱されそうになる。ずるいよ……わたしだけ、特別だなんて。
恵に手を引かれて向かったのは、電波塔の裏手だった。展望台は台地になっていて、裏手には、二メートルほど低い地面に続く階段がある。階段の前には立ち入り禁止のロープが張られている。周りで誰も見ていないのを確認すると、恵はためらいなくロープをくぐって階段を降りていく。戸惑いながらわたしもついていく。
階段のそば、台地の壁にあたるところに、電波塔の内部に繋がるドアがある。位置的に、展望台からは死角になっている。普段は鍵がかかっていて入れないが、恵は取り出したキーでドアを開錠し、ドアを開けた。……いやいや、ちょっと待て。
「恵さん、なんでここの鍵持ってるんですか」
「なんでって、さっき家から取ってきたから。さ、入って」
「いやいやいやぃゃぃゃ……」
流されるまま、明かりのない真っ暗な塔の内部に二人で入り、恵はドアを閉めて内側から鍵をかけた。後から他の人が入って来ないようにするためだろう。てか、いやいやいや。
「なんで恵さんの家にここの鍵があるんですか」
「ここを管理してるの、わたしのお父さんだから」
「へ?」
入ってすぐの所にある階段を上ると、てっぺんから差し込む外光のおかげで少し明るくなった。てっぺんに行くには、壁に沿って備えつけられている螺旋階段を上るようだ。
「お父さんもこの島の出身なんだけど、高校を卒業したら本土の大学に行って、電波事業を手掛ける会社に就職したの。で、ここに電波塔が建てられる運びになった際に、担当の技術者としてこの島に戻ってきて、そのまま島に住んでるの。わたしはその後に生まれたんだよね」
「はあ、それで……」
「ここが有名になる前は、お父さんと一緒によくここに来てたんだ。最上部からだと、本当に島がぜんぶ見渡せて、すごく好きだったんだ。最近はまったく来てなかったけど……」
螺旋階段に手すりはあるけれど、内側は細い柵だけなので、少し身を乗り出すだけで真下が見える。……ちょっと怖い。
カン、カン、カン……
反響する足音。薄明るい塔の中。先を進む恵の背中。繋がれた手。
何もかもが、少しずつ、わたしの心臓に刻まれていくようだ。
そして階段を上り終えると、外の光がまんべんなく入り込んで明るくなった、塔の一番上にたどり着く。実際は、電波をキャッチして島中に送る装置が、ここよりも上にあるけれど、そこには恵が持っている鍵でも開けられない扉がある。
ガラスの張られていない窓に手を置いて、その向こうに目を向けた。
息をのんだ。
海が、さっきより遠くまで見える。その雄大さを、心に訴えかけるように。
不思議だ……さっきより高度が上がっただけなのに、ここまで見えるものが違うなんて。
「すごい……」
「あはは、言葉が出ないよね。わたしも、初めてここからの景色を見たときはそうだったよ。広くて、静かで、穏やかで……気持ちが洗われるみたいで。だけど……」
「だからぁ、そういうのよそでやってって!」
真下から声が聞こえてきた。どうやら展望台で何か起きているらしい。二十メートル近い高さから見下ろしても、下の様子が正確には分からないが、どうもまたナンパが現れて女性客に言い寄っているようだ。本当によく現れる連中である……。
「奏ちゃん、あんまり身を乗り出すと、下の人たちに見つかるよ?」
「あ、そうですね」
ここまで人に見られないように動いたのに、目立つことをしたら元も子もない。わたしはすぐに窓から手を離した。
「もしかして恵さんがここを好きじゃなくなったのって、ああいう手合いが来るようになったからですか」
「それもあるけど……人が大勢くるようになって、塔の中にこっそり入るのが難しくなったから、というのが一番かな。さっきも言ったけど、この場所は誰にも教えたくなかったから、誰かに見られるのは極力避けたかったんだ。展望台は仕方なくても、せめてこの場所だけは秘密にし続けたかったの」
「どうしてですか? 勝手に入ったのがばれたら怒られるからとか?」
「勝手じゃないよぉ。ちゃんとここを管理しているお父さんに許可をもらってるもん」
それもそうだ。でなければここの鍵を娘に渡すはずがない。
「そうじゃなくて……ここは大好きな場所だったから、ひとり占めしたかったの。島の人たちがここに来るだけなら、何も思わなかったけど、今はそうじゃない人たちがたくさん来るから……この場所は特別じゃなくなってしまった。わたしは、わたしだけの特別な場所がほしかったのに」
寂しさをにじませる、遠くを見るような目で、恵は言った。楽しいことを人並み以上に見つけられることは、その感性を分かち合うのが難しいことでもある。他人と楽しみを共有できない寂しさの中で、いつしか自分だけの楽しみを持つことにこだわるようになったのだろうか……。
わたしが単純にのんきなだけと思っていた、恵のこの性格は、孤独に繋がるものでもあった。のんきだったのは、そのことに今まで気づけなかった、わたしの方かもしれない。
「いま展望台に来ている人たちが、ここの存在を知ってしまったら、わたしがずっと秘密にしてきた大切な場所が浸食されてしまう……そう思ったら、もうここには来られなかった。で、観光客とかが近づかないような素敵な場所を探した結果、見つけたのがあの猫山神社ってわけ」
「じゃあ、あの神社も恵さんにとっては、自分だけのものにしたい大切な場所なんですね」
「あそこなら観光客とかにも受けなさそうだしね」
「そんな場所を、どうしてわたしにはあっさり教えたんですか? ここもそうですけど」
ニコニコ笑っていた恵が、その笑顔を固まらせた。
ずっと不思議だった。恵はこれまでにも島のあちこちを案内してくれたけど、誰もが普通に利用する商店や港を除けば、その場所にはたいてい人がいなかった。彼女が積極的に見せてきたのは、穴場と呼ばれる場所ばかり……わたしに島のことを好きになってほしいと言う割に、案内するところに偏りがあった。まるで、自分だけのお気に入りを、わたしだけに見せるように。
もちろん、穴場と呼べるものしか島にないという可能性もあった。すでに他の人にも見せていて、でも共感されなかったという可能性もあった。だけど、いまの恵の話を聞いて確信した。この人は、これまで他人に入らせなかったテリトリーに、わたしを引き入れようとしている。それも、初めて会った時から。
「えっ、と……なんでかなぁ。わたしもよく分かんないや」
恵の口からは、あやふやな答えしか返ってこない。本能で動いている人に、自分の行動の意味を尋ねたところで、無意味だとは分かっていた。
「そうですか。でもこれだけは言わせてください。恵さんにとって特別だと思った場所は、この数週間で、わたしにとっても特別な場所になっています。特別なものを共有できたなら、もう恵さんは一人ぼっちじゃないですよ」
わたしは……恵の表情を動かしたくて、ストレートにありのままを告げた。
恵は笑っていなかった。怒っても、泣いてもいなかった。そこにあったのは、感情が顔に現れる直前の、どんな色にも染まっていない顔だった。
「あ、ありがと……まさか奏ちゃんに、そう言ってもらえるなんて。……嬉しいな」
照れくさそうに、心の底から嬉しそうに、恵は頬をかすかに赤らめて言った。
「なんだか奏ちゃん、時々すごく大人っぽいことを言うよね。そんなに歳が離れているようでもないのに」
「それをいうならわたしも、恵さんが時々小学生に見えます。特に言動が」
「ひどっ……これでもちゃんと高校生してるのに。そういえば、ちゃんと聞いたことなかったけど、奏ちゃんって何歳なの?」
ああ、言ってなかったか。そういえばわたしも恵の年齢を知らない。
「わたしですか? 十七歳ですよ。五月に誕生日を迎えたので」
「…………まじ、でございますか」
まぶたを剥くように両目を見開き、頬を引きつらせる恵。
「どうしました? そしてなぜ微妙な敬語に?」
「うわあ……」恵は口元を押さえて視線を逸らした。「やっちまった……」
「何事ですか」
「わたし……十六歳なんですよ。十一月生まれだから」
…………。
なんだと? 同い年? というか半年くらいわたしの方が上なのか。
「……わたしより年上だと思っていました」
「うん……わたしも完全に、奏さんが年下のつもりで接していました。ああもう……」
壁に額をくっつけて、恵はがっくりとうなだれた。
つまりこういうことか。わたしが十七歳としては背が低めだから、恵はわたしを自分より年下だと勘違いし、恵も十六歳(満十七歳)としては背が高いから、わたしも彼女を自分より年上だと思っていた、と……。
「色々とショックなのは分かりますけど、とりあえず敬語はやめましょう。なんだか落ち着かないです」
「そ、そうだね……でも、そっかぁ。同級生だったんだね、わたし達」
「恵さんの場合、見た目は年上で中身は年下って感じですから、案外ちょうどいいですけど」
「だからひどくない!? まあいっか……だとしたらますます残念だなぁ。うちの学校は学年ひとつにクラスがひとつだけだから、同い年なら絶対同じクラスになってたよ。奏ちゃんが夏休み中に島を出ていかなかったら、一緒に学校かよえたのに……」
それは仕方がない……と、以前のわたしなら言っていた。わたしの身の振り方は、まだ父親の事情に依存している。父が国内のどこかに異動するなら、生活力のないわたしは、それについていくしかない。そう思ってきた。だけど……。
「でもまあ、仕方ないよね。家の事情があるんだもん。夏休みの間だけってことは分かってたよ。うん、分かってた……」
目の前にいる彼女が、心の中ではそれを受け止められずにいる。
本能で動いているこの人は、ごまかすのが上手くない。自分では分からないと言いながら、自分の本当の気持ちがいつも行動に現れている。わたしが一緒にいれば叶えられた素敵なことが、決して手にできるものではないと気づいたら、抑え込むことなんてできない。
わたしと一緒にいたい。夏休みと同時に終わるなんて嫌だ。だけどわたしに我がままを押しつけるのも嫌だ……ぜんぶ、いまの恵の顔に出ている。寂しさ、悲しさ、悔しさ。抑えきれない感情がにじみ出るのを必死にこらえるような、つらい表情。
それを見たら、知ってしまったら……仕方がないなんて言えないじゃないか。
だってわたしは、とうに気づいていたから。
「まあ、今でも十分楽しいし、いい思い出ができたから……」
「よくない」
わたしは自分の気持ちに、とうに気づいていた。そして、恵の想いを知った今、その強い気持ちに抗う力はすべて失った。何かに突き動かされて、わたしは恵との距離を一気に詰めた。
「え? えっと……どうしたの?」
何が起きたのか分からず、戸惑う恵の声が聞こえる。表情は、分からない。わたしは彼女の胸元に顔をうずめていた。
両手を恵の背中に回す。筋肉質な背中と違って、胸元は不思議と柔らかく、温かかった。この温もりはあまりに心地よくて、とても手放せない。
「……恵さんはもう、ひとりにならなくていいんです。わたしは、恵さんと一緒にいたい。一緒がいい。夏休みの間だけなんて嫌です」
「あ、あの、それは、言っちゃいけない……」
「いいえ、言います。恵さんをひとりにしたくありません。絶対に」
わたしは、恵の背中に回した両腕に、力を込めた。恵の体温が、震えが、想いが、わたしの肌に伝わってくる。
ああ……まだ必死に、自分の想いを抑制している。ダメだ、せめてわたしの前でだけは、その想いを見せてほしい。わたしだけに向けた想いを……。
「かなっ……は、はあっ……ああっ!」
せめぎ合う感情に揺れながら、恵はわたしの両肩を掴んで、無理やり自分から引きはがした。俯く顔からあふれてくる、その息遣いは、今にも破裂してしまいそうに荒れていた。
わたしの肩を掴んで握りしめる彼女の手は、震えながらもわたしを離さない。ほらね、このひとは、気持ちがみんな行動に出るんだよ。そんな彼女が、彼女の想いが、彼女の息が、彼女の手が、狂おしいほどに愛おしくて……わたしは、わたしの右肩を掴んでいる彼女の左手に、そっと自分の手を寄せた。
ゆっくりと顔を上げる恵。そんな彼女に、優しく微笑みかけるわたし。
「……帰りましょう、恵さん」
ぐちゃぐちゃな顔になっても、恵はわたしの言葉に応えた。じっと見返して、スロー映像のようにゆっくりと、コクリと頷く。
そしてわたし達は、連れ立ってこの場所を離れた。螺旋階段を降りて、電波塔を出て、展望台からの下り坂を歩いて、いちばん近い恵の家に到着するその時まで、わたしは、恵の震える左手をしっかり握って離さなかった。
遠くにあると思っていた大切なものを、今度こそ逃さないように……。
次回更新でこの第3章と第4章は完結する予定です。夏休みが終わるタイミングで、二人の関係がどこに着地するのか、どうか見守ってください。
ちなみに冒頭で登場した店員さんは、今後別のエピソードに登場させる予定です。
そして次回、神社の名前の由来が解き明かされます。正直、この真相は決して、いい話ではありません。少しだけ覚悟してお待ちください。




