3-3 思い出を掴むまで
自己嫌悪というのは本当にたちが悪い。他の誰かを嫌いになれば、無視を決め込むという選択もできるけど、自分のことだから無視するのは不可能だ。
「あ〜、何やってんだわたし……」
庭、というか小さな畑が見える縁側に面した、日当たりのいい和室の真ん中で、わたしは仰向けに転がっている。何か下に敷いていないと、畳の上でうつ伏せは結構きついのだ。イグサは湿度を調節する機能があるから、温暖湿潤な日本で昔から好まれるとは知っている。だから空気は快適になっても、寝心地はまったくもってよくない。
夏休みだというのに、宿題がない、遊ぶ仲間がいない、改めて見るものもない。ないないづくしでものすごく時間を持て余している聖木奏、つまりわたしにとって、何もせずひたすらダラダラするだけというのが、いい加減苦痛に思えてきた。それでもわたしは、ここ数日外に出るのが怖くなっていて、家で引きこもることが多くなっている。家といっても、ここは祖父母の家だけど。
理由は分かっていた。岸崎恵と顔を合わせるのが、怖いからだ。
「なんかもう、外に出たらどこに行ってもあの人とばったり会いそう……」
ごろんと転がって、誰に言うでもなく呟く。
この島に来て二日目のこと。色々あってわたしは、前にいた高校の知り合いに送るための、キレイな海の写真を撮ることができた。半ば衝動的にシャッターを切ったその写真は、海というより少女の写真だった。後から見返してみても、海よりも少女の方がキラキラ輝いているように見える。あの時のわたしは、海よりもむしろ、少女の方を撮りたかったのかもしれない。
その少女がすなわち、岸崎恵である。
あろうことかわたしは、シャッターを押したその勢いのまま、海の写真を見せてくれと頼んできた知り合い(名前は矢澤波花)に、その写真を送ってしまった。撮った直後に恵から「いい写真が撮れたね」と笑顔で言われて、ちょっと舞い上がっていたのもあるだろうが、さすがに軽はずみが過ぎたかもしれない。しかもわたしはその写真を、海の写真として送った。どう見てもそうじゃないのに。
翌日になってその事を恵に話す機会があったけど、彼女は不快感を示すどころか、むしろすごく嬉しそうだった。自分の写真を、どこの誰か知れない人に送られて、何も感じないというならまだしも、喜ぶとはどういう事だろう。わたしはまだ、恵のことを理解できていない。
それからもたびたび恵と会ってはいるけれど、わたしの中では結構引きずっている写真メッセージのことで、恵が何も気にする素振りを見せないから、モヤモヤした気分は募るばかりだ。
……で、現在に至る。
「なんだかなぁ……たぶん気にしすぎなんだろうけど、あの人のことでモヤモヤしてるって、本人に知られるのはなんか嫌だな」
恵と顔を合わせるのが怖くて外出できない。かといって家の中で何ができるわけでもない。できるのはうたた寝で気を紛らわすことだけだ……。
なんか心がザワッとして、ふと起き上がる。周りをキョロキョロ見回す。
「来てはいないか……」
なぜか、こういうタイミングで本人がひょこっと現れそうな気がしたのだ。幸い、この時は本当にただの気のせいだったけど。
「……雲が厚くなってきたな」
縁側から空を臨むと、さっきまで薄日が差していたのに、すっかり鉛色になっていた。ずっと寝転がって天井を眺めていたから気づかなかった。雨が降るかも……スマホで天気を確認すると、午後から雨の予報が出ている。
わたしは立ち上がり、縁側の雨戸を閉めた。昔ながらの木製の雨戸で、建てつけが悪くなっているせいか、ガタガタして閉めにくかったけど。
薄暗くなる、和室。
「はあ……勉強でもするかぁ」
わたしは肩を落としながら、和室を出て自分の部屋に向かった。
前にいた高校で配布された教科書は、まだわたしの手元にある。さすがにこの島の高校で同じ教科書を使う可能性は低かったが、夏休みの間の勉強には使えると思って持ってきていたのだ。いま思えばそれで正解だった。
二階にある、わたしのためにあてがわれた部屋に入り、机の上に重ねて置きっ放しにしていた教科書を手にとる。とりあえず英語からやろうかな……と思っていたわたしの視界に、同じく机の端に置いていた“それ”が飛び込んできた。
ふと気になって、“それ”を指先で拾い上げる。
例の写真を撮った日、怪我の手当てをするために訪れた西の港の小屋で、手当ての前に服についた土汚れを払っているときに、シャツの裾の裏に引っかかっていた“それ”が取れて落ちたのだ。どうやら、猫山神社の裏手から足を滑らせたとき、例の墓石みたいな岩がある場所で腰を地面に打ちつけた際に、服に引っかかったらしい。元々土に埋まっていたものが、雨風で土が流された事で出てきたようだ。
五センチくらいのサイズの、馬の蹄鉄みたいな形をした、薄茶色の物体。ずっと土に埋まっていたことを考えると、元の色は白に近いと思われる。石でもない、プラスチックでもない、爪で叩くとコツコツと鳴るくらいの硬さがある。どちらかというと陶器に近い。
「なんだろう、これ……」
なんとなく捨ててはいけないような気がして、わたしは“それ”を机に置いている。でも、気にしている時間はいつも短くて、この時もわたしはすぐに興味をなくし、英語の勉強に手をつけた。
この日から八月が始まった。始まってみれば、この島に来てからの二週間は、あっけなく過ぎてしまったと思える。この島の滞在期間(予定)も、これで半分くらいになったか。
わたしは、この島にある高校に来ていた。もちろん学校活動のためじゃない。祖母と一緒に転校の手続きに来て以来、一度も来ていないから、もう一度くらい見ておこうと思ったのだ(結局手続きはできなかったけど)。あの時はすぐ、海が見える景色を探しに出てしまったから、校舎はそこまで見ていなかった。
「しっかし、改めて見てみると……見どころが少ないな」
校舎に続く道路の途中に立ちつくし、わたしは呆然として呟く。
二階建ての鉄筋コンクリートの校舎が三棟、体育館が一棟、申し訳程度の遊具、以上。
離島ゆえに昔から子どもの数が少ないせいか、小・中・高の校舎はぜんぶ一ヶ所に寄せるように建てられていて、体育館も遊び場も共同で使っている。車も少ないこの島では、島をぐるっと回る道路がグラウンド代わりになっているという。そもそも島に平地が少ないから、そんなものを造成するスペースが確保できないのだ。
……こんな状態で、よく今まで廃校にならなかったものだ。現在、小・中・高ともに生徒数は十人に満たないそうだが、それでもゼロじゃないから、かろうじて残っているんだろう。
校舎の向こうには、あの猫山神社がある山がそびえている。山の中は、生徒たちの立ち入りが禁止されているらしい。理由は、危険だから。
「いまなら身に染みてわかるわ……」
足を滑らせて落下した時に負った傷は、もうほとんど癒えている。けれどあの痛みは、もう二度と油断するまいと心に決めるには十分すぎるほどだ。
さて……夏休み中でも部活などをやっていれば、それを見学することはできる。だけど、そもそも人数が極端に少ないこの学校では、そもそも部活動が存在しない。なんと、やりたいことを事前に先生に伝え、それを部活動としてやっている、いわば即興クラブなのだ。
ちなみに、わたしにとって唯一の、同年代の知り合いである岸崎恵は……。
「おー! 奏ちゃんじゃーん。やっほー!」
わたしの後ろから、大手を振りながら駆け寄ってくる恵の姿。……まあ、どこに行っても会うことになるとは思っていたけどね。
ちなみに、きょうの恵は学校指定の運動着だった。背が高いからか、短パンだと引き締まった太ももがしっかり見えてしまい、なんだか目のやり場に困る。
「奇遇だねぇ、こんな所で会うなんて」
「……恵さんって、陸上部かなにかなの?」
「いや? わたしはそもそも部活やってないよ。というか、他のみんなの部活に勝手に参加してる感じかな。なんでも部、みたいな」
意味が分からん。どこにでも特攻をかます恵のはしゃぎっぷりは、学校でも同じらしい。
「じゃあ今日はなんでジャージ姿で走ってるんです?」
「さっきまで卓球部の練習に付き合ってたんだ。で、着替えるのが面倒だから、そのままランニングに出た」
「恵さんは体を動かさないと死んでしまう病気かなにかですか」
「んな、マグロじゃないんだから……あっ、トロ食べたくなった」
よだれがジュルッと溢れそうになった口元を、恵は手で拭う。本能で生きてるなぁ、このひと。
「そういえば、奏ちゃんはこんな所で何をしてるの?」
「別に……英語の勉強が一段落したらヒマになったので、この間よく見てなかった島の学校を見学しようかと」
「おお、そっか。奏ちゃんもうちの高校に入ったら、ぜひ何か部活やってみてよ!」
…………ん? 妙な違和感を覚えた。
「恵さん。わたし、夏休みが終わる前にここを離れるかもしれないって、前にも話しましたよね」
「あ! そうだった」
島に来て二日目、つまり神社の裏手で足を滑らせて母の写真を失くしそうになって恵と一緒に海の写真を撮影した日、帰路につく途中で、わたしは家の事情を恵に伝えていた。全部を伝えたわけじゃないけど、こんな重要な事をたった二週間で忘れるとは……。
「寂しくなるなぁ。奏ちゃんとこうやって遊べるのも夏休みの間だけかぁ」
「それ、前にこの事を話した時も言ってましたよ。一言一句同じ」
「よしっ」恵は手をパンと鳴らす。「これから奏ちゃん家に突撃しよう!」
「聞いてます? というかなんでいきなりわたしの家に?」
それに何度も言うが、あそこはわたしの祖父母の家である。
「だってまだ奏ちゃん家がどんなトコか、わたし知らないし。その代わり、今度は奏ちゃんがわたしの家にくるってことで」
「勝手にわたしの予定まで決めないでくださいよ。会ったときからそうですけど、なんで恵さんって、わたしに頻繁に絡んでくるんです?」
「んー、なんとなく、仲良くなりたいなーって思って」
あっけらかんと、理由にならない理由を答える恵。ダメだ……本能で生きる野生児に、まともな返答を期待してはいけない。
「あのですね……今月中に遠くへ行ってしまうと分かっている人と、仲良くなろうとしたって意味ないですよ。別れがつらくなるだけですよ」
「うーん、まあ……」歯切れの悪い恵。「そこはわたしのわがままだと思ってほしいかな。というか、意味がなくても仲良くするのは悪くないと思うよ。奏ちゃんだって、前にいた高校の知り合いとは、今もそれなりにやり取りしてるんでしょ?」
そこを突かれると返す言葉がない……。
「今は、ってだけですよ。そのうち忘れ去られるのがオチですって」
「そりゃあ忘れちゃう人もいるだろうけど、忘れない人だっているかもしれないよ? わたしは、奏ちゃんと遊んだ夏休みを、忘れることはないからね」
ニカッと笑う恵。まあ、ある意味忘れられない思い出はできているけど。
「ねぇ、いいでしょ? 奏ちゃんの家、行ってみたいんだよぉ〜」
恵はわたしの両肩を掴んで揺すってくる。色々言ってくるけど、要するにわたしがどんな所に住んでいるのか、純粋に気になるだけなのだ。こうなるとよほどの理由がなければ断っても聞いてくれないし、わたしにも断固として断るだけのよほどの理由はない。
ため息まじりにわたしは答えた。
「しょうがないですね……あんまり引っかき回さないでくださいよ」
「善処する!」
恵はガッツポーズして言い切るが、その単語を出されると逆に信用できない……。
「それじゃあ着替えてくるよ。汗だくでよその家にお邪魔するわけにいかないし。あっ、せっかくだから更衣室でも見学してく?」
シャツの裾をパタパタと振ってお腹の汗を乾かしながら、恵はニヤッと笑って言い出した。見えている所は少ないけど、やっぱり目のやり場に困る。
「……更衣室の外で待っています」
「あ、そう?」
どうも最近のわたしはおかしい。恵のちょっとした行動で、彼女と目を合わせることができなくなる。向こうが躊躇なく距離を詰めてくるから、接し方に迷っているのかもしれない。一緒に体育館脇の更衣室に向かう道でも、わたしは恵と目を合わせなかった。
着替え終わって更衣室から出てきた恵は、いつもと同じ、ノースリーブのシャツを裾で縛って、ジッパーつきのハーフパンツを穿いていた。
「よし、行こっか!」
まるでデートにでも行くようなテンションだ。こっちはただ帰宅するだけだから、そんなに気分が上がるわけもなく、恵との温度差が我ながら痛い。
さて、聖木家の自宅は、歩きでも割ときつい勾配をもつ坂道の向こうにある。あまり体力に自信のないわたしは、上り坂を見るだけで嫌気がさすけれど、恵にとってはこの程度の坂も慣れたものなのだろう、家に到着するまでずっと上機嫌にはしゃぎ回っていた。
「へぇ、奏ちゃんの家って畑があるんだ」
到着してすぐ、敷地の隅にある小さな畑を見つけた恵。
「トマトと枝豆とアスパラガスを植えているそうですよ。枝豆とアスパラガスの畑は毎年交換しているそうですけど」
「あー、連作障害の対策だね。新鮮なやつがあったらもらおうっと」
まるで近所づきあいでもしているような言い方だけど、もちろん恵がここに来るのは初めてだ。抜け目のない人だ。というか、連作障害のことは知ってるって、知識がえらく偏っているな。
玄関のガラス戸をガラガラと音を立てて開けて、家の中に向かって声を上げた。
「お邪魔しまーすっ!」
……恵が。なんで住人のわたしを差し置いて先に入るんだ。
「ただいまー……」
「あら、おかえり」すぐそばの板戸を開けて、祖母が出てきた。「そちらの子は?」
「こんちは!」恵は軽く手を挙げて挨拶。「奏ちゃんの友達で岸崎恵って言いまーす! お孫さんにはお世話になってまーす!」
「えっ、友達だったんですか」
わたしは割と本気で驚いた。ここ二週間で彼女をお世話したような記憶はあるけど、友達になった覚えはなかった。
「なんでよぉ。奏ちゃんが島に来てから幾度となく一緒に遊んでるのに!」
「どっちかっていうと引っ張り回された印象が強いですが」
そもそも一緒に行動するきっかけは毎回、外をぶらついているわたしに、たまたま見つけた恵が声をかけるというパターンだ。わたしは彼女と遊ぶつもりなんて少しもなかった。
ところで、西の港のおばあさんが言っていたが、この島の住人で恵に迷惑をかけられたことのない人はいないらしい。それは大袈裟な言い方じゃなかった。
「ああ、あんた恵かい」祖母は肩を落とした。「ここ何年も会ってないから、すっかり顔を忘れていたよ。なんかまたニョキニョキと背が伸びたねぇ」
「ニョキニョキって、タケノコじゃないんだから」
苦笑する恵。確かに、女子としてはタッパがある方かもしれない。
「おばあちゃん、やっぱり恵さんのこと知ってたんですね」
「小さいときから島じゅうで暴れまくっていたからね。奏ちゃんも恵に絡まれた口かい」
「そうです」
「即答!?」
恵が突っ込んだ。言っておくが、恵が一方的に絡んできたのは事実だ。
「まあいいさ、久しぶりに恵の元気そうな顔を見られたのはよかったよ。そろそろお昼だし、恵も何か食べていくかい」
「いいんですか?」目を輝かせる恵。「新鮮な野菜とかイケます?」
「いや? じいさんが朝方にとってきた魚の刺身だよ」
「魚かー。ゆうべも今朝も食べたんだよなぁ。まあいっか」
いいのかよ。わたしは心の中で突っ込んだ。そういえばさっき、トロが食べたいとか言ってたような。
というわけで、恵と一緒に昼食のお刺身をいただいたわけだが、あいにくトロではなかった。それでも恵はおいしそうに食べていたけど。とりあえず何をするにしてもポジティブに行動するのが彼女の信条、ということか。わたしに同じことはできそうにない。
「ふあ〜、おいしかったぁ〜」
食べ終わってすぐ、その場で畳の上に仰向けに倒れ込む恵。ちなみに昼食をいただいた部屋は、昨日わたしがうたた寝していた、畑の見える和室である。昨日の妙な胸騒ぎが、日にちをまたいでから現実になるとは……。
「恵さん、食べてすぐ横になると牛になりますよ」
「いーんじゃなーい? 牛みたいにおっぱい大きくなっても」
そういえば恵はそんなに胸が大きくない……じゃなくて。
「あれはメタボになることの例えじゃありませんか……って、聞いてないし」
どこまでもマイペースな岸崎恵、横になったらあっという間に寝入ってしまった。幸せそうな顔をして、すぅすぅと寝息を立てている。
まったく……あんまり自由に振る舞われると、こっちのペースが乱される。
本当に、恵は毎日楽しそうだ。いつもそうなのか、わたしと一緒だとそうなのか、とにかくいつどこで会っても、退屈そうな態度を見せない。この島は小さいし、滅多に島の外に出なければ、楽しめるものなんてすぐに尽きてしまいそうなのに。
「…………あっ」
ふと、猫山神社で恵が言ってたことを思い出す。
―――どんなつまらない場所も、見慣れた場所も、その気になればいい所なんていくらでも見つかる……わたしはそう思うよ。
そうだ。恵は心からそう信じているから、楽しいものを見つけられる。生まれたときからこの島にいて、隅から隅まで知っていても、新しい“楽しみ”をいつも見つけようとしている。恵にとってこの島は、色んな“楽しみ”が詰まった宝の島なのだ。
あの時の言葉が真理なら、わたしは今まで、どれだけの“楽しみ”を見逃してきたのだろう。忘れられない思い出になるものを、ひょっとしたら恵よりもたくさん、見つけられたかもしれないのに……いずれ離れて、繋がりも消えてしまう、そんな思いに囚われて、見つけることが無意味だと切り捨ててきた。
これまでは何も気にならなかった。移り住んだその先で何も手にできなくても、それが当たり前だと思って、特に悔んだり惜しんだりすることはなかった。でも、今は……。
完全に心を乱されてしまった。このひとのせいで。
恵の寝顔から目を離さないように、わたしはゆっくりと体を横たえていく。見ていたらわたしも眠くなってきた。
「あなたは……ずるいです」
それだけ呟いたら、わたしの意識は深く沈んで薄れていった。
夢を見た。
わたしは砂浜に立っていた。不思議だけど、周りを見渡したら海しかない。陸地は、わたしが立っている砂浜だけなのだ。
海面は揺れながらキラキラと光の粒を放ち、穏やかで心地いい波音が響き渡る。優しく吹き抜ける風が、わたしの短い髪をなびく。
美しいものばかりに囲まれているのに、わたしはひとりぼっち……。
わたしの手には、何も握られていない。
ああ……。
呆然と、立ち尽くす。
今のわたしには、何もない。素敵なものも、伝えたい相手も。
あっ……波が来る。
わたしの目線の高さまで、大きく上がった波が。
このまま……波にさらわれて、わたしの意思も何も関係なく、流されていくのかなぁ。
それしか、できないのかな。
「そんなことない」
唐突に聞こえた声に、わたしは驚いて振り向く。
ほほえむ恵。
「(ザザーン…)ちゃんなら、きっと、掴まえられるよ」
え? 誰が? 波の音にかき消されて聞こえない。
「ほら、おいで」
恵がくるっと踵を返し、わたしに向けて手を伸ばしながら、遠ざかっていく。
あ、待って。
慌てて追いかける。恵に向かって手を伸ばし、彼女の手を掴もうとする。
砂浜を駆ける。
ああ……追いつけない。
どんどん、恵が遠くなっていく。
嫌だ。嫌だ。
わたしも……!
わたしだって、掴みたい!
何を?
「…………はっ!」
目が覚めた。
気がつくと、陽がかなり傾いていた。やばい、ちょっと寝すぎたな。
恵はまだ、気持ちよさそうに寝ている。ぼうっとする頭のまま、わたしは上体を起こした。
何だったんだろう、今の夢は……まるでわたしの心境そのものだ。よりによって、恵が寝ているすぐそばで、こんな夢を見てしまうなんて。
「やっぱり……乱されてるな、わたし」
「うぅ〜ん……」
恵の唸り声に、ハッとして振り向く。寝転がったまま、ぐいーっと両腕を伸ばしている恵。このタイミングで目を覚ますとか、なんなのだ。
「ん〜……あれ、奏ちゃん、ずっとここにいたの?」
恵は目をこすりながら訊いた。
「……あなたみたいに、勝手に離れたりしないですよ」
「ん?」
いかん、言いがかりをつけてしまった。恵の方には、そんな覚えなどないはずなのに。
言い訳の仕方も思いつかないうちに、ここ和室に祖母が戻ってきた。
「おや、二人とも起きたのかい」
「んん?」首をかしげる恵。
「さっき覗いたとき、二人とも仲良く揃って気持ちよさそうに寝ていたから、そっとしといたんだがね」
見てたのか! というか、あの夢の内容で、わたしは気持ちよく寝られていたのか、本当に。
「そっかぁ、一緒に寝てたんだぁ、へぇ」
ニヤニヤ笑ってこっちを見てくる恵。ああもう、目を合わせられない。
「いいわね……」祖母がしみじみとした表情で言う。「子どもが安らかに眠れるなんて、私が小さい頃なんかはありえなかったよ」
「そうなんですか?」と、わたし。
「今は性能のいい船ができて、本土との行き来も楽になったから産業も活発だけど、六十年くらい前までは、この島の産業は漁業ひとつだったからね。海が荒れれば食べるものが手に入らなくて、どこの家庭も苦しい思いをしたものさ。よっこらしょ」
祖母が四角いちゃぶ台のそばにしゃがみ込んだ。立ったまま説明するのも疲れるよね。
「日々の食べ物にも困ることがたびたびあって、お腹が空いて寝られないってことさ」
「うわあ、それはかなりきっついですね」眉根を寄せる恵。
「それでも私らの時代には、この島を管轄する本土の役所が支援してくれたから、まだなんとかやっていけたのさ。まあ、雀の涙ほどだけどね。でも……これは私の祖父から聞いた話だが、明治以前のこの島は、本当にひどかったらしいよ。なにしろ、本土とまともに行き来できる船が、その頃はこの島の手持ちでは入手できなかったから、文字どおり絶海の孤島だ。食べるものがなくなっても、外からの助けなんて考えられなかった」
「よくそれでこの島、もってきましたね……」
「船がないってことは、島を出ていくすべもないってことだから、どうしても島の中でなんとかするしかなかったのさ。しかも、外から様子を見にくる人も少なかったから、多少は酷な事をしても許されるような風潮があった……まあ、歴史の過ちだね」
祖母はため息をつく。もうすぐ80になる祖母さえも直接見たことがないくらい大昔、この島で起きたことは、今やすでに歴史の彼方なのか……。
「何があったんですか?」恵が尋ねる。
「二人は、“間引き”というのを知っているかい」
「「マビキ……?」」
わたしも恵も、その言葉は耳になじんでいなかった。
「江戸時代より昔は、子どもは七歳まで生きるのも難しくて、無事に七歳になってようやく人間として認められるということが多かったのよ。本土の、ある程度豊かな場所であれば、七歳までの子どもは神様と扱われてきたけど、この島のように本土と隔絶された場所では、生命力の弱い子どもは決して大事にされなかった……だから、いよいよ食い物に困ったときには、口減らしのために体の弱い子どもから殺されることがたびたびあったのよ」
「七歳に満たない子どもを、殺したっていうんですか!?」
普段のおちゃらけている姿から想像できないほど、恵は大声を上げて驚いた。わたしは逆に驚きすぎて言葉が出なかった。
幼い子どもが親の虐待で命を落とす、というケースはニュースでもよく聞く。だけど、大昔のこの島では、それが当然のように行われていたのだ。それも、自分たちの食べるものを確保するためという、あるいは虐待よりもたちの悪い理由で……。
「信じられない……」
「まあ、そんなのは今だから言えることだろうけどね」と、祖母。「私らの想像も及ばないほど大昔のことだもの、今みたいに倫理なんてものは根づいていないし、子どもだろうが女だろうが、弱いものは真っ先に見捨てられるのが当たり前。自分ひとりさえ生き永らえるか分からない時代だったから、他人の命を重くみる余裕もなかったんだろうね」
「衣食足りて礼節を知る、って言葉があるけど、弱い人への気遣いや命の重さも、衣食が足りてようやく知れるものなのかもね……」
「おぉ、奏ちゃんがなんか難しいことを言ってる」
恵は早くもいつもの調子に戻っている。……この人の知識レベルなんて、はなから信じてない。
間引き、か……この島に来て、そんな重い話を聞くはめになるとは思ってなかったけど、どうも何か引っかかるな。これを、ちょっとした昔話で終わらせてはいけない気がする。
「おばあちゃん。江戸時代より前の島の風習までは、おばあちゃんのおじいさんも詳しく知っているとは思えないけど……そんな話、誰も口に出したくはないだろうし」
「そうね。間引きの話は、私の祖父がまだ存命だった頃に、うちの蔵にあった資料を引っぱり出して調べて、ようやく分かった事なのよね」
「この家、蔵があるんですか?」と、恵。
「ええ。江戸時代からある土蔵よ。普段は農機具とか漁に使うものを入れているけど、奥のほうに昔の出来事を記録した書物があるわ」
「じゃあもしかして、猫山神社に関する書物とかもあります?」
まだ神社にこだわっていたのか……古い蔵の存在に心惹かれたのもこのためだな。
「たぶんあると思うけど、調べたのもずいぶん昔だし、神社のことは調べなかったから記憶が曖昧になってるわね。ああ、そういえば……十年くらい前、本土の歴史研究家の人が、うちの蔵の書物を調べたことがあったわね。確かその人も神社の由来を調べていたはずよ」
んん? おかしいな。前に恵が言ってた話だと、猫山神社の由来については専門家もまだ調べていないはずだが。
「恵さん、すでに調べていた人がいるじゃないですか」
「変だなぁ……あちこち訊いて回ったけど、そんな人がいたなんて話は聞かなかったよ」
恵も頬をぽりぽりと掻きながら首をかしげた。どうやらいい加減に調べたわけではないらしい。
「無理もないわね」と、祖母。「確かにうちの蔵の書物を引っぱり出して、あれこれ調べたみたいだけど、結局何も答えを出さずに帰っちゃったから」
「あれっ、調査やめちゃったんですか。なんでまた」
「さあ……理由も言わずに帰っちゃったからねぇ。この島で古い資料が残っているのはうちの蔵ぐらいだったし、うちで何も見つからなければ、よそに訊くのも無駄足だと思ったのかも」
そうだろうか……わたしも外から来た人間だから分かるけど、この島にくるには船で小一時間かけなければならないし、船賃も馬鹿にならない。そんな手間をかけてまで、この島にしかない神社のことを調べに来たのに、何も結論を出さずにそのまま帰るなんてこと、あるだろうか。
「ふぅむ……歴史研究家も匙を投げた神社の秘密、ますます面白くなってきた」ニヤニヤと笑い始める恵。「この家の蔵を漁れば、専門家も見逃したかもしれない手掛かりが得られるかも」
「探るのは結構ですけど……」わたしは冷めた目で恵を見る。「恵さん、古文書とか読めるんですか? たぶん丁寧に書かれてないし、現代で使われていない文字がたくさんあると思いますよ。変体仮名とか」
「大丈夫! ヘンタイ仮名なら変態に読ませればいい!」
あっ、ダメだこのひと。
「それより恵、そろそろ家に帰らなくていいのかい。もう日が暮れてるよ」
「やばっ、ホントに!?」
恵は慌てて縁側の外を見た。そう、もう外はとっぷりと日が沈み、いよいよ夜の時間帯に入ろうとしている。
「あちゃぁ〜、いつの間にこんな遅くなったんだ。ごめんね奏ちゃん、そろそろ帰るよ」
わたしにごめんと言う必要はないと思うけど……。
恵は駆け足で和室を出ていった。食って寝てしゃべるだけだったな……しかもろくなお話ができなかった気がする。まあ、頭の構造が根本から違っていると思うことにしよう。どうせあの人と同じことはわたしに出来ないし。
しかし……友達ではないとしても、何もしないのは甲斐がないか?
「……途中まで送ってくる」
それだけ言って、わたしは和室を出て恵を追った。
幸い、家の前ですぐ追いつけた。すっかり辺りが暗くなる中、わたしと恵は、連れ立って坂道を下っていく。
「やー、わざわざすまないね、送ってもらっちゃって。夜道は危ないもんね」
そんな危機感のカケラもない軽い口調で言われても……。
「いえ……なんのお構いもできなくて」
「いいって、気にしなくても。今度は奏ちゃんがうちに来てくれれば、それでおあいこだって」
「だから、なんでわたしなんですか……? ここ二週間の付き合いで、わたしのノリが悪いのは十分にお分かりいただけたと思うんですけど。諦めが悪すぎませんか」
「うーん……」腕組みして考える恵。「確かに奏ちゃん、ノリは悪いけど……文句言いながらも結局わたしに付き合ってるでしょ。突き放すくらいなら割と諦めもつくけど、なんだかんだ一緒にいてくれるから、どうしても仲良くなるのを諦めきれないっていうか」
つまりわたしの心の甘さが原因か……頭が痛くなってくる。たぶん、本心では恵のことを嫌いになれないから、突き放せずにいるんだろう。
「そうまでしてわたしと仲良くなりたいんですね」
「お昼にも言ったけど、そこはやっぱり“なんとなく”なんだ。奏ちゃんには……この島のこと、好きになってほしいから」
「……それは、恵さんが島の子どもだから、ですか」
「そうなのかな……自分のことなのに、よく分かんないや」
いたずらっぽく笑う恵。自分のことが分からないなんて、よくある話じゃないかな。わたしだって分からないことは多い。
ふと気づくと、恵は楽しそうな笑みを浮かべてわたしを見つめていた。
「奏ちゃんは、すぐに離れてしまう土地で思い出を作るのは無意味だっていうけど、わたしは、せっかくこの島に来たんだから、この島でいっぱい思い出を作ってほしい。そうすれば、たとえ何年経ったって、もう一度ここに来たいって思えるようになるよ。そうしたらまた一緒に遊べるかもしれないし」
もう一度ここに、か……わたしは夜空を見上げて、ふと考える。
思ったことがないわけじゃない。短い間とはいえ、過ごした土地から離れて、もう一度あの場所に行きたいと思うことは、わたしだって幾度もあった。だけどすぐに頭から振り払っていた。それだけの心の余裕が、わたしにはなかったからだ。
もし、振り払えないくらい強烈に再訪を望むようになるほどの、決して忘れられない思い出を作れていたら、わたしは何か変わっただろうか。それほどまでに大切なものを、この島で、この手に掴むことができたなら……わたしは、何を思うことになるだろう。いざここを離れる時にならないと、そんなことは分からないけど。
まだ何も掴めていない空っぽの手を、わたしはじっと見つめた。
「恵さんは……ずっとこの島にいるんですか?」
「ん? うーん……島の外に興味がないわけじゃないけどね。もしかしたら、高校を卒業したら島を出て、本土で大学に入ったり、仕事をするようになるかもしれない。でもやっぱり、最後に行き着くのはこの島だと思う。どんな道を選んでも、わたしは結局ここに戻ってくるんだ。この島のことが好きだから」
「……そういうの、少しうらやましいです」
「おっと、奏ちゃんの境遇だとそういうのもないか。けど、奏ちゃんもいつか、ちゃんと根を下ろせる場所を見つけられるといいね」
わたしにとっての、安住の地か……あればまた違ってくるんだろうな。
「まあ、わたしが奏ちゃんを色々引っぱり回すのは、あわよくば奏ちゃんがここに根を下ろしてくれないかなー、っていうのもあるけど」
「やっと本心もとい下心を打ち明けてくれましたね」
「隠していたつもりはないんだけどな」
「あいにくですが、今のわたしでは父の事情から逃れられませんので」
「あー、がっかり」恵は肩をがっくり落とし、すぐにまた立ち直る。「でもまあ、奏ちゃんを引っ張り回すのはやめないけどね! それで、明日はどこに行く?」
なんで明日もわたしと会う前提で話を進めるかな……でも、このひとと一緒なら、どこに行っても悪くない気はしている。
「じゃあ、観光名所になってるっていう展望台はどうです? 機会があれば行きましょうよ」
付け足し程度に『明日とは限らないけど』というニュアンスを込めた。
「展望台か……」恵の笑顔がわずかに暗くなる。「あんまり好きじゃないんだよね、あそこ」
……意外だった。人生の最後の場所がここだと断言するくらい、この島が大好きな恵が、この島でいちばん人を寄せ付ける展望台を苦手としているなんて。
「なんでですか」
「うーん……まあ、展望台はそのうち連れていくよ。じゃあ、もうこの辺でいいから」
いつの間にか坂道の終わりに差しかかっていた。
結局、展望台を苦手にしている理由は教えてくれないまま、恵はわたしに笑顔で手を振りながら、駆け足で去っていく。街灯の少ない夜道に、恵の姿が徐々に薄れていく。
その後ろ姿に向かって、空っぽの手を伸ばしてみた。
まだ掴めない。何も。
すると、ポケットに入れていたスマホがブー、ブッと振動した。矢澤波花からメッセージが送信されたのだ。
『今日はみんなで海水浴! こっちも負けじと海の写真を送ってやるぜ!』
というメッセージとともに、波花、明菜、鞠亜の顔が並んで写っている写真が送られていた。その向こうには海らしきものが見えるけど、半分以上が三人の顔で見切れていて、言われないと海だと分からない。海水浴というからには、たぶん三人とも水着だろう。真ん中の波花を挟むように、明菜と鞠亜もファインダーに入り込んでいる。
この三人は順調に思い出を作っているようだ。うち二人はおそらく今、恋人として付き合っている最中だろう。それでもこの三人はちゃんと仲良くやっている。根を下ろしている土地があり、忘れがたい思い出をくれる存在が近くにいる。だからみんな、その手に大きなものを掴めているのだろう。
わたしは……このままでいいのだろうか。
いずれは今のように、父の事情に振り回されて各地を転々とする生活は終わる。その時になって、何もない空っぽのわたしに、行きつく先はあるだろうか。
とりあえず、今はまだ、このメッセージに返事は書かない。
スマホをポケットにしまい、くるっと踵を返すと、わたしは坂道を走り出した。
はあっ、はあっ……!
息が絶え絶えになりながらも、わたしはひとつのことを、心に決めていた。
夏休みが終わる前に、ここを離れるまでに、何かを手に掴むと。
恋愛はそのものを描くより、そこに至るまでのプロセスを描く方が難しい。書いていて心からそう思えてきます。
そろそろ神社の名前の由来に気づきましたか?




