3-2 思い出のきらめき
祖父母の家に戻って、わたしのために用意された部屋に入った。荷物や家具の大部分は運び込まれていて、勉強机やベッドも置かれている。わたしはベッドに寝転がりながら、電池が切れかかっていたスマホを充電にかけた。
よく見ると、前の高校の同級生からメッセージが来ていた。二年生に進級したとき、ひとりだったわたしに声をかけてくれた、あの三人組のひとりだ。
『島にはついた? 海の写真とかあったら見せてー』
三か月ほどしか一緒にいなかったはずなのに、付き合いの長い友達みたいなテンションだ。相変わらず遠慮なしに踏み込んでくる。
また同じ人からメッセージがきた。今度は写真も一緒だ。
『うちらも夏休み、3人で海に行くぜ!!』
写真には、自撮りしてピースサインをしている茶髪の明るい女の子、その後ろに、キレイなロングヘアの背の高いクールな女の子と、彼女に横からハグされて慌てているおかっぱ頭の女の子がいる。矢澤波花に、倉知明菜、楢崎鞠亜。顔だけ写っている矢澤さんは分からないが、後ろの二人、倉知さんと楢崎さんは水着だった。
なんとなく、わたしが転校した後に何があったのか、察することができた。どうやらあの二人、無事にくっついたようだ。矢澤さんが結構がんばっていたからなぁ。
気を利かせて、わたしはメッセージを返した。彼女たちとも、たいした思い出は作れなかったが、いろいろとお世話になったのは間違いない。
『おめでとー。海の写真? そのうち送るね』
スマホを放り出し、枕に顔をうずめる。
海ならさっき見てきた。でも、あの時に見た美しさを、スマホのカメラで忠実に写し取れるとは思えなかった。だからまだ撮っていない。
―――――見る人の心次第で、どんなふうにでも変わるんだよ。
島の少女、岸崎恵が言ったこと。それが真実なら、見る人の心のフィルターを通さないカメラでは、あの美しさを焼きつけることができない。あれは……あの時の、わたしの心がなければ、見られないものだった。
いや、わたしだけじゃない。あの子がいないとダメかもしれない。
「適当なもの送りたくないからなぁ……どうしよ」
わたし、聖木奏は、あの子のせいで今も悩み通しだ。
勢いつけて起き上がる。
パンッ、とほっぺたを両手で叩く。
「考えていてもしょうがない。明日はいよいよ転校初日、やること済ませたら、SNS映えしそうな海のポイント、探しに行こう!」
これで明日の予定は決まった。探しにくそうなら、岸崎恵に聞いたっていいんだ。……連絡先も住所も知らないけど。
とりあえず小腹がすいたので、おやつなどがあれば食べよう。わたしの部屋がある二階から、わたしは階段を降りて居間に向かう。
そういえば……今さら疑問に思ったけど、きょうは平日のはずなのに、なんであの子は昼間から外に出ていたのだろう。お昼を少し過ぎたあたりだから、まだ学校があってもおかしくないのに。サボって遊んでいた……というのはさすがにないだろう。そうなると、あの子は学生ですらないのかもしれない。見るからに年上っぽかったし。
階下に降りると、祖母が電話中だった。
「あのねぇ、あんたもここで育った子なんだから、そのくらい覚えていなさいよ。仕事にかまけて忘れていたなんて、言い訳にならないよ。これじゃ娘がかわいそうじゃないかい」
父さんと電話しているのかな……どうも様子が変だけど。
「一応手続きは予定通りしておくけどね、学校だってきっと困るよ。なんとかできないか、こっちでも色々掛け合ってみるよ。まったく……奏ちゃんの親はあんたしかいないんだから、もっとしっかりしなさいな。じゃあね」
受話器を置く祖母。
「本当にもう……わっ」
そして、すぐそばにわたしが来ていた事に、ようやく気づいた。
「電話、父さんから?」
「そうよ……あの子ったら、肝心なこと忘れていたのよ」
「肝心なこと?」
「ほら、明日転校の手続きをするって話だったでしょ。なんでこの時期にやるのか、不思議に思って聞いてみたら案の定よ」
何が不思議なのだろう……そう思ったわたしに、祖母の口から衝撃の事実が伝えられた。
「あの子、こっちの学校がもう夏休みに入っているってこと、忘れていたのよ」
「…………なん、だと」
謎はすべて解けた。
この島の夏休みは、都会よりも早く始まるのだ。わたしがここにやってくる五日ほど前に、すでに高校は終業式を済ませていた。わたしの転校手続きは、夏休みに入ってから行なわれる事になってしまったのだ。
これで、恵が実は学生じゃないのかもしれない、とは言い切れなくなった。見た感じは年上でも、あれくらいの高校生がいないわけでもない。とうに夏休みに入っていたなら、平日の昼間に出歩いていても不自然ではないのだ。
その後の祖母の話で、さらに多くのことが分かってきた。国外での父の仕事が、思いのほか捗っているらしく、来月の中旬くらいには完了するメドが立ったという。そうなればまた、父は国内のどこかに仕事の拠点を移し、必然的にわたしもこの島を出ることになる。予定どおりに転校手続きをしても、二学期が始まる前に島を出る可能性が高くなったのだ。
「それ……休みを利用しての長期帰省と変わんないじゃん」
さて、今わたしがどこにいるかというと、きのう恵と一緒に逃げ込んだ、西の港の管理事務所がある小屋である。海や桟橋の見える縁側に、わたしは腰かけてうなだれている。
しかも単なる長めの帰省とはわけが違う。父の生まれ故郷とはいえ、ここにたいした思い入れなんてないし、山ほどできた時間を消費しようにも、娯楽の少ない離島で何をすればいいのかも分からない。宿題でもあれば話は違うのだろうが、夏休み前に転校が決まったせいで、どのみち二学期に提出できないという理由で、元いた高校からは与えられなかったのだ。ここの高校だって、二学期に入る前に離れてしまう生徒に、わざわざ時間を割いて宿題を与える可能性は低い。まったく、何もかもタイミングが悪すぎる。
「あーあ、何やってんだろ、わたし」
「そりゃこっちのセリフだよ」港を管理するおばあさんが言った。「恵に続いてあんたまで……溜まり場にするのは勘弁してくれよ」
「あ、すみません。ここにいれば恵さんが来るかと思って」
「別に毎日来るわけじゃないよ。三日に一回くらいのペースで特攻をかましては、ここに常備しているビンのラムネを勝手に飲んで、ひとしきりこの辺で泳いだらあとは帰るだけだ」
自由すぎる……それが三日に一度のペースなら、確かに迷惑行為の範疇かもしれない。
「それにしても、昨日の今日だっていうのに、また恵に会って何をしようってんだい」
「海がキレイに見えるスポット、教えてもらおうかと思いまして。午前中にあちこち巡ってみたんですけど、どこもイマイチっていうか、これだっていう所が見つからなくて」
本当は、午前中に転校の手続きに同行する予定だったけど、高校に問い合わせたら、「夏休みの間だけいるのでは話にならない、二学期から通うなら直前に対応する」という返答をもらってしまったのだ。……まあ、前例がそもそもないだろうし、そう言わざるをえまい。
「海が綺麗に見える所かい?」
「前にいた高校の知り合いから、海の写真を送ってほしいと頼まれたんです。せっかくだからキレイなものを、と思いまして」
「ああ、なるほど……」おばあさんはタバコに火をつけた。「しかし、海なんて条件が揃えばそれなりにキラキラするもんだが、綺麗に見えるかどうかは、純粋に見る人次第だからなぁ。写真に撮ったところで、それを綺麗に見えるよう撮影するとなれば、相応の技量が必要になる」
「ですよねぇ……見る人次第っていうのは、昨日も恵さんに言われましたけど」
おばあさんは煙をハーッと吐きだしてから言った。
「あの子の言うことは、話半分に聞くだけでいいんだぞ」
「信用ないんですね……」思わず苦笑いしてしまうわたし。
「しかし、海のことを聞くなら、何もあの子に頼らなくてもいいような気もするがね。聖木さんとこの正一さんは漁師だし、奥さんだってこの島に長く住んでいるし」
「それは……」
そこを突っ込まれると答えにくくなる。
確かに、海の見える場所を探すだけなら、身内に聞くだけで済む。それが無理でも、最近は観光客とかがよく来ているそうだから、この島全体を管理している役場とかに聞いてもいい。それで満足のいくポイントを見つけられなくても、仕方がないと諦めることはできるだろう。
だけど……実際に午前中の時間を費やして、海岸沿いを歩いて探しながら海を眺めていて、つくづく思うことがあった。この島に来てから、海を見て心が揺さぶられたのは、恵と一緒に見た時だけだったのだ。もちろん猫山神社にも行ったけど、昨日ほどキレイに見えることはなかった。
理由は分からないけど、どんなに美しい景色でも、あの人がいなければ、わたしはキレイだと思うことができないらしい。友人でもない人に送る写真に、別にそこまでこだわる義理はないけど、今はまだ恵が必要なのだ。
……でも、そんなこと、うまく説明できる自信なんてない。だってわたしも理由がよく分かってないし。
わたしが答えに詰まっているのを見て、おばあさんは、何か深い事情があると察したようだ。
「まあ、同年代の方が聞き出しやすいってことにしておくよ」
「なんか、すみません……」
昨日会ったばかりの老婆に気を遣われたみたいで、わたしは気が引けてしまった。
「とはいえ、まだしばらくはこの島にいますし、探す機会はいくらでもありますけどね。だから、きょう恵さんに会えなくても……まあ、もう少し待ってみますけど」
「誰を待つって?」
「わっ」
どういうタイミングなのか、当の岸崎恵が、小屋の向こうからひょこっと顔を出した。昨日と同様、シャツの裾を縛り上げてへそを出している。
「おや、これまた何の用だい、恵」と、おばあさん。
「いやあ、ここに用はなくて……この辺を散歩していたら、奏ちゃんの声が聞こえた気がしたから寄ってみただけで」
たいして大きな声は出してなかったはずなのに……これが野生児の聴力なのか。
「それならちょうどいいや。この子、恵に用があってここに来てたんだよ」
「そうだったのぉ!?」
駆け足で寄ってきて、キラキラと目を輝かせながらわたしを見つめる恵。……近いんだよ、顔が。そしてわたしはなぜ動揺している。
「う、海がキレイに見えるところ、教えてもらおうかと思って……」
「海? そうだなぁ……」
事情を深く尋ねることなく、恵は考え出した。そこはありがたい。
「やっぱり、海中の景色がいちばんキレイだねっ」
「せめて陸上に限定してください」
わたしは即、突っ込んだ。ダイビングの経験などろくすっぽないわたしに、そんな高度な写真が撮れるか。
「冗談冗談」恵はへらへら笑って言った。「でも昨日も言ったけど、キレイに見えるかどうかは見る人の心次第だよ?」
「そういうのは後回しでいいです。どうせ写真に撮って知り合いに送るだけなので。恵さんがキレイだと思うところならどこでもいいです」
「そう言われると逆にプレッシャーかかるなぁ……あ、神社は?」
あんたはそれしかないのかい。
まったく……どうしてこんな人を全面的に信頼しようと考えたんだろう。
「はあ……もうそれでいいです」
「急に投げやりになったね奏ちゃん!?」
「あんたがまじめに答えないからだろ」
老婆の容赦ないツッコミにも、恵は平然としていた。ある意味でその神経がうらやましい。
「じゃあ、お昼時だし、何か腹ごしらえしてから神社に行くか。おばちゃん、魚の干物とラムネ、もらってくね」
「うわっ、食べ合わせ悪そう……」
「だから勝手にうちの冷蔵庫を漁るなと何度言ったら……」
無遠慮に小屋の中へ入っていく恵に、わたしと老婆の声が聞こえている様子はなかった。
港の小屋で十分に休んだおかげもあって、恵の力(というか背中)を借りなくても神社までたどり着けた。まあ、ついた時点でかなり息が切れてしまったけど。
「ここ、階段、何段あるのよ……」
膝に手をつき、ぜぇぜぇ言いながらわたしは呟いた。
「前に数えた時は五十段か六十段くらいだったと思うよ」
「数えたわりには数値が曖昧じゃないですか……」
「いっときは興味持って数えても、しばらく経ったら記憶が曖昧になっちゃって。それよりどうかな。昨日も見たわけだけど、やっぱりキレイに見える?」
目的語が省略されているけど、もちろんこれは恵じゃなく海のことだ。さて、苦労してもう一度上ってきて、必要だった恵が一緒にいる状況で、どんなふうに見えるかな……。
階段のある方を、振り向く。
開けた視界の向こうに広がる、一面の空と海。
昨日とは時間帯が違っているとはいえ、見えている景色は間違いなく同じだ。散りばめた宝石のようにキラキラと輝き、空と海のコントラストはむしろ昨日より映えている。
だけど……。
「ありゃ、お気に召さなかったみたいだね」
顔に出ていたのか、恵にはすぐ気づかれた。
「うん……なんか、違う。というか午前中に一度来たけど、その時と何も変わらない」
「まあ、二度も三度も続けざまに見たら、感動が薄れても無理ないか」
感動が薄れてしまうのは、すでに見た景色だから、なのだろうか……初めて見るのと、知ったうえで見るのでは、こうも感じ方が変わってしまうのか。恵がそばにいれば少しは変わるかと思ったのに、完全に当てが外れてしまった……。
「ちょっと視点を変えてみよっか。階段の真ん中あたりから見るとか……」
そう言って階段を下り始めた恵を、わたしは呼び止めた。
「……もういいです」
「え?」
立ち止まって振り向いた恵。
いま、絶対沈んだ声で呼んでしまった。なんだか恵と目を合わせられない。
「探すのはやめにします。わたしの考えが甘かったんです。高望みしてもしょうがないものに、いい物を求めようなんて無謀でした。どうせ、本当にいい物を見つけても、写真にしたら半減するでしょうし……」
「…………」
恵はぽかんと口を開けて、わたしを見ている。彼女には申し訳ないと思うけど、これ以上、わたしの不毛なわがままに付き合わせるのも考えものだ。
「そっか……」
踵を返し、また上ってわたしの隣に戻ってくる恵。
さすがに愛想を尽かされたかもしれない……自分から頼んでおいて、一ヶ所だけ見て勝手に終わらせようとしているのだから。別に構わない。彼女とは友達でも何でもない。昨日知り合ったばかりの赤の他人に、切れる縁もないのだ。
だから、何も気にすることはないのに……どうして、こんなに胸が苦しい?
罪悪感を残したせいなのかな。それとも……。
「じゃあ、この神社のことを少し調べてみよっか!」
「え?」
なぜか恵は、わたしを責めるどころか、むしろ笑顔とパワーがさらに増していた。な、なんでこの状況で明るく振る舞えるんだ。
「あの、なぜそういう話になるんです? 神社のことを調べに来たわけでもないのに」
「え? だってねぇ……」
落ちつきの足りない恵の動きは、どこまでも軽やかだった。
「せっかく苦労してこんな所に来たのに、何もしないで帰るって手はないでしょ。前から調べてみたいとは思っていたし。それに、奏ちゃんにいい景色を見せられなかった、その埋め合わせも兼ねているから」
「…………」
「どうかな。ここは学者さんもほとんど調べていないから、新発見があるかもよ。せっかくだからこの場所を楽しみつくそうよ」
昨日もそうだったけど、恵は誘い方が極端に下手くそだ。キレイな海を見られなかった、その埋め合わせが神社の調査って、等価交換が成立していない。それに。
「やりたいなら好きにすればいいですけど、わたしを誘ったって、楽しくなんかなりませんよ。昨日会ったばかりの赤の他人に、そこまで気を遣わなくていいじゃないですか」
「うーん、まあ赤の他人っていうのはそのとおりだけど……嬉しかったから」
「へ?」
恵は恥ずかしそうに頬をぽりぽりと掻く。
「その、昨日会ったばかりのわたしのことを、頼りにしてくれたのが、やっぱり嬉しかったから……どうしても、期待に応えたかったんだ。わたしに出来ることなんて、そうそうあるもんじゃないし。残念ながら期待には沿えなかったけど、このままっていうのも後味悪いから、せめて奏ちゃんには思いきり楽しんでもらいたいなーって」
なんだ、それは……朗らかに笑う恵とは対照的に、わたしの心は曇っていく。悔しさにも、憤りにも似た感情が湧き上がってきて、奥歯がかすかにギリッと鳴った。誰に対する怒りなのか、自分でも分からない。
「恵さん……ひとつ言ってもいいですか」
「ん、なに?」
「あなたって本当に……バカじゃないですかっ!」
「ば……?」
これには、さすがの恵も驚きを隠せないようだ。
「えっと……バカって言われるのって初めてじゃないけど、何か気に障ったのかな」
言われ慣れているのか。だったら遠慮なく言わせてもらおう。
「気に障りましたよ。何なんですか、さっきから! そんなにわたしを巻き込まないと気が済まないんですか。期待されて嬉しかったなんて……わたしが何をしたか分かってるんですか。勝手にあなたに期待して、勝手にがっかりして、そして勝手に終わらせようとしたんですよ? 普通なら見限るべき相手じゃないですか。いや、むしろ見限ってくれた方がホッとするくらいですよ。これじゃまるで……わたしばかりが道化みたいじゃないですか!」
「か、奏ちゃん……」
「こんな身勝手なわたしに、負い目なんか感じて、埋め合わせなんてやって……本当にバカじゃないですか。そんなことされたら、わたし……自分が嫌になる」
ああ、今のわたし、ものすごくカッコ悪い。恵は何も悪くない。勝手なのはわたしで、わたしがわたしを許せなくて、恵が気を遣うほど自分に嫌気がさして……ただそれだけのこと。泣き言も怒りも、ぜんぶわたしにはね返ってくる事ばかりだ。もはやこの行動、嫌われようとしているとしか思えない。
でも、ここまで身勝手な事を言われて、本当に恵は嫌うだろうか。
「……別に、負い目を感じたから埋め合わせを考えたわけじゃないんだけどな」
「…………え?」
「それに、勝手に期待したっていうけど、こっちだって勝手に期待に応えようとしたんだから、おあいこだよ。というか、勝手でも何でも、期待してくれたなら応えたくなるけどなぁ、わたしは」
……嫌ってくれないのか。なんでだよ。
「奏ちゃん、キレイな海の写真を撮りたいんだよね。何度も言うけど、キレイに見えるかどうかは心次第だから、やっぱり何かきっかけみたいなのは必要だと思うんだ。今のやり方で上手くいかないって分かったんだから、ひとまず写真のことは忘れておいて、キレイに見える瞬間が訪れるまで待つしかないよ。昨日だって、キレイな海を見るために、ここに来たんじゃないでしょ」
そのとおりだ。恵に連れてこられただけで、それまでわたしは、海があんなにキレイに見えるものだなんて、思ってもいなかった。
そっか……答えはもっと単純だった。キレイなものを探そうと思わなければいい。その時キレイだと思えたものを、撮るだけでよかったんだ。
「要するに、視点を変えてみようってことだよ。まずは、この島のことを、もっといっぱい知ることから始めてみようよ。どんなつまらない場所も、見慣れた場所も、その気になればいい所なんていくらでも見つかる……わたしはそう思うよ」
恵は、ニカッと白い歯を見せながら笑った。
「だからぁ、調べてみようよ猫山神社。名前の由来がまったく分かっていない、海の神を祀った神社……絶対なにか面白い秘密が隠されていると思うんだ」
本当に自由だ……神社の秘密と、キレイな海を撮れるかどうか、とても関係があるとは思えないのだけど。もっとも、それは恵がやりたいから言い出したことであって、わたしの事情と繋げて考えるほうがおかしいのかもしれない。
まったく、人の気も知らないで……。
「はあ……」ため息の後に言った。「本っ当に恵さんって、バカみたいですね」
「え、本日三度目のバカ宣告……」
「分かりましたよ。そこまで言うなら、神社の調査、付き合ってあげます」
「ホントに!?」目をギラギラと輝かせる恵。「ありがと奏ちゃーん!」
飛びかかるように抱きついてこようとした恵から、わたしはスッと素早く身をかわした。勢い余って恵は、両腕をスカッと空振りして、結果、セルフハグみたいになってしまった。
わたしは猫山神社の小さな社殿に歩み寄る。
「それにしても、漁業が盛んな島に海の神様を祀る神社があってもおかしくないですが、それにしてはお社がずいぶん小さいですよね。山の中腹なんて、地味に参拝しにくい場所にありますし」
「言われてみればそうだねぇ」
めげない恵は、気を取り直してわたしに追いついてきた。
「周りを樹木で囲まれているし、海沿いの道からも全然見えませんし、知らなかったら存在にも気づけないかもしれませんね」
「一応、階段の下に鳥居があるから、神社があることは分かるけどね」
「でも普通、こういう場所に建つ神社って、階段を上った先に鳥居があるものですよ。確か鳥居って、神域との境目を示すものですから、階段も含めて、この辺の山の一帯が神域扱いされているってことじゃないですか」
「詳しいね、奏ちゃん」
「前にテレビで見たことがあるので。というか、神社のことを調べるつもりなら、このくらい事前に知っておいてくださいよ」
「いやー、この辺りを適当に探ったら何か出てくるかなー、としか考えてなくて」
いい加減な……こんなんで神社の秘密にたどり着くことなんてできるのか。いや、たぶん恵も、本気で神社の秘密を突きとめられるとは思っていない。
「つまり、神社そのものより、むしろ神社があるこの山に、何か秘密があるってことかな」
「可能性はありますけど……だとしたら、わたし達の手に負えるものでは」
「よっしゃ! まずはお社の裏手から調べてみよう!」
動き出したら止まらない。わたしが言い終わる前に、恵は駆け出した。……野生児に理性的な判断と行動を求めても無意味か。
階段からお社までの短い参道は石畳が敷かれているが、お社のすぐ裏手は土がむき出しになっている。お社の脇には勾配のきつい斜面があって、油断していると足を滑らせて下に落ちてしまいそうだ。頼むから恵、慎重に進んでくれよ……。
「ど、どうです? 何かあります?」
お社に掴まりながら、先を行く恵に尋ねた。
「特に変わったものは見当たらないな……あ、考えてみれば、猫山神社の裏手って、子どものときから何回も見てたっけ」
「それを早く言ってください! ……じゃあ、別の道とかがあるわけじゃないんですね」
「別の道?」
「この島って、山の途中に家があるところが多いじゃないですか。こんな通いにくい所に神社を作ったのは、自分の家からは難なく通えるような道を持っている、そんな人がいたからじゃないかと思ったんですが」
「おー、なるほど。でも、それっぽい道は見当たらないね」
「そもそも、見た限りどこも木が乱立していて、道を作れる感じでもないような……」
この時、わたしは間違いなく油断していた。恵が通った所なら安全だと思って、彼女がむき出しの土の上に足を踏み入れたから、何の気なしにわたしも石畳の外に出てしまった。長い間に土が雨などで流れたのだろう、樹木の根が露わになっていたが、それが細く短いものだったのが災いしてしまった。
森の中をよく見ようと身を乗り出した時、足元でバキッという音がしたと思うと、わたしの片足が重力に引っ張られた。
「うわっ、わあああっ!!」
「奏ちゃん!!」
恵の声が、ズザザザザザという強烈な摩擦音にかき消される。
自由が利かない。手も、足も、どこに掴まったり突いたりしたらいいのか、それができる場所を探す余裕も、容赦ない重力の前に失われてしまう。
枯れ葉や小さな枝の混ざった土を、わたしの体が、手足が、意思に反して削っていく。
やばい。やばい。
まるで流水に溺れるような感覚の中で、死の恐怖がインフレを起こしていく。
乱立する木の幹にぶつかったりして、もうただ滑るだけじゃない、滑ったり転がったりを、果てしなく繰り返している。
ダメだ。わたし、このままじゃ……!
「ああんっ!」
突然、落下が止まった。さして硬くない地面にぶつかっても、衝撃は大きかった。
「いっ、たぁ~……」
落ちている時間は一分もなかったと思うけど、その間に受けたダメージは計り知れない。上体を起こすことはできたけど、体中が痛くて、これ以上は動かすのがきつかった。
ここはどこだろう……何の目印もない、整備が行き届いていない森林の中で、外の光はほとんど射し込んでこない。薄暗い空間で、さわさわと、風に揺れる枝の音だけが響き渡る。
ぞっ……背中が粟立つ。
こんな所で、ひとりぼっち……こんな、こんなのは。
「奏ちゃん、大丈夫!?」
恵の声が、すぐ上から聞こえてきた。振り向くと、恵がぴょんぴょんと崖を飛び降りていた。
唖然とするしかない。急勾配の斜面などお構いなしに、恵は軽々と飛び降り、正確に木の根元に着地して、間をおかずに次の着地点に飛び降りていく。それを繰り返していって、あっという間にわたしの元にやってきた。まるで重力をコントロールしているみたいに……。
わたしのそばに両足で着地すると、迷わず手を差し伸べてきた。
「立てる? 奏ちゃん」
……こういう時だけ、頼もしく思えるんだから、ずるい。
恵の左手を握って、彼女の力を借りながら、なんとかわたしは腰を上げた。体中が痛いけど、幸い骨を傷つけてはいなかった。
「いやあ、災難だったね。あちこち擦りむいてるし、あとでちゃんと手当てしよう。港のおばちゃんの小屋に、消毒液とかあるから」
「経験者が語るような事実をさらっと……」
「しょっちゅう浜や防波堤で転ぶからね。森の中を転がり落ちたことはないけど……ん?」
恵の視線が向いた先を、わたしも見た。
この場所だけ、狭いながらも平地になっていて、斜面との境目あたりに大きな楕円形の岩が立っていた。岩というには、あまりに表面がつるつるしていて、明らかに人の手が加えられている。大きさはわたしの肩の高さくらい。表面には文字らしい形が刻まれているが、ミミズがのたくったような感じで読めない。たぶん変体仮名が交じっている。
「これ……お墓でしょうか。だいぶ作りが粗雑ですけど」
「かなり苔むしているし、人が来なくなってからだいぶ時間が経った感じだね。そもそもこんな所に人が来れるのかな」
確かに、見たところこの周りには、道らしい道はおろか、人が普通に通れそうな平らな場所さえ少ない。こんな所に墓石を運び込むだけでもひと苦労だろう。山の一部を神域とするような鳥居の存在といい、もしかしたらこの墓にも、何か意味があるのかもしれない。
わたしは、体の節々に感じる痛みに耐えながら、墓石に歩み寄り、その裏側を覗き込んだ。
「ひっ……!」
想像を絶する光景だった。
墓石の裏側には、何十、いや何百もの“玉”の字が、びっしりと書き刻まれていたのだ。
「うわっ、なにこれ、キモッ……」
同じように裏側を覗き見た恵も、表情を歪めて言った。“玉”の字そのものは悪い意味を持たないと思うけど、こんなにびっしりと書かれているとかえって不吉だ。あれだ、南総里見八犬伝の玉梓の呪いみたいで。
「これ、どう見てもただのお墓じゃないよね……触れちゃいけないやつなのかな」
「た、たぶん……」
「…………」
「…………」
「よし、早いとこ立ち去ろう」
わたしも頷いて恵に同意した。なんとなく、ここは一秒でも早く立ち去るべきだと思った。
「この斜面を登って戻るのは危険だし、たぶん下の道路までそんなに高さもないから、降りた方が安全に帰れるね」
「木々に隠れて下の道路が見えませんけど……」
「大丈夫、わたしが先導するから。ほら」
恵はそう言って、わたしに手を差し出した。屈託のない恵の笑顔と、体の節々に感じる痛み、そして、さっき一瞬だけ抱いた孤独への恐怖から、わたしの右手は自然とその手を求めた。わたしが握り返すと、恵はまたにっこりと微笑んだ。
それから、わたしは恵の手に引かれながら、一歩ずつ慎重にデコボコの斜面を下っていった。途中で何度か、バランスを崩して倒れそうになったけど、恵はちゃんと受け止めてくれた。ただ、そうして恵の腕や体が触れるたびに、激しく動揺してしまうのはどうしてなのだろう。恵と出会ってから、たまにそういうことがあって、どうしたものかと悩んでいる。
十分ほどかけて、ようやく海沿いの道路の路肩にたどり着いた。
「ふぅ、なんとか無事に降りられましたね……うわ、土まみれだ」
「とりあえず奏ちゃん、擦りむいた所を手当てしよう」
「あ、はい……」
こんなに面倒見のいい人だったのか、と思い始めたところで、ピロリロリンッ、という電子音が聞こえてきた。どうやら恵のスマホの着信音らしい。
「ちょっと失礼」
そう言って恵がスマホを取りだしたのは、ハーフパンツのジッパーつきポケットからだった。そこに入れていたから、あんな派手な動きをしてもスマホは落ちなかったのか。たぶん、野生児である恵のために買い与えられたものだろう。
「おっと、お母さんだ」恵は電話に出る。「もしもし? どうしたの。……えっ、いや、そんなの全然聞いてないんだけど」
お母さんがいるんだ……いや、ほとんどの家庭だとそれが普通なんだろうけど。恵の家の親子仲は良好みたいだ。
いいなぁ。今でもあんなふうに、お互いに言葉を交わすことができて。わたしの場合、そばにいてくれるだけで、十分だと思っているのに。
ふと母親の顔が見たくなって、わたしは写真を取り出した。
写真の中の母親は、いつまでもわたしに微笑みかけている。でも、微笑むだけで、他には何もできない。わたしは言葉をかけることができない。それが、どうしようもなくもどかしい。伝えたいことが、山のようにあるのに……。
ビュウウッ!
突然、強めの風が襲いかかった。とっさのことで身構えられなかったわたしは、思わず写真を持つ指の力を抜いてしまった。写真が、突風にあおられて空に放たれる。
「あっ! お母さん!」
写真に向かって叫んだ声に、恵もハッと気づいて振り向いた。
「奏ちゃん、パス!」
「えっ?」
恵は通話中のスマホをわたしに向かって放り投げ、写真が飛ばされた海の方へ、目にも留まらぬスピードで駆け出していった。慌てたわたしは恵のスマホを落としそうになったが、なんとか間一髪で受け取った。
すぐ目の前の防波堤に階段はなかったが、恵はわずか四歩で、ジャンプしながら防波堤を駆け上がった。そればかりか、その勢いのまま防波堤の向こうの小屋の屋根に飛び移り、その先にあったプラスチック製の細いポールのてっぺんに向かって跳躍し、掴みかかった。そのポールの先では白い旗がはためいていた。
ポールは恵の体重で一瞬しなったが、すぐにバネのように揺り戻され、それに合わせて恵も、海に向かって、高く、飛ばされた。まるで棒高跳びのように。
「う、うっそ……!」
まだ防波堤の内側に立っていたわたしは、恵の驚異的な身体能力に舌を巻いていた。
恵の肢体は空中を舞いながら、ひらひらと不規則に揺れ動く写真を、今にもその手に捉えそうだった。恵は必死に腕を伸ばして、写真を掴まえようとするが、思うように手が届かない。
そしてついに、恵の右手が写真を掴み取った!
直後、恵の体は放物線を描いて、海面にダイブした。
ドッパァ―――ンッ!!
なんとか防波堤のでっぱりに掴まりながら登り切ったわたしの目の前で、恵は巨大な水柱を上げながら海に落ちた。これ……無事で済むのだろうか。
「ちょっと、恵、どうしたの?」
スマホから声が聞こえてきた。そういえばずっと通話中のままにしていたっけ。
「あ、すみません。恵さん、今ちょっと手が離せなくて」
「あら、あなたは?」
「えぇっと、聖木奏と言います。恵さんとは、その……」
恵との関係をどう説明したらいいのだろう。そう思っていると。
「ああ! あなたが奏ちゃん? 恵から話は聞いていますよ」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。かわいい子が島に来てくれたって、喜んでた」
かわいい……そんなこと、両親以外に言われた覚えがないから、かなり恥ずかしい。というか、そうか。恵から見てわたしは、かわいく見えたのか。自分でそう思ったことはないけれど。
……なんだろう、このポカポカした感じは。
すると、海面からザパッと浮かび上がったものがあった。恵だった。
「おーい、取ったどー!」
写真を手に持って大きく振りながら、わたしに向かって叫ぶ恵。ああ、もう……本当に、このバカはどこまで。
「そういえば、手が離せないって、恵なにやってるの?」
電話の向こうの人に、わたしは胸いっぱいの気持ちを抑えながら答えた。
「……わたしの大切な人を、助けに行ったんです」
恵が岸に上がってくるのを見て、わたしも防波堤を降りることにした。階段もないので、よく滑るコンクリートの斜面を、でっぱりに掴まりながらゆっくり下るしかない。でも、登るときでさえ苦労したわたしに、そんな器用なことができるはずもなく、途中で手が滑って、そのまま滑り台みたいに落ちていった。
「わっ、わわああぁぁぁ~」
幸い、下は砂地なので衝撃は小さかった。尻もちをついたわたしに、恵が駆け寄ってくる。
「奏ちゃん、はいコレ」
恵が差し出したのは、海水で濡れている母の写真だった。
「濡らさずに拾うのはさすがに無理だったよ。奏ちゃんの大事なものなのに、ごめんね」
なんで謝るんだ。恵には何の落ち度もない。写真が飛ばされたのはただの事故だし、恵は懸命にそれを取り戻そうとした。あの時も、この時も……恵は何も悪くないのに。
「奏ちゃん……泣いてる?」
え? ああ、わたし、泣いているのか。
抑えこんでいた気持ちが、安心したら急に溢れ出してきた。そういうことだよね。
「あん、もう……こんな、はずじゃ、なくて……」
必死に涙をぬぐっても、とめどなくこみあげてくる。恵は、どんな顔で見ているのかな。
「……いいじゃん。泣いちゃいなよ」
「え……?」
わたしが顔を上げると、恵はくるっと踵を返し、再び海に向かって歩き出した。
波打ち際にたどり着くと、恵はまたこちらを向いた。
「ぜんぶ見せてよ。わたし、奏ちゃんのこと、もっと知りたい!」
乱反射する光。はじける笑顔。濡れた肌。濡れたシャツ。濡れた髪。
まぶしい。
まぶしい、何もかも。海も、少女も。
ほとんど無意識に、わたしは自分のスマホを手にとっていた。何があってもいいように、カメラ撮影の準備は整えていた。スマホのレンズを、いま目の前に映るすべてに向けた。
シャッターを、切る。
気がつくと、恵は笑顔をやめて、きょとんとした顔になっていた。
「あ、あれ……?」
何をしたのか分からなくて呆然とするわたしの元に、恵がゆっくりと歩み寄る。
わたしの前に立って、わたしのスマホに、ちょん、と指で触れる。
「キレイな景色、撮れた?」
うん、撮れた……。
その言葉は、喉の奥に引っかかって、出せなかった。




