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面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第3話 あの島の夏に
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3-1 思い出のはじまり

4章と同時進行で展開する第3章、真夏の離島を舞台にしたストーリーです。

ちょっとしたミステリもあります。


 忘れられない思い出って、たぶん誰にでもひとつはある。

 忘れずに記憶に残っている出来事だから思い出っていうんだけど、その中でも強烈な感情をともなっていたり、忘れてはいけないと思えたり……そういうものを“忘れられない”というんだと思う。当然だけど、そんな出来事あるいは体験は、予定調和の中で生まれるものじゃない。予想もしない展開、もしくは出会い、気づき。大きさの違いはあれど、そうした非日常的な体験こそが、忘れられない思い出になるんだろう。

 でもまあ……十数年しか生きていないと、そんな体験をめったにしないこともあるし、我が身に起きたことを特別だと気づかなかったり、何年も後になってそうした感情が薄れたりすることもあるだろう。少なくともわたしには、胸を張って、忘れられない思い出と呼べるようなものが、思いつく限りではひとつもない。

 そういう環境にいるのも事実だけど、悔しいから環境のせいにはしないと決めている。

 五月に誕生日を迎えて、晴れて十七歳になった聖木(ひじりぎ)(かなで)……つまりわたしにとって、慣れ親しむ前に土地を離れるのは日常になっていた。父親がいわゆる転勤族というやつで、全国あちこちの事業所に出向が決まるたびに、ひとり娘であるわたしを連れて各地を転々としている。だからわたしは、たびたび転校を余儀なくされている。短くて三か月、どんなに長くても一年がいいところだ。

 半年前に東京の高校に転入し、そこで高校二年生に進級し(貴重な非単位制でよかった)、そして夏休みに入る直前にまた転校することになった。その転校先というのが……。

「うぅ……酔った……」

 到着して早々、桟橋の上でしゃがみ込むはめになる、そんな場所だ。

「くっそぉ……本州から船で小一時間かかるとかバカかよ」

 誰に向かってということもないけど、わたしは顔をしかめて恨み言をもらした。口の中にかすかだが胃酸の味がして気持ち悪い。

 今度の転入先は離島だった。ただの島じゃない、離島だ。本州からかなり離れているうえに、簡単な日本地図では確認できないくらい小さい。住民だってめっちゃ少ないはずなのに、小規模ながら小・中・高と学校がそろっている。ふざけている。

 実をいうと、父が出向を命じられたのはこの島じゃなく、なんと国外である。さすがにわたしまで海外に連れて行くわけにいかないので、今回は、父の実家があるというこの島にくることになったのだ。わたしとしても、いきなりひとり暮らしは不安があったし、将来のことを考えると、親と離れて暮らす訓練くらいはしておくべきと思っていた。幸い、父の実家はわたしを快く迎え入れてくれた。

「自分の家みたいにくつろいでいいからね。お母さんいなくて寂しいだろうけど、おばあちゃんたちがいつでも相手になるよ」

 父方の祖母はそう言ったけど、わたしは決して、寂しさを感じているわけじゃない。

 母親はわたしが幼いときに亡くなっている。あれから時間が経ちすぎていることもあって、わたしは母親がいないことを、もう寂しく思わなくなっていて、すでにこの境遇を受け入れてしまっている。それに……幼い時分とはいえ母親の記憶はあって、今でも母親はわたしの手元にいる。

「だからさ……寂しくはないよ、ぜんぜん」

 わたしは、母親のうつる写真を手に取って眺めながら、ぼそっと呟いた。潮風に吹かれ、写真はパタパタと揺れている。飛ばされないように、指先に力を込めた。


 父親の実家に、一緒に運んできた荷物を置いて、わたしは島の散策に出ていた。平日のはずなのに、出歩いている人も車も少ない。雲ひとつない晴れ空の下、波と潮風の音だけがそよそよと聞こえてくる海辺の道を、わたしはそぞろ歩いている。

 島の車道は、ほとんどが海岸に沿うように造られている。そもそも平地が少ないからだ。ジャガイモの断面みたいなデコボコの円形で、その真ん中あたりを頂上として五、六十メートルほどの高さの山がある。島の大部分はこの山が占めていて、民家もほとんど山の途中に建てられている。学校や商店などは道路沿いにあるから、家との行き来は坂道を上ったり下ったりするという。当然、父の実家も例外じゃない。ふざけんな。

 わたしは道路の脇を歩いているけど、海はぜんぜん見えない。台風などでたびたび高波が襲ってくるこの島では、港を除いて沿岸に防潮堤を築いている。正確な高さは分からないけど、少なくとも高二女子であるわたしの背丈よりは高い。防潮堤に阻まれて、海沿いを歩いているのに海が見られない。

「ま、別にいいけどね……」

 海なら、ここにくる船の上で存分に眺めた。まあ、あまりに長時間揺らされたせいか、早々に酔ってリタイアしちゃったけど。

「てか、疲れたなぁ」

 歩き回るのに慣れていないわたしは、すぐ近くにあった階段に腰かけた。よく見るとそれは、防潮堤に備え付けられた階段で、上れば海を見られたんだけど……歩く体力がないのに階段を上れるはずもなかった。

 転校の手続きに関しては、すでに日本を()った父が書類を用意して、実家にきょう届き次第、明日には学校に提出されるという。提出も、学校への付き添いも、漁で忙しい祖父に代わって祖母がやってくれるので、毎回のことだけどわたしはほとんど関知していない。

 付き添いがあれば高校まで道に迷うこともないので、前日に下見をしようとも思っていない。どんな校舎なのか、こんな狭い島でどれほどの施設があるのか、それは明日までのお楽しみ、なんだけど……。

「楽しみとは、思わないなぁ……」

 転校ばかりで学校の友達をろくに作れてこなかったわたしにとって、学校というものがそもそも魅力的な存在じゃなかった。勉強にしても、環境がころころ変わるようでは、学校の勉強だけだと不足するのが目に見えているので、自宅での勉強がメインになってしまっている。今となっては、学校は単に、大学の入学資格を得るためにかようだけのものなのだ。

 心のさびしいわたしに降り注ぐ日光は、思いのほかやわらかく優しい。潮風と波の音に心を洗われながら、静止画のように何も変わらない眼前の景色を、ただぼうっと見つめている。……バックパッカーはいつもこんな気持ちなのかな。

 なんてことを考えていると。

「あれぇ、キミひとりなの?」

 どこからやってきたのか、いかにもチャラそうな茶髪とアロハシャツの青年二人組が、この場に似合わないほど軽いノリで声をかけてきた。

 こんな島でもナンパするような頭の軽い若者がいるのか……と思いつつ、わたしは答えた。無反応は相手を変に刺激しがちなので、適当にあしらうのが常道。それは都会でも学んでいた。

「ええ、見てのとおり」

「この島の子なのかな?」

「そうなる予定です」

「あー、引っ越してきたんだ。俺たちは本州から遊びに来てんだけど、いいスポット知ってるんだ。こっちに来て間もないんなら、俺たちが教えてやろっか?」

 誘い文句が下手すぎる……いいスポットはあるかもしれないけど、これからこの島に住む人間に、ただ遊びに来ただけの連中が遊び場を教えるって、おかしいだろ。

「結構です。今はひと休みしている最中なんで」

「だったら俺たちの車に乗ったら? 休憩できるとこまで案内するけど」

 あーもう、しつこいなっ。そんなに暇なのかっ。わたしはだんだんイライラしてきた。

「なー、いいだろ。どーせこの島じゃ同年代の子なんて少ないし、友達作るチャンスじゃん」

 二人で囲い込んできて、馴れ馴れしく肩にも触ってきた。嫌だな……粘着系のナンパだ。こいつらを振り払って逃げるだけの体力は、たぶん今のわたしにない。どうするかな……。

「ごめんごめん、遅れちゃった!」

 …………ん?

 声のした方を向くと、背の高い女の子が汗だくで駆け寄ってきた。長い髪をポニーテールにして、シャツの裾を縛ってへそを出している。少し日に焼けているようだけど、こんな女の子、わたしは全然知らない。

「えっ……なに、待ち合わせ?」

 戸惑っているのはナンパコンビも同じだ。一人なら囲い込みやすかったけど、二人だと途端にやりにくくなる。しかも向こうは見るからに、どんな誘い言葉も効きそうにない。

「ん? 誰、この二人」女の子はわたしに訊いた。

「いや……知らない人だけど」

 あなたも含めてね、という言葉は呑みこんだ。

「あー、ナンパか。悪いけどこの子には先約があるから、やるならよそでやって。さ、行こ」

 無理やりナンパコンビの間に割り込んで、わたしの手を取ると、力強くわたしを引っ張り上げた。華奢な腕のどこにそんな力が!

「ま、待てよ」粘着系のナンパはまだ引かない。「だったら二人とも俺たちと遊ばね? ほら、二対二でちょうどいいっていうか……」

 すると、女の子は振り返って、笑顔で言い放った。

「うっせぇ、しつこい男はナンパしたってモテねーぞ。首を洗って出直してこい!」

 溌溂(はつらつ)とした口調と笑顔で放たれた暴言に、二人が呆然と立ち尽くしている間に、女の子はとんでもない脚力でわたしを連れて走り去る。

 なに、この状況?

 わたし、女の子に、やんわりと(さら)われていないか。わたし誘拐事件か。

 海沿いの静かな道路を、女の子が汗を散らしながら、子どもみたいにはしゃいで駆けてゆく。その女の子に、ただ引っ張られるまま走るわたし。さっきまで走って去るだけの体力は残っていなかったはずなのに。心なしか、日差しまで強くなってきたような。

 キラキラ、キラキラ。

 目の前を快走する女の子が、やけに眩しく目に映るのは、飛び散っている汗のせいか、それとも……。

 気がつくと、防潮堤の切れ目に辿り着き、桟橋のそばに建つ木造の小さな家に入った。木目がむき出しのせいで古く見えるけど、海の家みたいなところだろうか。

 海に面した、開けた部屋の中に、ひとりタバコをふかしている老婆が座っていた。そばには“重油”と書かれたタンクと、丸く束ねられたロープが置かれている。

「おばちゃん、ちょっと(かくま)って!」

 女の子は老婆に声をかけた。顔をしかめながらこっちを見る老婆。

「あ? 誰かと思ったら(めぐみ)かい。どうせ何も言わんでも勝手に使うんだろ」

「まーね!」

 なんで誇らしげなんだ。さっきからいちいち言動が破天荒すぎる。

 漁の道具などを仕舞っていると思しき、ごちゃごちゃした薄暗い部屋の中に通される。どうやらナンパたちがしつこく追いかけてくるのを想定して、しばらくここでやり過ごすらしい。

「よーし、ここにいれば、あいつらが来てもおばちゃんが追い返してくれるでしょ。それにしてもあんたも、たちの悪いナンパに目をつけられたねー……って、大丈夫?」

 もちろん大丈夫じゃない。

「あ、あしが……つっ、た……!」

 とうに体力と筋力の限界に達していたわたしは、床に仰向けに転がって、両脚の痛みと痺れに苦悶していた。ふだん運動とかしないうえに、心構えもできないうちに走り始めたからなぁ。

「あらま」元凶の女の子はすましている。「んじゃ、ちょっとふくらはぎ揉むからねー」

「うひっ、ひっ、ひぃっ」

 つった状態でいきなり揉まれるから、こそばゆくて変な声が出てしまう。

 老婆がコップをもって部屋に入ってきた。

「あんたも恵に振り回されて大変だったねぇ、ほれ、水飲みな」

「あ、ありがとうございます……」

「大変なら飲ませてあげようか?」

「結構です!」

 恵という名前の女の子の申し出を、わたしはすぐさま却下した。キラキラと目を輝かせているのを見て、なんか変なことをされそうな気がしたのだ。

「もー、せっかくたちの悪いナンパたちから助けてやったのに、冷たくない?」

 自力で水を飲むわたしに、女の子は不満げに言った。それは助かったしありがたいと思っているけど、礼を重ねるつもりはない。つか、おめーが馴れ馴れしいだけだ。

「感謝はしてますって。まさかこんな小さな島でナンパに遭うなんて思ってませんでしたけど」

「山の上の展望台が、最近ドラマの影響で恋人の聖地だか何だかで、観光客がよく来るようになったんだよね。本土と行き来する船も増えたし、特に若い女の人がよく来るってことで、それに比例して女の人を引っかけようとする男も現れるようになったんだよ。それも、本土のビーチとかでナンパに失敗して、それでも諦めきれないようなしつこい奴が多いんだ」

 なるほど、そういう事情か……全国を転々としているせいで、世俗的な話題に疎くなっている。父親からもそんな話は聞かなかった。

「ふうん……えっと、あなた、名前は」

岸崎(きしざき)恵。別に恵でいいよ。あなたは?」

「聖木奏……あのさ、ひとついい?」

「何かな?」

「さっきあの男たちに言ったこと……“首を洗って”じゃなく、“顔を洗って”だと思う」

「…………え?」

 バカなのかな、この子。

 なんだか、前の高校にもいたなぁ、こんな感じの同級生。バカっぽいけどテンションが高くて、自然と周りを巻き込むようなタイプの女の子。確かいつも三人でつるんでいて、そのうちの一人が……いや、もうどうでもいいな、そんなこと。

「まあとにかく、助けてくれたのは率直にありがとうございます。おばあさんも」

「いーや、なんもなんも。恵に振り回されて不憫なもんだから、手ェ貸してやらんと寝覚めが悪いだろう」

「おばちゃーん……まるでわたしが悪者みたいな言い方しないでよ」

 恵は口をへの字にして言った。ずいぶん遠慮のない会話をしているが、親戚だろうか。

「おばちゃんって言ってますけど、親戚ですか?」

「え、違うよ? ただの知り合い。西側の港を管理している人で、家もこの近くなんだけど、わたしんちはまるっきり反対側」

 つまりご近所さんでもなく、赤の他人なのか。わたしはちょっと混乱してきた。

「……いや、待って。ただの知り合いって感じの図々しさじゃなかったですけど」

「図々しいって……わたしは単に、この島の住人たちとはみんな、小さい頃からの付き合いだってだけだよ」

「そうそう」老婆が頷く。「小さいときからあっちこっちで暴れ回って、この島の住人で迷惑を被ったことがない奴なんざおらんな」

「おばちゃんっ!」

 あー、なるほど……岸崎恵がこの島でどういう扱いをされているのか、分かった気がする。

「そういえばお嬢ちゃん、聖木っていうのかい」

「あ、はい、そうですが……」

「この島で聖木って家はひとつしかないが……孫なんていたかねぇ」

「いますよ……」思わず苦笑い。「わたしは聖木正一(しょういち)の孫です。本土で生まれたうえに、ここに来るのは初めてですから。父も忙しくて、わたしの話は実家にもほとんど伝えていないんですよ」

「なるほど、そういうことかい。しかし帰省にはちょっと早くないかい」

「それが……父の次の転勤先が海外で、赴任している間だけ実家に預けられる事になったんです。母がずいぶん昔に亡くなったので」

「そうだったのかい……ここはええ所だよ。ゆっくりしていきな」

 そう言って老婆は部屋を出ていった。

 ……すぐ戻ってきた。

「でもここでゆっくりされても困るがね」

 そう言って老婆は今度こそ部屋を出ていった。うん、赤の他人の仕事場だからね……。

「そっかぁ、奏ちゃんはここに来たばかりなんだね。だから島の事情あまり知らないんだ」

「昔のことなら父さんに聞けるけど、最近のことは父さんも分からないので……恵さんは見るからに島の子って感じですね」

「えっ、そうかな?」

 なんで嬉しそうなんだ……褒めたつもりなんてないのに。

「お父さんはこの島の生まれなんだよね」

「はい……でも、高校卒業と同時に島を出て、仕事を始めてからはほとんどここに来ていないそうです」

「んじゃあ、お父さんも島の子って感じじゃないんだろうなぁ」

「……ですね。元・島の子っていうんなら分かりますけど。わたしに至っては、この島のこと何も知りませんし、島民の孫といってもよそ者感が大きいです」

「だったら、わたしがこの島を案内してあげよっか!」

 ナンパコンビと同じことを言ってるし……わたしがいぶかしげに表情をしかめると、恵は何かを察して慌てだした。

「いやっ、別にナンパの真似事をしたいわけでは……その、これからここに住むなら、地元民と交流を持つのもいいという話で……それにほら! 観光客とかは知らない素敵な穴場とかも教えられるし、いい思い出が作れるよ!」

 さっきのナンパたちとは違うと言いたいんだろうけど、だんだん誘い方が彼らに似てきた。しつこくない分、彼女の方がまだマシだけど。

 わたしが恵の誘いに乗り気じゃないのは、さっきのナンパを彷彿とさせるからだけじゃない。思い出を作ることに消極的であるというのが、いちばん大きい。全国あちこちを転々として、友達もろくに作れないうちにその土地を離れ、記憶に刻まれるほどの体験がほとんどできなかった。そんな事ばかりで、いつしか、思い出を作ることへの興味や関心が薄れてしまったのだ。

 それにこの島にも、いつまでいられるか分からない。父の口からも、今回の海外遠征はごく短期間で終わりそうだと聞いている。帰国のメドが立ったら、またここから離れることになるだろう。遠からず出ていくと分かっている場所で、思い出を作ることに意義を感じられない。

「……別にここで思い出を作りたいとは思いませんけど、案内くらいなら」

「いいの? やったぁ!」

「生活に困らない程度でいいんですからね。学校とかお店とか、そんなもんで」

「だったら、ここから近い所にある神社とか、どう!?」

 恵は瞳をキラキラ輝かせ、わたしに顔を寄せて迫ってきた。

 どう、と言われても……神社って、場所を知らないと生活に困るかなぁ。たぶん、ここにいる間に、お参りが必要になるタイミングは来ないと思うけど。

 というかこの子、顔だけ見れば美少女の類いだ。瞳が大きく細面、軽く日焼けしてはいるが、肌の感じはむしろ健康的だ。格好と言動さえ気をつければ、都会ではさぞや人気者になるだろう。要するに、人目をまるで気にしない露出度高めの格好と、初対面でも馴れ馴れしく接する神経の図太さのせいで、美少女が台無しになっているのだが。

「……学校やお店より先に、神社ですか」

「まあ、神社そのものに見るものはあまりないけどね。山の中腹にあって、海がいちばんキレイに見える所なんだよ。たぶん展望台よりいい」

「ふつう見晴らしがいちばんいい所に展望台を作りますよね……その展望台より?」

「だってあそこは、本土からのテレビの電波をキャッチする電波塔を建てるために作ったもので、本来は展望台じゃないから。観光客もどっちかっていえば、景色より展望台そのものを目当てに来ているくらいだし。見晴らしで言えば神社の方がずっと上だよ」

 その展望台、ドラマではいったいどんな使われ方をしたのだろう……。

「ねっ、行こうよ?」

 やたら押しが強いな……断るという選択肢は与えてもらえそうにない。

 しかし、その神社は山の中腹にあるという。そこに行くとしたら、坂道か、あるいは長めの階段を上ることになるのか……急に走り出して足がつったばかりなんだけど。

「途中からわたしをおんぶしてくれるなら、いいですけど」

「分かった、まかせて!」

 マジかよ。

 恵は満面に笑みを浮かべて即答した。手を引かざるを得ない条件を出したつもりなのに……。


 神社へは階段を上っていくらしい。真っすぐ伸びる階段を入り口から見上げてみたけど、一見して何段あるのか分からない。つまり結構な段数があるということだ。勾配も割ときつそうだ。

「大丈夫ですか? 少しは頑張りますけど、これを、人を背負って上るのは……」

「楽勝だよ~」恵の笑顔は絶えない。「小さいときから、ここの階段使って競走とかしていたし、最近は足腰の弱いお年寄りとかを背負って上っているし」

「それは……どういう経緯で?」

「お参りしたくても出来ないお年寄りは、大体いつもわたしに頼むんだよ。ふだん迷惑かけている分、その無駄な体力使って地域貢献しやがれって。おかげでこっちはだいぶ鍛えられた」

 さらっとディスられているのに、なんで平然としているのだ……いや、もう疑問を差し挟むのも面倒になってきた。

 階段の入り口には鳥居が立っている。少し後ずさりして、鳥居に掲げられている神社の名前を見上げた。

「『猫山神社』……ネコでも(まつ)っているのかな」

「いや、御神体はワタツミ、海の神様だよ。不思議なんだけど、なんでこの神社の名前が猫山神社になったのか、誰も分からないっていうんだよね。一度調べてみたことがあるんだけど、ネコに関する言い伝えも、その痕跡もないんだよ」

「案外、意味もなく適当につけただけかもしれませんよ。行くなら早くいきましょう」

 そう言って、わたしは先に階段を上り始めた。最初の数十段くらいなら、問題なく上れるだろうと思ったのだ。この時は。

 ピシ―――――ッ

 二段上がったところで、ふくらはぎに亀裂が入ったような痛みが走った。あえなくうずくまるわたし。

「くぅぅぉぉおおお……!」

「え、まさか、二段でダウン?」

 甘かった……わたしは、自分の体力を見誤ったことを激しく後悔した。マッサージと水分補給で少しは回復したつもりでいたけど、後遺症が思ったよりひどかった。少しは頑張ると言っておいてこのザマだ。情けないやら悲しいやら。

「奏ちゃん、乗って」

 振り向くと、すぐ隣でしゃがみ込んで、おんぶスタンバイを整えた恵がいた。

「約束だからね、いちばん上まで届けてあげるよ」

 何も言わずにおんぶするのか……わたしが同じ立場だったら、からかったり苦言を呈したりしてもおかしくないのに。純粋なんだろうな、この子は。

 しかし、高校生にもなっておんぶって、冷静に考えるとめっちゃ恥ずかしくないか。自分から言っておいてアレだけど。考えてみれば、背負う側は特に気にしなくても、背負われる側は恥ずかしい思いをすることは分かりきっていたのに。

 でも……恵が笑顔で「ほらほら」とけしかけてくるので、わたしは大人しく、恵の背中に乗ることにした。かなりタッパがあるせいか、意外にわたしの体とフィットしている。

 わたしの太腿に手を回して、恵はわたしを背負い上げた。軽々と。

「よいしょっと……ん?」

「なにか?」

「奏ちゃん……」恵が振り向いて言った。「あちこち柔らかいねぇ」

「絞め殺しますよ」

 さすがにカチンときた。運動不足があちこちの部位に影響していることは、自分でも分かっているけど、他人に言われるのはなんだか腹立つ。つーかこれ、セクハラじゃないのか。

 さすが、近所から無駄な体力と言われるだけあって、恵はわたしを背負いながら、軽い足取りで階段を上っていく。いったいどんな脚力をしているのだろう。急勾配の階段で、重心が後ろに寄らないように、わたしはなるべく恵にしがみついていた。それだけに、彼女が意外にもいい体格をしていると分かる。筋骨隆々ではないものの、丈夫な体つきをしていた。

 なぜだろう……安心して身をまかせられる感触がある。上るたびに揺れるから、まるで、背中で赤ん坊をあやす母親のようだ。だから、なんだか懐かしい。

 不思議だ。転校続きのここ十年の出来事で、記憶に残っている事なんて全くないのに、母親が生きていた頃の感触が、未だに鮮明に思い出せるなんて……。

「ついたよ、奏ちゃん」

 あれ? いつの間に? もしかして、ウトウトしていた? おんぶされて眠くなるとか、赤ん坊じゃないんだから。

 恥ずかしくなりながら、わたしは恵の背中から降りる。真正面には、恵の背より少し高いくらいの、こぢんまりとしたお社があった。お社を包み込むように、木々が茂っている。

「これが、猫山神社? 小さいですね」

「いつごろ建てられたのか、島に残っている文献を調べても分からないけど……少なくとも室町時代以前なのは確からしいよ。それでも神社に関する記述は少ないし、本当にひっそりと作られたって感じだね」

「お社が木々に囲まれているせいで、登ってこない限りは存在も気づかれないかも……」

「まあ、おかげでこの場所は独り占め状態だけどね。後ろを見てごらん」

 後ろ……ということは、海が見える方向だ。階段の出口には鳥居がない。木々もここだけは途切れていて、視界のすべてに空と海が映っていた。

「わあ……っ」

 言葉にならなかった。

 パノラマだ。

 一面の、まぶしい蒼だ。

 真上から降り注ぐ陽の光が、揺らめく海面に反射して、キラキラと輝いている。

 真夏の晴れ空は、吸い込まれそうなくらい透きとおっている。

 目に映る世界のすべてが、鮮やかな蒼で彩られていた。

 まるで、小さなサファイアがたくさん散りばめられたような……海って、こんなにキレイだったっけ。

「船の上で見た海と、ぜんぜん違う……」

「同じだよ」隣に立っている恵が言った。「海はいつも変わらない。天候や風の動きで、少しは変わるかもしれないけど、そんなのはささいな違いだよ。でもね……海を、ただの大量の塩水と見るか、ひとつの大きな存在と見るか、それは大きな違いだと思う」

「大きな、存在……」

「どんな景色もね、見る人の心次第で、どんなふうにでも変わるんだよ」

 心次第で、変わる……わたしは、ついさっきまでの自分から、少しだけ変わったのかな。

 恵を見る。

 山肌に沿って吹き上がる風が、彼女の長いポニーテールをなびかせる。少し汗ばんだ小麦色の首元は、肌触りがよさそうだ。曇りのない瞳は真っすぐに海を見つめ、海の、包み込むような温かさを感じているのか、浮かべた微笑みはやさしく、柔らかい。

 いけない……わたしの中で、今のこの状況に、警鐘が鳴らされている。

 この人がいると、わたしは変わってしまいそうだ。

 思い出なんていらないはずだった。だけど今この瞬間……一面に広がる蒼の世界と、負けないくらい光り輝く彼女の姿が、わたしの中に刻まれようとしている。

「どう? 何度でも来たくなるでしょ」

「何度でもなんて……」

 岸崎恵は笑顔で問いかけてくる。だけど、わたしはそれを見返せなかった。

 ひとりで来たって、きっと同じ景色は見られない。

 あなたがいないと……ダメな気がする。

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