2-4 ディア・マリー~礼菜の思考実験~
わたしの中では、お姉ちゃんの東雲香菜は、わたしが物心ついた時からわたしに甘かった気がします。わたしがやりたいと言った事にはほとんど反対しなかったし、わがままにも笑顔で応えていました。
お姉ちゃんや両親に言わせると、幼稚園の頃までは、わたしも他の同年代の子と同じく、年上の家族に甘えたがる子供だったそうです。特に、なんでもわがままに応えてくれる姉には、当然ながらよく懐いていました。いつから甘えることをしなくなったのか、実をいえばわたしはよく覚えていません。何かきっかけがあって、突然甘えることをやめたわけでない事は確かですが。
家族写真などに写っているわたしの姿を見る限り、幼稚園の期間と小学校入学以降では、明らかにわたしとお姉ちゃんの立ち位置が違います。幼稚園の間は、わたしがお姉ちゃんにしがみついて、ふたりとも笑顔です。小学校に上がってからは、お姉ちゃんがわたしにしがみついて、満面に笑みを浮かべる姉と対照的に、わたしは冷めた目つきをするようになっています。仲のいい友達に見せるたびに、その変化を驚かれています。
「この頃に何かあったわけでもないんだけど……やっぱり不思議だなぁ」
ベッドにうつ伏せで寝転がり、枕元に広げた家族アルバムを眺めながら、わたしはぼそっと呟いた。家族アルバムとは言いますが、大半はお姉ちゃんがわたしを撮った写真です。
アルバムの最初の方には、わたしが生まれる前の写真もあります。三ページ目までは父と母の写真のみで、たぶん夫婦で旅行に行った時とかのものでしょう。四ページ目からはお姉ちゃんを写した写真が出てきます。わたしが生まれるまでの三年分、ざっと三十枚ほどでしょうか。特別な行事以外にも、普段のお姉ちゃんを撮っているものもありますが、そのどれも、明らかにカメラを意識して格好つけたポーズをしています。この頃のお姉ちゃんはどうやら、撮るよりも撮られる方が好きだったようです。
「で、わたしが生まれてからは……」
そうです。お姉ちゃんがわたしだけを写した写真がどんどん多くなっていきます。代わりに、お姉ちゃんが写る写真はどんどん少なくなっています。わたしと一緒に写るのも、決して多くありません。明らかにわたしが生まれた頃を境に、お姉ちゃんは撮られる側から撮る側に回ったのです。
わたしが自然と、甘えることをしなくなったように、お姉ちゃんも自然と撮る側に回っていったのか、それとも何か、変わるきっかけがあったのか……まあ、きっかけがあるとすれば、わたしが生まれたことに違いないでしょう。
でもわたしは、こうやってアルバムを通して見るたびに、寂しい思いが募ります。
「お姉ちゃんの写真も、たくさん見たかったな……」
姉にとってわたしが、被写体にふさわしいビジュアルであるように、わたしにとっても、顔立ちの似ている姉は被写体として十分に映える方だと思っています。あまりに姉の写真の技術が高いので(しかも特別にカメラの勉強をしているわけじゃない)、ここ何年も家族間の写真は姉が撮っている。そのため、近年の家族の思い出を写した写真には、姉が写らないことが多い……それが、わたしにとってとても寂しい。
「わたしがお姉ちゃんを撮ろうかな……あっ、これって」
ページをめくった先にあったのは、お姉ちゃんではなく父が撮ったものでした。大きめのホールケーキの向こうで、わたしとお姉ちゃんが寄り添ってカメラを見ている。お姉ちゃんの嬉しそうな笑顔は、まあいつものこととして、このときはわたしも少し微笑んでいるようです。
これは、わたしが小学校に上がって以降の、お姉ちゃんが写っている数少ない写真のひとつです。
「そっか、そろそろ考えておかないと……いいものにしたいな」
わたしは両腕の中に顔をうずめながら、ぼそぼそと呟きました。そして、アルバムを閉じました。
お姉ちゃんとの思い出は、わたしの脳内にたくさん残っている。だけど、こうやって形になって残っている思い出は少ない。少ないからこそ、残せるものはちゃんと残したい。わたしにとっても、姉にとっても、大事な思い出であれば、きっと……。
その日の朝、わたしはちょっとした失敗をしでかしました。
もともと朝が苦手な方ではあったのですが、今朝は一段と寝覚めの調子が悪く、起きた後の整髪もしっかりできませんでした。おかげで、頭のてっぺんの毛髪が、アホ毛みたいにぴょんと立っていたことに、お姉ちゃんに言われるまで気づかなかったのです。当然これを姉がそのまま見過ごすはずもなく、今朝撮ったわたしの写真の中でも、やっぱり頭頂の毛が立っていました。
うぅ……。学校に到着して姉と別れてからも、そのことで悩まされています。
なんというか、意図せず(姉にとって)フォトジェニックな要素を与えてしまい、格好の餌食にされてしまった気がします。いえ、決して姉に写真を撮られるのが嫌なわけじゃないですが、これ以上エスカレートするのも考えものということなので。撮影欲を駆り立てるようなものを見せたら、さらに助長してしまいそうな気がするので、最近は控えるようにしていたのですが……甘かったです。
しかし、わたしは朝から何をしているのでしょう。早く気持ちを切り替えよう。とりあえず今朝のアホ毛のことは忘れたということにして……。
「見てみて! 昔のおばあちゃんの写真。てっぺんの髪の毛がぴょんと跳ねてて、なんかアホ毛みたいでかわいいでしょ?」
ガツンッ!
昼休みの時間にクラスメイトの美紗からそんな写真を見せられて、急速に今朝の出来事を思い出してしまったわたしは、脱力して、顔面を思い切り机にぶつけました。
「えっ、何、どうしたの礼菜ちゃん?」
「悪いけど……今日いっぱいアホ毛の話はしないでくれないかな」
わたしは机に伏せたまま言いました。
「えーと……何があったのか知らないけど、礼菜ちゃんがそういうなら……」
「んじゃ、わたしに見せておくれ」
そう言ってきた萌花に、例の写真が手渡されます。なんかもう、きょうはその写真を見る気が起きそうにない。
「ほー……モノクロ、いやセピアかな。このおばあちゃん? 高校生とか大学生くらいに見えるから、そのくらい昔の写真なんだよね」
「どこかの城跡に家族で出かけた時に撮った物らしいけど、ついに訊く機会がなくてね。この間そのおばあちゃんが死んじゃって、遺品を整理しているときに出てきたから」
「ああ、そうだったんだ……」
どうやら髪の毛の話には移らないようです。写真の話だけなら参加してもいい、ということで、わたしは顔を上げて言いました。
「そのくらい昔なら、カメラってまだ貴重品だったから、家族旅行とか特別なことでもない限り使わなかっただろうね」
「今はスマホで好きな時に撮れるからね、いい時代になったもんだよねぇ」
「……美紗っちはそう言ってますが、礼菜ちゃんにとってはどうなんでしょう」
モカがこっちをじっと見ながら訊いてきました。言いたいことは分かります。いつもそのくらいの手軽さで、毎日のように写真を撮られているわたしにとって、心からいい時代だと言えるかどうかは……簡単には言えません。
「手軽さだけじゃなくってさ」ミサが言う。「昔のカメラだったらカラーなんて無理だから、思い出をそのまま残すことなんて出来なかったでしょ。その時見えていた景色を、ありのまま写真に残せるっていうのも、現在ならではの恩恵だよね」
「モノクロの写真を見てそう思ったわけ?」
「まーねー。こういう写真の存在を知らなかったわけじゃないけど、実際に見たら、今のわたし達は恵まれていると思えるよ」
知っているけれど実物を見たことがない、そんなものを実際に見たとき、まるで副作用的に新しい何かを知ることがある。あるいは知っていたつもりのことを改めて実感することもある。でもそういう体験は、なかなかできるものじゃない。はっきり言って運次第です。
わたしの場合、あらゆるものを斜に構えて見ているせいで、知っていれば実物を見ても何も得られないことがほとんどです。誰もが同じ体験をできるわけじゃない、運次第であり人次第です。
「まあ……」わたしは口を開いた。「今のカメラだって、見えている景色をどこまでも正確に焼きつけられるわけじゃないけどね。人間の眼がそもそも正確という保証がないし」
「礼菜さんや……」目を細めるミサ。「それは野暮ってもんでしょ」
「そうかな。だってカラー写真の技術が確立した今でも、解像度とかの技術はまだ向上させようとしているでしょ。今でもそれなりに、見えている光景を正確に写せるけど、現代人はそれでもまだ満足できない……というか貪欲にさらなる正確さを求めようとしている。でもね、結局人間の目が再現できる精度を超えることは、どうしてもできないんだよ」
「萌花ぁ……礼菜さんのおっしゃっていることがよく分かりません~」
「礼菜ちゃんは基本的にうがった見方しかできないから」
他人からそこまで言われるほど、うがった視点を持っているわけじゃないけど……。
「あーあ」ミサがわたしの机に顎をのせます。「わたしも礼菜ちゃんくらい、頭がよくてかわいかったら、モテモテになっていたりしたのかなぁ……」
「二年生になってからもう三回くらい告白されたよね、礼菜ちゃん」
「別にいうほど頭がいいわけじゃないし、告白してきたどれも、ほとんど見た目オンリーでやってきてるもん。気が進まないよ」
「確かにね……みんな礼菜ちゃんの見た目に騙されすぎな気がする」
「ちょっと」
まるで中身が残念みたいなモカの言い草に、わたしは少しイラッとした。
「というか、ミサはかわいいと思うよ。高嶺の花みたいな綺麗さより、ほどほどのかわいらしさの方が、ハードル低くて案外人気になったりするものだよ」
「かわいいと言ってくれるのは嬉しいけどさ、それ……」苦笑するミサ。「自分は高嶺の花みたいな言い方に聞こえるけど」
「まさか」これは自信をもって即否定します。「わたしだって自分の見た目がそんなにいい方だなんて思ってないよ。見た目も中身も上のひとが身近にいるからね」
「それって、礼菜ちゃんのお姉さんのこと?」モカが訊いてきた。「中身はよく知らないけど、見た目は礼菜ちゃんと大差ないんじゃないかな。つーか、どっちも美人に見える」
「お姉ちゃんのことを美人というのはいいけど、わたしまで並べられても……」
「礼菜ちゃんのお姉さんって、この間放課後にここに来てたひと? 礼菜ちゃんほどじゃないけど、なんか大人っぽい雰囲気のひとだったよね~。あれが大人の女の色気ってやつか」
「違うと思う」
速攻で否定するモカ。残念ながら、わたしもモカと同感です。お姉ちゃんは以前に、ここの校門でモカとミサの二人と会っているけど、二人の前でどんなことをしたら色気が漂っていると思われるのでしょうか……。
「そういえば」ミサが言う。「その日に礼菜ちゃんに告白してきた木村くんが言ってたけど、礼菜ちゃんが告白を断ったのって、お姉さんが機嫌悪くするからだって?」
わたしは、片方の眉がぴくりと動いたのを感じました。
「……どうして誰もかれもそんなおしゃべりなのかなぁ。確かに言った気はするけど、正直どんな理由をつけて断ったかなんて覚えてない」
「でもお姉さんのことは事実なんでしょ?」
「…………はあ」ため息をつく。「まあ間違ってはいないけどさ」
「それってやっぱり、礼菜ちゃんのお姉さん、シスコンってことなのかな。しかも礼菜ちゃんの方は、そんなお姉さんに気を遣って告白を断ったってことになるよね?」
うーん……そこは非常に悩ましいところだ。お姉ちゃんがシスコンというのは、なんとなくわたしもそんな気がしているけど、その姉に気を遣ったというのは……どうもしっくりこない。
「つまりあれか」と、モカ。「そちらの姉妹は互いにシスコンということなのかな」
「えっ、わたしまでシスコンってことになっちゃうの? やだなぁ」かぶりを振る。「そんなところまでお姉ちゃんと同列にされるのは」
「なに、お姉さんと似た者同士にされるのは嫌なの? どうして」
「いや、だってさ……」
断っておきますが、これは純粋に偽らざる本心です。下手に嘘の理由をでっちあげると、なんだかお姉ちゃんを貶すことになりそうで嫌なのです。
「お姉ちゃんは、今みたいな適度に温度差のある関係が好きだから、これ以上に似たところが増えると気を悪くして……」
「「やっぱり礼菜ちゃんもシスコンだ」」
「がくっ。声を揃えて言うんじゃないよ……」
うぅむ、これはどうもよろしくない。姉への甘えをやめたとはいえ、姉への依存心が完全になくなったとはいえず、わたしの行動はほとんど姉を中心にできているといってもいい。本心をたどるといつも、姉への依存に行き着いてしまう。それはたぶん姉も同じだけど、わたしへの愛情を隠さない姉と違って、わたしは依存心を態度に出さない。そのくせ放っておいたら膨らんでいく一方である。どうしたものか。
「あーでも、なんかホッとしたかも」ミサが微笑んで言う。「いつもクールでとっつきにくい感じの人だと思っていたけど、お姉さんのことになると割と普通の女の子……というかまさに妹って感じになるんだね」
「そうだね。前に倉本さんの一件で会った時は、お姉さんばかり礼菜ちゃんに甘えていたような感じだったけど、礼菜ちゃんもお姉さんのことが好きなんだね」
「好きって……そりゃあ嫌いじゃないけど、そこまではっきり言えるわけじゃないし」
「ふうん……」
なぜかモカはわたしに、呆れたような、訝るような視線を向けてきます。こっちはさっきから正直に話しているのに、何が気に入らないというのでしょう。
「両想いならいっそ付き合っちゃえばいいのに」
ミサがニヤニヤ笑いながら言ってきます。どう飛躍したらそんな話になると……。
「いや、姉妹の間柄で両想いもなにも……というか、なんで付き合うって事になるの。女の子同士、いやそれ以前に血の繋がった姉妹だよ」
「二十一世紀の日本で、そんな些細なことにこだわることもなくない?」
「こだわる人間は二十一世紀の今でも山ほどいるから。ほら、いつだったかどっかの高校で、女子生徒が女の先輩を好きになったと知られた途端、陰湿ないじめを受けて不登校に追い込まれたってことがあったじゃない。まだそういうのを気持ち悪がる人も結構いるんだよ」
「あー、聞いたことある。その不登校になった女子高生って、あれからどうなったの?」
「そこまでは知らないけど……とにかく、女の子同士で、しかも姉妹で付き合うなんて、どんなことになるか分からないんだから、無闇に考えるもんじゃないよ」
「まあでも」モカが言う。「お姉さんの方は、そんなの気にしなさそうだけどね」
「それに、少なくともわたしらは礼菜ちゃんの味方でいてあげるよ」
なぜですか……この二人はどうしても、わたしとお姉ちゃんをくっつけたいようです。
「だぁかぁらぁ、いくらわたしがお姉ちゃんのこと好きだとしても、それは姉としてという以上のものじゃないから。勝手に恋愛感情に押し上げないでくれるかな」
「あのさぁ……わたし達が勝手に、礼菜ちゃんの愛情レベルを格上げしたと思ってるの?」
なんですって? モカのひとことに、わたしは一瞬耳を疑いました。
「だって、お姉さんの話が始まってからずっと、礼菜ちゃん、顔赤くなってる」
…………。
…………。
「…………えっ、ホントに?」
「あちゃー」モカは頭を抱えました。「やっぱ自覚できてなかったか」
ちょっと待ちなさいよ。そんなあからさまな変化があったなら、ひとことくらい言ってくれてもよかったのに。というか、本当に赤くなってる?
自分で頬を両手で押さえてみましたが、両手の温度が最初から高いせいか、触ってみてもよく分かりません。手鏡とかも持っていないから、これ以上確かめようがありません。
「いやー、お姉さんのことでこんな反応するなら、お姉さんとくっつくのも悪くないかなーって思ったんだけど」
と、笑いながら話すミサ。それで急に付き合うなんて話になったのか……。
「けど、お姉さんはともかくとして、礼菜ちゃんが自分の気持ちにまるで自覚を持ってないなら、とてもくっつけるのは難しいね。この際だから、ちゃんと確かめておきましょう」
「いや、そもそもくっつけようとしなければこんな厄介なことにはならないんじゃ……」
「礼菜ちゃん。今から状況を与えるから、それをしっかり想像して。その上でこっちの質問に答えてほしい」
こっちの言い分に構わず、モカはかなり勝手に話を進めようとしています。
「何それ、思考実験? シュレディンガーの猫じゃあるまいし」
「シュレ……? よく分かんないけど、とにかくわたしの言うとおりにしてよ」
「はいはい、もう……」
何をするつもりか分かりませんが、大人しく従った方が、話がややこしくならなそうです。
「まずはいつもの光景。自宅の一室で、お姉さんが礼菜ちゃんにひっついている」
「あー、本当にいつもの事だから容易に想像できるわ……」
「その状況に身を委ねて……どんなことを思った?」
「どんな、って……もう慣れたし、悪くはないと思ってるよ」
「ふむ。この程度なら姉妹のスキンシップってことで済ませられるね。次、お姉さんが礼菜ちゃんに告白してきた。ずっと前からね、礼菜のことが好きだったんだよ、って感じで」
「きゃー」
ミサも想像したのか、ひそかに黄色い声を上げています。
「うん……正直、これも案外簡単に想像できるっていうか、お姉ちゃんならそのうち言ってきてもおかしくない気がする」
「で、その状況になったら、礼菜ちゃんはどう思うかな」
どう思うか……と言われると、不思議と嫌な気はしない。
「まあ、嬉しいかな。お姉ちゃんは普段からスキンシップ過多だし、その延長だと思えば、今さら気持ち悪く思うこともないし……といっても、いつも一緒にいるわけだし、付き合ってと言われても答えはしなかったかな」
「付き合ってほしいと言ってきた、とはひとことも言ってないんだけど」
ぐっ……。
なんだか揚げ足を取られた気分だ。思いのほか想像が簡単すぎて、少々想像が行きすぎてしまったかもしれない。
「でもまあ、ここまでは正直言って想定の範囲内。本番はここからだよ」
「本番って……このうえ何をするの」
「お姉さんが告白されました。もちろん礼菜ちゃんじゃなくてね。でもお姉さんはこう言って断りました」
お姉ちゃんなら誰に告白されてもおかしくないけど、そっか、断るのか……。
「わたしには、わたし以上に大切にしたい人が他にいるから、と」
……それって、誰のことです?
「それが誰なのかはあえて言わない。だけどその様子だと……真っ先に自分を思い浮かべたみたいだね」
モカに指摘されて、わたしは思わず視線を逸らしました。
……当たりです。ここまでわたしと姉が一緒のところばかり想像したからかもしれませんが、モカが姉に代わって言うところの“自分以上に大切にしたい人”が、ひょっとしてわたしではないかと思ったのは、事実です。気づかれたということは、また何か顔に出たのでしょうか。
「礼菜ちゃんって、意外と図々しいね……」と、ミサ。
「いや、だって普段のお姉ちゃんを見ていたら、そう思いたくもなるって」
「普段のお姉さん知らないからなぁ」
普段の姉がどうであるかという以前に、わたしが自然と姉を中心に行動してしまう事もあって、そんな発想に至るのでしょう。これはずいぶん前から自覚できていたので、この結果から、わたしが姉を特別に思っているとは言い難いです。モカはその辺を分かっているのかいないのか、ずっとぶつぶつ呟きながら考え事をしています。
「……これでいくか。じゃあ、礼菜ちゃん」モカが真顔で言った。「その告白をもし、お姉さんがOKしたら?」
「…………え?」
「その告白した相手を好きになって、付き合い始めたら、どう思う?」
どうって……そもそも全然想像がつかないのですが。
「手を繋いでデート。あるいはキスとかもするかも。礼菜ちゃんには見せたことない表情を、その人にだけ見せるなんて事があったら、どう思う?」
そんな、ことは……ありえないとはいえない。これはただの想像だし。
だけど、何だろう……この、心臓が少しずつ抉られ、すり減っていくような感覚は。
上には上がいる、そんなことは分かっていた。それでもお姉ちゃんのことは、誰よりも理解しているつもりだ。笑顔も、泣き顔も、怒り顔も、お姉ちゃんの表情のすべてを知っている。そのはずなのに……なぜだろう、いま、モカが与えたその状況を想像したら、その自負が徐々に崩れていくみたいだ。
思い浮かんだ表情は、まったく見覚えがない、名状しがたい姉の表情。
それは間違いなく、恋を知った人の顔だった。
わたしの知らない表情が、そこに確かに存在していた。
「礼菜ちゃん? どうしたの?」
誰かが話しかける声だ。ミサだろうか。ダメだ、冷静に判断できない。
手を繋いでデート? 別にいいじゃないか。わたしだって頻繁に繋いでいる。
恋人とキス? キスは愛する人とするもので、何も不自然じゃない。
でも……そんな顔を、わたしの知らないその顔を、なんでその人だけには見せているの。どうしてその人は、わたしの知らないお姉ちゃんを引き出せるの?
「あっ……礼菜ちゃん!」
そんなことができたら、お姉ちゃんは、わたしから離れてしまう。嫌だ、そんなの……。
嫌だ!!
……呼吸が苦しい。心臓が締めつけられそうだ。肩にもかすかな痛みを感じる。
体がユサユサと揺らされている。誰かの呼ばわる声が聞こえる。
「礼菜ちゃん!? 大丈夫? しっかりして!」
もしかしてわたしは……苦しさのあまり椅子から転げ落ちて、倒れたのか。ああ、だからさっきから、ざわめきと、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえてきている。
すると、わたしの体が持ち上げられ、二本脚で立たされた。片腕が誰かの肩に乗っている。今のわたしに、自力で直立するだけの力は出せない。
「大丈夫、わたしが保健室に連れていくから。美紗っち、先生が来たら話しておいて」
「う、うん、分かった……」
わたしを担いでいるのはモカか……意外と力強かったんだね。
頭のなかで梵鐘がガンガン鳴らされているみたいだ。聞きたくない。もう何も考えたくない。感じたくない。その思いが大きくなっていくと、わたしの意識はふっと途切れた。
目が覚めた時、わたしは、真っ白なシーツの中で横たわっていた。
耳の奥、頭のなかの鐘の音は止んでいたけど、まだ反響しているようでズキズキする。起き上がる力はないけれど、目を開いて、景色を見ることはできた。
かすむ視界の端に、モカがいた。
「あ、起きた?」
「モカ……ここ、保健室?」
「そうだよ。自分の身に何が起きたか分かる?」
「……思考実験の最中に、急に体調に異変を生じて倒れた」
「よかった、脳みそは正常に動くみたいだね」
わたしの口調が伝染ったのか、モカまで起伏の少ない言い方になっている。本当に正常に動けているかどうかは怪しいですが。
「はあ、保健室に運ばれるなんて初めてかも……いま何時?」
「四時半を過ぎましたね」スマホを見てモカが答える。
「午後の授業ぜんぶ終わっちゃったかぁ……」
「まあ仕方ないよ。受けられる状態じゃなかったんだもの。それよりわたし的には、気を失うほどのショックを礼菜ちゃんが受けたことがびっくりだけど」
誰のせいだと思って……そう言いたかったけど、頭痛がひどくなりそうだからやめました。
「おかげでよく分かったよ。他の人と付き合うところを想像するだけで気分が悪くなるくらい、お姉さんのことが大好きなんだってこと……お姉さんと同じじゃない」
「……同じじゃないから」
もう一度目を閉じて落ちつけてから、わたしは言った。そう、モカの指摘はお門違いだ。
姉のことは誰よりも分かっていて、姉もわたしのことを分かってくれる。だけど、姉がわたしと一緒にいても知れなかったことを、他の誰かの前で知ってしまったら、その信頼は根底から崩れてしまう。そうなったとき、姉の心はわたしから離れてしまう。そんなことが想像されてならない。これも行きすぎかもしれないけど……。
ブー、ブッ
メッセージ着信のバイブレータ音が聞こえた。わたしのスマホは、そばのハンガーにかけられた制服の上着の中だった。上半身だけ起こしてスマホを取ろうとすると、気を利かせてモカが取ってくれた。表示されていたメッセージは、
『レナ、きょうも一緒に帰れるよね』
……お姉ちゃんからでした。そっか、もう帰る時刻なんだ。
「お姉さんから?」
「うん……いちいち確認しなくても一緒に帰るのに」
「ふうん」
とはいえ、この状態では少しの間待たせなければなりません。わたしは端末のロックを解除し、この状況を含めて返信を書こうとしました。
ところが、ロックを解除してすぐ、モカにスマホを取られてしまいました。
「ちょっ、モカ?」
モカは素早い指さばきでスマホを操作し、すぐにわたしに返しました。返したといっても、膝元にかけられたシーツの上に、ポイと放り出しただけですが。いったい何をしたのか、わたしは慌ててスマホを手にとって確認しました。アプリ画面にメッセージが追加されています。
『ごめん、急な用事が入ったから、帰るの遅くなっちゃう』
『待たせるのも悪いから、先に帰ってくれないかな』
「…………!」
唐突に寒気が襲ってきました。前半はほぼ嘘ですし、後半はわたしの意思と逆です。
「ちょっとモカ! なんてことを!」
「お姉さんに余計な心配をさせたくないでしょ。そもそも礼菜ちゃんが倒れた理由、礼菜ちゃんの口からちゃんと説明できるの?」
モカは自分の学校指定カバンを肩にさげながら、冷ややかに言いました。反論の言葉が思いつきません。
確かに説明できないかもしれません。原因を説明しようとすればどうしても、きょうの思考実験でやったこと、そしてわたしが気づいてしまった心情を、話さなければなりません。話したところで、お姉ちゃんがわたしを見限ることはないでしょうが、気まずくなって家での居心地が悪くなるのは避けられません。
黙っていることもできますし、わたしが言いにくそうにすればお姉ちゃんも無理に聞いてくる事はないでしょう。それでもわたしと姉の間にしこりが残ることに、変わりはありません。
「それじゃあ、礼菜ちゃんが起きたってこと、先生に伝えてくるからね」
「あ、待って! わたしが倒れたこと、家の方にはもう伝わってるの?」
「そりゃあ学校が黙ってるわけないし。まあ安心して。心配させたくないからお姉さんにはまだ黙ってほしいと、礼菜ちゃんが言ってたって伝えたから」
もちろんそんな事はひとことも言っていません。モカって、そんな平気で嘘をつける人だったかな……。
「まあ、お姉さんに知られたらその時で、礼菜ちゃんが自分の口で気持ちを話すチャンスになるだろうけどね。とりあえず落ちついてから帰るようにね。じゃっ」
そう言ってモカは保健室を後にした。養護担当の先生は席を外しているみたいで、いま保健室にはわたししかいない。
ひとりぼっちになるのは久しぶりだな……そう思いながら、枕元に倒れ込む。
モカはたぶん、わたしが自分の気持ちを自覚した直後だから、お姉ちゃんと顔を合わせられないと思って、あんな事をしたのでしょう。その気持ちの中身について、わたしとモカでは考え方にズレがあると思いますが、確かに今の状態でお姉ちゃんと会っても、まともに会話ができる自信はありません。モカの言うとおり、気を落ちつかせる時間が必要みたいです。
でも……冷静にならなければいけないと思う一方で、膨らみ続けている感情もあります。そんな時にひとりぼっちというのは、なかなかつらいものです。
「会いたいよ、お姉ちゃん……」
無機質な天井をぼうっと眺めながら、うわ言っぽく呟きました。
それからは、誤って寝落ちしてしまわないよう、気を張ってばかりでした。
三十分ほど経ってから、ようやく戻ってきた養護担当の先生に事情を話し、わたしは帰宅することにしました。平時にひとりで下校するのは初めてです。
家に到着して中に入ると、すでに学校から連絡を受けていた母が、心配そうな様子で駆け寄って来ました。
「礼菜、大丈夫? 倒れたって聞いたけど」
「うん、もう平気……ああいや、まだちょっと頭痛がするかな」
「あんまり無理しないで。きょうは早めに寝ましょう」
「分かった。それで……お姉ちゃんは、もう帰ってるよね。何か言ってた?」
あのメッセージはモカが打ったものだし、お姉ちゃんならもしかしたら、文面のわずかな違いとかで、嘘を見抜いている可能性があったのです。それでも先に帰ったのなら……わたしは、どんな顔で会えばいいのでしょう。
「ああ、香菜なら……帰ってきた途端、ただいまも言わずソファーで寝ちゃったわよ」
「え?」
「あの元気娘も疲れて寝入ることがあるのね。モカちゃんだっけ、あの子から、香菜にはこの事をもう少し黙っていて欲しいって言われたけど、そうするまでもなかったわ」
そのとおりでした。リビングをのぞくと、お姉ちゃんはソファーの上で横になり、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てています。お姉ちゃんの寝顔は久々に見ますが、こうして間近で見ると、かわいらしいと思ってしまう自分がいます。
屈託の一切ない寝顔……メッセージの嘘には気づいていないようです。
「ぅ~ん……もう食べれない~? 遠慮しなくていいよぉ~、レナぁ」
なんてタイミングの悪い寝言でしょうか。夢の中でもわたしを餌付けしているって、どんだけわたしにお菓子を作りたいんですか。
本当に、お姉ちゃんはわたしのことが大好きなんですね。わたしはまだ、自分の気持ちが何なのか、見つめきれていないのに……。
「……ねえ、お母さん」
「ん?」台所に戻ろうとした母が立ち止まります。
「お姉ちゃんはなんで、わたしにこんなに構ってくるんだろうね」
同じ疑問を共有してほしい、という軽い気持ちで聞いただけですし、そもそも姉の気持ちを母が完璧に理解しているかどうかは分かりません。でも母は、実にあっさりと答えました。
「そりゃあ礼菜、あなたが香菜にとって、特別な妹だからでしょ」
「特別って……確かにある意味では特殊な姉妹だろうけど、そんな事で?」
「そんな事で、よ。香菜にとってはね、本当の意味での愛情を始めて教えてくれた存在だから」
本当の意味での、愛情……いまお姉ちゃんがわたしに抱いているのが、それなのか。
「礼菜が生まれる前の香菜はね、お母さんやお父さんが甘やかして育てたせいか、自分がいちばんかわいいと思い込んでいる所があったのよ。だから目立ちたがりでね、幼稚園の子たちと一緒に写真を撮るときも、いつもいちばん真ん中に割り込んでくるし、レンズを向ければ必ず、かわいいと思えるポーズを色々試したりしていた」
その頃の写真なら前に見たことがあった……撮るより撮られる方が好きだった、お姉ちゃんの幼少期。かわいさで自分に勝るものはないと思っていた、自信家の側面だったのか。
「だけど、そんな頃に礼菜が生まれて、自分よりずっとかわいい存在に出会って、香菜は心を打たれた……初めて人を、心から愛でるようになったの」
「…………」
「香菜にとって礼菜は、自分の世界に、見たこともない輝きをくれた、大切な存在。誰よりも特別になるし、誰よりも深い愛情を注ぎたくなるのよ」
「わたしなんて……お姉ちゃんと比べたら、全然……」
「これは香菜がどう思ったかの話よ。あなたはね、生まれた時からずっと、香菜のかわいい妹なんだから」
そう言って、母は台所に向かいました。わたしは再び、寝ている姉を見る……。
お姉ちゃんも、自分が知らなかったものを、もとい頭では理解できていても自分のものにならなかったものを見せられて、心を揺さぶられた事があった。その果てにお姉ちゃんは、わたしに深い愛情を抱くようになった。知らなかったものを、自分のものにできたから、今のお姉ちゃんはここにいる。そして、わたしがいる。
ああ……そうか。これも一種の独占欲なんだ。
わたしの知らないお姉ちゃんが、どこかにあってもおかしくない。わたしはそれが自分のものにならないと思ったから、強いショックを受けてしまった。それが答えだ。
モカの言ったことはぜんぶ当たっていました。実験は見事に成功したのです。
「お姉ちゃん……かわいいなぁ」
こっそりそう呟いて、姉の鼻の先をちょんとつつく。
わたしはやっぱり、お姉ちゃんのことが大好きみたいです。
※解説※
『マリーの部屋』オーストラリアの哲学者、フランク・ジャクソンが提唱した、クオリアに関する思考実験。モノクロのみの空間で、色覚に関するすべての物理的事実を手にした科学者が、色彩のある世界に出たら何か新しいことを学ぶだろうか、というもの。もし得られるものがあれば、それは経験により主観的かつ感覚的に得られるものであり、それをクオリアと呼ぶ。あくまで思考実験であり、色覚に関するすべての知識を得ておくというのは現実的でないため、実際に行なうことはほぼ不可能である。




