2-3 ディア・キャット~香菜の思考実験~
2-3と2-4は同日のエピソードを姉視点と妹視点に分けて描いています。
どちらも結構長くなりましたが、どうぞお楽しみあれ。
なお、作中での“思考実験”は本来の意味と異なる可能性があります。ご了承ください。
今でこそ、妹の礼菜はクールで感情が表に出ない性格だけど、もちろん生まれた時からクールだったわけでは当然ない。幼稚園の頃までは、姉であるわたしの後ろをトコトコとついて来たり、手を繋ぐようせがんだりするような、甘えたがりの妹だった。わたしもそんなレナの素振りがかわいくて、笑顔でそれに応えたりしていた。
いつからレナが、クールで素っ気ない感じになったのか、実をいえば、ずっとそばにいたわたしにも分からない。たぶん小学校に上がったあたりから、レナがわたしに甘えてくることが徐々に少なくなって、わたしもそれを一種の成長と考え、深く突っ込もうとしなかった。
でも、後になって冷静に考えた時、そんな成長がありうるのかと思うようになった。わたしは基本的に、レナのことをずっと甘やかしてきた。自我もできあがっていない幼少期から甘やかされて育てば、そのまま甘えん坊に育つような気がするのだが。まあ、ぶっきらぼうな態度をとったところで、レナがかわいいことに変わりはないので、どこかで甘えないことを覚えたとしても、わたしは簡単に受け入れられたけど。
「うん、甘えん坊のレナも、ぶっきらぼうなレナも、どっちもかわいい」
わたしはベッドに寝転がりながら、枕元に広げたアルバムを眺めていた。家族のアルバムという体の、実際はわたしが撮影したレナの写真ばかりのアルバムです。リビングの棚に仕舞われていたものを引っぱり出してきたのだ。
こうやって、生まれた時から今までのレナを通して見てみると、かわいらしい容貌はそのままに、しっかりと成長していることが窺える。物心がついているかも分からない頃は、わたしの膝の上にちょこんと収まっている。わたしが小学校に入った頃になると、わたしの体にひっついて離れてくれない。レナが小学生になると、わたしの方が積極的にひっつくようになっている。
ある頃からはレナがひとりで写っている写真が多くなっているが、たぶんこの頃にわたしがカメラの扱いを覚えたからだろう。その辺りを境に、レナはカメラを向けると、あからさまに呆れた表情を見せるようになった。そのくせ、気づけばしっかりカメラ目線になり、何かしらポーズをとっている。
「レナって、意外とカメラ嫌いじゃないんだよね……」
何しろ、普段の様子を勝手に撮っても、レナは呆れるだけで何も言わないからね。
でも……アルバムをめくっていくうちに、違和感が生まれてくる。
「レナ、わたし以外の人が撮った写真だと、本当に能面みたいな無表情だよな……」
アルバムの中には、親子遠足や修学旅行の写真も混ざっているが、呆れることはさすがにないとしても、笑顔は微塵も見えない。むしろ冷徹な雰囲気さえ漂わせている。周りの子たちが笑顔でピースサインを見せている中で、ひとりだけカメラをただじっと見ているだけだ。
些細な違いなんだろうけど、レナよ……あんまりよろしくないぞ、それは。
「わたしと他の人とで、態度の違いを見せるのはよくないなぁ。特別扱いは嬉しいけど、お姉ちゃんとしては、誰とも区別なく接してほしいものだね」
とはいえ、これは純粋にレナの問題であって、姉だからといって、無闇に口出ししていいものではない。だいたいレナはそんな事を望まないだろうし。まあ、レナが本当にわたしを特別扱いしているのか、本人に聞かない限りは分からないけど。
―――――わたしがお姉ちゃんに、嫌われたくないだけだと思う。
大丈夫、わたしがレナのことを嫌うなんて、天地が引っくり返ってもありえない。レナが生まれた時から、レナはわたしにとって特別な存在なんだもの。
「……あっ、そうか」
めくった先のページに貼られていた写真は、わたし以外の人が撮ったときでただ一つ、レナがかすかに笑顔を見せてくれたものだった。父親が撮影したもので、やや大きめのホールケーキの向こうで、わたしとレナが寄り添ってカメラに顔を向けている。
「レナももうすぐ、十四歳になるんだよね。あっという間だなぁ」
眼福の時間はここまで。わたしはアルバムを閉じた。
まだまだ、これからも、アルバムを埋める思い出は増え続けていくよ。
今朝もレナと一緒に家を出て、レナの通う中学校の前で別れて、わたしは自分の所属する高校へと向かう。きょうは勢い余ってレナの写真を二枚も撮ってしまい、朝から心ホクホクの感じで登校している。
「はあ〜、寝癖直し損ねてのアホ毛のレナ、めっちゃかわいかったなぁ〜」
わたしがつんつんと指で揺らすまで、アホ毛ができていたことに気づかないんだから、こういうちょっと抜けている所がレナのキュートポイントだね。妹が朝に弱いと、姉にとっては役得なのだ。
「…………ん?」
いつもの通学路を歩いている途中、奇妙なものを見つけた。
段ボール箱だ。いや、段ボール箱そのものは別に奇妙じゃないけど、蓋を全開にして逆さまになった状態で、ずるずると歩道の上で動いている。
「なんと! 生きた段ボール! これは動画で撮らねば!」
さっとスマホを構え、動画の撮影を始める。
いや、本気で段ボール箱が生きて動いているなんて思っていませんよ? こう見えてわたし、おバカキャラではないつもりだし。変態キャラではあるけど。
動画撮影を続けながら、わたしは、不規則に動いている段ボール箱を片手で掴み、持ち上げてその中身を露わにした。中にいたのはネコだった。
「なんだ、お前……ドジ踏んで段ボールから出られなくなったか。災難だったねぇ」
首輪がないから野良ネコだと思うけど、かわいくてちょっと触ろうと思って手をのばした。すぐ逃げられたけど……。脱兎のごとく、じゃない、脱猫のごとく。
「あら〜〜」
わたしの、間の抜けた声も、当然ながら動画に記録された。
そんな出来事の一部始終を収めた動画を、学校についてからユミとスズにも見せてみた。
「香菜ってさ……地味に持ってるよね」
「朝からこんなリアル面白映像を見られるとは、お主、なかなかやりよるな」
「二人とも、ものすごく微妙な褒め言葉をどうもありがとう」
ネコが入って動く段ボールの映像は、ありがたいことに友人ふたりにも好評だった。
「しかしアレだね、香菜って妹ちゃん以外のものも撮るんだね」
「うん、意外かも」頷くユミ。
「別にレナしか撮ってないわけじゃないよ……小学校の時からカメラは好きだったし」
「そういえば香菜、中学校の修学旅行でカメラ係を担当していたよね」
「そうだったの?」
ユミが驚いた様子で言った。スズとは中学からの付き合いだけど、ユミと友人になったのは高校に入ってからだ。
「どれも本当に上手く撮れていて、先生からもお墨付きをもらってたね」
「うーん……」腕組みして唸るユミ。「勉強も運動もひと通りできて、人付き合いも上手くて、料理もできて、その上カメラの腕前も……こいつの汚点は変質的なまでの妹好きだけかよ」
「こらユーミン! 褒めるのは別に構わないが、わたしのレナへの愛情を汚点と呼ぶな!」
「だからわたしをユーミンと呼ぶな!」
「いいコンビだね、ふたり……」
スズよ、わたしらは決して漫才をしているわけではないぞ。
それにしてもこの二人、わたしの妹自慢にはかなり辟易しているみたいなのに、不満を言いながらも付き合ってくれているんだよな。妹自慢は中学の時からやっているけど、何だかんだちゃんと聞いてくれるのはユミとスズの二人だけだ。
「二人はさ……」
「ん?」
「なんでレナの話に、飽きもせず付き合ってくれるの?」
「いや、正直だいぶ飽きてるよ。自慢のバリエーションが変わらんし」と、ユミ。
「何度も似たような話を聞かされているから、またか、としか思わない」と、スズ。
うぅ……なんとなくそんな気はしていたけど、面と向かって言われると心にグサリとくるな。
「そこまで思ってんのに、なんで付き合うのかな……普通なら愛想尽かしてもいいよね」
「それ、そういうところ」
ユミがわたしを指差して言った。いや、指示代名詞だけじゃ分からんし。
「え?」
「香菜って、なんだかんだ言って他人のことをちゃんと考える……というか、考え過ぎちゃうところがあるからね。だからほっとけないというか」
「口を開けば自分のことより妹ちゃんのことばかりで、でもわたし達の話にもちゃんと耳を傾けてくれるし、香菜とおしゃべりするのはやっぱり楽しいし」
「わたしらは……香菜がいい奴だって事も、香菜が妹さんのこと大好きだって事も、ちゃんと分かってるからさ、今さら愛想尽かしたりなんてしないって」
ちょっと恥ずかしそうに、でも確かに、ユミはそう言った。
ああ、なんかもう、この二人は、よくもまあ……色んな感情が去来して、居ても立ってもいられなくなったわたしは、椅子から立ち上がってユミのそばに歩み寄ると、その、ちょっと肉付きのいい体躯に抱きついた。
「ユーミン愛してるぅぅ〜」
「ちょっ! な、なんで抱きついて……」
「かーらーの」パッとユミの体を離すと、すかさずスズにも抱きつく。「スズも大好きぃ〜」
「妹ちゃんの気持ちが少し分かった気がする……」
なんだなんだ、二人ともちっとも嬉しくなさそうだなぁ。こっちは二人がわたしのことをそこまで分かっていてくれて、嬉しさひとしおだってのに。
暑がりなのか、制服の襟元をつまんでパタパタと前後に揺らしながら、ユミが言った。
「まったく……こんなこと、もしかして妹さんにも普段からやってんの?」
「さすがに毎日はやってないって」
「つまり結構頻繁にやってんのね……」
「ていうかいつまで抱きついてんだ、暑苦しいからさっさと離れろ」
暑苦しいとはひどいなスズよ。言われていつまでもハグし続けるわけにいかないから離れたけど。
「はあ……」ため息の後にユミは言った。「スキンシップ過剰な奴だとは思っていたけど、ここまでとはね……ホントに香菜って、妹さんのことが好きなんだね」
「そりゃあ好きだよ。かわいい自慢の妹だし。ついでに言えば、わたしとレナは“特別な姉妹”なんだよ。だからなおさら思い入れも強いというか」
「特別な姉妹?」
「何かにつけてそう言うんだよね」スズがユミに向かって説明した。「わたしは中学の時から聞いてるけど、未だにちゃんと意味を聞いてないんだよねぇ。世にも珍しい姉妹としか」
「珍しい姉妹、ねぇ……現状だけでもかなり珍奇な関係性だと思うがな」
溺愛する姉と冷静にあしらう妹、ってか? あながち間違ってないから腹が立つ。
「まあまあ、そのうち機会があったら話すから」
「それさ、言って先延ばしにして結局言わずに終わるパターンだよね。まあいいけど……それだけ?」
「それだけって?」
なぜかユミは疑いの眼差しをわたしに向けている。何が気に入らないんだ。
「香菜を見ているとさ、たまに心配になるんだよね……このまま妹さんへの愛情が行き過ぎて、姉妹愛の域を超えてしまうんじゃないかって」
「なにさ、姉妹愛の域を超えるって」
「だからつまり、その……」
口ごもるユミ。言いにくいのを察したのか、スズが代弁した。さらっと。
「妹ちゃんと恋仲になるのを望んでるってこと」
「ぐっ」
言いたいことを端的に言われて、図星を突かれたように言葉を詰まらせるユミ。
恋仲……? わたしと、レナが?
いやまあ、それはそれで大変魅力的ではあるけれど、それをわたしが望むって……。
「いやー、それはないよ」
わたしが笑顔で否定すると、二人は少し驚いたような顔になった。
「そもそも姉妹で恋仲っていうのが現実的じゃないし、レナはそんなこと考えないよ。わたしだって、今の適度な温度差のある関係が好きだから、それ以上の関係なんて望まないし」
「……香菜はそれでよくても、妹さんは分からないじゃない」
「いやいや、二人ともレナとは会ったことあるでしょ。あの子はわたしに、嫌われたくないと思うことはあっても、それ以上に距離を縮めたいって考える子じゃないよ。そんな素振り、レナが生まれて約十四年間、一度たりとも見たことがないし。レナが望んでいない事なら、わたしが望む余地なんてないよ」
「ホントにそうかな……」
逆になんでユミは疑わしそうにしているのだ。普段のわたしたち姉妹のやり取りを見て、恋仲なんて発想に至るわけがないのに。それとも何か、わたしがレナの気持ちを無視して、身勝手な欲望を押しつけようとしかねないとでも思っているのか。だとしたら、わたしのことを低く見積もりすぎだぞ。
すると、スズがこんなことを言い出した。
「ほら、妹ちゃんも香菜と同じで気を遣いすぎるところがあるから……香菜だって、妹ちゃんが普段から何を考えているか、ぜんぶ分かるわけじゃないでしょ」
「そりゃあ、ねえ。姉妹とはいえ、エスパーじゃないんだし」
「だったら、本当は妹ちゃんが香菜に対して何を思っているのか、香菜も正確に理解しているとは言えないんじゃない?」
えっ、それは、つまり、そういう事なのか。
思い当たる節がないでもない。むしろありすぎる。レナは普段から感情を表に出さないようにしているから気づかなかったけど……。
「つまりレナが、本当はわたしに愛想を尽かしてるかもしれないってことぉ?」
「泣くな。つーか、なんでそうなる」
「だってレナ、わたしに嫌われたくないとは言ったけど、わたしを嫌いになる可能性を否定したことなんてないし!」
「妹ちゃん……言葉が足りなすぎるでしょ」
なぜかわたしから目を逸らすスズ。よく分からないけど、何かピントのずれたことを言ってしまったことは分かる。何を間違えたのかは分からないが……。
「妹さんのことはともかく」と、ユミ。「今は香菜の気持ちがぼんやりしているのが気に食わないわね。いいわ、いい機会だから、この際はっきりさせておきましょう」
なんだかユミが一人で話を押し進めようとしている。そういえばユミって、はっきりしない物事が嫌いだったな。だからきっちり答えが決まっている数学とかが好きで……っていうのはどうでもいいが。
「ぼんやりしているつもりはないけど……いったい何をするの?」
「香菜。わたしが今から状況を出します。香菜はその状況を想像しながら、最後にわたしが質問することに答えてほしい」
「思考実験みたいな感じ? マリーの部屋とか」
「マリー……? とにかくわたしの言うとおりにして」
「あ、はい」
きょうのユミはちょっと強引だな。目を閉じた方が想像しやすいかな……。
「まず、妹さんの姿を思い浮かべて」
「ちょっと主観が混じりそうだけどいいの? たぶん本物より美化されるけど」
「いいわ。あくまで香菜の気持ちを確かめるための実験だから、香菜の主観で結構」
ならば遠慮なく、主観全開で想像しよう……うーん、かわいいなぁ。
「では今から、二通りのシチュエーションを提示します。一つ目、妹さんに彼氏ができます。はたから見てもお似合いのカップルです」
「普段の言動を知っていると想像しにくいけど……まあいいか」
おっ、でもこれは……いつもクールな妹が、彼氏の前ではちょっとガードを緩めて、素直にならずともデレている。お互い、相手のことをちっとも嫌っていなくて、クールを装ってこっそりデレるレナに、彼氏が寄り添う、とても微笑ましい構図……。
「そしてその様子を、姉である香菜が見ています」
「えー、こんな素晴らしい光景を独り占めにできるのかぁ」思わずガッツポーズ。「クーデレのレナとかマジ卍ぃ。お似合いの彼氏とのアバンチュールとか、これはこれで……」
「変態だ」
「変態がおる」
想像しろと言われたから想像しただけなのに、ずいぶんな言われようだ。
「その状況下で香菜が何を思ったか、って訊きたかったんだけど……訊く前にぜんぶだだ漏れしたからもういいわ。シチュエーションその1、終わり」
「えー、もう終わりなのぉ? せめてもう五分ほど」
「二つ目に行きます」
「容赦ないなぁ、ユーミン」
「妹さんに好きな人ができました。そして告白しました。香菜に」
「…………え?」
珍しくユーミン呼びを突っ込むことなく、いやに真面目な顔でユミは言った。
「想像しなさい。もし妹さんが香菜に愛の告白をしてきたら、あなたはどうするか」
どうって……それは、想像するだけでかなり難しい。レナが別の誰かに告白する場面であれば、まだ想像が及ぶけど、わたしなんて……そもそもどんな言葉を使うだろう。
「やりにくいなら、具体的に告白の言葉を言うよ。……お姉ちゃん、ずっと好きだったよ。一人の女性として、お姉ちゃんが大好き」
……わ、うわわわ。
具体的な文句が与えられたら、割と容易に想像できる。あのレナが、頬を赤らめながら、わたしに向かってそんなことを言ってきたら……わたしは、え?
なんで? なぜこうなった? レナがわたしを好きだと言ってくれたら、嬉しいに決まっているのに、何だろう、この感じは。こみ上げてくるのは、心臓に斧を打ち込まれたような、やけにズキズキとする感覚。胸を押さえずにはいられない。
わたしの反応がそんなに予想外だったのか、ユミとスズは眉をひそめている。
「これ……どういうこと?」と、スズ。
「思っていたのと全然違う。むしろ逆……状況その1で嫉妬してズキズキして、そうでなくても状況その2で嬉しそうな顔をすると思ったのに」
「その1の反応だけなら、妹を優しく見守るお姉ちゃんで済ませられるけど、その2の反応は意味が分からない。なんで、大好きな妹ちゃんにコクられて、嬉しがる感じが少しもないの?」
そんなのはわたしが聞きたい……と言いたいところだけど、残念ながら理由ははっきりしていた。いつもレナの事を考えているもの、わたしがレナに対して思っていることも、わたしがレナのことで自分をどう見積もっているのかも、ぜんぶ分かっている。でも、それを説明するのは本当に難しい。
とはいえ、言わないと収まりがつきそうにない。
「わたしは……」口を開く。「レナが生まれた時から、レナが幸せになることを、誰よりも強く望んできたつもり。あの子が幸せになるなら、自分の幸せを見つけたなら、どんなことでもするつもりでいる」
「…………」
「レナがわたしと一緒にいることを、幸せだと思ってくれるなら、それはすごく嬉しい。でもわたしは、レナが幸せになるための手助けはできても、わたし自身がレナに幸せを与えることは、できない」
「なんでそんなこと……」
「だって……レナとわたしは、違うから」
わたしはレナが好きだけど、もちろん姉妹愛の域は超えないけど、レナがわたしに同じくらいの愛情を抱くことはない。それ以外にも、わたしとレナでは、見ている景色がまるで違う。思うことも違う。他人との接し方も違う。周りからはよく、似たところが多い姉妹だと言われるけれど、姉妹ゆえに、誰よりもいちばん近くにいるゆえに、わたし達の違いは誰よりもたくさん見えてしまう。
だからどうしても、わたしはレナのことが分からなくなる。レナがいつから、甘えん坊をやめてしまったのか分からない。レナがどうして、わたしと他の人で接し方が微妙に違うのか分からない。どうして、とうに愛想を尽かしてもおかしくない事をされて、あんなに平然としていられるのか分からない。
分からないのに、何も分からないのに、わたしは今の距離感に甘えて踏み込まず、分からないままの状態を続けてきた。そのくせ一丁前に妹の幸せは願うし、妹のそばにいたいのだ。分からないなら分かりたいと願うべきなのにそうしない。分からないのに、その相手のことを考えようとしている。そんな人間が、本当にその人のことを幸せにしてあげられるだろうか。
……考え出して、結論は早くに出た。そんなの、どう転んでも無理だ。
「いくら実験といっても、レナが、自分の幸せのためにわたしを求めるのは、正直きついよ。レナのことを考えれば考えるほど、そんなのは無理だって分かっているのに。がっかりさせる未来しか見えない」
「…………」
真剣になって聞いてくれるユミとスズ。嬉しいよ、心の友よ。
「まあ、たぶんがっかりしたのは二人の方だよね……どっちにしてもわたしが自分を卑下しているだけだし、レナの気持ちを置き去りにしていることに変わりはないし。でもやっぱ……わたしには想像できないな。レナとわたしが恋仲になるなんて。わたし自身がレナと釣り合わないって決めてかかっている以上、どうしたって深い関係にはならないよ」
「そう……」と、ユミ。「だったら、結論は出たわね。実験は終了よ」
「……そっか」
「結論。香菜はやっぱり、妹さんに恋をしている」
…………。
…………。
「いやちょっと待てーい!」
わたしはガタッと音を立てて椅子から立ち上がる。沈黙からの唐突なツッコミに、ユミもスズもびっくりして肩を揺らした。
「どうしてそういう結論になった!? どう見てもわたしがレナに恋している可能性ゼロでしょ、ゼロ!」
「悪いけど、香菜よ……」と、スズ。「わたしから見ても、弓美と同じ結論を出さざるを得ない」
「スズまで!?」
「落ち着いて香菜。ちゃんと説明する。そして教室全体が注目しているからとりあえず座って」
おっといけない。いきなり大声を上げて立ち上がったものだから、クラスメイト達が何事かという目でこっちを見ている。すごすごと、もう一度椅子に腰かけるわたし。
「まあ、改めて説明するまでもなく単純な話なんだけど……香菜の話を要約するとこういうことでしょ。香菜は妹さんの幸せを願っている。でも自分では、妹さんと結ばれてもがっかりさせると思っている。だから仮に妹さんが深い関係を望んできても、それに心から応えられない」
「お、おっしゃる通りで……」
「そんなことはね……本気で相手を想っていなくちゃ、考えつきもしない事よ」
…………なんだって?
「普段の言動を見ていれば、香菜が妹さんに、姉妹以上の感情を抱く寸前まで来ているのは明らか。でも香菜は妹さんの事を第一に考え、その感情を封じ込めてきた。もっと言えば、恋仲になれるわけがないという重しによって、押さえ続けてきた。押さえているからこそ、ちょっとしたことで感情が暴発しそうになって自己嫌悪に陥る……それがさっきの、シチュエーションその2の反応よ。でもね、そうやって押さえ込んでいるだけで、本当はちゃんとあるのよ。香菜がずっと、目を背けていただけでね」
わたしが、レナに対する感情から、目を背けていた……その発想はなかった。いや、その発想に至らなかったというべきか。レナに告白されたところを想像して胸がズキズキしたのは、本当の感情を直視してはならないという、わたしが自分にかけた呪縛によって、相反する気持ちがせめぎ合ったせいなのか。最初の状況では単純に、レナ自身の幸せが成就したから、わたし自身を締めつけるものはなかった。だから、素直にその状況を受け入れられたのだ。
「ついでに言うなら」スズも口を開く。「妹さんとの恋仲の話が出たとき、香菜は最初に、そもそも姉妹で恋仲というのが現実的じゃないと言ったよね。でもさっきの話では、そのことに全然触れなかった。妹ちゃんから告白されるという状況を、普段の素振りからはイメージできなかったけど、一度想像できたら、それが非現実的だとは考えなかった。妹ちゃんの告白がありうると少しでも思った時点で、もう香菜の気持ちは決まっていたんだよ」
すごく冷静に分析してくるな、この二人……いつの間にかわたし、思考実験の実験台になってないか。
「そういうわけだから、香菜の気持ちについてははっきりしたと言っていいでしょう。だけど、今後も妹さんの事を考えるなら、香菜はこの先も、自分の気持ちを妹さんに打ち明けることはないだろうね。さっき提示した二つの状況……どちらに転がるかは妹さん次第。あるいは、これ以外の可能性だってある」
「どの状況に突き当たっても、香菜が苦悩する姿が目に浮かぶようだわ」
まったく言い返せない。わたしも容易に目に浮かぶ。レナを取り巻く状況、とりわけ恋愛に関して何か変化が起きたとき、わたしは今日のことをきっと思い出すだろう。そうしたら、気づいてしまったこの感情をどう扱うか、果てしなく悩み続けそうだ。
いつもわたしは、レナとの関係性が今のまま続けばいいと思っている。変わらないといいな、と思い続けている。それは、今この瞬間も同じだけど、少しだけ違っている。……そんな時が来なければいい、なんて願うばかりだ。
結局、休み時間を目いっぱい使って、わたしを実験台にした思考実験が行われ、わたしはようやく、自分に眠る感情の存在に気づけた。だけど当然、すぐに受け入れられるものじゃなかった。
今日もレナと一緒に帰宅するつもりだけど、率直に言って、顔を合わせられる自信がない。
放課後になって、わたしはレナにメッセージを送った。嘘をつくのが苦手なわたしは、別々に帰るための上手い言い訳など思いつかないので、確認するだけの内容になってしまった。
『レナ、きょうも一緒に帰れるよね』
いつも特に約束なしで一緒に帰っているのに、こんな確認メッセージを送ったら、何かあったと感づかれるに決まっている。レナはこういうところ鋭いからなぁ。
ところが、一分ほどのタイムラグを経て返ってきたレナのメッセージは、これだった。
『ごめん、急な用事が入ったから、帰るの遅くなっちゃう』
『待たせるのも悪いから、先に帰ってくれないかな』
……急用が入ったのか。姉のわたしが手伝う、というわけにはいかないだろうな。レナは何も言わないかもしれないけど、周りの人がいい顔をしない。先に帰って、というのもレナなりの気遣いだ。
ひとりで下校するって、ずいぶん久しぶりな気がする……。
同じく部活がなく早めに帰る生徒たちの流れに紛れながら、わたしは学校を後にした。
人の群れが、少しずつまばらになっていく。わたしは歩く。
民家の並ぶ区域に入ると、ついに高校の制服は見えなくなる。わたしは歩く。
中学校のある付近を過ぎていく。わたしは歩く。
歩く。
歩く。
歩く。歩く。歩く。
少しずつスピードが上がっていく。
下り坂に入ると、吸い込まれるようにスピードが上がる。
歩く。じゃない、走る。走っている。脇目も振らずに走っている。
ああ! ああ! もう!
下り坂の先にある、隣町が一望できる公園へと駆けていく。止まらない。止まらない。
公園に足を踏み入れる。
まっすぐに突っ切っていく。
転落防止の柵を両手で掴み、立ち止まる……勢いつきすぎて、体が前のめりになったけど。
その勢いのまま、わたしは……。
「くっっそおおおおぉぉぉぉぉ~~~!!」
叫んだ。体中の空気がぜんぶ抜けてしまうくらいまで、叫び続けた。
レナへの気持ちを理解した。でも同時にもう一つ、気づいてしまったことがある。
わたしはレナと、ずっと一緒にいたい。そのためには、何も恋仲になる必要なんてない。たとえレナに恋心を抱いていたって、わたしはレナと一緒にいるために、今が変わることを絶対に望まない。
だけど……頭ではちゃんと分かっていた。変わらないものはない。レナだっていつかは変わる。わたしとの関係だって変わるだろう。その時が来たら、わたしは果たして、いつものように笑っていられるだろうか? レナのそばに、いられるだろうか?
レナへの気持ちが、起爆剤になることはないのだろうか?
「にゃーぉ」
かわいらしい鳴き声が聞こえて、振り向くと、ネコがいた。よく見たら、今朝出会った段ボール箱のネコだった。なぜ今のわたしには警戒することなく寄ってくるのか……。
ああ、そうか……今のレナは、箱の中のネコと同じで、どっちに転がってもおかしくない状態だ。どんな状況にでもなりうる、それらがぜんぶ重ね合わせられている。箱を開けた途端に、レナを取り巻く状況はひとつに決まってしまう。それが何であれ、箱を開けた時こそが、レナが変わる瞬間なのだろう。
まだ、とても、今のわたしには、その箱を開く勇気なんてない。
「怖いなぁ……未来って、本当に怖い」
かすかに呟いた言葉は、夕暮れの空に吸い込まれていく。それでいい。こんな泣き言を聞かれていいのは、ここにいるネコだけで十分だ。
気が付くと、あのネコはもういなかった。
※解説※
『シュレディンガーの猫』オーストリアの物理学者、エルウィン・シュレディンガーが提唱した、量子力学に関する思考実験。一定時間内に50%の確率で致死性の毒ガスが発生する箱の中にネコを入れ、その一定時間後に箱を開けて生死を確認するまで、ネコがどのような状態にあるかを論じたもの。コペンハーゲン解釈にのっとれば、箱を開ける前の段階では、生きている確率と死んでいる確率が半々で重なった状態にあるとされる。




