episode32 【昇降口】 孤高の王! (中)
……いったい、常磐城さんは何を言っているのかな?
智恵理がどこかに行く? そんなことするはずがない。
ずっと憎んできた怨敵を地獄に叩き落とす、千載一遇のチャンスをフイにする訳にはいかない。
だいたい、この人はいつだって他人とズレが生じていて、それに気づくことすらできないただの馬鹿な人だ。智恵理が常磐城さんと今まで仲良さそうに演じていたのは、演技の範囲内であってそこには感情なんて入る隙間なんてない。
ましてや、彼女に対して『友情』なんて最もまやかしに近い感情を抱くなんてものはありえないし、理解に苦しむ。
ただ父親の復讐を果たすだけの情報を手に入れて、さっさと利用するだけ利用して、あわよくば常磐城さんの父親に接触して本来の仇である人間に近づく。
それが、ずっと幼き時から思い描いていたシナリオだった。
なにせ、あの常磐城の娘だ。狡猾で頭がキレるだろうから、どれだけ策を巡らし、二重三重の用心を思いめぐらしても足りないぐらいだと思った。
「……それなのに」
初めて邂逅した時から常磐城さんは惨めだった。利用価値すらなさそうなぐらい愚鈍で、大勢の前でこけていた。……それでも、どれだけ転んでも即座に立ち上がるその不屈の魂だけは少しは認める。
例を一つだけ挙げるとするなら、料理実習の時。慣れないことながら背伸びをしようとして、大失敗を引き起こして他人に迷惑をかけていた。……それでも、人知れず事前に努力を怠らないことは尊敬に値はする。
それから、嘘が致命的に下手だ。さっきだって智恵理を遠ざけようとしていたけれど、縋るような瞳に、湿り気を蓄えていた。素直に助けを求めることもできないぐらい、どうしようもなく常に不器用な生き方しかできない。……それでも、いや、そんな短所も含めてただただ――。
「常磐城さんって、ほんとにどうしよもなく馬鹿で、馬鹿で、馬鹿で。他に形容できないぐらい大馬鹿だよね。ほんとっ、」
――涙が溢れそうなぐらい。
常磐城さんの背中が遠い。
土砂降りの中、傘も忘れたのかずぶ濡れになったまま、走り去っていく。相変わらずの、ドジっぷりに苦笑が漏れる。
どんどんその背中が豪雨に混じって、薄れゆく。
そんな彼女に追いすがるよう、智恵理は手を伸ばして、そして――
「智恵理様、ここにいたんですね」
その手は腕ごと巻き込むように、どこか忍びない顔をした忍に抱きつかれる。覆いかぶさって邪魔な彼女を引き剥がすかのように腕を振る。
「ごめん、忍。ちょっと行かないといけないところがあるんだよ」
「どこに行かれるんですか? もうすぐ試合が始まります」
けど、彼女は全く動じなくて身じろぎもしない。
「離してくれないかな。智恵理は――」
「どうしてっ! どうしてですかっ!!」
両腕を押さえつけたまま、忍は感情の赴くままに咆吼する。
「どうして智恵理様はそうやって、自分から傷つこうとするんですか!? 智恵理様がそうやって考えなしに誰かの下に駆け寄って、それで自らを傷つけて……。それをまざまざと見せつけられて何もできない無力な私の気持ちを、少しは考えてくださったことがあるんですか!?」
「それは、違うよッ。ただ智恵理は目の前の――」
「それをただの自己満足だというんじゃないんですか。常磐城さんのように一人ぼっちな人間と、過去の自分と投影なさっているだけなんじゃないですか?」
一瞬、息が止まる。




