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episode27 【教室】 ミルクの匂い! (下)



 抱きしめたくなった。


「……ちょ……と、あなたなにを?」

 常磐城さんのお腹周りには左腕を、鎖骨付近には右腕を巻きつける。離れようとしたのだろうけど、ズレ下がったスカートが、足に絡まってしまい自由に身動きが取りづらい状況に陥っているようだ。

「智恵理だって、どうしてこんなことしか分かんないよ」

 ――けど。

 なんだかとても苦しかったから。

 自分の過ちを、誰かに吐き出さずに呑み込むことは容易じゃない。誰もが何かに押し付けては全てをチャラにする。地面に咲いている花を踏んでしまった後悔は刹那で、記憶の残滓にすら残らない。

 それが一番自分が傷つかない生き方なんだ。

 でも、常磐城さんは自分の身を切るようなやり方じゃないと納得できないんだ。それは到底智恵理には真似できないことで、それを自覚した途端に胸が軋んだ。

「誰かを責め立てる前に、まずは自分を責めたいんだね、常磐城さんは……。でも、できることならそういうことはやめて欲しいな。見ているこっちがキツいよ」

「あなたに言われる筋合いはありませんわ。わたくしはわたくしの――ひゃあっ! ……ちょ、なんで?」

 肩にガブッと甘噛みしてみたら、思いのほか反応が良い。歯形が残らない程度にまで威力を抑え、口を開く。

「相手にされないから,噛んでみただけ。ねぇ、常磐城さん凄くいい匂いするね。ボディーソープはなにをつかっているの?」

「いやっ……ちょっ……た,ただの石鹸ですわ。それより,生臭い匂いがまだついていますから離れてくださいます?」

「ううん。すごくいい匂いでずっとこうしていたいぐらいだよ」

 いつまでだって抱きしめていたかった。

 だって、一人きりでいるという辛さは分かるから。

 智恵理にとって唯一の絆だった父親を失ってからの、あの地獄のような日々は今でも夢に見るぐらい克明に脳に刻まれている。

 失意のどん底の時に群がってきたのは、金の無心をする顔も名前も知らない親戚たちばかり。そいつらは毟るとるだけの金が残っていないことを知ると、智恵理の見受け請取りの話題を自らが振ったことすら忘失するような連中ばかりだった。

 人間の心の根底に巣食んでいる悪魔のような心根を物心のつく幼少期の頃に知ったせいで、智恵理は喜怒哀楽という感情が希薄になってしまったのだと、自分でも分析できる。他人の見よう見まねで感情っていうものが、どんなものかと表現することは時折。

 だけどまあ、こうやって冷静に自分を客観視できている時点で、どこか人間としての大切な何かを喪失しているような気がする。 

 だからこそ、孤高に黄昏ている常磐城さんを見ているだけは嫌だった。

 同族だから憐れんでいるというだけではなく、ただそうしたかった。そうありたかった。

 ……生天目智恵理という一人の人間として。

「……泣いてますの?」

「泣いてないよ、ほらっ」

 長らく黙っていたせいで、気をつかわせたらしい。

 両腕の拘束をとくと、後ろ振り返った彼女に対して、智恵理はいつもどおりの笑顔を造形する。

 そう、智恵理はいつだって変わらない。

 ――この世界と同じように。

 誰だって幼き日は、自分の都合のいいように劇的な絵空事に執心する。

 だけど、たかだか数十年生きただけで自分たちの生きているこの世界は、いかに不条理で不変的なものかというものを思い知らさられることになる。自分の理想とみすぼらしい現実との折り合いを探し、諦めと妥協の積み重ねることによって大人への階段を歩む。そう、諦観は人が楽に生きる必要条件だ。

 人は一人じゃ生きていけない。

 ……なんて言葉があるけれど、綺麗事なんかじゃなくてただの真実だ。人は自分の心を押し殺して、周囲にとけ込まなければならない。自分の意見を無くさなけば、集団から爪弾きにされる。今の常磐城さんのように疎まれる結果を生んでしまう。そんなこと分かっているはずなのに。学年でトップクラスの成績を誇る彼女が、そんな当然の考えに至っていないはずはないのに、なぜそんな愚行を犯しているのだろうか。

 そんな彼女が、憂いを携えた表情をしながら、こんどは正面から抱きしめてきた。

「……えっ、とっ……」

「わたくしじゃ、不満かしら?」

「ううん、全然。むしろ嬉しいぐらいだよっ」

 軽い口調で返すも、彼女はただ熱く抱擁するだけで押し黙ったまま。シィンと今日二度目の沈黙タイムは、どこか心地よくてずっとこうしていたいとさえ思えた。

 さっきの泣いているかという問いかけが皮切りなのだろうか。なぜだか感情の発露の兆候が見られる。

 景色が歪んで潤んで霞んで。

「ああっ、もうっ」

 泣いてもいいのかな?

 作り笑いしなくてもいいのかな?

 言い訳してもいいかな?

 極力封印しておきたい過去は、常磐城さんとの関係が深くなるほどに思い出されて致し方ないものだし、この状況下。ハグし、ハグされなんて行為は長年親のいなかった智恵理にとってはずっとなかったことだったから。

 だから、

「わたくしのことなら、好きにしてもいいですわよ」

 そういう言葉は暖かくて卑怯だよ……。

「……うん、好きにする」

 ギュッと今はすべての憂いを捨て去って、ただただ眼前の女の子を力強く抱きしめた。



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