⑨ 我らがご主人さまの微笑み
若いふたりの初めてのデート現場と聞いた、森の湖畔に到着した。
木の葉の隙間をたゆたう空気は澄み、そよ風が草を揺らし涼やかな音を立てる。こんなところで愛しい人とふたりでいたら、時が立つのを忘れてしまうのだろう。
ふたりで分かち合うそのひと時がきっと、永遠に感じられたりするのね。
『ユニ様』
『あ。はい』
ああ、いけない。最近ぼぉっとしてばかり。
『ロイエ嬢をお連れしました』
『ではこちらも』
“ロイエ!”
『ルーチェ!』
ふたりは再会の抱擁を交わした。
“ずっと君を苦しめていてごめん。僕が霊として未熟なばかりに!”
彼は、ひとりでは自制が利かない霊であったようだけど、これで、霊なりの形を成して交信……つまりデートができる。私の霊感が役に立って良かった。
『殿下にご紹介いただきました識者の話では、ユニ様と殿下が多少離れても、霊感力が充満している間は大丈夫だそうです』
『なら、ふたりきりにしてあげましょう。私たちは彼らの視界に入らない処へ』
私はまず、ラスとアンジュを森の裾へと促した。ダイン様も、やれやれと捨て鉢な様子で付いてくる。
『森林の中も木漏れ日で明るいです。小路ができていますし、この辺りでお散歩できますね』
アンジュも久しぶりの外出が楽しそうだ。ふわふわと軽やかにステップを踏み、森の奥へと私たちを誘導する。私もダイン様の腕に添い、小路へと踏み出した。
『川のせせらぎが聴こえるな』
『そうですか?』
彼はどうやら視力だけでなく、並外れた聴力もお持ちのようで。近くに小川が流れているのだろう。
『そこでこのサンドイッチをいただきたいですね』
私はアンジュの手元のバスケットを受け取った。
『行こうか』
ダイン様が久しぶりに紳士らしいエスコートの手を差し伸べる。
でも私は、それじゃなんだか物足りなくて。ここでこそ指を、もうちょっとこう……。
なんてソワソワして歩いていたら、後ろをついてくるラスとアンジュの、草を踏む音が気になって。
『ねぇ、ふたりとも』
私は振り向いて彼らに寄った。
『あなたたちも、どこかで休憩していて。ここからはダイン様とふたりで行ってくるわ』
この言葉にふたりとも目を丸くした。
『ユニ様、差し出がましいようですが、追随をお許しください。たったおふたりきりで何かあったらと思うと……。何らかの襲撃には、殿下がいらっしゃれば問題ないのでしょうが、自然の事故などの際には』
『あ、あのね、ラス』
あなたが心配するのも当然なのだけど……。ここはちょっとのあいだ、見逃してくれない?
『ダイン様とふたりきりで……デートがしたいの』
「「!」」
『…………ユニ』
「ん?」
背後から唐突に、彼は私の、バスケットを持っていない方の手を握った。
「きゃっ」
そして引っ張って、思いっきり走り出したのだった。
『あいつらが追ってこられないところまで逃げるぞ!』
えっ。そんなにはしゃいでっ……。
『サンドイッチがっ……ぐしゃぐしゃになってしまいますっ。どうか、ゆっくりっ……』
「…………」
「ラスさん、今、見ました? 今のユニ様……ん? どうしたんですかラスさん? 無言で踵を返して……すたすたすた。木の前に立ったなら、次は幹に手をついて?」
「ふぅ……」
「なんのアクションですそれ?」
「まずこうして気を落ち着かせるんだ」
「やっぱり今、ユニ様、頬を真っ赤に染めてはにかんでいまし」
「みなまで言うな! お前も落ち着け!」
「はわわぁ、図書館では見たことのない種類の微笑みでしたよね。つまり初めての」
「みなまで言うなぁあ! こうしてはおれん。この記憶がより鮮明なうちにキャンバスに描いておかねばっ。はっ。しまった。画材とキャンバスを用意した覚えがない……」
「ラスさんみたいな用意周到な人が、ぬかりましたね?」
「くぅっ」
「私はちゃーんと画材一式とキャンバスを馬車に積みましたけどねっ」
「なに!? 貸してくれ!」
「タダでですかぁ~?」
「……何が望みだ」
「もちろん! 私の分もユニ様、描いてください。キャンバスふたつあるので」
「ん?」
「ラスさんは、プロの画家さんには及ばないけど、趣味の絵描きさんの中では一流ですもんね!」
「それはちっとも褒めてないな……」
***
「暑イですか? 寒イですか? 歩きマス。気をツケよ」
「は、はい……」
爽やかな木漏れ日の差す小路。ダイン様とふたりきりの深緑デート。
彼はきっと私が喜ぶだろうと、ものすごく頑張って私の母国語で話しかけてくれている。
隙間時間に一生懸命ウルズ語の学習をしていた彼は、それをここぞというこの時間に披露している。
これは上辺の態度よりずっと真面目で思慮深い彼が、祖国を離れた私を気遣ってくれている証。嬉しい!
ただ、嬉しいのは確か……だけれど……。
「まぁ、アナタ転ぶ、ワタシキャッチする。だいじょぶ」
直したい……。発音から文法までぜんぶ直したい!!
心の中で頭を抱える私。でもせっかくのデートの最中に、先生と生徒になってしまうのは……。
本音を言ってしまうと、
────『寒くないか? 足元に気を付けるんだぞ。まぁ、君が転んでも俺が即座に支えるから安心していろ』
と、普通にスクルド語で話して欲しいです!
でもやっぱり、彼は私が喜ぶと思って、私の母国語で話してくれているの……。気持ちをちゃんと、ありがたく受け止めなくては。
小川に木の橋がかかっている。真ん中でふたり、よそ風に当たって過ごす。
「お! ユニ、下、見る」
「はい? なんですか?」
彼の指さす先は小川の水底。
「藻!」
「え?」
「藻が、アル!」
目を凝らすと、確かに大量の藻がゆらゆら漂っている。
「そうですね……。藻がありますね……」
ん? ちょっと待って?
『なんで「藻」というウルズ語を知っているのですか?』
もう埒が明かないので無理にでもスクルド語の会話に戻すわ!
『? 学習したからだ』
私の質問にまた、ぽかんとした顔をされているけれど。
『学習初心者にいったい、いつ、どこで、「藻」という単語を覚える機会があるというのですか!』
もっと覚えるべき単語は様々あると思うのです!
『どんな機会だったかな?』
大真面目にもダイン様は自作の単語帳をポケットから取り出した。
何食わぬ顔でペラペラめくっているその単語帳の中身、教師としても妻としても非常に気になる……。
どうも違う意味でソワソワしてしまう、貴重な夫婦の時間であった──……。




