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帝国海軍の猫大佐  作者: 鏡野ゆう
第五部 招かざるモノ

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第六十七話 消えた後も要注意

「ゲロったの、久し振りすぎてはずかしいぞ」

「そうなんですか? 俺、ここに来てからしょっちゅう吐きそうになっていたので、久し振りの波多野(はたの)さんがうらやましいです」

「道路で派手に転んだような気分て言えばわかるか?」

「あー、そっちなら俺にも理解できます」


 胃の中のものを出し切ると、俺と比良(ひら)は艦橋に戻った。山部(やまべ)一尉は相変わらずニヤニヤしているが、艦長や先輩達は同情的な雰囲気だ。


「ま、通過儀礼みたいなものだな。おめでとう」

「おめでたいんだ……」

「赤飯でも炊いてやろうか?」

「遠慮します」


 もう吐き気は残っていなかったが、自分が醜態(しゅうたい)をさらしたという自覚はある。だから今の一尉の言葉には、異議ありな気分だ。


『あれの気にあてられたのだ。しかたあるまい。人間だからそういうこともある。そのうち慣れる』

「慣れるんだ……」


 猫大佐は大きなアクビをすると、艦長席に移動して丸くなった。大佐が緊張を解いたということは、もうあの手のモノは現われないと判断して良いのだろうか。


「あ、じゃあ俺が船酔いして気持ち悪くなるのも……」

『残念ながらお前のは、今回のをのぞけば間違いなく船酔いだ』

「えー……」


 比良はガッカリした顔になった。比良が完全に吐き気と縁が切れるのは、もう少し先になりそうだ。


「これで終わりなのか? 元を絶たなくてもよいのか?」

『あれは、人間の悪意が形をなしたものだ。人間がこの世にいる限り、何度でも現われる。困るからといって、すべての人間を消すわけにはいくまい』

「それはそうなんだけどさ。発生源にいる人間達が穏やかになれば、もうすこし現われる頻度(ひんど)が減るだろ? そういうことはできないのかって話だよ」


 大佐は顔をあげ、俺の顔をじっと見つめる。そしてため息をついた。


「おい、その溜め息はなに」

『お前の単純さがうらやましいと思っただけだ』

「それ、ほめてないよな」

『もちろんだ。お前達には、少し説明してやらねばならないな』


 大佐は面倒くさそうにノビをすると、前足で顔を洗う仕草をする。


『人間が生み出した悪意は気の流れに乗り、世界をめぐりながら少しずつ大きくなっていく。そして気が(よど)む場所に集まり、今回のああいうものになるのだ。そういう場所は世界にいくつかある。たまたまここは、他より多くの悪意がたまりやすい場所なのだ。わかったか』

「風通しをよくすれば問題解決ってわけにはいかないのか?」

『地形も関係しているからな。一つ二つ国を丸ごと吹き飛ばせば、なんとかなるやもしれん』


 なにげに物騒なことを言った。


『案じるな。この国は吾輩(わがはい)たちで守っているから、あれらの影響はほとんどない』


 そう言うと、大佐はさっきよりも大きなアクビをする。そして目を閉じると昼寝の態勢に入った。こうなると何を言っても返事はしてもらえない。あまりしつこくかまうと、比良いわく、猫パンチが飛んでくるんだそうだ。大佐が鼻をスピスピさせ始めると、艦長が俺達に視線を向けた。


「波多野、比良、今回は見張りご苦労だった。初めての経験にしては、落ち着いた仕事ぶりだったな。よくやった」

「「ありがとうございます!」」


 艦長からねぎらいの言葉をもらい、二人で敬礼して礼を言う。礼を言ってから、気になったことを質問することにした。


「あの、まさかこれで、今回の緊急出港の件は片づいたのですか?」

「まさか。某国のミサイルの件を忘れたのか? 我々の任務は、そのミサイルに備えての警戒任務だぞ? こっちのほうが重要だ。黒いヤツの件はおまけにすぎない」

「おまけ……」


 艦長達は慣れっこなのか飄々(ひょうひょう)としているが、今回の件は、おまけと言うにはかなり強烈な出来事だった。


「残念ながら、当分は(おか)に戻れないからあきらめろ」


 一尉が笑う。


「だが今回の件で後片付けが残っているのも事実だ。下の連中だけでは心もとないから、お前達も手伝ってこい。それが終わったら今日の任務は終了だ。明日の朝までは休んでいろ。以上だ」

「「了解しました!!」」


 なにをどう手伝えば良いのかわからないが、下に行けば誰かしら声をかけてくれるだろう。比良と俺はもう一度敬礼をすると、艦橋を出た。階段をおりる途中で、艦長の「そこは俺の席だ、どいてくれ」という声と、大佐の不満げな「ここは吾輩(わがはい)の寝床だ。お前こそあっちへ行け」という声が聞こえたような気がしたが……まあ、この件については、もうどうこう言うつもりはない。



+++



「あ、清原(きよはら)海曹長! 俺と比良、艦長から下を手伝ってくるように言われたのですが!」


 下におりると、掃除道具を持った隊員達が、廊下をせわしなく行き来している。それを指揮しているのは、先任伍長の清原海曹長だった。


「ああ、お前達か。もう上にいなくて良いのか?」

「はい。艦長が下の後片付けを手伝えと」

「そうか。これの後片付けは意外と大変なんだ。隊員によって、見える汚れと見えない汚れが存在するんだよ。お前達は大丈夫だな?」

「たぶん俺も比良も、全部見えると思います」


 清原海曹長はよろしいとうなづく。海曹長の後ろに置いてあったバケツとぞうきん、掃布(そうふ)と水の入った霧吹きをそれぞれ二組ずつ渡された。


「なんですか、これ」


 霧吹きを目の前にかざす。最初は消毒液か?と思ったが、どう見ても水っぽい。


「入っているのは神水(じんすい)だ。艦内神社の神様を(まつ)っている神社に、年に一度、航海安全の祈願をしにいくだろ。あそこでいただいたものだ」

「へえ……こういうの用意してるんだ……初めて見ました」


 御札と御神酒は見たことがあったが、これは初めて見た。


「そりゃあ、めったに使うような事態にはならないからな。ここまでの大騒ぎは、年に一度あるかないかだ。お前達、教育訓練中に遭遇できるとは運が良かったな」

「運が良いんだ……」


 貴重な経験だとは思うが、とても運が良かったとは思えない。


「これは、落とした汚れが弱ったところで吹きかけるんだ。床が水びたしになるから、むやみやたらにまき散らすんじゃないぞ?」

「わかりました。殺虫剤の要領ですね」

「なにか違う気がせんでもないが、まあ、そういうことだ」


 比良の言葉に、海曹長は苦笑いをした。


「お前達は、掃除が一段落したら休んで良いと言われてるな? 艦橋にいたのなら、心配するような汚れはついていないと思うが、今日は念入りに風呂で洗っておけよ。ああ、それから。誰かがなにかつけているのを見かけたら、俺に報告しろ。わかったか?」

「「了解しました!」」


 今の話しぶりから察するに、清原海曹長もかなりの場数を踏んでいるらしい。そういう経験もあっての先任伍長なんだろうなと思った。


「では、波多野、比良両海士長、艦内清掃にかかります!」

「うむ。頼むぞ」


 俺達は掃除道具を片手に、上から下へと移動していくことにした。その途中でトレーニングルームの前を通りかかる。中ではグルグル巻きにされた隊員と、それをニヤニヤしながら見下ろしている、伊勢(いせ)海曹長と立検隊(たちけんたい)の先輩達がいた。


「なにしてるんですか?」

「おう、波多野に比良。お前達はクルクルパーになってないか?」


 海曹長の言葉と同時に、その場にいた立検隊(たちけんたい)の面々がいっせいに俺達を見た。さっきとは別の意味での身の危険を感じる。


「俺も比良も元気ですよ。艦長にもほめられましたし、今は掃除をするのに忙しいです」

「そうか、それなら良い」


 顔が残念そうなのは何故なんだ。


簀巻(すま)きにされている連中はどうしたんですか?」

「ん? ちょっとパニックにおちいって頭が混乱しているらしい。もう少し落ち着くまで、このままだ。で、俺達はそれを監視中。ここの掃除は除外で問題ない。俺達できれいにした」

「わかりました。じゃあ、俺達は失礼します……あの、まさか心神喪失で除隊ってことないですよね?」


 マットレスで簀巻(すま)きにされているのは、大騒ぎをして怪我をしないようにとの海曹長達の配慮だろうし、さすがにクルクルパーになっているとは思ってはいないが。


「ま、乗り越えられるかどうかは本人しだいだな。俺は心配ないと思っているが。ああ、廊下はまだ黒いのがチョロチョロしてると思うから、掃除は慎重にな」

「……ご忠告、感謝します」


 きちんと掃除をしたのは本当にトレーニングルームの中だけなんだなと、あきれてしまった。そして俺達は見回りをしつつ、掃除を始めた。


『波多野さーん!』

『あ、比良さんもいたー!』

『お掃除してる――!!』


 候補生達のにぎやかな声が近づいてくる。顔をあげると、廊下の向こうから三匹が猛ダッシュでこちらに向かってきた。その後ろから、相波(あいば)大尉がゆっくりとした歩調で歩いてくる。


『波多野さんも比良さんも、今日はお疲れ様でしたね』


「いやいや、俺達はなにもしてないです。な、比良」

「はい。見張りに立っていただけなので」


 大尉と話している俺達の足元で、候補生達は走りまわっている。


『みてみてー!』

『みてくださーい!』

『つかまえました――!!』


 三匹はさっそく得意げな顔をして、黒い物体をくわえていた。あいかわらずピクピクと動いていて気色悪い。


「うわー……何度みても気色悪いぃぃぃ、こんなの絶対に慣れないぞ、俺」

「俺だってそうですよ。まだゴキブリのほうが可愛いレベルです」

「だよな。少なくともゴキブリはこの世の昆虫だし」


 まさか自分が、ゴキブリが可愛いと思う日が来るとは思わなかった。候補生達は捕らえた黒い物体を、前足を器用に使って床に押さえつける。


『波多野さん、どうぞー!』

『比良さんもどうぞー!』

『どうぞどうぞ――!!』


「?」

「?」


 なにがどうぞなんだ?と首をかしげた。


『ご神水を吹きかけてください。本体が消えてしまったので、かなり弱っていますから』


「ああ、なるほど。これね」


 手にした霧吹きを見る。これで消えるということらしい。言われた通り霧吹きで水を吹きかけると、黒い物体は一瞬だけ激しく暴れ、ボロボロと形を崩していった。


「おお、本当に効果があるんだ」

「さすが神社でいただいた水ですね」


 神水(じんすい)が効果を発揮するのを見て感動する。そして消えた場所には水だけが残った。それを掃布(そうふ)で拭きとる。


『じゃあ次もつかまえてきますー!』

『行きましょー!』

『みんなでおそうじ隊――!!』


「いい感じに役割分担ができてるな、俺達」

「ちょっとしたチームですね」


 黒い物体を探し走り回る他の隊員には申し訳ないが、候補生達に好かれた役得(やくとく)だと思っておこう。

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