第五十八話 体験航海 8
湾内に入り、航空基地沖を通過した。海に面した場所に、飛行服と洋上迷彩色の戦闘服を着た隊員が、一列で立っているのが見える。そして彼等はこっちに向けてを振っていた。
「航海長、あそこで手を振っているのは、当艦で離着艦をした哨戒ヘリのクルーと、みむろに乗り込んできた隊員達ではないでしょうか?」
前を見ていた山部一尉に声をかけた。普段ならみむろが沖を通過しても、あんなふうに並んで手を振ることはない。ということは、彼らが手を振っている相手は、乗艦している見学者で間違いないのだ。
「ん? ああ、なるほど。艦長?」
一尉が艦長に声をかける。一尉の声かけに、艦長が航空基地の方向に視線を向けた。そしてうなづく。
「皆さん、どうやら、今回の体験航海でご一緒した航空基地の隊員達が、皆さんを見送ってくれているようです。もし良ければ、挨拶を返してやってください」
全員が、航空基地が見える場所へと移動する。こちらが汽笛を鳴らすと、航空基地の面々は、両手をあげて手をふった。
「大サービスだな」
「よほど体験航海での実演が、うれしかったとみえます」
艦長と藤原三佐が、手を振り返している見学者達の背中をながめながら、笑っている。
「あそこの飛行隊では、あまりそういう機会がありませんからね」
「次からはプログラムに組み入れるように、広報と人事に進言をしておこう」
「それは良い案だと思います」
手を振る彼らに見送られ、みむろは港へと入った。すでにタグボートが待機している。
「では皆さん、当艦は入港準備に入ります。本日の体験航海の最後は、護衛艦の入港を手伝ってくれる、曳航船の操舵の職人芸をご覧ください」
三佐がそう説明をし、見学者達は下が良く見える場所へと移動する。もちろん甲板に出ることは危険なので、艦橋からの見学だ。
「あっという間だったね。もうちょっと乗っていたかったのに残念!」
「湾内じゃなくて、外の海に出たところも体験してみたかったな」
「お天気、くずれなくて良かった」
口々にさまざまな感想を言っている。
―― そっかー、短かったのか。俺、めっちゃ長く感じたけどなー…… ――
下っ端の俺がそんな風に感じているのだ。きっと艦長達は、もっと長く感じただろう。
「湾内じゃなくて、もっと遠くまで行きたかったです!」
女性見学者が無邪気な顔で言った。
「海自の艦であれ以上の沖に出たいのでしたら、海上自衛官になってもらうしかありませんね。お待ちしておりますよ」
艦長がにこやかに笑う。
「やっぱり体験航海では、あそこまでなんですかー」
「ここの基地の護衛艦ですと、そうなりますね。他の基地での体験航海は、また違うのかもしれませんが」
首をかしげながら、艦長が答えた。
「潜水艦の体験航海ってないんですか?」
「ないですねー。それこそ海上自衛隊に入隊して、潜水艦の乗員を目指いていただかないと。今は女性でも目指せますから、もしその気があるなら、入隊してチャレンジしてください」
―― 艦長の広報スマイルもなかなかだなぁ ――
今日の体験航海で、そこまで自然な笑顔を浮かべることができなかった俺達は、まだまだ未熟だ。幹部というのは、何でもそつなくこなすんだなと、心から尊敬した。
「もちろん、護衛艦の乗員としてだけでなく、航空隊の隊員として入隊するのも大歓迎ですよ。航空学生の受験も、考えてみてください」
「思い出されて良かったです。それを言い忘れたら、航空基地の司令にしかられるところでしたね、艦長」
「まったくだ。危なかった。思い出して良かったな」
艦長と三佐が笑い合う。
―― 絶対に見学者向けの演技だよな、それ ――
艦長がその手の大事なことを、言い忘れるなんてことはあるはずがない。今のは絶対に、見学者向けの即席のアドリブだったに違いなかった。
『波多野さーん、もう消しちゃっていいですか?』
『僕たち、がんばって起きてました!』
『がんばっておきてたから、あとでミルクください!』
岸壁が見えてきたので、そろそろ見学者達の下艦だと察した候補生達が騒ぎ出す。
―― 本当に消しちまって良いのかな…… ――
大佐はあいかわらず単装砲の上に居座っている。次に艦長のほうに目を向けた。艦長はまったく我関せずな態度だ。さらに三佐のほうに目を向ける。目が合った。視線を逃すまいと、目に力を入れる。すると三佐が「知らんがな」的な顔をした。
―― こういう場合、俺からじゃなくて、この艦で一番偉い艦長とか、二番目に偉い副長から指示をもらえよ。海士長の俺には荷が重すぎる判断だぞ? ――
『そうなんですかー?』
『じゃあ、艦長さんに聞いてきますー!』
『副長さんにも聞いてきますー!』
心なしか、二人がギョッとした顔をしたように見えた。三匹は俺の頭から飛び降りると、二人のところへと走っていく。
―― 申し訳ないけど、心の中でだけでも言わせてほしい……ざまぁw ――
二人が、三匹の候補生達にまとわりつかれているのを横目で見ながら、ニヤニヤしないように顔を引き締めた。
『艦長さん、命令ください!』
『副長さんも命令ください!』
『おなかへりました、おやつください!』
―― 少しは俺の苦労をわかってくれたかな、二人とも ――
艦長がどういう判断をするのか気になり、ずっと二人と三匹の動きを注視する。二人は視線をあわせ、途方にくれている様子だ。もう一度、心の中でだけ言おう。ざまあ。
『艦長さーん! 命令はー?』
『副長さーん! 命令はー?』
『おやつはー!』
ニャーニャーとまとわりつかれ、困った顔をした艦長が、口にこぶしをやり咳ばらいをする。その直後に、なにやらゴニョゴニョ言ったような気がした。
『はーい、消します!』
『そこだけ消しまーす!』
『他のも消えたらごめんなさーい!』
三匹は、れいの見学者の足元に走っていくと、ニャーニャー鳴きながら、その人の周囲をグルグルと回り始める。
―― なにをやってるんだ、あれ……? ――
しばらくすると、デジカメから妙な煙が立ち始めた。だがそれは、見学者達には見えていないようだ。もちろん、ここにいる幹部以外の乗員にも。
―― もしかして、あれ、写真のデータなのか……? ――
『消えましたー!』
『消えましたー!』
『おやつくださーい!』
どうやら消えたらしい。候補生達は艦長と三佐の元へと走っていく。多分、ほめてくれと言いたいのだろう。二人の足元で、甘えた鳴き声をあげる。
『僕たち、まだ候補生だから三匹でやらないと消えないですー!』
『はやく一人前の大佐みたいになりたいですー!』
『大佐なら猫パンチ一個で消しちゃえますー!』
艦長は再び口にこぶしをあて咳ばらいする。ゴニョゴニョ言ったのが聞こえたので、候補生達をほめたらしい。そして艦長は、三佐の耳元でなにかささやいた。三佐はうなづくと、艦橋を出ていった。
『おやつー!』
『おやつだー!』
『おやつーおやつー!』
候補生達は三佐の後を追いかけて、艦橋を飛び出していく。あまりのことに変な声が出たので、あわてて咳ばらいをした。艦長が俺を見て顔をしかめる。上官に対して無礼と思いつつ、素知らぬふりをさせてもらった。
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「足元には気をつけて」
「お疲れさまでした。お気をつけて」
接岸が完了し桟橋がわたされると、見学者達は次々と下艦していった。それを艦長と見学につきそった俺達四人で見送る。
「ありがとうございました!」
「お疲れさまでした!」
「楽しかったです、ありがとうございました!」
「副長さんによろしく!」
それぞれが思い思いの挨拶をして桟橋をわたっていく。陸地では乗艦せず基地に残った地本の隊員や、広報担当の隊員達が待っていた。見学者達を集め、みむろの前で最後の写真を撮る。
「本日は忙しい中、ありがとうございました、大友一佐」
最後まで残っていた地本の隊員が、艦長に敬礼をした。
「いやいや、こちらこそ良い経験ができたよ。ありがとう」
「そう言っていただけると助かります」
隊員はホッとした表情をみせる。
「あの中の一人でも、海自に入隊する気になってくれれば良いんだがな」
「手ごたえはありましたが、こればかりはフタをあけてみないと」
「悩ましいところだな」
「まったくです。では、本日はご協力ありがとうございました。失礼いたします」
敬礼をして頭をさげると、桟橋をわたっていった。甲板脇の鉄の扉が開いて、三佐が顔を出す。
「皆さん、下艦されましたか?」
「ああ。今日はお疲れさんだった」
「副長、また隠れてたんじゃ?」
「そんなわけあるか。これでも急いで来たんだぞ。誰かさんのせいで忙しくてな」
人差し指が思いっ切りこっちを向ている。
「自分ですか? 自分、なにもしてませんが」
候補生達の姿は他の連中には見えない。それを良いことにしらばっくれた。
「まったく困ったヤツだな。ま、お陰で俺の写真も消えたけどな」
「え」
他の海士長がその場を離れたタイミングで、三佐がボソッとつぶやく。なんの写真が消えたって? 俺の写真? 三佐の写真がどうしたんだ? ……あ、まさか。
「まさか、あの時の写真!」
「なんのことだ?」
「いまさっき、俺の写真も消えたって言いましたよね?」
「お前の写真が消えたのか? しかし勤務中に艦内で自撮りとは、誰に見せるんだ? よくないな、勤務中だぞ?」
真面目な顔をして俺を見ているが、だまされないぞ。
「そうじゃなくて、三佐の写真がってことですよ!」
「俺の写真なんてないだろ。幹部の俺が任務中に自撮りなんてしたら、大変な騒ぎだろ」
「……うっわー、えげつな!」
「なんのことはわからんな。さて、見学者達が忘れ物や落とし物をしていないか、艦内チェックをするぞ。課業はまだ終わっていないんだからな、波多野」
三佐はご機嫌な様子で、口笛を吹きながら、艦内へと戻っていった。
「なにが課業はまだ終わってないだよ……それ、絶対に職権乱用っしょ、副長!」
ムカつきながらぼやいた俺の頭の上に、ドスンとなにかが落ちてきた、いや、乗ってきたというほうが正しいかもしれない。
『吾輩達の仕事もまだ終わっておらんぞ』
「なんだよ、いきなり乗ってくるなよ。むち打ちになるだろ!」
『もんくを言うな。さっさと余計なモノが残っていないか、艦内をチェックするのだ』
「忘れ物と落とし物のチェックは、副長から聞いてるよ」
『そうではない、バカ者め。以前のように取りこぼしがあったら、大変なことになるのだぞ』
大佐が言っているのは、一般公開後に艦内で飛び回っていた、黒いボールのことだ。
「そういうのは俺じゃなくて、候補生達に言えよ。四匹と大尉でやったら早いだろ?」
『あの子達は、副長さんのお部屋でお昼寝中でしてね。申し訳ありませんが、波多野さんと比良さんには、こちらの手伝いをしていただかないと、いけないようです』
申し訳なさそうな相波大尉の声がした。
「俺のせいじゃないのに……」
いや、半分ぐらいは俺のせいかも。
そんなわけで、体験航海は終わったが、俺達の仕事はまだ終わりそうにない。




