第五十四話 体験航海 4
見学者達を引きつれて、藤原三佐が狭い通路を進んでいく。普段は意識していないが、これだけの人数が固まって移動するには、艦内の通路はかなり狭い。移動中に乗員とすれ違うことがないのは、見学コースと時間が周知されていて、全員がここを避けて動いているからだ。
「さて、まず最初に見ていただくのが、艦長の執務室です。来客もあるので、寝泊まりする部屋とは別の、独立したつくりになっています」
そう言って、三佐がドアをあけた。
「艦長室の中なんて初めて見た」
「俺もです」
ドアの前でコーヒー豆を挽く音は聞いたことがあるが、中を見るのは初めてだ。ハワイへ向けての航海中、あの座り心地の良さそうなソファに座って、艦長は毎日、ゴリゴリやっていたらしい。
「……コーヒーの匂いがする?」
「あー、なんかするかもー……」
部屋を見て回っていた見学者さん達が、そんなことを話している。俺と比良はその会話を聞いて、思わず顔を見合わせてニヤッと笑ってしまった。きっとこの部屋のどこかに、艦長が挽いたコーヒーが隠されてるに違いない。
「そう言えば比良、ハワイのあれの後、コーヒー、ふるまってもらったのか?」
「もちろんですよ。うまかったです!」
「うらやましい……」
「あの、質問です」
肩にスライムを乗せていた女性が、遠慮がちに手をあげた。
「なんでしょう?」
「お客様が見えた時には、お茶を出すと思うんですけれど、そういうことは誰がするんですか?」
「その時に当番になった給養員、乗員達の食事を作る任務についている隊員ですが、その当番が用意することになります。場合によっては、艦長が用意することもあります」
艦長みずからと聞いて、見学者達は驚いた顔をしている。
「その線引きって、どういう基準なんですか?」
「んー……その時の艦長にもよりますが、お越しになったお客さんと、艦長との親密度でしょうか」
「たとえば?」
さらに突っこんだ質問に、三佐は首をかしげた。
「たとえば、そうですねえ……政府や海上自衛隊などの偉い人が、公務で来られた場合は、給養員がお茶をお持ちします。乗員のご家族が見えた場合は、艦長が用意することが多いです。こんな感じでしょうか」
「乗員さんの家族も、お客さんとして来ることがあるんですか?」
別の見学者から質問がでる。
「民間企業でもやっておられるところがあるんですが、ファミリーデーというものを、海上自衛隊でも設定しておりまして。護衛艦ですと、火急な任務がない入港時などに、乗員の家族をご招待することがあります」
「それは幹部さんもなんですか?」
「はい。乗員の家族ならどなたでも。ちなみに私の家族も、この艦に来たことがありますよ。その時も艦長が、お茶をいれてくださいました」
艦長室の見学を終えると、次の場所へと向かう。俺達が寝泊まりしている個室、風呂、トイレ、そして医務室。あと、トレーニングルームも見学コースに入っていた。トレーニングルームに行くと、なぜか伊勢海曹長が、黙々とトレーニングをしていた。
「設備の小型化が進んだことと、少ない人数で運用できるようになったお陰で、以前はなかったトレーニングルームなども設置できるようになりました。現在は乗員の体力維持と向上のためだけでなく、レクリエーションルームとしても使われています」
「……あれ、もしかして展示ですかね?」
比良がひそひそと俺に話しかける。
「いや、どうなんだろうな。伊勢曹長なら、体験航海中だろうがなんだろうが、普通にやってそうな気はするけど」
ただ、今は離岸して出港したばかりだ。普段なら周囲の監視をしていることが多いから、たぶん、見学者向けの展示なんだろう。……多分。
「あの、一つ質問をしても良いですか?」
見学者の一人が手をあげた。艦橋で注意をされた人だ。
「どうぞ」
「ここまで見学した場所は、どこも掃除が行き届いていて、きちんと整理整頓がされていました。それって、今回の体験航海での見学があるからですか?」
「そんなことはないですよ。きちんと整理整頓をすることも、我々の仕事のうちです。まあ入隊して訓練を始めたらわかると思うのですが、訓練で最初に覚えることが、整理整頓なので。そうだな?」
三佐が後ろにいた俺達に顔を向ける。見学者達がいっせいに俺達を見た。
「ええ、基本中の基本ですね。そこはとにかく厳しかったです。すごく」
―― 非常にすごく。とにかく言葉では言い表せないぐらい ――
入隊前に顔を合わせた時はニコニコしていた教官も、入隊して訓練に入ったとたんに鬼になった。そしてきちんとできていないと、自衛隊名物の『台風』が襲いかかる。そのお陰で俺達は、人並み以上の整理整頓、裁縫、アイロンがけなどの能力を身につけた。
「艦内は使えるスペースが限られていますし、きちんと片づけておかないと、航海中に悪天候にみまわれでもしたら、とんでもないことになりますからね」
とにかく整理整頓は、任務遂行のためにも大事なことなのだ。
「これは幹部も同じなので。自衛官になる者は誰しもが通る道です。もちろん、入隊前にできなくても心配いりません。必ずできるようになりますから」
三佐の言葉に、その場にいる海士長全員がうなづく。そこは100%保証できる。ものすごくできる。
「では次の場所に行きましょう。次は機関室です。下まで一気におりていきますので、気をつけてください。手すりをしっかり持って。それから、機関室内の撮影は禁止です。カメラ、スマホなどは、バッグに入れたままにしておいてくださいね」
三佐はそう言いながら、俺達のほうにチラッと視線を向けた。事前の注意はしたが、念のために気をつけろということだ。
「みなさん、この階段を毎日つかっていて平気なんですか?」
再び階段をおりていくことになった時、見学者の一人が質問をしてきた。
「これも慣れですかねー……」
「ここで生活していたら、一日一回ぐらいは踏みはずして落ちてそう」
「僕はここの枠に頭をぶつけまくって、頭がへこみそうです」
「縁のところでぶつけて、メガネをいくつも割りそう」
「ふくらはぎにアザができそうです」
「あがる時も踏み外しそう……」
口々に階段への恐怖を語っている。もしかしたら俺も、最初のうちは、見学者達と同じように感じていたかもしれない。だが今はすっかり馴染んでしまい、なにも考えずに駆け上がり、駆け下りている。
「やっぱ、慣れですかねー……」
少なくとも俺は慣れた。
『みなさん遅いので、僕たち先にいきますー!』
『降下用意ー!』
『降下用意ー!』
―― おいおい、陸自のパラシュート降下じゃないんだから…… ――
ゆっくり降りていく集団に焦れたのか、候補生達は、階段をおりる見学者達の頭を踏みたおしながら、下へと駆けおりていった。途中で頭に手をやった人がいるところを見ると、なにか感じた人もいるようだ。あの人達は将来、海上自衛隊に入隊してくるだろうか?
階段をおりていく途中、フンワリといい匂いが漂ってきた。カレーの匂いだ。
「あ、カレーの匂いがする」
「みむろカレーですかねー」
「ここのカレーって、チキンカレーだっけ?」
見学者達も気がついたようだ。
「けっこう早い時間から準備するんですね」
「人数が多いですし、けっこう手間がかかるので」
「楽しみだなー、みむろカレー」
「それは自分達も同じです。厳しい訓練や任務の時って、食べることぐらいしか楽しみがないですからね」
「あー、そういうのもありますよね」
調理室ではきっと、普段よりも気合を入れて、料理長が準備をしているに違いない。
「でも、たまに違うカレーを食べたいとか思わないんですか?」
「どうかな。お前達、どう?」
質問をされて、他の連中に質問をふる。
「毎日だったら飽きるかもしれないけど、週一ですからねえ」
「俺、ここのカレーが好きで配属先にここを希望したし、毎日でも平気かもしれん」
「チキンカレー好きだから問題ない」
「とまあ、そんな感じで。自分も週一のチキンカレーを楽しみにしているクチなので」
そして艦内の最下層近くにまで降り、機関室に向かう。機関長の柿本三佐は、俺達の姿を見て一瞬、迷惑そうな顔をした。まあ気持ちはわからなくもない。今は航行中で機関も動いている。この騒がしい音の中では会話も難しいし、機関長的には持ち場を離れるなんて、論外だろう。
『ご質問には、同行中の河内海士長が、ていねいにお答えします♪』
そんなパネルが柿本三佐によってあげられた。
「わっ、まさかの丸投げとか!!」
河内がぼやく。
「まあ俺も機関室のことは、そこまで詳しくないからなあ。河内、頼むな?」
それを見た藤原三佐が笑った。
「河内海士長は、この艦のダメージコントロール訓練でも大活躍中の、前途有望な隊員です。昼から懇談時間をとりますので、なにか質問があったらその時にどうぞ。もちろん他の部署の海士長達にも、どんどん質問をしてください」
ニコニコと広報スマイルを浮かべている副長が、一瞬、鬼に見えた。
機関室でのパネル説明を終えた俺達は、再び階段をのぼる。のぼっていく途中で、外が見える場所に出た。ずっと艦内の移動だったので、外に出た見学者達は、ホッとした様子で深呼吸をしている。
『あ、カモメ発見!』
『対空監視を厳に!』
『大佐ー! カモメいまーす!』
猫神候補生達は見学者達といることに飽きたらしく、外に出るとカモメ監視を口実に、大佐が居座っている単装砲へと飛んでいった。
―― おいおい、写真のこと忘れるなよ! ちゃんとした任務なんだからな! ――
「副長、大人気ですね」
候補生達に声をかけていたら、比良が笑いながら隣に立った。
「どういうことだ?」
「見てくださいよ。女性の見学者さんに囲まれてます」
「どれどれー?」
振り返ると確かに。男性見学者は各々の場所で、景色を楽しみながら潮風に吹かれていたが、女性見学者は三佐の横に立ち、ずっと話しかけている。
「なんか副長、途方にくれてね?」
「そう言われればそうかも」
「だよな」
礼儀正しく質問に答えているが、その顔つきは間違いなく途方にくれていた。
「絶対に夏服効果だよな」
「それだ」
「大変だなあ、幹部って」
「普通の作業服で助かった」
海士長四人で話していると、副長がこっちを見た。
「おい、お前達。ちゃんと見学者さん達に説明をしろ。お客さんと同化してるんじゃない」
「いやー、自分達だって、たまにはお客さんしたいですし」
広報スマイルとは名ばかりの、胡散臭い笑みを浮かべてみせる。
「あ、体験航海の記念写真、お撮りしましょうか?」
そして広報活動中らしく、見学者に余計な一声をかけた。見学者達のカメラを借りして、副長を真ん中に写真を撮る。
「いやあ、夏服効果すごいっすね」
「他人事みたいな顔をしてるんじゃないよ、お前達」
「他人事ですよ。俺達、今日は作業着で良かったって話をしてたんです。あー、夏服こわい」
本当に夏服こわい。




