第二十二話 口外無用
みむろが所属している基地は、日本海側に面していた。なので、太平洋側にある横須賀に向かおうとすれば、日本列島を半周することになる。そこで毎回悩むのが、航路を南回りにするか、北回りにするか、ということだ。もちろん、出港時にはどの航路をとるかは決まっているので、日本海に出てから北に行こうか南に行こうかと、立ち往生することはないのだが。
「一般公開をしながらの航海なら、今度は北回りにするかって話だったんですよね。たしか新潟の地本さんから、一般公開の希望が来ていたような気が」
航路予定図をながめながらつぶやいた。今回のルートはそれとは逆の、佐世保を経由して太平洋に出る航路だ。
「北回りは冬場に限るだろ~~」
「なんでですか? なにか根拠でも?」
山部一尉の言葉に首をかしげる。
「だって、カニがうまい季節じゃないか」
「そこですか!」
思わずずっこけた。
「そこだよ。艦長のことだ、寄港先で上陸許可を出してくれるだろうからな」
一尉が嬉しそうな顔をして言う。
「任務より食い気だなんて」
「いやあ、食い気も大事だろ? どうせあっちこっちにいくなら、うまいご当地料理が食べたいじゃないか。ねえ、艦長」
一尉が艦長に声をかけた。艦長も一尉の言葉に、呑気な顔をしてうなづく。
「カニも良いが、ウニも捨てがたいよなあ」
「ですよね」
「うわあ、艦長まで……」
とは言え俺だって、一般公開で地方の港に立ち寄るのは楽しみだ。広報活動をするのは気が乗らないが、シフト次第では前日の夜に上陸して、地元のうまいものを食べるチャンスがある。もちろんそれは、冬場に限ったことではないが。
「東北の米どころは、もれなく酒もうまいしなあ」
「だけど航海中は、めったに飲めないじゃないですか」
「それを自宅に送って、宅飲みするのが楽しみなんだよ。ま、ちゃんと嫁に知らせておかないと、帰ったら半分に減っている可能性もあるんだけどな」
一尉が笑った。
「奥さんて、そんなに酒豪でしたっけ?」
「料理に使っちまうんだよ。信じられるか? 特級の日本酒で煮物を作っちまうんだぜ、うちの嫁」
「それはそれで、うまそうです」
「なんでだ」
「おはようございます!」
そこへ比良があがってきた。
「ワッチ交替の時間でーす。せんぱーい」
そう言いながら、艦橋の外に立っている、同じ砲雷科の先輩三曹に声をかけた。
「あれ? 比良、砲雷科はしばらく、兵装についての集中学習のはずじゃ?」
ハワイでの更新テストに向けて、砲雷科ではベテラン海曹長を講師に、集中講座が開かれると聞いてた。だから、砲雷長を兼任している副長が艦橋を不在にしていても、ここにいる全員はたいして気にしていなかったのだ。
「ワッチをさぼるわけにはいきませんよ。そんなことをしたら、シフトがめちゃくちゃになって、大河内一尉が怒髪天です。砲雷科全員が、給料を取り上げられちゃいますよ」
大河内一尉とは、4分隊の補給衛生科の補給長だ。この艦の、いわゆる事務経理関係の職務を束ねている幹部で、経理関係の仕事も一尉がおこなっていた。つまり、俺達の私生活に密着した部分で、艦長の次に怒らせたらいけない人だった。
「そういえば比良、顔色が良いな。船酔いは大丈夫なのか?」
艦長が比良に声をかけた。
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません。今回は薬だけではなく、強炭酸系の飲み物の持ち込みを許可いただいたので、大丈夫です」
「強炭酸? なんだそりゃ」
山部一尉が首をかしげた。
「砲雷長の奥さんが、ムカムカするなら炭酸系の飲み物が効くって、おっしゃっていたので。今のところ、それと酔い止めおかげで、まったく問題なしです」
「なあ、比良。副長の奥さんが言ったのは、悪阻での話だろ。乗り物酔いは三半規管が原因だ。炭酸は無関係だろ」
「もちろん乗り物酔いには薬ですよ。で、薬を飲んだ後に、胃をすっきりさせたいので炭酸系なんです。医官先生からも了解をもらっています」
「……なるほど」
医学的根拠はどうであれ、大事なのは、比良本人が船酔いに苦しめられることなく、ベストな体調で任務にのぞむことだ。医官先生がそれを認め、本人が快適に任務につけているのなら、問題なしということなんだろう。
「それと炭酸飲料も薬扱いにされていて、医官先生あずかりなんです。だから好きには飲めないんですよ。まあそうすることが、持ち込みの条件だったんですけどね」
「艦長?」
マジですか?と言いたげな一尉。
「ああ、その条件で認めた。比良、藤原には感謝しておけよ? 本来なら、そんな甘えたことは許さんと、却下するべきことなんだからな」
「はい。本当にありがとうございます。このご恩は、ハワイの更新テストで返します!」
「よろしい。ではワッチに入れ」
「はい!」
比良は、艦橋横に立っていた先輩三曹と交替をした。そして先輩三曹は、艦長と航海長に敬礼をして、艦橋から降りていく。
「艦長……ここ最近、若いヤツを甘やかしすぎでは?」
艦長の判断に、一尉は多少の異議ありといった口調だ。
「それは俺ではなく、俺に進言してきた藤原に言え。貴重な人材を、船酔いごときで手離すのはよろしくないと言ってきたのは、あいつなんだからな」
「どこも人材確保で苦労しているのは承知していますがね」
「ここを退官して、陸自空自に持っていかれても腹が立つだろ。せっかく入隊してくれた貴重な人材だぞ?」
「それはそうですが」
一尉はまだ、完全には納得できていない様子だ。
「まあ医官の話によると、最初に比べれば、かなり船酔いの症状は軽くなっているとのことだった。波にもまれているうちに、船酔いもしなくなるだろう。それまでのことだ。この事例は、次の艦長にも申し送りしていくつもりだ。海自の人材確保のためにもな」
「もしかして比良は、船酔い治療のテストケースみたいなもんですか」
「そうとも言う。この方法で船酔いが克服できるのなら、安いもんだろう。多少の隊規逸脱は、目をつむってもらうしかないな」
山部一尉が異議ありとにおわせたのは、その点にある。自衛隊はどこよりも、規律が重要視される組織だ。艦長の裁量内での判断が、新人隊員のためのものであっても、隊の規則に照らし合わせれば、問題視されることも十分にあるということだった。もちろんそれは、進言した副長にもふりかかってることだ。
「これから言うことは独り言だ」
一尉が大きな声でつぶやいた。
「このことは口外無用だ。艦長の好意を無駄にしたくなかったら、外でこのことは話すな。この手の美談を聞いて喜ぶのは、なにも知らない素人だけだ。以上!」
一尉がその場にいた全員に聞こえるよう『独り言』を言う。もちろん俺達も、それは航海長の独り言だから返事をすることはなかった。
「山部、気にしすぎだ」
そんな独り言に艦長が笑う。
「笑いごとではありませんよ、艦長。今の独り言を言わなければならない、副長までが関わっているんです。自分が言わないで誰が言うんですか」
一尉は珍しく真剣だった。
「最近はSNSが発達して油断はできません。この手の話を広めることが、自衛隊にとって良いことだと信じて疑わない、脳天気な人間が多すぎます」
そして一尉は、比良にも念押ししておかなくてはと、それこそ独り言をブツブツとつぶやいた。
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『美談は密やかに語られるのが良いのであって、大っぴらに言うものではないですね。最近は人伝が信じられないほどの広まり方をしますから、山部航海長が口外無用としたことについては、私も賛成です』
「そういうものですか」
『はい。部下思いの上司がいることを知ってほしい、広めたいという気持ちはわからないでもないですが、本人からしたら余計なお世話だと思いますよ』
「余計なお世話……」
『ええ。余計なお世話です』
相波大尉にしてはなかなか辛辣な言葉だった。
『昔から、口は禍の元というからな。余計なことは言わないに限る。それが自分のことでないなら、なおさらのことだろう』
それまで俺の話を聞きながら、毛づくろいをしていた猫大佐が口を開く。
その日の夜、同室の紀野三曹がワッチで部屋にいないのを見計らって、艦橋であったその話を猫大佐と相波大尉に話した。昔はどうだったのか、少しばかり気になったからだ。そして大尉がまず答えたのが、一尉の口外無用の件だった。
「で、このことは甘やかしていると思いますか?」
俺の質問に、大尉は首をかしげた。
『さあ、どうでしょう。それこそ艦長の裁量ですからね。大佐はどうですか? 私よりも、たくさんの艦長を見てきておられるでしょう?』
『そうだな、吾輩は甘やかしていると思うぞ』
「そうなのか?」
『あくまでも昔と比べればという話だ』
猫大佐の言葉に、大尉がうなづく。
『たしかに昔はもっと厳しかったですね。今だと問題になるようなことも、当然のように行われていましたし』
「例えばどんなことを?」
『上官が部下を殴るとか懲罰で体罰的なことをするとか。そういうことは海自だけではなく、私が生きていた頃の海軍でもざらにありましたよ』
「そうなんですか。ちょっと意外です」
俺の中のイメージでは、海軍というのは紳士的な集団の集まりだった。そういうことがあるのは、申し訳ないが陸軍だけだと思っていたのだ。
「俺、そういうのは陸軍だけかと思ってました」
『海軍より陸軍のほうが、一般から入りやすかったですからね。人数が多い分、そういうことも多かったというだけだと思いますよ。なにも陸軍だけが、特別に厳しかったということではありません』
「なるほどー……」
『ですが便利な世の中にはなりましたね。船酔いの薬があるというのは、比良さんにとっては、良かったのでは?』
「それは言えてます。最初のうちは、こいつ、どうなるんだろうって、すごく心配でしたから」
せっかく同期として同じ艦に乗り合わせたのだ。できることなら一緒に三曹に昇任して、みむろに乗り続けたい。だから今の比良の状態を見ていると、本当に良かったと思えた。
『ああ、もうこんな時間だ。波多野さんは明け方に当直があるんですよね。そろそろ休まないと』
「はい。すぐに寝るつもりです」
『吾輩もここで寝る』
『なにを言ってるんですか。私と大佐はもう一回りしないと』
大尉の言葉に、大佐はイヤそうな顔をした。
『お前一人で十分だろう』
『ダメです。最近、みむろの猫神はさぼり気味では?と、神棚の方々もおっしゃってますよ』
「やっぱりサボってたんだ……」
俺が部屋にいる時は、たいていベッドでゴロゴロしていたから、猫神ってもしかしてヒマなのか?と思っていたんだが、そうか、やはりサボっていたのか……。
『さ、サボってると言われたら示しがつきませんよ、ほら』
『まったく……』
ブツブツ言いながら、猫大佐と大尉は部屋を出ていった。




