9話 紫の霧
草原を取り囲む柵。区切られた複数の区画には様々な動物が居る。牛が目立つが、羊や、馬も見える。区画の間に点在する小屋は細長い形状だ。小屋の一つからは羽音や鳴き声が聞こえてくる。
王都に近いこの牧場はダルガン商会の取引先の中でも、一番大規模な物だという。周囲の池には渡り鳥なども飛来するらしい。
さて、そのダルガン商会の跡取りは牧場の前に勢揃いした多くの従業員の前で、クレイグにひざまずいている。訓練でたまたま近くに来たクレイグに功績を称えられているのだ。
大勢の人の中には、王都から駆けつけたダルガン商会の会長もいるらしい。中心に居る赤ら顔の男だろうか。その横に居るのは筆を手にした画家。なるほど、絵に残して末代まで伝わるわけだ。
流石にお金持ちは違う、来年にはプルラと一緒に金商会に昇格するだけのことはあるわけだ。
「こりゃ、ダルガンの将来は安泰だな」「おりゃあ、最初からあの若旦那はただ者じゃないと思ってた」
そんな言葉が聞こえる。ダルガンが実際に行った作業は絵に残すわけには行かないが、功績に偽りはない。肝心の本人はさらし者だと大層嫌がっていた。クレイグがここに立ち寄るための情報操作でもあるので、我慢してもらいたい。
ちなみに学院では俺に文句を言った後、シェリーを押しつぶさんばかりの勢いで王族が訪ねてきた時の事を質問していた。俺に聞かないのは分かっているなとしか言い様がない。
「先に小屋に向かうか」
俺は同行者に言った。
「そうね。急ぎましょう。王水なんて今時使わないから用意するの苦労したんだから」
俺の横でノエルが言った。文字通り牧歌的な雰囲気を見て魔術寮との違いを考えたのかも知れない。ノエルは褐色のガラスと擦りガラスの二種類の瓶を持っている。
◇◇
俺とノエルは牧場の一番外れの小屋に入った。小屋の中には牛、羊、馬という哺乳類。いくつもの篭に入れられた鶏、ウズラ、鴨といった鳥類が用意されている。さらに、蜥蜴やイモリもだ。
「きゃっ」
ノエルが篭の一つに顔を近づけて、慌てて飛び退いた。二股に分かれた舌を篭から出しているのは蛇か。
「待たせたな」
ダルガンの肩を叩きながらクレイグと副官が入ってきた。
「それにしても、騎士団長自らわざわざ付き合わなくても」
俺は言った。とてつもなく忙しいだろうし。第一、家畜小屋と王子という組み合わせは、平民の心臓に悪い。ほら、ダルガンなんかめちゃくちゃ居心地悪そうだ。
「帝国の主戦力と思われる馬竜への対抗策だぞ。自らの目で見ておかぬ訳にはいかぬさ。ただでさえ、リカルドのやることは常識とは大きく違うのだからな」
現場主義は相変わらずだ。頼もしい話である。一言多いが。
「ノエルもご苦労だな」
「は、は、はい。もったいないお言葉でございます」
慌てて頭を下げた弾みに、瓶をぶつけ。さらに慌てて蓋を手で押さえた。気をつけて欲しい、中に入っているのはどちらも肌に付いたら大変な液体だ。
「ヴ、ヴィンダー。王水を作るのよね。もう調合を始めちゃってもいいかしら。殿下をお待たせしてはいけないわ」
明らかに王子の相手よりも本業に逃げたいといった顔でノエルが言った。俺に分かるくらいあからさまなその姿がほほえましい。
「いや、欲しいのは王水じゃなくて、材料の片方なんだ」
だが、俺はノエルを止めた。クレイグはノエルの手にある二色の瓶を見た後、俺に振り返る。
「まず一番大事なことを確認しておきたい。帝国の馬竜にあの花粉は効くのかだ」
「確証はもちろんありません。ですが、騎士団が討伐した竜の親戚である以上、呼吸は気嚢に頼っていると思われます。効果があると考えて良いのではないでしょうか」
俺は言った。効果を発揮するまでの時間の長短はあれ、鳥に対しては遍く効果があった。それはダルガンに確認して貰っている。効果を発揮するまでの時間を決定するパラメーターもミーアに頼んだ相関分析で推測済みだ。
そして、ドラゴンと馬竜と鳥なら、ドラゴンと鳥が進化上は一番離れている。その二種類に効いた以上、馬竜の気嚢にも効く可能性は高い。
もちろん生物ほど例外がつきものの存在はない。だが、恐竜類の最大の長所である呼吸効率を捨てるとは思えない。実際、馬竜と思われる生物は騎士団が追いかけても追いつけない速度とスタミナを見せたのだ。
「なるほど、となると問題はどうやって馬竜に花粉を食わせるかだな」
その通りだ。野生の竜と違って餌は人間が与えているのだ。しかも、戦場では高速で移動する。前のように馬に花粉をまぶすという方法は採れない。
だが、ダルガンにやってもらった実験の結果も踏まえて、最初からその手は使うつもりはない。その為の今日の実験だ。
「ダルガン先輩に多くの鳥で行ってもらった実験が正しければ、花粉の効果を高め、しかも摂取させやすくさせる方法があります」
俺は言った。正直ぞっとしないが、手段は選んでいられない。いよいよノエルに持ってきてもらった液体の出番だ。
俺は磨りガラスと、褐色の色つきガラスのふたを開ける。それぞれを手で煽いで臭いをかいだ。王水は確か二種類の酸を混ぜて作る。目当ての方は数少ない学生実験の範囲でも、扱ったことがあるメジャーな酸だ。
「こっちだな」
俺は磨りガラスを手に取った。
「クルシドね。気をつけてよ、サラドほどじゃないけど手に付いたら結構大変よ」
さっき自分の顔に瓶をぶつけかけたノエルが言った。
「それくらいの強さが必要なんだ。三人とも念のため離れてください」
あれだけ特異性があるから人間には効かないと思うが、効力は強くなるはずなので油断は出来ない。全く未知の毒が生じる可能性もある。
クレイグ達が小屋を出た事を確認して、俺は瓶に注いだ透明な液体に紫の粉末をごく少量落とした。あっという間に粉末に細かい泡が付着し始める。
地面に瓶を置くと、クレイグ達に続いて入り口に待避する。
液体がかすかに紫がかる。よく見るとうっすらと紫がかった気体が立ち始めた。俺は小屋のドアを閉じた。
しばらくして、グ……ケェーというくぐもった鳴き声が聞こえてきた。
四半時ほども待っただろうか。俺はまず全ての窓と前後のドアを開けて、さらに時間をおく。口をふさいで、入り口からおそるおそる中を覗く。大丈夫みたいだな。
中に入ると、篭の中で全ての鳥が羽を広げて地面に伏していた。周囲には飛び散った羽が散乱していた。
ヒヒーン
小屋に居た馬が何事もなかったように鳴き声を上げた。牛も俺たちが小屋を出た時のまま、草を食んでいる。蜥蜴やイモリ、蛇はもう一度ノエルを驚かせるくらいの元気はありそうだ。
「大丈夫みたいです」
俺が言うと、三人が入ってきた。
「何度見ても気持ちの良いもんじゃねーな」
ダルガンが死んだ鳥の様子を確認した。
「花粉の状態だったら、時間が掛かった鴨もイチコロだったみたいだな」
「花粉そのものじゃなくて、酸で溶かして霧にしたってこと?」
ノエルが死んだ鳥に顔をしかめながら聞いてきた。俺はうなずいた。
「なるほど。毒の霧という訳か、これなら馬竜の餌に混ぜるための工作はいらんな」
「はい、しかも、気嚢を持たない動物には無害のようですから、扱い方も楽ですね」
人間に効果がないなら、運用は飛躍的に楽になる。しかも、あの微量でこの効果だ。大量の馬竜に使うことを考えればありがたい。後はこの毒ガスの撒き方だが。
「効果を発揮するまでの時間も短いのだな」
「花粉を食わせるよりもずっと早く効果を発揮しております」
ダルガンが答えた。そこら辺はもう少し実験を繰り返さないとな。
「しかし、リカルドは毒について詳しいのだな。ノエルの知恵を借りたのか」
「……私は材料を用意するように言われただけです」
ノエルが俺の方をちらちら見ていった。微妙な沈黙。まあ、毒に詳しい知り合いとかいやだ。
「いつもの夢の中でということでお願いします」
花粉の毒性を明らかにするために以前フルシーとダルガンと行った実験。魔力による薬物動態試験をしたアレだ。
あの実験で、花粉は胃で気体に変化した後、肺に効果を及ぼすことが推測された。
毒としての性質は違うが、その経路は前世でミステリで使われる一番有名な毒、青酸カリと同じなのだ。
ならば最初から毒ガスにしてしまうと言うのが、俺のアイデアだ。
「冗談だ。リカルドの存在は今のところ王国の薬にしかなっていないからな。それに、リカルドに何かあったらアルフィーナの予言の力まで失いそうだ、そんな大損はできんさ」
「とにかく、運用の方は騎士団が考えてください」
元の世界でも一般人だった俺には、戦場で毒ガスを散布する時の知識などない。
「それで、このクルシドか、どれほど用意出来るのだ。保管についても詳しく聞きたい」
「は、はい、えっとあまり使われていないんですけど、後保管も、あの時間が経つと劣化して、でも作る時は溶かすだけだから、えっと……」
ノエルがクレイグの質問にしどろもどろになっている。俺は死んだ鳥を埋葬しているダルガンに近づいた。
「すいません先輩。毎回毎回やりたくないことをやらせて」
穴を掘るのを手伝いながら言った。食べても問題なさそうだが、試す気はない。
「王国に負けてもらうわけには行かないからな。それで、次は何だ?」
察しよく尋ねられた。ますます頭が上がらない。
「……この前用意してもらったゼラチンと牛の血ですが、足りなくなって。前回の倍ほど欲しいんです」
「……倍って言っても大した量じゃないからな。用意する。しかし、こんなご時世に新しい料理か」
ダルガンがいぶかしげに俺を見た。
「食べ物と言えば食べ物なんですけどね」
俺は言葉を濁した。食べるのは人間ではない。わざわざ腐らせるために用意してもらったとは言いづらいのだ。




