第五十六話 度重なる逃亡
そんな初めての自分よりも強い相手に対して硬直を余儀なくされていた俺だったが、そんな中でも動く奴がいた。
「俺が合図すると同時に走って逃げろ。そこから先は各自でどうにかするんだ。いいな?」
有無を言わせぬ口調でそうマックスは言うと弓を引き絞り、そして敵が周囲を見回して背を向けたところで死角から矢を放つ。
その放たれた矢は一直線にディックの頭部へと寸分の狂いもなく飛来する。
流石は『狙撃手』と思わせる死角からの音も無い見事な狙撃だった。だがそんな攻撃ですら『剣王』の前では無意味と化す。
「おっと、これは思わぬ攻撃だ。そこら辺からかな?」
矢の飛んできた方向を見る事も無く、ディックの剣を持っていた方の腕が一瞬ぶれたと思ったらその矢は地面に叩き落されてしまっていた。
恐らくはその剣で矢を弾き落としたのだろう。それも目にも留まらぬような速さで。
その事で更に目の前の奴が化物だと再認識したその瞬間にマックスは合図を出す。
「今だ!」
その声を発するよりも僅か前に剣で弾かれた矢が爆発し、それによって生まれた炎がディックを飲み込んだ。
その時には既に俺達は一目散に全力でその場から退避している。そしてそのまま背後を振り返る事も無くただただ前だけを見て走り続けた。
他の二人がどうなっているのかなど気にしている余裕も無く、俺はただ全力で逃げる。
そしてしばらく進んで森の中に流れる小川の辺りに来たところでようやく足を止めた。勿論その近くに有った大きな石の影に隠れながら周囲を注意深く窺うのも忘れない。
(あれで死んだ? いや、それはあり得ない。だとしてもここまで離れれば撒けたか?)
強化した肉体で全力疾走したのだ。あそこからかなりの距離を稼いだことは疑いようがない。
もっともそれがあの化物に対してどれだけ有効なのかは甚だ疑問が残る。あいつならその気になれば追い付けるかも知れないという不安が拭えないし。
(とりあえず人の居る街に戻るんだ。そうすればあいつだって無闇に人を襲えないはず)
根拠などないがそう思うしかない。すぐさま俺は地図を取り出して現在位置と逃げるべき方向を確認する。
「くそ、フーデリオとは真逆の方向に来ちまったか」
先程まではあそこから離れる事だけで精一杯だったから仕方がないとは言え、これではフーデリオに逃げ込むのは難しいかもしれない。
かと言ってこのまま先に進んでも旅をしてきた道を引き返すことになるだけだった。
そこでガサガサと茂みを掻き分ける音が聞こえてきたと思ったら何者かが俺の隠れる岩の上から転げ落ちてくる。
一瞬身構えかけたが、その人物には見覚えがあったので俺はすぐに警戒を解いた。
「マックス、無事だったのか」
「そっちもな。てか、まさかバラバラに逃げた先でこんな風に落ち合う事になるなんて思わなかったぜ」
逃げる事だけ考えて走ってきた所為かその身体には折れた木の枝や葉が大量に付いていた。もっともそれを言うなら俺も同じようなものだったが。
「あいつは?」
「分からん。キルリンも無事に逃げられていると良いんだが」
「ああ、彼はキルリンと言うのか。残念ながらこの通り、一番逃げ足の遅かった彼は一足先にあの世に向かったよ」
ごく自然に俺達の会話に混ざって来たそいつは前の茂みからその姿を現す。そしてその手には先程までキルリンという人間だった奴の生首がぶら下がっていた。
「やあ、君達は中々速かったから見つけるのに少し手間取ってしまったよ」
「……どうして追いかける側のあいつが全速力で逃げた俺達の前方から現れるんだ?」
「それは俺も是非とも聞いてみたいところだが、そんな事を考えている余裕はないみたいだぞ」
どうやらマックスの言う通り余計な事を考える暇もなければ逃げ切るのも不可能なようだ。
だとしたら戦うしかない。
たとえ勝機が限りなく低くとも。
出し惜しみなどしていられる訳もないので俺は端から全力で行くべく、最近手に入れたばかりの短刀を抜いて構えた。
「マックス、援護は任せたぞ」
「へー単なる鋼じゃなくミスリル製の短刀か。結構良い物を持っているじゃないか。それに刀剣を使う相手だし、これなら少しは楽しめるかな」
ディックはこれまたのんびりとした口調でそんなことを言いながら腰に差してある剣に手を伸ばす。
その手が鞘に収まる剣に触れる前に俺は全身を魔力で強化して奴に斬り掛かった。
この状況で魔力を暴走させるのが怖いなんて言ってる余裕はない。
俺は今の自分の最高の一撃を奴に向けて先手必勝で叩き込む。これで駄目なら後がないという気持ちで。
「おっと!?」
これには然しものディックものんびりと構えている余裕はなかったのか、初めて声に焦りを浮かばせながら回避行動を取る。たったそれだけで初撃は簡単に躱されてしまったが、相手の体勢はかなり崩れていた。
(ここだ!)
ここを逃せば勝機はない。俺は魔力を高めると全身全霊の一撃を放とうとして、
「これは舐めてたら痛い目を見るか」
そんなディックの呟くような低い声を聞いたところで悟る。
このままでは自分は死ぬと。
だが既に攻撃に移っていた体はそう簡単には止まらない。俺はなす術もなくそのまま死地へと踏み込もうとして、
「ぐう!?」
突如として俺とディックの間で発生した爆発によって強制的にその場から退避させられた。正確には吹き飛ばされたと言うべきだろうか。
でもそのおかげで敵から離れることが出来たのは紛れもない事実である。
「助かる!」
「いいから敵に集中しろ!」
その爆発を起こしてこちらを見事に助けてみせたマックスはいつの間にかその場から姿を消しており、どこからか余裕のない声で指示を出してくる。
恐らくは『狙撃手』として自分が最も活躍できるよう身を隠しながらこちらを窺っているのだろう。
現に今のようにこれ以上ないタイミングでの援護をしてくれている訳だし。
「魔力による身体強化が出来るとこを見ると『剣豪』と言うよりは『魔法剣士』よりの天職なのかな? まあそれでも武器の方に魔力を通さないところをみるとまだまだレベルは高くないか」
そんなマックスの事などどうでもいいと言わんばかりに、ディックは分析しているのかブツブツとそんな事を呟きながらこちらをジッと見つめている。
その姿は一見隙だらけに見えなくもないが、いざ攻めようとするとそんな場所が無いことが理解出来る。
「まあそれなりの剣の腕だったし中々面白かったよ。それのお礼として面白い物を見せてあげよう」
そう言ったディックは今度こそ腰の剣を素早く引き抜くと、その剣自体に魔力を込めていく。
「『剣豪』や『剣王』のような剣だけに特化した天職ならともかく、魔力と剣を同時に扱う『魔法剣士』なら最低でもこれぐらいは出来るようにならないといけないよ。冥土の土産に見ておくといい」
そうしてディックはその魔力の籠った剣を俺でなくあらぬ方角に向けて振り下ろした。するとそこに込められた魔力が地面を割りながら奔って行き、
「逃げろ!」
その先にあった大木さえも割りながら進んで見えなくなっていった。その割れた大木の影からは隠れていたマックスが転がり出てきている。
後少しでもそれが遅かったのなら大木ごと真っ二つにされていた事だろう。
「すまん、助かった」
「お互い様だ。それに今は敵に集中するんだろ?」
そんな減らず口を叩き合ってはいるものの状況は最悪なまま変化がない。
いやむしろ敵が徐々に本気になって来ている分、悪くなってきていると言っていいだろう。
「しぶといなあ。その頑張りは認めるが、下手に抵抗しても苦しむ時間が長くなるだけなのに。そろそろ諦めて斬られてくれないかな? まあ楽しい事は楽しいからもう少し続けてもこっちは全然構わないけど」
しかも未だにディックは全力ではないのは見ての通りだ。こうして会話をして俺達に時間を与えている事からもそれは明らかだろう。
(どうする? 何か手はないのか?)
贋作のリストを必死に頭の中で閲覧して起死回生の手はないかと探すが、どれもこの状況をひっくり返すには足りな過ぎる。
この敵に武器の一斉掃射なんて効かないだろうし、火の魔法だってあの爆発を耐えたところからして意味があると思えない。精々出来て逃げる為の時間を稼ぐぐらいのものだろう。
(……ん?)
そこでふと俺はとある贋作による複数の反応を察知する。
どうやらその反応からするとフーデリオで待っているはずのソラ達が何故かこちらに向かっているようだ。
(繋がりで俺の危機を悟ったのか?)
二人には発信機代わりの贋作を持たせてあるのでどこに居るかは何となく分かる。
だが今から繋がりを頼りにここに向かえたとしてもかなりの時間が掛かるだろうし、たとえ増援を連れていても間に合うとは思えない。
「……いや、そうか。この手が有るのか」
「その様子だと何かいい手が浮かんだか?」
「ああ、浮かんだよ。運と他人任せの糞みたいに酷い作戦がな」
しかも失敗した場合は巻き添えを増やすことになりかねない最悪な奴が。
それでも今の俺に思い付くのはこれだけだった。詳しい事を説明している暇はなかったのでやるべき事だけマックスに指示する。
そして奴が俺達をすぐに始末しようしていないこの今という好機を逃す訳には行かない。
だから俺は指示を終えるとすぐにある贋作を大量に出現させるとそれらを一気にディック目掛けて射出する。
「まだ無駄な抵抗するのか……って何だこれ?」
飛んできたそれらを斬り伏せようとしたディックだったが、生憎とその制汗剤という物は幾ら斬られても問題ない、いやむしろそうして貰った方が好都合なものだった。
だって今からやるのは前にスカルフェイスを倒した時にやったのと似たようなあれだからである。
「フレイムブラスト!」
更にマックスが爆発する矢を放ち、それらは一気にディックの周りを漂っている可燃性のガスに引火した。
その炎に呑まれる前のディックの表情はまた同じ手かという、ジョリオに向けた時と同じ詰まらなそうな表情をしていた。
だが今はそれで構わない。こちらを侮ってくれればそれだけこちらには勝機が生まれるのだから。
そしてここからも先程とやる事は同じである。即ち選択肢は逃亡一択だ。
だが今回はただ闇雲に逃げるのではない。明確な目的地があっての逃亡である。
(問題はそこまで逃げ切れるかどうかってことだけどな!)
何にせよそこまで辿り着けなければ話は始まらない。俺は無茶を承知で全身に魔力を目一杯行き渡らせるとマックスの体を抱え上げて、
「おらあ!」
その場所に向かって一目散に駆けて行った。




