第九十五話 忘れていた訳ではない、一応は
「朝早くにすみません。どうしても至急相談した事がありまして、こんな時間ですがお邪魔させていただきました」
(えっと……誰だったっけ?)
そいつが朝方部屋に尋ねてきた時、俺が最初に思った事はそれだった。もっともすぐに思い出せたので、それはあくまで寝起きで頭が働いていない所為だと個人的には思いたい。
自分が後々の為にと蒔いておいた種の事を忘れるのは流石に間抜け過ぎるので。
「ああ、前に化粧水とかを渡した商人か。えっと、名前は確か……リックだったな」
「覚えていてくれたんですね。出てきた時の顔を見て、てっきり忘れられてしまったのかと焦ってしまいましたよ」
「そんな訳がないだろう」
正直に今の今までその存在を忘れていたなんて事はおくびにも出さずに俺は笑顔でそういってのける。日本でも役立った作り笑いはこっちでも有効だと信じながら。
ロゼとソラは昨夜の運動の所為で疲れているだろうからまだ寝ているように指示を出しておき、俺は適当な朝食を取れる店で食事を取りながらそのリックの相談とやらを聞くことにした。
「これを見て欲しいんです」
朝食を済ませた後に差し出されたのは幾つかの何らかの液体らしき物が入った陶器製の小瓶だった。幸いな事に天職の能力である程度の鑑定眼も得ていることもあり、俺は特に労せずにそれが何なのかを理解する。
「これは俺が渡した化粧水や入浴セット……ではないか。似てはいるが別物だよな」
「はい、その通りです。前にいただいた物を元に同じような物が作れないかと試してみて出来たのがこれです。完全な再現には至っていませんが、それなりの出来だと自負しています」
(……なるほど、言うだけはあるな)
例えば化粧水の材料となる精製水は通常の水に含まれている塩素やミネラルなどの不純物を取り除いた物だったはず。それ以外にもイオンなどの小難しい話も関わっていると聞いたことがある。
だから正直に言えば、見本を渡してもそう簡単に同じ物を作れはしないだろうと思い込んでいた。言ってしまえば駄目元だったのだ。
だというのに目の前には成分は異なるが発揮する効果は本物にそれなりに近い品が存在している。それは驚嘆に値する出来事だ。
なにせここは異世界で文明も元の世界とは大きく異なる。同じ材料だって存在しないことだって十分考えられるのだから。
(実家がそういう物を扱ってるとか言ってたか。もしかしたら成分を解析できる天職を持つ職人とかを抱えているのか? それとも既に異世界から精製水などの作り方が伝わっているとかか?)
大浴場と同じような形で。でなければ流石にこれだけの期間でここまでの品が作れるとは思えない。
「それでこれを俺に見せてどうするつもりなんだ?」
わざわざ見せに来た事で、本物に近い品が出来たことを内緒にして売り捌くつもりではない事が分かる。もしそうならこいつが目の前にいる訳がない。
「実はですね、イチヤさんから貰った品を実家に持って帰ったら想像以上の反響がありまして」
まあ異なる世界からの品なのだからそれも当然の反応だろう。魔法という点を除けば明らかに元の世界の方が文明的に発展しているのだし。
「それで? まどろっこしいのは抜きにして本題を言ってくれ」
「あはは、分かりました。包み隠さずに言うとイチヤさんを他の商会に取られないようにしろと言われてしまいました。可能なら家の商会と専属契約を結ぶようにとも」
「へえ、随分と高く買ってくれるんだな。たかだか二、三品提供しただけなのに」
「それだけあの品が持つ影響力が大きいということです。更にぶっちゃけるとあれが市場に流れることになると家は非常に苦しい立場に追い込まれかねませんから」
「おいおい、そこまで言っていいのかよ」
「その程度の事は既に承知の上でしょう? そのくらいは私でも分かりますから構いませんよ」
仮に俺が化粧水やらを量産して売り捌けば、それを取り扱っているリックの商会は大きな打撃を受けざるを得なくなる。
なにせこちらの品の方が質は上だし、それだけでなくチートの天職のおかげで制作費用はタダなこともあって普通なら不可能な安値で提供してもなんら問題ないからだ。更に貴族に売り込むコネなども前回の件で得た伯爵に頼めばどうにかなる。
そこまでは知らないだろうが、そうでなくても俺の持つこれらの品が脅威だとリックの実家である商会は判断したのだろう。
万が一の事を考えて囲い込もうとするのも無理はない。
「それで俺にどんなメリットがあるんだ? まさか何の旨みも無く制限を掛けようって腹ではないだろう?」
「それは勿論です。イチヤさんの故郷の品はとても質が高いですが、そう簡単に数を揃えられないと前に言ってましたよね。ですからこれのように家の商会でそれらの商品を可能な限り模倣、量産して販売させて貰います。その売上げによってイチヤさんに報酬を支払うという形はいかがでしょうか? 勿論冒険者として手に入れた物も家に提供して貰えればとも思ってます。品によってはギルドより高く買い取りますので」
(悪い話じゃないか。いや、予想していた中では結構いい条件だな)
これなら俺は見本となる物を提供するだけで金を手に入れることが出来る。
一から自分で商売を始めた方が利益は大きいのかもしれないが、そこまでの手間が省けるのならそちらの方が俺にとっては良い。こちらの世界にまだまだ疎い俺が商売などの複雑な交渉事を行うのはまだまだ不安要素が大きいし、それをリックの商会が代わってくれると思えばいいのだ。
無論、その為には正当な報酬が支払われることが絶対条件となるが。
(それに今は教会とやらについて少しでも情報が欲しいしな)
今のところ怪しい動きが有るというジュリアからの情報だけではこちらとしても対処の仕様がない。それに商人ならではの情報網で分かる事があるかもしれない。
「そうだな……別に今のところは商売で食っていくつもりはないし、契約しても構わないぞ。今のところはそっちの方が俺にとってもメリットがありそうだし」
「ほ、本当ですか?」
「勿論色々と条件はあるけどな」
その後の話し合いの結果、報酬については今後の売り上げを見ながら相談していくこと。商会の情報網を俺が好きな時に活用できるようにすること。
そして最後にこの契約はどちらからでも破棄出来ることを決めて、一先ず俺とリックことリック・ハーマネストとその実家であるハーマネスト商会は契約を結ぶ事となった。




