弐・栞菫 後
翠は「順を追ってお話しします」と前置きして話し始めた。
「諜報隊が琥珀の街へ馳せ参じた際、栞菫様は街外れの小屋におられました。小屋は妖獣の炎に燃えておりましたが、栞菫様が彩玻光にて鎮火され……おそらく妖獣は炎もろとも消し飛んだのでしょう」
「さいは、こう?」
「双月界のすべての生命の源となる波動を、珠織人の身体を通して具現化したものです。時に癒しの力を与え、時に敵を討つ刃となる」
記憶を失っていることを気遣ってか説明をしてくれる翠だったが、はるかにはすぐ理解するのは難しかった。
しかし掘り下げて聞いていては話が進まないと、はるかは追及するのを諦めた。
はるかが黙ったのを見て、翠は先を続ける。
「彩玻光が発現した場所を訪れると、すでに栞菫様の姿はなく。その後、秋良という者が琥珀の宿まで連れ去ったということがわかりました」
「秋良ちゃんが!?」
はるかは思わず身を乗り出した。
「秋良ちゃんは、無事だったの!? 秋良ちゃん、あのおじいちゃんにひどい怪我させられて……秋良ちゃんは今、どうしてるの!?」
彼をよく知る者以外には、その表情の変化を読み取るのは難しい。しかし彼は今、はるかの取り乱しように驚いていた。
『はるか』の秋良に対する思いの強さを感じ、膝に乗せた両拳に密かに力を込めた。
「秋良という者に会った時には、怪我はない様子でした。おそらくは栞菫様の彩玻光により回復したのでしょう」
「そう……元気、なんだ」
はるかは吐息とともに全身の力が抜けていくのを感じた。そのまま、背もたれにしている枕に身体をうずめる。
身体が回復すれば、また秋良に会うことができるのだ。
知らず口元に浮かんでいた微笑みはすぐに消えた。
無意識に胸元の瑠璃石に伸びた手に、いつもの硬くひんやりと、それでいて何故かあたたかい感触が感じられなかったのだ。
「えっ……」
さっと血の気が引くのを感じる。
もしやまた後ろに回ってしまっているのではと思い、首の革ひもを探すがそれもない。
身体の重さも忘れ、全身をくまなく寝間着の上から叩き、布団をめくったり枕をよけたりしていると翠が見かねて声をかけた。
「お探しの石なら、秋良という者に渡しました」
「えっ?」
「栞菫様の身柄と引き換えに、五十金とその石を渡しています」
はるかは聞こえて来た音の群れの意味が理解できなかった。
「石は、栞菫様の所持品には当たらず、問題ないと判断しました」
淡々と告げる翠の声も、どこか遠く感じる。
頭の中に連動して視界が揺らぐ感覚と耳鳴りに襲われ、たまらず眼を閉じた。
寝台の傍らで翠が立ち上がった気配がする。
扉の外に向かって李を呼ぶ声。扉が開き小さな足音が駆け寄ってくる。
「栞菫様!?」
李の声がすぐそばで聞こえ、少し遠くから翠の声が聞こえた。
「栞菫様を、頼む」
足音が遠ざかっていく。
はるかの頭の中で、翠の声が交錯する。
――身柄と引き換えに
――五十金とその石を要求され
李が、力の入らない身体を寝台に横たえさせ布団を掛けてくれるまでの間、はるかはずっと眼を閉じていた。
せわしなく動く李の足音が聞こえていたかと思うと水音がし、ひやりと濡れた感触が額を覆った。
うっすら眼を開けると、濡れた手拭いをはるかの額に乗せながら心配顔の李がのぞき込んでいる。
「栞菫様、お加減いかがですか?」
「うん……だいじょうぶ」
そう言って微笑んで見せたが、はるかの白い肌は一層白さを増し、憔悴した表情が真実を物語っている。
李はむっとした表情で両手を腰に当てた。
「またぁ! 栞菫様はすぐそうやってご無理をなさるんですから~」
李は寝台の横にしゃがみ込み、小さな両手ではるかの手を取り包み込む。
彼女の薄桃色の瞳が、まっすぐに、優しくはるかを見つめた。
「辛い時はぁ、辛いっておっしゃっていいんですよぉ? 李は誰にも言いませんから。ね?」
その言葉は、はるかの心を突き崩した。
こらえる間もなく紫水晶の瞳が濡れ、大粒の涙がぽろぽろと零れだす。
流れる涙を、李は懐から小さな手拭いを取り出してそっと拭き取った。
「それにしても、その秋良とかいう人はひどいですぅ! 栞菫様をお金で……そんな恐れ多い」
「きっと、何かの間違いだよ」
はるかの言葉は願いに近かった。
李は主の心情を思うと居たたまれない気持ちになったが、考え考え言葉を紡ぐ。
「でも、翠様は、陽昇国始まって以来の腕利きの諜報隊長と評判の方です~。それに、栞菫様とはご親友だったのですからぁ。嘘を吐くとも思えませんし……」
「親友?」
「そうですよぉ。栞菫様と翠様と白銀様は、いっつも仲良しさんだったんですから~。近衛隊長の白銀様も素敵ですけど、李はやっぱり翠様が……って、そうじゃなくってぇ!」
李は慌てて両手を振り回すと熱くなった顔を片手で仰ぎつつ、気を取り直して先を続ける。
「翠様、いつも栞菫様とおふたりの時は敬語を使われないんですけどぉ。今日は違いましたねぇ。……あっ、決して盗み聞きなんて、はしたないことしてませんよ!? ただ李は、翠様のお声が聴きたかっただけでして、そのあの」
顔を真っ赤にして言い訳にならない言い訳をしている李をよそに、はるかは自分の考えに沈んでいた。
親友と聞いても感じるものは何もない。
記憶がない、というのは片鱗でも思い出せないものなのだろうか。
この部屋、窓の外の景色。李、翠、白銀――近しい存在であったろう者たち。そして、栞菫であった自分。
思い出そうとしても、何ひとつ思い出せない。
そして秋良は――本当に翠の言ったとおりなのだろうか。
いつの間にか眼を閉じていたはるかの目尻を、李の手拭いがもう一度拭う。
「栞菫様。今はお疲れでしょうし、考えるのはまた明日にしましょう? 何かあったら、すぐに李にお声かけくださいね。李は何があっても、ずっと栞菫様付きの侍女ですから」
彼女の言う通り、少し起き上がっていただけでも途方もない疲労感が全身を襲っていた。
考えないようにしようとする努力も必要なく、はるかの思考は停止し深い眠りに落ちていった。
【彩玻動・彩玻光】双月界を巡る生命波動である彩玻動はよく言われるところでは『マナ』とか『地脈』とかのようなもの。固有の能力を持つ種族は、これを体内で変換して利用している。珠織人は体内で変換・能力化したものを彩玻光と呼んでいる。
【諜報隊】陽昇国内組織のひとつ。翠が隊長を務め、双月界各国に散った隊員から情報を集めている。




