壱・薫風焦がれ 後
――呼ばれている。
知らない。聞いた事のない声。
――違う、この声……覚えがある?
村の誰でもない。それなら、知っているはずがない。
――知ってるはずない。なのに、どうしてこんなに……。
「……良、秋良!」
春時の声に、弾かれるように秋良はその身を起した。
窓からは朝の光と小鳥のさえずりが届けられている。いつもと変わらぬ部屋の風景がそこにあった。
寝台の横にいた春時は、心配気に妹の顔をのぞきこむ。
「大丈夫か? ずいぶんうなされてた」
「うん……大丈夫」
嘘ではない。
心に差し迫っていた苦しさは、音も無く融けている。わずかに眉をしかめたのは、心に残った違和感のためだった。
春時はまだ安心できないと寝台に腰掛ける。
「本当か? このところ毎日うなされてるぞ」
本当、とは言い切れず。
秋良は沈黙を返した。
眠りが深くなると、いつも誰かの呼ぶ声がする。
眼が覚めてしまえば、誰の声か、どんな言葉だったか覚えていない。
それでも、呼ばれていたことだけは心に残っている。
ただの夢。
初めのうちは、そう思っていた。
しかし日を追うごとに夢を見る回数も多くなっている。
夜中に何度も、眼を覚ます。
それを繰り返すたびに、大きくなっていくのだ。
心の中に残る違和感と、それに対する不安が――。
黙ったままの秋良に、春時は言う。
「今日は一日なにもしないで、ゆっくりしたらどうだ?」
「でも、仕上げなきゃいけない飾りがあるから……」
かたくなな妹に、春時は表情を笑みに崩した。
「またそうやって、お前はすぐ無理をするからな」
「無理なんて……」
「いいや、してる。自分では無理してないって思ってるから、余計に性質が悪いんだよ」
「……そう、かな?」
「そうだよ。今日はゆっくり休め。家主の言う事が聞けないなら、ここから追い出すぞ?」
悪戯っぽく笑う春時に、秋良は真顔のまま、寝台から降りて立ち上がる。
「わかった」
「……おい?」
その様子に慌てて腰を浮かした春時に、秋良は誤解を与えた事に気づいて笑みを返す。
「違うよ、今日は一日休みにする」
「そうか……家事も全部俺がやるからな、絶対、手を出すなよ!」
「はいはい」
兄が家事をやるとつい口や手を出してしまうからだろう。釘を刺す春時を苦笑いで見送って、部屋の扉を閉める。
服を着替えながら、秋良は心の中の違和感と改めて向き合ってみる。
眠りのたびに聞こえる声。
目覚めのたびに大きくなる違和感。
繰り返すごとに、秋良自身にも変化が生じてきていた。
無意識の内に知らない人物の名を口にしていたり。
不意の気配に反応して身構えたり――右の腰に探したのは、刀、かなにかだったのではないか……。
狩りに向かう男達は剣鉈を携帯している。
弓の間合いを抜けて近付いてきた獲物や小さな妖魔と戦ったり、捕らえた獲物を捌くためだ。
猟に出ることのない秋良が握ったことのある刃物といえば、装飾のための彫刀と包丁くらい。
それが、なぜ――?
ここ数日は、村の人たちと話すのが苦しい。
村の人たちだけではない。
兄である春時とすら、向き合うのが辛い時がある。
皆の笑顔が。
その優しさが。
まるで偽りであるかのような。
そんな、錯覚を覚えてしまうのだ。
秋良は知らず溜息をついた。
部屋を出て、真っ直ぐ外への扉に向かう。
朝食の準備を始めていた春時が声をかけてきたが、内容が全く入ってこない。
胸にわだかまる罪悪感に視線を合わせることもできず。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
とだけ言い残し、逃げるように外へ出た。
刹那、眼前に開けた村の光景に息を呑む。
視界を埋め尽くすのは一面の赤。
口と鼻を手でおおっても防げないほどに充満する、むせ返るような血の臭い。
その中に点々と散らばる黒い塊。
確認するまでもない。あれは、かつて人だったもの。
秋良は駆けた。
知っている。
あの時も、こうして走った。村長宅の裏手目指して。
そうだ。師の声が聞こえ、剣戟の音が聞こえた。
生きている師と兄が、そこにいるはず。
師――なんの? いったい誰が?
そもそも、この村の惨状はなぜ。
なぜ、この光景を『覚えている』のか。
秋良は足を止めた。
全身を返り血の朱に染め。
右手に下げた血刀で築いたのであろう、すでに息の無い肉塊の山の中心に。
その人はいた。
この世のものとは思えないほど峻烈で、魂を奪われてしまいそうな。
白刃のように冴え冴えと冷たい光を放つ、その瞳――。
記憶の中には確かにある。
しかし今、眼前にあるのは、変わりない村長宅の裏庭だった。
物心ついた頃からずっと、変わらないこの場所。
変わらない――変わって欲しくないと、願った……?
「秋良……?」
気遣わしげな春時の声に、秋良は振り向いた。
春時は予想したとおりの優しい笑みで、秋良に言う。
「急に走っていくのが見えたから、気になって。どうしたんだ?」
「あ、いや……」
「さ、戻ろう」
差し出された手を、秋良は力なく払い除けた。
身体の横で、爪が食い込むほど握り締める。そうしなければ、手の震えが全身に広がってしまうような気がした。
「嘘だ……」
「秋良?」
困惑する春時の顔を正視できず、秋良は強く眼を閉じてうつむく。
この春時も、この村も、そして今のこの自分も。
「本当は、存在しないもの、なんだ……」
思い出す。
八年前の、この場所で起きたこと。
村で起きた惨劇の終幕。
秋良はそこで致命傷を負い、意識を閉ざした。
そうだ。今こうなる前も、重傷を負ったのではなかったか。
惨劇の記憶が自身の中で繰り返されていたそのとき、事実は捻じ曲げられたのだ。自分自身の中で。
意識を失うはずの秋良は怪我ひとつなく。
村も変わりない時を刻んでいた。
奪われたはずの春時は、何事もなかったように秋良を迎えにきて。
秋良は疑問に眼を背け、兄の手を取った。
そこから八年の時を過ごしたのが、ここにいる自分だ。
「秋良、お前はなにも失ってなんかいないよ」
「……ごめん」
言って、秋良は顔を上げた。
その顔に浮かぶ笑みには、自嘲の色が濃く浮かんでいる。
なぐさめてくれる兄の優しい言葉さえも――
「もう、わかっちゃったから……」
――すべてが『望み』の表れだということに。
春時は鳶色の瞳を驚きに見開いた。だが、それはほんの一瞬。
「そう、か」
つぶやいた彼は、穏やかな笑みを浮かべていた、ように思う。
明言できないのは、その姿が霞のように揺らいで薄れてしまったからだ。
春時だけではない。
村長の家も、村も、村を囲んでいる森や空。秋良が立っている大地すらも。
砂漠で起こる蜃気楼のごとく掻き消えてしまった。
【剣鉈】剣状の切っ先を持つ鉈。刃厚があり頑丈。刃渡りは用途によるが、村の狩猟で多く使われるのは六、七寸(約18cm~21cm)のもの。




