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明らかな双月の下、遥かなる地へ  作者: 蝦夷縞りす
玖・秋良と『過去』
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壱・薫風焦がれ 後



――呼ばれている。


 知らない。聞いた事のない声。


――違う、この声……覚えがある?


 村の誰でもない。それなら、知っているはずがない。


――知ってるはずない。なのに、どうしてこんなに……。


「……良、秋良!」


 春時の声に、弾かれるように秋良はその身を起した。

 窓からは朝の光と小鳥のさえずりが届けられている。いつもと変わらぬ部屋の風景がそこにあった。

 寝台の横にいた春時は、心配気に妹の顔をのぞきこむ。


「大丈夫か? ずいぶんうなされてた」

「うん……大丈夫」


 嘘ではない。

 心に差し迫っていた苦しさは、音も無く融けている。わずかに眉をしかめたのは、心に残った違和感のためだった。


 春時はまだ安心できないと寝台に腰掛ける。


「本当か? このところ毎日うなされてるぞ」


 本当、とは言い切れず。

 秋良は沈黙を返した。


 眠りが深くなると、いつも誰かの呼ぶ声がする。

 眼が覚めてしまえば、誰の声か、どんな言葉だったか覚えていない。

 それでも、呼ばれていたことだけは心に残っている。


 ただの夢。

 初めのうちは、そう思っていた。

 しかし日を追うごとに夢を見る回数も多くなっている。

 夜中に何度も、眼を覚ます。


 それを繰り返すたびに、大きくなっていくのだ。

 心の中に残る違和感と、それに対する不安が――。


 黙ったままの秋良に、春時は言う。


「今日は一日なにもしないで、ゆっくりしたらどうだ?」

「でも、仕上げなきゃいけない飾りがあるから……」


 かたくなな妹に、春時は表情を笑みに崩した。


「またそうやって、お前はすぐ無理をするからな」

「無理なんて……」

「いいや、してる。自分では無理してないって思ってるから、余計に性質(たち)が悪いんだよ」

「……そう、かな?」

「そうだよ。今日はゆっくり休め。家主の言う事が聞けないなら、ここから追い出すぞ?」


 悪戯っぽく笑う春時に、秋良は真顔のまま、寝台から降りて立ち上がる。


「わかった」

「……おい?」


 その様子に慌てて腰を浮かした春時に、秋良は誤解を与えた事に気づいて笑みを返す。


「違うよ、今日は一日休みにする」

「そうか……家事も全部俺がやるからな、絶対、手を出すなよ!」

「はいはい」


 兄が家事をやるとつい口や手を出してしまうからだろう。釘を刺す春時を苦笑いで見送って、部屋の扉を閉める。


 服を着替えながら、秋良は心の中の違和感と改めて向き合ってみる。

 眠りのたびに聞こえる声。

 目覚めのたびに大きくなる違和感。

 繰り返すごとに、秋良自身にも変化が生じてきていた。


 無意識の内に知らない人物の名を口にしていたり。

 不意の気配に反応して身構えたり――右の腰に探したのは、刀、かなにかだったのではないか……。

 狩りに向かう男達は剣鉈(けんなた)を携帯している。

 弓の間合いを抜けて近付いてきた獲物や小さな妖魔と戦ったり、捕らえた獲物を捌くためだ。

 猟に出ることのない秋良が握ったことのある刃物といえば、装飾のための彫刀と包丁くらい。


 それが、なぜ――?


 ここ数日は、村の人たちと話すのが苦しい。

 村の人たちだけではない。

 兄である春時とすら、向き合うのが辛い時がある。


 皆の笑顔が。

 その優しさが。

 まるで偽りであるかのような。

 そんな、錯覚を覚えてしまうのだ。


 秋良は知らず溜息をついた。

 部屋を出て、真っ直ぐ外への扉に向かう。

 朝食の準備を始めていた春時が声をかけてきたが、内容が全く入ってこない。

 胸にわだかまる罪悪感に視線を合わせることもできず。


「ちょっと外の空気を吸ってくる」


 とだけ言い残し、逃げるように外へ出た。

 刹那、眼前に開けた村の光景に息を呑む。


 視界を埋め尽くすのは一面の赤。

 口と鼻を手でおおっても防げないほどに充満する、むせ返るような血の臭い。

 その中に点々と散らばる黒い塊。

 確認するまでもない。あれは、かつて人だったもの。


 秋良は駆けた。


 知っている。

 あの時も、こうして走った。村長宅の裏手目指して。


 そうだ。師の声が聞こえ、剣戟の音が聞こえた。

 生きている師と兄が、そこにいるはず。


 師――なんの? いったい誰が?

 そもそも、この村の惨状はなぜ。

 なぜ、この光景を『覚えている』のか。


 秋良は足を止めた。


 全身を返り血の朱に染め。

 右手に下げた血刀(ちがたな)で築いたのであろう、すでに息の無い肉塊の山の中心に。

 その人はいた。

 この世のものとは思えないほど峻烈で、魂を奪われてしまいそうな。

 白刃のように冴え冴えと冷たい光を放つ、その瞳――。


 記憶の中には確かにある。

 しかし今、眼前にあるのは、変わりない村長宅の裏庭だった。

 物心ついた頃からずっと、変わらないこの場所。


 変わらない――変わって欲しくないと、願った……?


「秋良……?」


 気遣わしげな春時の声に、秋良は振り向いた。

 春時は予想したとおりの優しい笑みで、秋良に言う。


「急に走っていくのが見えたから、気になって。どうしたんだ?」

「あ、いや……」

「さ、戻ろう」


 差し出された手を、秋良は力なく払い除けた。

 身体の横で、爪が食い込むほど握り締める。そうしなければ、手の震えが全身に広がってしまうような気がした。


「嘘だ……」

「秋良?」


 困惑する春時の顔を正視できず、秋良は強く眼を閉じてうつむく。

 この春時も、この村も、そして今のこの自分も。


「本当は、存在しないもの、なんだ……」


 思い出す。

 八年前の、この場所で起きたこと。


 村で起きた惨劇の終幕。

 秋良はそこで致命傷を負い、意識を閉ざした。


 そうだ。()()()()()前も、重傷を負ったのではなかったか。

 惨劇の記憶が自身の中で繰り返されていたそのとき、事実は捻じ曲げられたのだ。自分自身の中で。


 意識を失うはずの秋良は怪我ひとつなく。

 村も変わりない時を刻んでいた。

 奪われたはずの春時は、何事もなかったように秋良を迎えにきて。

 秋良は疑問に眼を背け、兄の手を取った。

 そこから八年の時を過ごしたのが、ここにいる自分だ。


「秋良、お前はなにも失ってなんかいないよ」

「……ごめん」


 言って、秋良は顔を上げた。

 その顔に浮かぶ笑みには、自嘲の色が濃く浮かんでいる。

 なぐさめてくれる兄の優しい言葉さえも――


「もう、わかっちゃったから……」


――すべてが『望み』の表れだということに。


 春時は鳶色の瞳を驚きに見開いた。だが、それはほんの一瞬。


「そう、か」


 つぶやいた彼は、穏やかな笑みを浮かべていた、ように思う。

 明言できないのは、その姿が霞のように揺らいで薄れてしまったからだ。


 春時だけではない。

 村長の家も、村も、村を囲んでいる森や空。秋良が立っている大地すらも。

 砂漠で起こる蜃気楼のごとく掻き消えてしまった。



【剣鉈】剣状の切っ先を持つ鉈。刃厚があり頑丈。刃渡りは用途によるが、村の狩猟で多く使われるのは六、七寸(約18cm~21cm)のもの。




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