Dream On Dreamer_8
俺達が何故生きているのか。
俺は何の為に生まれて来たのか。
誰しも一度は自らに問う当然の疑問だ。
そして誰しも願うのだろう――この命に、何か意味があってくれと。
やがて自分を騙すのだろう――これが自分の生きる理由だと。
生きがいや守るべきもので自分を着飾り、労働や気苦労で感情を濁し、その果てに盲目の振りを貫く――その方がいくらか楽だからだ。
自らの命の時間を蔑ろにしておきながら、自分は生きているだけで幸せであると、疑うことなく人生を偽り。
死の間際には、色々あったが生きてて良かったなどと宣うのだろう。
最初から在りもしない希望を、残された誰かに押し付けて、安心してその生涯を終えるのだろう。
押し付けられる側の苦労など、知りもしないで。
――けれど、俺はそうであって欲しい。
そうでなくては、俺達のような空っぽは生きていけないのだから。
だからクロエ――どうかお前も、ヒトとして生きる事にしがみ付いてくれ。
これからお前が出会うであろう大切なヒト達との繋がりから、どうか逃げないでくれ。
どうか、俺のようなロクでなしには成らないでくれ。
俺の見た夢を、無意味なものにしないでくれ――
なんて――空を漂う泡と化した俺にはもう、こうして身勝手に願う事しか出来ないけれど。
だからせめて――俺はお前の為にこの永遠を費やして、あの幸せな夢の続きを描き続けるよ。
――お前の為に、祈り続けるよ。
――クロエ
――夢。
これは――崩落する夢。
街が落ちる。
星空は深く濁った黒に沈み、海底に埋もれるのも時間の問題だろう。
地鳴りと共に空は遠ざかり、いよいよ海が落ちて来た。
崩落と悲鳴の雨に視界は血で埋め尽くされ、ここは間もなく闇に飲み込まれるのだ。
気が付くと、俺はただ必死に逃げていた。
とうに限界を超えた体で、それでもなお無我夢中で逃げていた。
胸の内に、大切な誰かの絶叫と、その涙を抱いて。
俺はひたすら月を目指して飛んだ。
永遠に遠ざかる雲と、閉じていく星空の出口まで。
必死で、必死で、必死で。
黒い羽根を懸命にはためかせ――そのとき俺は、何かを願っていた。
何かを、想っていたのだろう。
けれどそれが何だったのかは思い出せなかったが。
気が付くと、俺は穏やかな波に揺られていた。
朦朧とする俺の意識は、間もなく安らかな暗黒に閉ざされ、沈んでいった。
まるで何事も無かったかのように、辺りは暖かな静寂に包まれた。
ただ、悲しくはなかった。
自らの犯してしまった過ちに後悔はあったが、その虚しさよりも、今はただ安らかだった。
やがて街は海と月灯りの底に。
――もうここに、あの日の喧騒はない。
***
――飛び跳ねたのは俺の心臓だった。
そのあまりの激しさと痛みに俺は目を覚ましたようだが、そこからの記憶が無い。
だが恐らくは事態を察して、家を飛び出したのだろう。
気が付くと俺は裸足で、寝静まった夜の街を息せき切って駆けていた。
慣れない運動に心臓が悲鳴を上げ、喉はカラカラに乾き、足は恐怖に竦んでいたが、それでも絶対に止まる訳にはいかなかった。
この街が、海に沈む――俺のせいで……これまでとは次元の違う災厄が、この街に迫っている。
「アリシアーッ!! トールーッ!!」
そうしてアリシア達の家に着く頃には、既に街は崩壊を始めていた。
突き上げるような地鳴りに体が浮き、地面が波打ち、古い建物は誰かの悲鳴と共に一瞬で瓦礫と化した。
あちこちからあがる悲鳴と絶叫に夜の住宅街は飽和し、閑散としていた通りはあっと言う間に混乱と混沌に染まる。
寝静まっていた穏やかな街は、僅か数秒でこの世の地獄と化した。
そしてどうやら俺は、間に合わなかったらしい。
「……。」
沈黙――アリシア達の家は、とうに蛻の殻だった。
――間に合わなかった。
駆け回る絶叫の群れを背に、しかし冷静にそう悟ると同時に、どこか安堵もあった。
家財などは倒れ、家の中は滅茶苦茶になっているが、少なくともまだ死んではいない――そう解ったからだ。
玄関に靴がない、つまり履くだけの精神的余裕はあったって事か。
「トールは優柔不断だが、アリシアならば臨機応変に、そして冷静にこの事態を対処したはずだ……。」
どうか、そうであって欲しい――
「クソ……こんな羽根さえなけりゃ……。」
気が付くと、いつの間にか握りこぶしに力が入っていた。
そんな悔しさに吐き捨てた言葉には、ふたつの意味があった。
一つは、業苦のこと。
もう一つは、羽根の重さが足枷となり、ここに辿り着くのが遅くなったからだ。
どこまでも、俺の足を引っ張りやがって――だが今はそんなことに怒っている場合じゃない……。
「どうか、無事でいてくれ……。」
街が崩壊を始めてまだ数分と経っていない筈だ。
急げばまだ間に合うかもしれないが、だが時間はあまりない……。
「頼む……。どうか……。」
そうして再び駆けだした時、既に沈み始めたこの街に外周の海水が滝のように流れ込んで来ていた。
不幸中の幸いと喜ぶべきか――この住宅街は比較的ケズトロフィスの中心部にある。
ここに波が押し寄せるまでにはまだ幾らかの猶予がある筈なのだ。
どのみち翼人やアナのように空を飛べる者で無ければ、この絶望的な状況下では助からない。
実際、既に空を目指して羽ばたいている翼人の影があちこちに見られた。
「俺なら、助けられるんだ……。」
俺なら――
「アリシア……お前だけでも――」
だがどこに行った……。
どこに行った……。
どこに――
***
悲鳴と嗚咽、血だまりに倒れる怪我人や瓦礫の山に泣き崩れるヒトビト。
道中、既に死体となった者も多くみられた。
それらを横目に掻い潜って――俺は一心不乱に走り続けた。
どれだけ走ったかは解らないが、だが恐らくはそれほど時間は掛からなかった。
そしてようやく、アリシア達を見つける事が出来た時――
「トー……。」
その光景に俺は絶句し、また一瞬で時間が止まったように感じた。
ひょっとすると、これも夢かもしれない――今の事態の深刻さを忘れて一瞬そんな事を考えてしまうほど、あまりに受け入れがたい光景だった。
立ち尽くしてなお全力で駆け巡る心臓の激しいノックに、俺は膝から崩れ落ちそうになった。
「い……行け……。」
トールは――
「行け……。」
既に半身が潰れていた。
「行けない……行けないよ……。」
アリシアは泣き崩れ、クロエは瓦礫に食い潰されたトールの、その青白い右手を握って泣いていた。
助からない――恐らくは崩れ落ちて来た建物の外壁に……。
引き出せたとしても……肩から下が、どうなっているか解らない。
なんで――
「ア……。」
どうして、こんなことに――
「アリシア……。」
――俺のせいなのか。
「バリー君……。」
辺りを飛び交う地獄のような喧騒さえも、今は可愛く思えた。
発したかも定かではない俺の呼びかけに、アリシアは顔を上げ、振り返っていた。
泣き腫らしたその顔は、ただ呆気に取られていた。
「もう……ダメだね……。」
「……。」
「助からないよ……。」
声はか細く震え――そして、諦めた様にそう呟くと、そっと笑った。
「……。」
こんなアリシアを見るのは初めてだった。
強情で、頑張り屋で、負けず嫌いで、明るくて、優しくて、諦めが悪くて――そんなアリシアが……。
俺のせいで……。
俺が、さっさと街を出なかったから……。
「……。」
俺がさっさとこの街を出ていれば……。
トールの優しさに甘えなければ……。
「……。」
アリシアのヒト柄に気を許さなければ……。
あの公園でクロエが来るのを心待ちにしなければ……。
乾杯――家族が末永く、幸せでありますように。
「なにが……。」
なにが……お守りだ……。
なにが、乾杯だ……。
結局俺は……変われなかったじゃないか……。
なにひとつ、変えられなかったじゃないか……。
「バリー君――」
その言葉に我に返ると同時に、駆け回るヒトビトの凄まじい喧騒が蘇って来た。
唸るような波の音が近い――もうすぐそこまで迫ってきているのだ。
このままでは俺も――
「――飛べるんだよね……。」
「……。」
俺も危ない――そう思った時、アリシアが何を言おうとしたのか、その目線を辿ってすぐに解った。
「この子を、助けてよ……。」
――クロエ。
「俺は……。」
嫌だ……。
「俺はお前を……。」
俺は、アリシアを――
「せめてお前だけでも――」
「……。」
「ア、アリシア……――」
お前を、助けたいのに――
「――俺と……来るんだ……。」
「……言わないで。」
迫る轟音の中――決死の思いで差し出した俺の右手は、聞き漏らすほど小さなその言葉に冷たく振りほどかれた。
この時点で、既に俺には何かを選んでいる時間は無かった。
それでも俺にとって一番大事だったのは、アリシアの命だった。
そしてきっと、俺は無意識にアリシアを助けに来ていたのだろう。
「バカ言わないで……。」
「……。」
最後まで――俺は身勝手で。
「こんな時に……バカなこと言わないで……。」
「……。」
こんな時でさえ――俺は最低な、性悪だった。
「クロエを、連れて行って……。」
「……。」
けれど――俺にはこの羽根がある。
「……任せろ――」
この過ちを償う責任が、俺にはある。
「必ず……。……必ず助ける。」
迫る波が全てを飲み込み、月夜に吠える。
そんな中で、アリシアが小さく頷く。
そっと笑った顔に、最後の涙が伝い、光る。
これで、最後になるのか――
「じゃあね……。ごめんね、クロエ……。」
これがもう、最後になるのか――
「……。」
ー 告っちまえよ。 ー
「だから……こんな時に、バカ言うな――」
アナ――不意に思い出したアイツの言葉に、けれど俺は何故だか気持ちがほぐれるのを感じた。
「じゃあな……。」
「――うん。」
そして別れを惜しむ間をクロエに与える隙もなく、俺は早々に飛ばなければならなかった。
ようやく事情を理解したのか、アリシアに強くしがみ付くクロエを無理矢理引きはがし――
――飛ぶ。
もう、少しも振り返る余裕はない。
ほんの数十秒で、あの雲まで飛ばなければいけない。
大声を上げて暴れるクロエを必死に抱きしめて――目一杯、これまでに無い程の力を翼に込めて、俺を押し返そうとする大気に抵抗した。
「――届け。」
押し潰すように降りかかる海の重石に、崩れ落ちる建物。
裁きと崩壊を退け、俺は夜に抗う。
ただ満月を目指す。
「届けよ――」
――空へ、雲へ、月へ。
「届け……。」
――やがて俺の意識は、足元から冷たく飲み込まれた。
***
薄れて行く意識の中、俺は波に漂いながら、暖かな月明りを感じた気がした。
包み込むようなその暖かさは、俺がアリシアと初めて話した時に感じたあの感情に似ていた。
――なぁ、アリシア。
「俺は、お前を――」
――俺はまた、同じ夢を見ている。
とても不思議な夢だ。
とても幸せな夢なんだ。
穏やかで温かく、その光景を見ているだけで、心が豊かになるような――そんな夢だ。
ひとりの女性が、荒れた大地で笑っている。
とても大勢のヒトビトに囲まれて、大切だった気がする俺の知らないそのヒトが笑っている。
呆れるほど賑やかで、祭りのようなバカ騒ぎに包まれて、その子は、澄んだ瞳で笑っていた。
けど、そこに俺はいなかった。
何故だかそれが悲しかったけど……でも、その子の笑顔が見られて、俺は溢れるほどに幸せになった。
どうかこの子の幸せが、いつまでも続きますように――俺は夢の中でそう思った。
――この夢も、いつか現実になるのだろうか。
そうしたら、きっとこの果てしない地獄も報われる。
心から、そう思った。
そしてもし、呪われたこの力が、大切なあの子の救いになるのなら――
――きっとそれが、俺の生まれた理由なんだろう。




