#44.白金の姫騎士
◇◇◇
「さぁ──どこからでも、かかっていらっしゃいませ!」
セリエは右手の斧槍の石突で大楯の縁をカンと叩き、甲冑越しに伝わる金属音でリザードマンを挑発した。膝は柔らかく、踵は土に沈み、肩は落として首筋は伸ばす。盾職の基本を、学院で叩き込まれたままに。
対するリザードマンは、濡れた黄色い瞳でじりじりと間合いを測る。口先からシュル、シュルと細い舌を出し入れし、湿った鱗が朝日に油のような光を返した。蛇の末裔。かつて竜の神を裏切った罪で魔物に堕ちた竜種──狡猾で、残忍。水際からの不意打ち、武器の使用、地形の悪用。だが、素手でも人間を容易に挽肉にできるだけの膂力は残している。
(それでも、この個体は大きくない……投げ槍を失っている今が最良機)
リザードマンは前腕を振り下ろす。角度を変え、タイミングをズラし、楯面の反射で目を眩ませようとする狙いも見える。セリエは盾で刃筋を外し、反射で殺した瞬間に突きを一つずつ返す。刃は深追いしない。傷を刻んで、手数で、優勢を固める。
砂が細かく跳ねるたび、彼女の呼吸は規則正しく刻まれ、肩で上下しない。焦りを呑み込むように、斧槍の柄が手の中で馴染んでいく。先ほどまで大楯に弾かれるたび甲高く鳴っていた敵の爪は、やがて耳障りな擦過音へと落ちた。
(いけますわ。このまま──)
──ギャオォオオオゥ!
苛立ちか、賭けか。一際大きな咆哮とともに、リザードマンの肩が泳いだ。大振り。セリエは見切る。楯面を打ち上げ、シールドバッシュ──上体が浮いた魔物の胸元に、隙。
(そこですわ!)
斧槍が走る。踏み込みは半足分深い。刺突の線は最短距離で心臓を射抜く──はずだった。視界の端、砂に線が走る。尾だ。
「──っう!」
尾が横腹を薙いだ。甲冑の内側で肋がきしむ。息が漏れる。だが、痛みは薄い。学園都市のダンジョンで叩かれた出力の方がなお重かった。盾職の構えが、衝撃を腰から土に逃がす。
(やれる。これは、やれる!)
確信と同時に、敵も悟った。呼吸の音が変わった。目が走る。分が悪いと、あいつは気づいたのだ。勝敗は時間の問題──セリエの側に、傾いている。
「ふん……こんなもの? はっきり言って練習相手にもなりませんわ。早く退いたら? それとも、ここで干物になりたいのかしら?」
挑発は攻めの楔。成功すれば、さっきみたいな大振りをもう一度引き出せる。失敗して逃げるなら、それで良し──フィンの手当てに回れる。
次の瞬間、リザードマンの全身がぶるりと震え、鱗の表層から霧が立った。湿った膜が粒子になって空気に溶け、輪郭をぼかす。体色が粘るように変化して、やがて視界から消える。
「なっ……! くっ──霧の幻術まで使いますの? 厄介ですわね!」
焦りが胸を掻いた。投げ槍は──フィンの腹に刺さっていた。血の色、量、落ち方。セリエの目はそこから逃げない。彼は、おそらく酷い傷。早く治療に運ばなければ手遅れになる可能性がある。
「どこ! 隠れていないで、出てらっしゃい!」
斧槍が霧を切る。白い層がめくれ、すぐまた重なる。慎重に距離を取る敵に、刃は掠りもしない。
……砂の擦れる音。ザザッ。
背後──いや、フィンの方。
「──しまった!」
狙いが変わった。セリエではなく、傷物を優先して奪う気だ。霧が目を欺く。フィンの姿すら、白に飲まれて見えない。闇雲に振れば、誤って彼を傷つけるかもしれない。
「私としたことが……!」
焦りに小さく舌を打ち、足を運ぶ。見通せる位置まで、あと数歩──
絡まった。足首に何かが巻き、地面が跳ね上がる。前に倒れ込む瞬間、左手首にグキリと嫌な感触。反射で手をついたのが悪かった。衝撃で大楯が手を離れ、霧の中へと転がり消えた。
「……いった……左手を、捻挫しましたの?」
甲冑の下で熱が湧く。だが、止まっている暇はない。セリエは歯を食いしばり、前方に目を凝らす。
シュルルル──。
霧の層から、瞳だけが先に浮かんだ。黄色い二つの光点。次いで、輪郭が滲み出る。手には、槍。刃は濡れて暗く、赤い雫がぽたぽたと落ちて土に黒い花を咲かせた。
「フ……フィン……? 嘘……」
最悪の予感が、頭の中で形を取る。リザードマンは狡猾で残忍。獲物の屍を見せつけ、討伐者の意気を折る習性がある。わざわざ見せに戻るということは──。
(嘘。どうして、こんな雑魚に……しかも、あの人はわたくしを庇って)
胸の内側が真っ白になる。膝が震える。呼吸が浅くなる。世界が一瞬、音を失った。
そこで──リザードマンの身体が痙攣した。腹側から、手が生えたように見えた。いや、違う。貫いている。霧が崩れ、血飛沫が線を描く。
黄色い目から、光が消える。魔物は膝から崩れ落ち、土が重たく鳴った。その背後に、影が立つ。
セリエの視界に、よく知る顔が滑り込む。額に汗、口端に血、黒衣の腹部には紅い印がうっすらと灯っている──布に刻んだ付与術の止血紋が、熱を帯びて淡く燻っていた。
学園都市第100期生・首席──付与術師・フィン。
「……ふう、間に合ってよかった。時間稼ぎ、ありがとう。セリエ」
彼はニカッと笑ってみせる。いつも通りの、ちょっとだけ無鉄砲な笑顔。
「……っ、フィン……!」
言葉が出ない。安心と叱責と、安堵と怒りが、全部いっぺんに喉につかえる。見上げる視線の先で、彼は一瞬だけ苦い顔をした。たぶん、自分の呼び方を思い出したのだ。
「じゃ……なかった。セリエ……様?」
罰の悪そうな、けれどどこか嬉しそうな、その声音で。
霧は風に裂かれていき、川音が戻ってきた。彼女の左手首には疼痛、足元には落とした大楯。倒れた魔物の陰で、彼の腹の止血紋がじんわりと消え入り、紅の光は静かに鎮まっていった。
◇◇◇
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【次回】#45『主人と従者』
何とかリザードマンの脅威を取り除いた俺たち。でも、セリエは何やら怒っている——助けたのに、なんでだ?
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