#42.首席に憧れて
◇◇◇【Side:セリエ】草原──
先ほど口論になった草原のはずれ──川べりの土手に腰を下ろし、セリエは流れに髪先を垂らした。夏の盛りを過ぎた水は冷たく、指先にまとわりつく泡がほどけていく。葦が風に擦れ、遠くで雲雀が声を落とす。水面には、泣いたことを隠そうとする自分の顔が揺れていた。
「どうして、わたくしは……彼のことになると、こんなにも自分を抑えられなくなってしまうのかしら……」
吐息は白くならないのに、胸の奥だけが冬のように冷えている。セリエは濡れた指をハンカチで押さえ、甲冑の留め具を一つ緩めて、大きく息を吐いた。
◇◇◇
セリエは、もともと冒険者に憧れてはいなかった。
正直に言えば、今も冒険は嫌いだ。魔物は怖い。見た目も、匂いも、声も──生理が拒む。実技試験で斬り伏せたあとの血の温度が皮膚に移り、鉄の匂いが喉に張り付くたび、胸の底に黒い泥が流れ込むような、正体の知れない高揚がひたひたと満ちてくる。あの感覚に身を委ねれば、いつか自分でなくなるような気がした。だから試験後はすぐに浴場へ走り、熱い湯と香草の石鹸で、爪の隙間まで赤くなるほど擦った。学園だからこそ出来た潔癖で、旅の現場では到底守れないと知りながら。
エレノア王国きっての名家に生まれ、絹と銀の匙で育てられた彼女にとって、冒険は危険で、臭く、汚れる行いだった。にもかかわらず、彼女は学園都市に入学した。理由は一つ。腹違いの兄たちを、そして彼らが陰で貶めた母を、見返すためだ。
母のことは、誰も語らなかった。
父は「美しく、体が弱かった」とだけ言い、身分違いの恋であったからと、葬儀さえ密やかに済ませたという。
だから兄たちは、ことあるごとに囁いた──「卑しい血だ」と。
幼い彼女は、その言葉を何度も呑み込み、やがて決めた。第100期という節目の年の首席を獲る。その肩書きで、自分の出自も、母も、誰にも劣らないと証明する。首席は、彼女の存在証明そのものになった。
──だが、その学年に天才がいた。彼が、フィンがいた。
どんな試験でも、抜き打ちでも、彼は平然と満点を取る。
講義で教師が黒板に難題を書き殴るそばから、彼は涼しい顔で式を整え、結論だけを白墨で二手、三手先に置いていく。ときどき、誰にもわからない独り言を漏らすのも奇妙だった。
「これがフラグだから次はこう動く」とか──生徒たちの中には、彼には未来が見えているとまで囁くものもいる。鬼才が集う学園都市でも、彼は少しばかり名の知れた異常なほど優秀な生徒だった。
そして、ある日。“進級後最初の全校集会”。高窓から光が斜めに差し込む講堂で、旗がゆっくり揺れる中──彼は突然、倒れた。
治癒術師が駆けつけ、ざわめきが渦を巻く。その日を境に、彼は別人のようにやる気を失った。成績は落ち、誰とも話さず、何もかもどうでもいいという顔をするようになった。
セリエにとって、それは首席への近道のはずだった。けれどプライドが許さない。彼が歩を止めた道の先に立って、どうして勝てるというのか。
──どうして満点を取らなくなったの?
──どうして誰とも話さないの?
──どうして、そんな悲しい目をするようになったの?
問いは募り、答えはどこにも落ちていない。ならば、と彼女は近づいた。
廊下でノートを差し出し、図書館で参考文献を積み、実技場の片隅で剣の角度を正す。クラスメイトたちが遠巻きにするほど、彼の無気力は濃くなっていたのに、彼女だけは離れなかった。
夏の終わりが近い、蝉の声が薄くなる夕刻。教室に残るのは二人だけ。
窓の桟に太陽が引っかかり、舞い上がったチョークの粉が金の塵みたいに漂う。セリエは胸の前で拳を握り、言った。
「フィン、ちょっと、いいかしら?」
「何か用?」
気だるげに振り向く彼。喉がからからに渇く。けれど、退けない。
「……こ、光栄に思いなさい! 貴方が私の “パートナー” になる、チャンスをあげるわ!」
セリエは精一杯の勇気を振り絞ってフィンにそう告げた。
だがセリエがそう言ってもまだ、フィンにはよくわかっていないようであった。だから、彼女は続けて口にする。
「もし、貴方がこの、学園都市第100期生の “首席” を取れたら……。私の “従者” にしてあげてもよろしくってよ!」
告白として完璧だとは言えない。
むしろ、貴族の見栄が混ざって歪んだ言葉だ。だから、なおさら怖かった。彼は一瞬だけ目を丸くし、そして、ぽつり。
「……あ、フラグか」
「……っえ?」
意味がわからないまま固まる彼女に、彼は続けた。
「セリエ。そういえば、お前の泣き顔って、俺、見たことないんだよね」
それだけ言って、椅子を引く音を残し、彼は教室を出て行った。戸口の影が細くなり、消える。
(──っえ……今のはどっちですの? もしかして……わたくし、フラれたんですの?)
セリエは立ち尽くした。頬に熱は上がらない。涙も落ちない。言葉の真意も、返答がYESなのかNOなのかも、わからない。ただ、胸の奥で何かが点火した。
翌日から、彼は戻ってきた。
講義で質問を連打し、実技場では誰よりも早く立ち、後輩に手ほどきし、同級生に助言を惜しまない。成績はあっという間に上位へ返り咲き、全校は奇妙なエースの復活を祝った。教師でさえ目を細める。セリエはその光景を、誇らしさと、説明のつかない胸の騒ぎで見つめていた。
つまり、私の告白は成功したのだ。──そう彼女は考えていた。
◇◇◇
そして卒業式。第100期の旗が並び、オルガンが低く鳴る。講堂の空気は張り詰め、式はいよいよその時を迎える。
「輝かしい歴史と伝統の、更にその先へ。第百期卒業生。その者たちの名を、これより読み上げる──」
セリエは胸に手を当て、鼓動を数えた。最初に呼ばれるのは首席。それは私だ──と。彼女は心のどこかで信じていた。
そして、彼を“パートナー” にする。自分が真っ先に彼の名を呼ぶのだ。彼はきっとそれに“応える”。
あの夕暮れの言葉は、誤魔化しでも虚勢でもない、彼女にとっての返礼なのだ。
「讃えよう。──フィン」
──ところが、最初に呼ばれたのは彼の名だった。
会場が歓声と拍手、熱気と祝福で溢れ返る。
それと真逆に、セリエの胸の中心はすうっと冷えていく。鼓動が早まる。音が止む。
──瞬間、彼女の中で一つのある “不安” が唐突に湧き上がった。
それは、あの告白は、本当に成功だったのか? ──という疑問である。
あのとき、彼は頷いた?
あのとき、彼はわたくしを“選ぶ”と言った?
あのときから、彼はわたくしだけに優しかった?
あのとき彼は、わたくしの「泣き顔が見たい」と。そう言ったのではなかった?
不安は感情を押し潰し、呼吸をわすれる。オルガンの音も、拍手も、遠い。永遠に引き延ばされた刻の中で、世界が色を失っていく──
──そのとき。
「……セリエ?」
近くで呼ぶ声。続いて、もう一度。
「セリエ様? 何をぽけっとしているんです。早く行きますよ」
顔を上げる。そこに彼がいた。
首席として名を呼ばれ、なお当たり前のように彼女の手を取るために振り返っている。講堂は歓声で満ち、旗は波のように揺れ、光は彼の黒髪を縁取って輝かせる。祝福は二重だ。第100期の首席の誕生と、そのパートナーになった少女へ。
胸の底で、凍っていた何かが解けた。視界が滲む。首席という肩書きは、長年追い続けたはずのそれは、たちまち色褪せて、どうでもよくなった。
ただ一つだけがはっきりと残る。
──わたくしは彼を、愛している。
涙は、悔しさの味ではなかった。誇りとも違う。名前を呼ばれた瞬間に溢れたそれは、自分でも驚くほどあたたかい涙だった。セリエは震える指で目元を押さえ、もう片方の手を、彼の差し出した掌へと重ねた。
◇◇◇
川べりの風が、現実に戻ってくる彼女の頬を乾かす。あのときと同じく、泣き顔を見られたくない自分がいる。けれど、あのときと違って、いまは私の選んだ温度だ。セリエは小さく笑い、立ち上がった。金の髪をひと束、指に巻き取り、空に向かって解く。
「……意地、張りすぎましたわね。馬鹿は、わたくし」
草を踏む音が、彼のほうへ戻っていく。首席への憧れが連れてきた恋。その恋が、彼女の歩幅を少しだけ軽やかにした。
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【次回】#43『わたくしが守る』
セリエに伸びる魔物の影。やばいと直感した俺は“韋駄天”を即座に起動する。しかし——
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