#36.たった一つを
◇◇◇
「は──なんだと?」
メアリが存在しない世界。その一言が、俺の視界を真っ白に塗り潰す。白の廊がさらに薄まり、遠近の感覚がぐにゃりと撓む。胸の内側で、薄い氷を踏み抜くみたいな嫌な音がした。
『その他すべての世界で“メアリ”は既に死んでいると考えていい。僕は、君の持っている五六二個の“シミュラクル”の他にも、かなりたくさんの世界の──始まりから終わりまでを見てきた。だから断言できる。メアリは君が保有しているたった一つの“シミュラクル”にしか、現時点で存在していない』
──ドクンッ。
心臓が、白の空間にまで響くほど大きく跳ねた。
「──そんな……どうして……」
『なぜ彼女の存在が消されてしまったのか。それは、私がいまここで語るべき事じゃない。──だけど彼女に訪れる“死”の運命は、この先いつか君が行こうとしている“メアリ”のいる世界にもやがて訪れるもののはずだ』
「──じゃあ、お、俺は……」
『メアリと結ばれたければ、彼女の死の運命を捻じ曲げるほどの力をつけるんだ。それしか方法は、ない』
「い、いったいどれほどの力をつければそれは叶えられる──? その死の運命ってのは、例えば覚醒したミレッタよりも手強いのか」
『どうかな。彼女も“シミュラクル”じゃ異次元の強さだからね。それに、僕が確認できた限りでは覚醒したミレッタのデータが少なすぎて判断しかねるよ。よくまああんな“パートナー”がいる世界を安易に継承で消しちゃうよね』
「考え得る限りで、一番俺が都合よく抜け出せそうにない転生先があそこだったからな。数十年も同じ世界に居続けたら、メアリがおばあちゃんになっちゃうだろ? あれ? 時止めてるから大丈夫か。因みにあと二つほどミレッタの世界は残ってるぞ? ちゃっちゃと消しちゃった方がいいんだろうか……」
白い床なき床面が、俺の独り言に合わせてさざ波みたいに細かく揺れる。ルシフェルは翼を一枚、ひらりと鳴らした。
『それは早計だよ。ミレッタはいつかまともな戦力として数えられる様にした方が得策だと思う。君の目的を叶えたいならね』
「ミレッタの協力を仰ぐ……かぁ。それすごいわ。プレッシャーが」
『まあ、君の持ってる世界だから私は君がどうしようと止めはしないけれど……。おっと、話が逸れたね。死の運命の脅威に対抗したければ、どれくらいの強さを持つべきかっていう疑問だったね。んー、少なくとも君にとってイメージがつきやすいのは、“万魔殿”かな。そこの深層にいるようなヤツらと対等に闘り合えるくらいの力は必要になるだろうね』
「マジかよ……その死の運命って完全に、ラスボスしか有り得なくない?」
『どうかな。私もメアリが消される瞬間を直接的に観測したわけじゃないからねぇ。正直なところよく分からない部分もある。だけど、あれ? 諦める?』
「──ッ! そんなわけないだろう!」
白の天井(ないはずの天)が、ごくわずかに青味を帯びた。自分の声が、この何もない空間の骨組みを叩いた手応えみたいに返ってくる。
『おお!』
「俺があの娘を救ってやる……必ず救い出してやる!」
ルシフェルが、軽く首を傾げる。金色の虹彩が、ふっと細まった。
『今更ながら聞くけど、どうしてそこまで彼女に入れ込むんだい? 彼女とはたった一度の周回でしか会ってないのに。彼女がどういう存在なのかさえ、本当は理解できていないんじゃないのかい?』
「──それは……」
視線が宙のどこにも焦点を結ばず、自然と自分の掌に落ちた。白の上に重なった掌の陰が、ほんの僅か震えている。ルシフェルは、それを聞くまでここから出さないよとでも言うみたいに、まじまじと俺の顔を覗き込む。三対の翼が音もなく扇のように開き、空気の流れがやさしく頬を撫でた。
押し黙っていても仕方がない。俺はやれやれと肩をすくめ、少しだけ自嘲の笑みを混ぜる。
「ふっ、確かにそうだな。だが本当に、ただの一目惚れだ。俺の一方通行な“恋愛感情”だ」
「だけど、俺たちは確かにあの周回で結ばれたんだ。ずっと恋焦がれた相手と、やっと相思相愛になれた気がしたんだ」
「──あの世界で、止まった時の中で、まだ彼女は俺を待ってくれてる。俺の手を引いて、やっと冒険に出ようとしてたんだ。あの娘はまだ誰にも世界に連れ出してもらえないまま、“無垢なまま”で俺を待ってる」
言葉にすると、胸の奥で張り詰めていた糸が一つずつ音を立てて解けていく。白い空間に、雨上がりみたいな匂いが微かに立った気がした。
ルシフェルは、俺の眼差しの奥にまだ拙い、けれど真っ直ぐな火を見たのだろう。長命の観測者にすら眩しいと思わせる、青すぎる熱。
『フィン──』
彼は何か言いかけて、羽根先で一度だけ空を払う。浮かびかけた言葉は、白に吸われて消えた。
きっとルシフェルには視えているのだ。俺がまだ気づけていないもの──転生を重ねるたびに増えていく“パートナー(仮)”たち、それぞれの世界で俺に向けられた想いの向き。彼女たちにとっての運命の相手が、俺であるという事実を。
けれど今の俺には、目の前の一本の糸しか握れない。
『──もう、ゲームじゃないんだよ』
やわらかな声だった。白に落ちる羽根のように、静かで、逃げ場のない真実を孕んだ響き。
変わらない世界、都合の良い世界、自分ではない自分、誰も失わない世界。そうやって割り切れていた箱庭と、この世界は違う。選べば、誰かを選ばないことになる。掴めば、何かを零す。
それでも俺は、選ぶ。
ルシフェルの瞳が、もう一度だけ愉快そうに細められ、すぐ真顔に戻った。白の空間に、次の転生の扉の縁取りが、ごく薄い金で描かれ始める。
俺は右手を握りしめ、深く息を吸った。胸の中の鼓動が、戻ってくる現実の重さと同じリズムで早まっていく。
「行こう。準備は、できてる」
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【次回】#37『閑話——ある魔女の記録』
遠い昔、少女はある呪いにかかった。これは、愛を探す魔女・ミレッタ——その始まりの記録
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