#34.お帰りなさい
◇◇ 狭間の空間・観測者の間──
床も壁も天井もない──“白”だけで編まれた空間で、俺は目を覚ました。上下の感覚はあるのに、影が落ちない。手を持ち上げてみると、指の輪郭の外側で白い粒子がぱらぱらと弾け、音のない残響が耳の奥でだけ揺れる。(ここは──)
「くそっ、やっぱ詰んでたか……」
最後の一閃も、痛みも、確かにない。ミレッタに“消された”。一瞬で、丁寧に。救いと言えば、それくらいだ。
『おかえり〜。割と、頑張ったんじゃない? 速攻で帰ってくると思ってたからお茶用意してたのに、もう。冷めちゃったじゃん』
肩口から声が落ちてきて、白の地平が波打つ。振り向くと、ルシフェルが笑いながら滑るように近づいてくる。足取りはあるのに足音はない。銀の盆が宙に浮き、その上で白磁のカップが湯気の名残を細くのばしていた。琥珀の液面には、見えない天井の光が薄く揺れる輪を描いている。
「──ルシフェルっ! あんなの聞いてな……いって、ルシフェル!?」
思わず一歩退く。目の前の“彼”は、三対六枚の翼を背に広げていた。羽根の一枚一枚が光の薄膜でできているみたいで、角度が変わるたびに朝の水面みたいな虹色が走る。いわゆる──識天使。
『──ん?』
「ん、じゃねぇ! びっくりさせんなよ!」
『……ああ。これ? おっと忘れてたよ。あんまり遅いから、ちょっと“他の”世界へ出かけてたんだった』
片手で羽根を畳む仕草がやけに優雅だ。羽ばたきはないのに、風が頬に触れる。(物理法則、頑張れ)
「それが、本当の姿?」
『ううん。違うよ? あれ、違わないのかな? ん〜どうだろう?』
「いや、俺に聞かれても……」
『私はね、“必要な時”に“必要な姿”になれるのさ』
「じゃあ今、俺にそれを見せたのも……必要だと感じたから──ってことか?」
『ふーん。どうしてそう思うのかな?』
「いや、ルシフェルがそう言ったからだけど?」
『──ぷ、あはははは! フィン! 君は本当に面白いねぇ!』
腹を抱えて空中で器用にのたうつ。羽根がふわりと舞い、抜けた光の綿毛が雪のように回って消えた。二度目の“死”から帰ってきた俺の前で、この神様は遠慮がない。いや……
(平然と自分の“死”を受け止めてる俺も、似たようなもんか)
「そりゃまあ、葬式みたいな顔されてても困るわな」
「──え!? いまなんて? 葬式だって!?」
ルシフェルがぱっと目を丸くし、次の瞬間には膝から崩れて白の上に座り込む。座り込む“床”なんてないはずなのに、何となくそう見えるのが腹立たしい。彼は片手で盆を支えたまま、もう片方の手で目尻をぬぐい、しかし笑いは止まらない。
『それは気が付かなくてごめん、ご愁傷様。いやぁ、最高だわ……!』
「最高って単語、今ここで合ってるか?」
『合ってるよ? 君が無事に“ここ”へ戻った。それは最高。茶は冷めたけどね』
彼が指先でカップをつつくと、琥珀色がふっと揺らぎ、ふたたび細い湯気が立った。香りが白い世界に淡く満ちる。花とも、柑橘ともつかない、安らぐ匂い。
「便利だな、おい」
『うん。必要な時に“必要な温度”にもできるからね』
カップを手渡される。重さの手応えが妙にリアルで、唇に触れた縁が温かい。(味覚がするってことは、俺は“まだ”ここにいる)
『それで──どうだった? うちの“最強の魔女”は』
「最強で、最悪で、最高だったよ。……全部、同時に」
『うんうん』
ルシフェルは頷き、翼の一本を畳みながら俺の顔色を覗き込む。茶をひと口。喉を落ちる温度で、心拍が一拍ぶん整う。
『痛み、なかっただろ? 彼女が君を傷つける形は、選ばない。嘘に気づいた時でさえね』
「……ああ。気づかれてた。ちゃんと、ね」
『だよねぇ』
白の地平が、遠い波紋みたいにゆっくり広がる。歩けば進むのに、距離は増えない。そんな場所。
『さて。茶も温まった。冗談も温まった。本題も──温まった?』
「そこは冷ましてくれ。頭がオーバーヒートする」
『はは。じゃ、ゆっくり行こう。君の“次”の話をしながらね』
神様の笑いのツボってのは、全く理解ができない。けれど、今この白い無の真ん中では、その笑い声がやけに人間らしく響いていた。俺はもう一度、温度を確かめるみたいに、カップを傾けた。
◇◇◇
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【次回】#35『魂の共有』
フィンの死を記憶するラミー。フィンを偽物だと言うミレッタ——強くてニューゲームの仕様が、また一つ明かされる。
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