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『びろうど』の壁、敷き詰められた獣毛。
はじめての感触にヴィールは酷くはしゃいでいるのです。
それをビノールは見てとることが出来ました。
ビノールのような『変身モグラ』だってはじめて見る種族の表情を見極めることは難しいんです。
今のヴィールの姿はドワーフに似ていないこともありません。
気がつくとビノールはヴィールと仲よくなっていたのです。
多少ヴィールがビノールを振り回しているきらいが有りましたがビノールには幸い弟や妹がたくさんいたので多少の我が侭なら平気だったし、勇敢なるモグラ族はだいたいにおいて温厚だったんです。
……
深い森の奥、洞窟の奥は天上から降注ぐ光に浮び上がらされた『緑の神殿』
色とりどりに咲く花々、芽ぶくは新芽、開こうとするつぼみ、朽ちてゆく古木。
ビノールはあんまりの眩しさに目を伏せました。
そして、どうしてヴィールの提案にのって『闇の領域』を出てしまったのだろうかと頭を抑えました。
(飲まされたあの黒いのが悪いんだ)
ビノールはあの黒く美味しい液体を思い出しました。
それは『エール』より美味しく、『リンゴ酒』よりずっと美味しいものでした。
『ドラゴンの飲物』ではなく、『わだつみの飲物』、『ウォンテージ』と呼ばれているもので、ちょっぴりしょっぱい味がする飲物でした。
たくさんの壷や樽の置かれた厨房。
その壷の中からヴィールはその『ウォンテージ』を選んで、ビノールにふるまったんです。
ビノールはヴィールに軽く促され目を開けました。
優しい緑が日差しを遮っていてビノールの目はちょっとも痛みません。
『ようこそ、『黒の神殿』が主、ヴィアルリューン殿。そして、モグラ殿。妾は『緑の神殿』が主、グリスリュージアーニ。以後、見知りおいてたもれ』
ビノールの目の前に有った緑、深い緑の瞳、茶色っぽい緑の皮膚。
額から伸びる一本の角、角のすぐ下にはビノールの見たこともない宝石。
流麗な緑のドラゴンはヴィールよりもずっと大きく、長き時間を経てきたらしい穏やかさをその瞳にたたえ、ビノールを見つめていました。
「御機嫌よう、麗しき御婦人グリスリュージアーニ様、どうかヴィールとお呼び下さい。彼はモグラ族の魔法使いで我の最初の友人で、変身魔法を使うビノール、お見知りおき下さい」
『人』の子供の姿をとっているヴィールは大きな緑のドラゴンに軽く会釈し、にこやかに、ドラゴンが喉の奥で笑う様子を見、縮こまっているビノールを見て不思議そうに首を傾げました。
『では、遠慮無くヴィール殿。そう呼ばせてもらうの。ヴァイルリュージアの息子よ。妾のこともグリスと呼んでたもれ。勇敢なる魔法使いモグラ殿もそう呼んでたもれ』
優しい声にビノールはただ頷きます。
ビノールにとって緑のドラゴン・グリスは大きすぎ、恐れで口をきくことも叶わなかったのです。
モグラ族の周りにいる大きな者はドワーフ族か、ヴィガ、そしてドワーフ族やヴィガをたやすく締め殺す『土蛇』ぐらい。
『土蛇』はその太さだけでも普通の喋らぬ弱きモグラ一匹分。
長さは小さな『土蛇』であっても弱きモグラ10匹分以上。
それに比べて目の前の緑のドラゴン、かの君は、その口を開けばその中にモグラの百匹や、ドワーフやヴィガの20体は楽に入ってしまいそうな大きさなのだから。
いくら美しい緑色をしていても『闇の領域』で育ったビノールには『黒く』『小さい』ヴィールの方が親しみをもて、『知識』は有っても『狡猾』とは程遠いヴィールの側にいる方がビノールには安心できたのです。
もちろん、緑のドラゴンに惹かれなかったわけでは有りません。
ビノールは知りませんが緑のドラゴンは『大地の守護者』『大地の支配者』、『大地に息づく総ての王』なのです。
つまりモグラ族も緑のドラゴンの守護を受けています。
ヴィールはそれを知っていて連れて来たんですが、恐縮し切っているビノールの姿が彼には面白くありませんでした。
ヴィールはビノールが自覚していてもいなくても、ビノールが他の者に恐縮し、恐れや畏怖を抱き、心酔しているのが気に入らなくてちょっとむっとした表情でビノールを見ていたのですが、当然ながらビノールはそれにも気がつかなかったのです。
なにしろビノールはいくらヴィールを見て安心したくとも緑のドラゴンから目を放せなくなっていたのですから。
『ヴィール殿、ドラゴンとは恐れられ、畏れられ、奉られもする。その者の属性も重要なもの。魔法使いモグラ殿は妾が属性に生きし者ゆえにのう。さて、ヴィール殿はただ挨拶に来られただけかの?』
「いいえ、グリス姫。お願いが有って参りました。よろしいでしょうか?」
ヴィールは頷くグリスを確認し、満足そうににっこりしました。
ビノールはヴィールとグリスの会話を覚えていません。
ただでさえ、恐縮のしすぎで疲れてしまったビノールにとってその会話はドラゴンの使う旧き言葉で会話は行われ、時折、ドラゴン達の眼差しがビノール自身を指している時が有っても、ビノールには何を言われているのか全然解りませんでした。
緑のドラゴン・グリスがビノールのお腹が空いた頃に会話を中断してくれて、ビノールは心底喜びました。
なにしろドラゴンはモグラ族よりたくさん食べ、なかなか空腹を感じないらしいのですから。
『さて、魔法使い殿、其方、空腹であろ? 用意させてあるからの、会食といたそうの。よきかな? ヴィール殿』
そして、ヴィールが頷いてくれたことがビノールをなお喜ばせたのは言うまでもありません。
なにしろ、影が随分動いていますから。
たっぷりの蜂蜜に浸かったべとべとのクッキーをビノールは精一杯、礼儀正しく食べました。
ビノールは初めて食べた『蜂の蜜漬け』がとっても好きになりました。
その蜂蜜は口に含むと『ぷきゅっ』と蜂の砕ける音がして甘さが口の中にとろりとひろがるんです。
クッキーの中には干しミミズの切り身。
とろみのある蜂蜜入の果汁はほの甘く懐かしい味にビノールには感じられました。
その間もヴィールとグリスは話を続けています。
それでも時々、ヴィールは白くぱさぱさしたお菓子を摘んでいるようにビノールには見受けられました。
『『夜明け』の魔法使いは失敗が多い。『夜の安息地』の魔法使い殿、其方はいかなものかの?』
グリスの問にビノールは小さな瞳を瞬かせました。
ルノーガンの失敗話なんて聞いたことが有りません。
「ルノーガン殿の失敗?」
素っ頓狂な声をあげたビノールを見て、グリスとヴィールは喉の奥で笑うというあの、ちょっと嫌な笑い方をしました。
ドラゴンである二人は別に普通に笑っているだけですが、ビノールにとってはちょっと嫌な笑いに感じられるのです。
「あいつはビノールが思ってるほど完璧じゃないよ。はじめて使った魔法で太陽の陽射しから身を守るものが何もない砂漠に転移して酷い目に有ってるしね、最近じゃ水の中に落ちてたよ」
ヴィールの言葉にビノールは疑い深そうに彼の顔を覗き込みます。
その瞬間、ヴィールの表情がつまらなそうに、不愉快そうに歪みました。
でも、ヴィールはすぐ表情を機嫌の良いものに変えてグリスへと視線を転じました。
「姫君様、ビノールは異種族をあまり知りませんからあんまり上手な変身魔法とは思いませんが、それは知らないからで、彼の魔法応用の幅はかなり広いと思いますよ。自己変身能力でその種族の特性を身につけれるくらいには」
ヴィールの思いもよらないビノールを認めるような言葉にビノールはちょっと驚いて目を瞬かせます。
その様子に緑のドラゴン・グリスは喉の奥で低く笑いました。
『ヴィール殿、外界に行かれるとおっしゃられるのでしたなら、ひとつ妾の頼みを聞いてたもれ』
「喜んで。グリス姫。このヴィールに出来ますことでしたなら何なりと」
『では、まず魔法使い殿に『人族』への変身がつつがなく行えれるようにしていただきたい。何故ならば、『人族』の村に降り、選ばれた者の様子を見てきてほしいのじゃ、エダスの町のそばのメリクの街の塔に住まう姉妹の様子を見てきてたもれ』
「グリス姫? それならば我らに頼まずとも姫の『緑の眼』とこのヴィールの『闇の眼』が有ればわかろうものでは?」
ヴィールの問にグリスはただ沈黙し、ゆっくりとした動作で琥珀色から濃緑色までの色幅のある美しい翼を広げた。
美しいその翼が消失したのは瞬間。
ビノールとヴィールの眼の前に佇む一人の乙女。
濃緑色の髪が金茶色や白銀色の髪飾りの間から滝のように流れ落ち、黒めがちな瞳を縁取る長い睫毛。
薄い桜色の肌に纏わりつく鮮やかな色彩の衣服。その上に踊るのは小さな石をつなげ合わせた飾り達。
『ドラゴンの『瞳』が総ての物事を映すとは限りませんもの。ヴィール殿、直に御覧になることをお勧めいたしますわ』
ヴィールにはいまいち理解できませんでしたが、年上・目上の姫の言葉にただ頷きました。
ビノールにはグリス姫の言うことがよく解りませんでしたけど、ちょっぴりグリス姫が怖くなくなりました。
その日は一日、ヴィールとグリスはビノールの解らない言葉で話し続けているようでした。
子守歌のように耳に優しいその声にビノールはいつしか眠ってしまっていたのです。
眼が覚めると懐かしい暗闇です。
甘い植物の匂いが周囲に満ちていてビノールにとっては心地好い目覚めでした。
眼を空に向けたビノールは銀色のお盆が空高くあることにびっくりしました。そして、そのお盆が今にも落ちてくるのではないかと思って、隠れるところを探すために周囲を見渡します。
「ああ、なんて怖いとこなんだろう。ああ、いっそのこと魔法使いなんかに生まれなきゃ良かったんだ。おらが好きで魔法使いに生まれたわけじゃねんだから」
ビノールのぼやきは今は緑がかって見える世界に取り込まれ消えてゆきました。
『『夜の安息地』の魔法使い殿、お目覚めですの? お目覚めでしたなら、妾の近くへおいでなさい。お話がございます』
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