10.5
扉が軽く叩かれたのはビノールが最初のミミズの衣揚げを食べ終ったときでした。
「どうぞ」
ヴィールの返答に扉を開け入ってきたのは宿の女主人マリーでした。
ビノールはマリーが妙に落ち着かない様子なのに気がつきました。
気がついてないはずもないのにヴィールはマリーににっこり笑って見せます。
「マリー、エジンドラに会いたいという話をリシヴルにお聞きになられましたね?」
静かにマリーは頷き、ヴィールは満足そうな笑顔を作ります。
妙に丁寧な物言いがビノールの不信感を煽りたてます。
「でも、ならぬ望みですわ。お客様。メリクの塔に入るには資格がいります。通常まずそれを果たしてからのみ、エジンドラの名を知るはずです。その条件とともに」
マリーの言葉にヴィールは軽く笑って右手を軽く振りました。
余裕をもってマリーに椅子を勧めると、うざったいのか、黒く長い髪を後ろに払いました。
「『忘れられし都市』の奥にある『都市の名』を刻みつけられた石版。『黒の迷宮』に密やかに安置されし『約束の剣』、これを入手すること。図書館と教会のどこかに詳細の書かれた本があるという。だが、メリクの住人ならば知ってて当然のことらしいがな」
ヴィールは一呼吸おいてもう一度、にっこりするとマリーを見つめました。
「つまり、『エジンドラ』の名と『黒き永久の剣』、『メリクの血統』。エダスの国の門を開くのに必要なもの。『黒の迷宮』がその扉を開いた。扉を閉ざすには必要なもの。そしてそれを使いこなす者。そうだろう? マリー」
相変らずのヴィールの博学さにビノールは溜息です。
一応の丁寧さを装っていても時折、いつもの無礼さが出ていますが、それは、まあよいでしょう。
これが卵の殻を破って一月にもならぬ子供の言葉だと思うと自分の無知さが哀しいやら情けないやら、成長ぶりが妙に嬉しいやらで涙すら出てきます。
「……ビル……」
呆れて情けなさそうなヴィールの声にビノールは顔を上げてすぐに恥ずかしくなりました。
ヴィールは声だけなく表情も呆れて情けなさそうで困惑してるようでした。
しかも、ビノールの所為で、です。
そしてマリーはちょっと笑っています。
「……おら、おらぁ……ヴィールのこと、こない尊敬できることがあるだなんて思いもしなかっただぁ」
ビノールの言葉にマリーは軽い笑いをこぼし、『おやすみなさい』と一礼して出て行きました。
おもいっきり苦い表情をしているヴィールと二人っきりにされたビノールは、その瞬間全身から冷や汗が吹き出すのをしっかり感じます。
「おらぁ、おらぁ、ヴィール、すまねぇだぁ。おら、ひでぇ事言っちまっただなっあ」
「かまわないさ。ビノール」
そう呟くように言い、ヴィールはベッドに腰掛けると高めに作られている天井を仰ぎました。
ビノールのびくついた視線にヴィールは苦笑を洩らします。
「ビノール、おまえ、これからも俺についてくるか? 別に慣例通りの修業に出ても俺は止めれないからな」
急にヴィールが言い出した言葉にビノールは理解が追いつきません。
ヴィールは溜息をひとつ吐きました。
「俺はこれから『死のイバラ城』へ行く。ビノール、『黒の迷宮』経由でな。俺には自信がない。エダス王と対面して冷静に出来るのか、エレファーガに対してどう接すれば正しいのか、ってね」
「エレファーガ?」
ビノールの問にヴィールは軽く微笑みを浮べます。
「エダス王の娘にして神殿に仕えるべき『光の巫女』、ちなみにメリクの娘と呼ばれているとは言え、彼女らは『緑の神殿』に仕えるべき『緑の巫女』。ゆえに姫が気遣っておられるのだが」
頷きながらもビノールには疑問が残ります。
ここでヴィールの言う『姫』はきっとグリス姫の事でしょう。それはわかります。
でも、エダス王は『魔王』です。魔王の『娘』が『光の巫女』であり、『魔王』の元にいるというのがなんだか不思議でたまらないのです。
なにしろ、『巫女』といえば『聖女』、邪悪な魔に染まる者ではない。という印象がビノールにはありましたから。
「ビノール、今夜はもうお休み、お前が俺と同じで一月も一年も寝ずにいられるのなら別だがな」
もちろん、そんなはずもありません。
ビノールは促されるままゆったりふかふかの寝台に身を横たえました。
静かな眠りはすぐに訪れました。
ヴィールは眠るビノールを見下ろしました。
「答え、聞いてないな」
ぽつんと呟き、ヴィールはグラスの水に軽く口をつけ、ぼんやりと闇の向こう側、『死のイバラ城』に抱く不安定な思いを振り払いました。




