特別と出来損ない
――冷たい。
全身が水に叩きつけられ、肺の中の空気が弾け飛んだ。
痛む身体に鞭を打ち、俺は必死に水面へと逃げる。
岩陰に体を引き上げる。飲み込んだ川の水と喉奥から溢れてくる血の臭気に、嘔吐く。
このまま、こうしているわけにはいかない。必死に身体を動かして、なんとか水の中から脱出した。
肩で息をしながら、俺は胸に刺さった魔剣に手をかけた。これが刺さっている限り、傷は治らない。
「く、そ……っ」
柄に手を掛け、ためらいを飲み下す。
大丈夫、痛みは一瞬だ。今までさんざん腕やら足やら飛ばしてきた。このくらいなんともない。手は震えているけれど、きっと疲労のせいだ。
「いっ……」
目を閉じて一気に引き抜く。
血を吐きながら魔剣を放り投げて、俺は湿った地面に仰向けに両手を広げる。
――フォルオは大丈夫だろうか。
彼もかなりの傷を負っていた。あそこから子供たちを連れて逃げるとなると、途中で倒れたっておかしくない。
俺のすべきことはさっさと傷を治してフォルオを助けてやることだ。
幸い、胸の傷はそんなに深くはない。もちろん今までの無茶と比較してだ。普通なら瀕死の重症だが、俺にとっては死ななければかすり傷のようなものだ。
だから、三十分ほど安静にしていればまた動けるはず。
寝転びながら、夜空に映る満月をぼうっと見つめていると、不意に気配がした。
小石が転がる音。
暗闇から濡れた影がよろめき出た。
そこに立っていたのは、俺と共に崖下へと落ちていった男だった。
彼は向こう岸の浅瀬に立っていた。月明かりの下に見える表情には微かに疲労の色が見える。けれど呻き声すら上げずに、その場から跳躍すると俺の近場に着地する。
急いで起き上がろうとした俺を留めるように、男は低い声音で呟いた。
「手綱は握っていろと、言ったはずだ」
傷を負った胸元を抑えるように手を当てて、こちらに近づいてくる。
――手綱を握っていろ。
以前、ガウルに言われた言葉だ。
「……余計なことはするな、か」
俺の独り言に、冷ややかな眼差しを注がれる。
それを見つめ返して、俺は確信を告げる。
「ガウルか?」
俺の問いかけに彼は沈黙を貫いた。静かに近くの岩壁に身体を預けて座り込む。
それが答えでもあった。
「でも、その恰好……」
今の彼はどう見ても人間だ。いつもの、あの毛むくじゃらの身体からは想像もつかない容姿。
そもそも彼は半魔であるはずだ。
「……人間に、戻れるのか?」
俺の声は僅かに熱を持っていた。
もし、そうならば。ミルだって元に戻れるかもしれない。
期待を込めた俺の眼差しに、彼は静かに答えた。
「今日は満月だ」
「満月?」
「他はどうか知らない。だが、私はこうだ」
満月の夜だけこうなってしまうのだ、と。ガウルは告げた。
「アンタだけ、特別ってことか?」
「……特別か。嫌な言葉を使う」
自嘲気味に笑って、ガウルは深く息を吐いた。
獣の姿と違って、今の彼は表情が読みやすい。目元、口元、息遣い。注意深く観察すれば、言葉の端にある心が僅かに透けて見える。
「一時だけ戻れたところで何にもならん。人間でもなく、半魔でもない。半端者だ」
「それって……ボスの、災禍の皇子のせいか?」
以前、話に聞いたことだ。
ボスは人工的に半魔を作れる、そのせいで国を追われたという話。ガウルは先ほどの問いかけに否定はしなかったし、もしかしたらボスが作った半魔が彼ではないのかと思った。
けれど、俺の質問にガウルは、今までで見てきた中で初めて声を荒げた。
「――ッ、ふざけるな!」
張り上げた声音には並々ならぬ怒気が籠っている。射殺すような鋭い眼差しに、俺は思わず息を呑んだ。
「あんなもの、すべてが戯言だ! あの方は何も」
一瞬だけ感情が揺らいで、ガウルはすぐに口を閉ざした。
何がそんなにも彼の心を揺さぶるのか。俺には知れないが、初めて人間らしい態度だと思った。
けれど、彼はそれを恥じるように一つ咳払いをする。
「……忘れろ」
「何か事情があるのか?」
そっと声を掛ける。
俺の問いかけは、ただの暇つぶしだった。身体が癒えるまでの、ただの雑談。誤魔化しや沈黙が返ってくるかもしれない。
けれど、ガウルは意外にもそれに応えてくれた。
「噂になっている人工半魔……それは私のことではない」
逸らされていた視線が俺を射抜く。
「お前自身のことだ」
「えっ?」
「ボスは、初めての成功例だと言っていた。お前は自分が思っているよりも特別な存在だ」
「俺が……?」
正直、そんな実感は全くない。
普通の人間よりも頑丈で、魔法だって頭の悪い使い方しかできない。フォルオにだって簡単に負けるし、ガウルにだって勝つことなど出来ないだろう。
そんなのが特別だって言われてもピンとこない。
「私はそれとは真逆の存在。ただの出来損ないだ」
やけに卑下する物言いに、俺はガウルを見つめた。
いつもの不遜な態度と比べると別人のようだ。
……もしかしたら、今の彼が本当の姿なのかもしれない。
「俺はそうは思わない」
水音が響く月夜に、静かに声を落とす。
「さっき戦った時の強さは本物だった。俺もフォルオも、手も足も出なかった」
正直な感想を述べると、ガウルは苦笑を零した。
「どれだけ強くとも、それは私の価値にはならない。騎士として、誇るものはそんなものではない。命を懸けて守ると誓った者を守れなければ、そこに価値などない」
ガウルはフォルオと同じことを言う。
吐き捨てるように言ったその声音には諦念が滲んでいた。
「守ると誓った者を、切り捨てて逃げ出した。これが出来損ないでなければなんだ」
微かな独白に、俺は無言で夜空を見つめる。
――騎士としての矜持。
俺には馴染みのないものだが、大事なものだということは分かる。あのフォルオを間近で見ているんだ。嫌でも実感する。
「騎士なんて、フォルオみたいなこと言うんだな」
「あそこまで愚直な輩も中々いない。奴の倅というのは信じがたいが」
「……アルバート」
ふと脳裏を掠めた疑問に、俺はそっとガウルを見遣った。
今の彼の容姿は、あのアルバートに似ている。雰囲気は全く違うが、他人の空似とは思えないほどだ。
「もしかして、グラン公家と何か因縁があるのか?」
「……アルバートは私の兄だ」
苦々しく呟いたガウルは目を伏せて、深く嘆息する。
胸の内にある重いものを吐き出すように。




